崩天地壊郷 作:山明鏡 紫水
「……なるほど」
めきめきと、分け株によってヨザマが新たに増える。
ワートルテの弁が真実ならば少し急がなければいけないが、それを考えるのは彼女の仕事ではない。別のヨザマが考えている。
彼女らの思考は、極論は肯定と否定の二択だけだ。このヨザマで言えば、ワートルテを逃がすか逃がさないか。考えるのはそれだけ。解は決まりきっている。
「だからと言って、あなたを逃がす理由にはなりませんね」
「や、交渉の余地があるかもしれないだろ。俺に個人的に協力して、虚偽の報告をさせるとかさ」
「くだらない」
九体のヨザマが接近する。四体以上は視界から溢れる布陣。ドーピングした聴覚と第六感で紙一重の回避と防御を繰り返す。立ち止まるべきではなかった。足元の苔生した岩に亀裂が入る脚力で、包囲網を強引に飛び越える。同時に温存していた溶解液を空中で散布。下方からの蔦の追撃と最速で追跡に回るであろう根獣を処理する。効果を熟視する余裕はない、即座に逃走する。
(動じないな。解決策を思いつく自信があるのか、それとも既にアテがあるのか)
ヨザマが増殖しているのは、ワートルテを追い詰める為だけの人員ではない。今後の対策のためでもある。
仮に“黒曜の瞳”に遺産の情報が流れていたとして、その価値は不朽ではない。テルキの機魔によって解体方法が指南されているのを他のヨザマから伝え聞いている。ヒティーアに点在する無数の遺産を、敵が到達する前に全て解体する。その為の所要時間と妨害工作。それらを考え、実行する人員を用意している。遺産に価値を見ないヨザマだからできることだ。
白衣の襟に隠したラヂオを口許に寄せる。
「トラジ、ここに入ってから他の人間を見たか?」
〈殺害現場なら五回は見たぞ。助けた方が良かったか?〉
「や、アンタの存在はできるだけ伏せとくべきだった。……失敗したな、そっちにも追手が行く」
〈俺を見つけられない追手なんて怖くないさ〉
「そう言ってもらえるとありがたい」
(他の冒険者はもう駆逐されたのか。クソ、頭が痛い。ビタミン剤が欲しい。ここまで長期のドーピング投与は考慮してないぞ)
じくじくと麻紐で脳を縛られたような錯覚を誤魔化しながら、獣道を走る。速力ではワートルテの方がヨザマより断然上だ、追い付かれることはない。彼が全力ならば、狼よりも早く野山を走破できる。だが大量のヨザマが至るところで彼の侵攻を待ち構えている。一体が一度の攻撃しかせずとも、何百ともなれば攻撃の頻度は馬鹿にできない。
屹立した岩塊を蹴り、鋭角の方向転換。砕けた礫がわずかに根獣の追跡を止める。致命傷を狙う意味は薄い。動きを鈍らせるだけでいい。
(さぁどうする。消耗戦を選んでくるのがやらしい。そもそも出口もわからないッてのに……。おっとこれは使える)
自生していた青月果の葉を毟り取り、手持ちの薬剤に混ぜて振り撒く。根獣も樹木も瓦礫も、一面の景色が不気味な紫に染め上がる。
「これは……」
「別に死にはしないさ」
根獣特効の毒薬ではない、ただの染料だ。ただし三日は水で洗おうが油で洗おうが絶対に色褪せない。そういう調合だ。おそらく、他のヨザマはこの行動の意味を考えているだろう。
(それよりも先に決着をつける。どうしたッて、もうドーピングも限界が近い)
ヒティーアと外部を繋ぐ、唯一の大橋はまだ見えない。風景の単調な樹海は、脱出困難な迷宮である。ワートルテもヒティーアに侵入してから枝や幹に帰路の目印を刻んでいたが、もしヨザマが樹木を操る詞術を使えるのであればそれらの痕跡も消されているだろう。
肩で息をしながら足を止め、汗を拭う。投薬の効果が切れかけている。膝に手をつき俯けば、亀裂の入った岩盤が見えた。
先ほど跳躍した時に、ワートルテの跳躍で生まれた亀裂だ。つまり、同じ場所をぐるぐると迷走させられていた。周囲をヨザマが囲んでいる。既視感のある光景。
情緒を揺らがせるように声が全方位から発せられる。
「我々はあなたを逃がしません」
「は、じゃあ捕まえてみろよ」
「察しているでしょう。あなたは、我々の想定の範疇から出ていない」
「ここも、さっきと同じ場所だ。わかってるッて」
「ならばその余裕の根拠は」
「多分……そろそろ
視界が霞む。黒い霧がワートルテを包んでいるように見える。過剰なドーピングの副作用だろうか。
「退け、僕はその男に用があるんだ」
「何…………」
それは幻覚ではない。実際に起きている事象だ。
黒い霧に撫でられると、しおしおとヨザマの表皮から艶が消えていく。根獣の植物質の体も電気信号によって操作されている。それを奪われれば何もできない。考える時間も与えられずに次々と萎え、樹上に潜んでいた根獣もぼとぼとと落ちてくる。
黒い霧の中から人と獣の影が現れる。蔦を伸ばしたヨザマもいたが、触れられない。触れるより先に死ぬ。異常な身体能力を発揮したワートルテを追い詰め続けていた根獣の軍勢は、その黒い霧が──“夜の帳”が訪れただけで沈黙してしまった。“黒曜の瞳”を止めたいと、その正義の望みすら奪われる。
森人は白衣の襟を正し、汚れた裾を軽く払う。もう身嗜みに配慮するだけの精神的な余裕がある。
「ッたく、遅いぞ。テミルルク」
「時間の約束なんて無かっただろうに」
「だとしても言わせろ」
「お前が動き回るのが悪い」
夜の帳のテミルルクと硯滴のワートルテ。彼らは結託していた。ワートルテに必要だったのは、テミルルクと合流するまでの時間だ。しかし彼が全力で逃走すれば狼よりも早い。それではテミルルクが追い付けない。だからこそ彼は狭い範囲を逃げ回っていた。岩盤の亀裂、砕けた礫、消えない染料。樹木を操るヨザマにも消せない痕跡は、全てそのための目印だ。
「そっちが歌姫? 楽団は?」
「取り巻きなら逃がした。そうしないと歌姫がついてこなかった」
「は、なら仕方ない」
「……貴方は、何の用で私を呼んだのかしら?」
「協力してもらうために」
話しながら近寄る。イザベルは一歩後退するが、それ以上は下がれない。テミルルクが黒い霧で覆っている。ヨザマを殲滅するのと同時、イザベルを閉じ込める檻でもあった。背後に迫る死に慄いた彼女の腕に、注射器が刺さる。ワートルテの顔が、薬液のような吐息の匂いがわかるほど間近にある。
「演劇なんて勧善懲悪ばッか。こッからはもっと爽快な物を見せてやる。まずは一曲頼むよ」
ワートルテは“黒曜の瞳”の一員──その正体は従鬼である。血液を傷や粘膜に接触させることで感染させ、反抗のあり得ぬ手駒に変える。
危険な病だ。イザベルもよく理解している。だからこそ理解できなかった。
「
「なるほど、これはいい。リスク無しでこの効果……つくづく“客人”ッてのはイカれてる」
何故自分がワートルテの為に歌っているのか。
徒手空拳の、特に蹴撃を極めた南方の武人の歌だ。ワートルテの現状から、それが最適であると判断して歌っている。本心では、そのつもりなど微塵もないのに。イザベルより上位の思考存在が彼女の体を支配している。
容易に兵を揃える能力と、容易に兵を英雄に変える能力。その二つを兼備してはいけないと彼女は知っている。そのために高い金銭を積んで、血鬼に感染しないための血清を信頼できる医者から定期的に接種していた。それなのに、何故。
笑うワートルテが彼女の顔を覗き込む。
「随分と、不思議そうな顔をする。あ、血清を打ってたとか? だとしたら残念。それを作ったのは俺らなんだから、どんな欠陥があるか誰より知ってるッて」
──それは、
彼は薬師であり、同時に病でもあった。血液や脳のない根獣には不遇の切り札。しかし森人の長い寿命の中、体内で度重なる薬剤投与を経て、血清を無効化するように指向性を持って変質したウイルスは。
「抗体を食い殺して感染する血鬼。最高だろ?」
あらゆる免疫が対処不能の、新種の疫病だ。