崩天地壊郷 作:山明鏡 紫水
青錆錠のキノイチは心より恐れた。逃げるべきだと脳の奥で聞こえる。だが果たして逃げられるのか。
恐れるべきは橋の対岸、ヒティーア側から現れた暗闇だ。
「歌姫っていうのは、誰だ」
「……なんだいきなり。
「どうして人族は訊かれた事に答えられないんだ。とりあえずお前らは違うな。歌ってもない、姫でもない」
キノイチは英雄の軍勢に恐怖しない。彼らは兵を殺す気がないと知っているから。任務失敗の
しかしあの暗影は違う。まずは楽団の歩兵銃と短剣から狙われた。一発の迎撃より早く、側面から迂回していた闇に呑まれる。彼らは退路を見抜く戦術眼を持ち合わせていない。そして槍の射程より遥か遠くから及ぶ黒霧に刃の輝きは沈み、からからと鉄ののたうつ音だけがする。
日はまだ高く、橋の上には光を遮るものもない。だと言うのに、赤い瞳だけが浮かぶ
黒い霧のようだが風に靡かず、滞留している。
「……誰か状況を報告できないのか」
(対岸の軍はどうなっている)
その赤瞳より後ろは闇に覆われ、何も見えない。イザベルを盾に隠れ、ラヂオを繋いでも応答がない。歌姫を相手にする限り、死者はいないはずだった。あの黒霧によって全滅したとするのが妥当だ。
(毒ガスか魔具、あるいは予想もつかない特異体。厄介だ、魔王自称者に釣られて英雄と化物が集まっている……)
イザベルはキノイチに背中を見せ、他の楽団も一時的に歌唱を止めている。今ならば捕縛は容易いだろう。だが闖入者の動向が読めない。歌姫を差し出すことで黄都の兵がこれ以上犠牲になるのを止められるならば良いが、歌姫を殺す為ならば全てを闇に包めばいい。これは、余計な犠牲を厭わない類いの怪物だろう。一方で完全な歌姫の味方というには楽団を殺しすぎだ。
(目的は、歌姫だけの生け捕り)
「イザベル嬢、標的はおたくだ。他の奴らを死なせたくなければ黙っておけ」
「……ええ」
イザベルも同じ考えなのか反駁しないが、キノイチにはそれ以上の忠告ができない。黄都の別部隊は既にヒティーアに突入している。引き返して来るとは考えにくく、戻ってきたところでこの怪物を倒せるかどうか。
「なあ、いい加減答えてくれよ」
語気を荒げ、苛立っているのがわかる。大きく暗幕が広がり、密度の下がった中心部に暗がりの影絵のような曖昧な輪郭が見えた。
狼に似た獣族、
「女の人間以外から消していくか」
「……なんのために! なんのために黄都と敵対する!」
「イルザの為だ。それ以外ない」
「何を求めている! 黄都の、青錆錠のキノイチがその権で支援を約束しよう」
「できるのか? イルザを蘇らせることが」
影の侵蝕が止まる。
「……真理の蓋のクラフニルに、依頼できれば」
「ああ、そいつだ。クラフニル。そいつに会えばイルザはまた生きてくれるのか」
「そうだ」
────嘘だ。
黄都の将であるキノイチならクラフニルに会えるかもしれない。クラフニルならイルザの遺体を利用した
暗闇が収縮していく。もはや影が獣の形を取っている。橋の向こうに、倒れ臥した黄都の兵と楽団が見えた。生命の気配は感じない。
「それならいい。ほら、行くぞ」
キノイチの隣を黒獣が通る。彼もイザベルも動けていない。黒獣は既に歌姫の生け捕りに興味がないようだった。本心からイルザの復活しか考えていない。他人との契約や恩義、そういった束縛を一切持たない。
ふと、クラフニルに会わせた後を想像した。
間違いなく、この黒獣は絶望する。その後がわからない。もしも黄都に敵対した場合……どうなるか。
日中である現在は脅威の視認ができている。しかしもしも日が落ちたならば、視認すらできないだろう。路地の奥、寝室の隅。そうした暗闇が全て致命の領域になり得る。怪物を招くとはそういうことだ。
「どうした、案内してくれ」
一足の間合いに黒獣が留まり、振り返る。彼の中で敵対関係は終了している。突然斬りかかられるとは思ってもいない。
対岸の犠牲者たちは、配下も楽団も彼が守護すべき民であったはずだ。民を殺し、これからもそれを続ける。ここで食い止めるべきだ。
(あの暗闇に呑まれたら、死ぬ)
赤い瞳がキノイチを見ている。
黒獣が纏う黒い霧は隠匿性も高い。ただでさえ的の小さい体の縮尺を誤認させ、致命傷を避ける効果がある。そして相手は獣の敏捷さでもって喉元に噛み付いてくる。攻撃するなら歩兵銃だ。相手が致命傷を受けてから反撃してくるのを距離で防げる。それでも再装填はできないだろう、攻撃の機会は一度きりだ。
(眉間に一発。それだけで死ぬはず)
体の輪郭は無理でも、赤い瞳だけはキノイチからも見える。そこを塞げば黒獣自体の視界も塞がるからだ。その目印を狙って撃つ。牙も爪も詳細不明の黒霧も使わせない。敵の持つ手段を封じ、拒絶する。青錆錠のキノイチはそのような策を好む将だ。
「まぁ少し待ってくれ」
「急いでくれ。イルザを待たせたくない」
「こっちも今の戦闘で部隊は半壊、それなりに手間も掛かるんだよ。装備の補填だったり、人員の補充だったりな」
「知るか」
「その返答はひどいな」
傍に落ちていた副官の歩兵銃を拾い上げる。整備は既に終わっていた。規格化された銃はキノイチにも使える。銃身を確認しながら横目で照準を合わせる。銃口を向けるのは一瞬だ。
「……斜陽に奔れ/早の影は寂滅──」
(助かる)
これから何をするのか、察したのだろう。イザベルがキノイチにだけ聴こえる声量で歌う。酔夢のような全能感が指先まで満ちる。最短の、直線の軌道。反応させる隙も与えずに眉間を撃ち抜いて殺す。英雄の技巧ならば確実にできる。
赤い瞳が見えている。引き金の重さを意識する。
「おたくが殺した人間たちだぞ」
発砲音。火薬の匂いを確かめる。地面に弾痕はない。命中した。頭を撃ち抜く最短の軌跡が、キノイチには見えていた。そのはずだ。
歌姫が叫ぶ。大団円の歓声ではない。
「まだっ!」
「──嘘だったのか」
赤い瞳がキノイチを見ている。頭蓋を砕き、脳を破壊したはずの凶弾を受けてなお。
「……どうして、銃弾が効かない」
暗幕が延展し、黒獣のぼやけた輪郭がまた表れる。
歩兵銃を放棄してヒティーアに走り出す。そう見せかけて、予備の短剣を手の内に隠している。仮に最初に見た黒霧の速度ならば、樹海まで逃げ切れる。その前に捕らえようとすれば黒獣自身が追走しなくてはならない。黒獣はきっとその選択をするだろう。そして肉薄された瞬間に反転し、迎撃する。正真正銘、決死の策だ。
「死ね」
問いに黒獣は答えない。赤い瞳が消え、キノイチの足も止まる。黒い霧はテミルルクではなくキノイチを囲い、脱出経路を断っていた。真正面からの侵蝕のみならず、橋の下を迂回して回り込まれた。
爪も牙もいらない。触れただけで絶命するのだから。
「近距離は全部無駄だ、こちらが死ぬ! 銃撃も無意味……陥穽を作るか熱術で」
「うるさい」
己の瞼の開閉すらわからない闇中で、キノイチの看破できた情報を帳の外に伝える。戦闘が可能な者はいないが、誰か一人でも情報を持ち帰れば優秀な将が打開策を立ててくれる。黄都の民を守れる。自分の死は有意義であったと。そんな光明が。
「お前の仲間も、全員殺す」
凶報の獣に簒奪された。