崩天地壊郷 作:山明鏡 紫水
(イザベル、テミルルク、トラジ、そして遺産の兵器群と俺の従鬼。これなら……できるかも知れない)
根獣の猛毒を採取しながら、ワートルテは今後を思案していた。彼の手元には国家すら所有できないような猛者と武力が集まっている。それだけの力を必要とする野望がある。
(“黒曜の瞳”の乗っ取りが)
彼らは暗中にて統制された意志を持つ。故にそれは存在しないはずの叛逆の思想だ。
しかし長年の薬剤投与によって変異したウイルスは、既に母体のフェロモン支配から解放されていた。彼は心のままに全てを決定できる。
(俺は憶えているぞ。
乾いた枯葉が枝から離れる時節だった。ユフィクは任務を終えて、幼い少女と小さな秘密を共有するのを救いにしていた。そして不本意なのか覚悟の上か、彼女に尊敬する父の真実を教えてしまった。褒められたことではない。だが黒曜の娘である以上は、いつか知る事実だ。ユフィクを殺していい動機でもない。
(娘にいい格好をしたかった愚かな父親以外には、何の利益もない。俺たちはあの男のちッぽけな願望を満たすためだけの駒でしかなかった。忠誠を誓っても、他の使い捨ての従鬼と扱いは同じ。は、ふざけるな……何が“黒曜の瞳”だ)
握った試験管がわなわなと震える。これは怒りだ。
謀殺された戦友にとって、無垢な少女だけが心の聖域だったのだろう。嘘偽りに
(俺が正しい“瞳”を取り戻す。戦乱の中にしか光を見れない“瞳”を)
そのために組織を奪還する。ワートルテや他の従鬼の心身を弄んだ復讐だ。統率を殺すだけならば容易い。毒見役には反応せず、統率のみに反応して致死性を示す毒物すら調合できる。だが
自分が支配する、絶対服従だったはずの配下に嬲られて死ね。復讐は、恐怖の果てを味わわせて殺す。それがワートルテの──“黒曜の瞳”の流儀だ。
(そして闘争を選べない弱者に光を与えてやる。最初からそうしたかったんだ)
“黒曜の瞳”は暴力に訴えることしかできなかった者の集まりだが、その暗い道も選べない者がいる。臓腑を病に冒された者、雇用主を殺す毒も買えぬ奴隷。そもそも薬師のワートルテはそうした弱者を救うために“瞳”になった。イザベルの歌とテルキの遺産は彼らの力になる。
膝の土を払って立ち上がる。背後には枯れた根獣が増えていた。テミルルクの夜に触れたのだろう。
「さ、こんなモンでいいかな」
「ワートルテ。訊きたいことがある」
「何? 早くここから離れたいんだけど」
「歌姫を連れに行った時、お前と同じ約束をしてきた奴がいた。真理の蓋のクラフニルに会わせてくれると」
「へえ」
「そいつは最期に僕を撃ったんだ。裏切った。お前も……同じように裏切るんじゃないか?」
この世界の権力者は暗殺されやすい生術を拒み、生薬の治療に頼る傾向にある。その結果、却って寿命を縮めた話も多いが、その道の玄人であるワートルテには主治医として権力者との縁故があった。クラフニルに会わせるのも不可能ではない。
収束していた黒い霧が、視野の際まで広がっている。
野獣も一度罠に掛かれば警戒する。詞術の通ずる獣族であれば尚更に。
(……余計な事を)
歌姫の肩を掴み、抱き抱える。薬剤投与が無くとも、従鬼であればその程度の芸当はできた。ここで死ぬわけにはいかない。復讐が済んでいない。
その行動自体が尋問の答えだった。
「一曲、さっきの歌でいい!」
「……やっぱり裏切るのか。イルザを」
彼が勢力に引き込んだ強者の中で、テミルルクだけは未感染だ。正確には感染させられなかった。寝ている無防備な時間に注射しようとしても、常に黒い霧が全身を覆っている。その粒子が一粒でも触れれば、ワートルテの変異ウイルスも生物である以上は死ぬ。
両手は塞がったが英雄の蹴撃で退路を蹴り開いて逃げる。迫る夜の帳を潜り抜ける。
彼も青錆錠のキノイチも、クラフニルが依頼に応えられない事を知っていた。しかし彼はその上で危険を恐れずに利用していた。それは何故か。黄都が持たない、強固な“首輪”があったからだ。
(殺すのはもったいないが、ここが一番確実だ)
白衣の襟に隠したラヂオに命令する。
ワートルテの用意した“首輪”。世界逸脱の獣狩りならば、異形の黒獣すら仕留められる。
「今すぐに殺せ!」
〈了解〉
森の深奥より銃声が聞こえ──高い金属音と共に大木の幹に弾痕を残した。黒獣はよろめいたが血も滴っていない。無傷だ。
「また最初からだ。どうすればイルザは」
「……は、なんで死なない」
赤い目を中心に、日が沈むように闇の領域が拡大する。どうして彼は首輪が嵌まっていると信じてしまったのか。暗闇の下は、
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(伏兵が潜んでいた)
円筒状の肋骨を斜めに通過して、肺と心臓を貫通するはずの弾丸は毛皮の上で金属音を奏でた。殴打の痛みがあるが、死にはしない。
(どうでもいい)
逃げる森人を追う。百足のように黒い霧がくねって、狼の走りよりも速く影を咬もうとする。
「お前はイルザの世界にいちゃいけない。裏切ったんだからな」
裏切りの大河がイルザの希望を隔てている。涙の月夜にそれを知った。彼女の幸せな世界のために、排除しておく必要がある。
「イルザイルザッて……死んだ女がそんなに大事かよ!」
「死んだままにはさせない」
採取した根獣の毒の入った試験管を振り撒かれる。命のない粒子は殺せないが、水分を含ませて追跡を落とすことが狙いだ。黒い百足の頭が詫びるように地を滑る。
(ワートルテの薬剤も、僕の夜を打ち消せない。打ち消せるなら逃げなくていい。蹴りの直撃はない。警戒しなくちゃいけないのはなんだ?)
初撃から伏兵に動きはない。銃弾では竜の鱗を穿てないのを悟ったのだろう。そして全身のどこに逆鱗があるか、光を吸い尽くす夜に隠されて探すこともできない。
互いに土地勘がない戦闘の場合、追討側に比べて撤退側の方が圧倒的に不利とされる。追討側は前を追うだけでいいが、撤退側は逃走経路を見いだし、切り開く手間がかかる。ワートルテも木立を縫って走るが、時折瓦礫と樹木が織り成す天然の袋小路がある。
「ああ、出口もわからないのか」
袋小路を蹴り砕いていくが、その方向は橋梁とは真逆だ。テミルルクは帰り道を嗅覚で覚えているが、人族には難しい。目印を付けてきても、ヨザマが消してしまっている。砕かれた岩盤、色褪せない染料。内部に迷い込んでから付けた目印しか残されていない。
木の影で何かが動いた。巡回していたヨザマの一体……三体に増えた。ワートルテの殺害は彼らの優先目標だ。テミルルクに加えて、彼らを報告に戻らせずに処理しなくてはならない。
「ツイてないッて。こんな切り方をする札じゃないのに、ホントにツイてない」
「我々以外の追手……監視が途絶えた間に、そちらの黒獣の不興も買ったようですね。あなたが逃亡しているのを見ると、致命的な能力を持っているのですか」
「毒の可能性は低い。彼は根獣の毒にも耐性がある」
「身体の異常発達でもない。麗しきイザベルの支援があれば倒せる」
根獣の生け垣に足が止まる。軽率に接近すれば捨て身の一撃があり得る。広げた夜に沈めればいい。
「ごちゃごちゃうるさいな。どうせ死ぬのに……黒い微粒子なら、熱だって抜群に伝えやすいだろ。蒸し焼きにしてやる」
青緑の薬液。ヨザマは慌てて距離を離す。数世代前が学んだ、彼らにとっては致命的な薬。根獣の毒と反応して高熱を生み出す涓滴が夜に触れた。先ほど根獣の毒を浴びている。朝焼けのような明るさが生まれ、炎が回る。竜の鱗の中でも熱は伝わってしまう、強度無視の一手。
導火線を切るように本体に届く前に燃えた夜の霧を分離させる。ワートルテから距離を詰める。今の一手で夜が剥がれかけたテミルルクを直接蹴り殺す算段か。しかしまだ最低限の粒子は残っている。
「押し潰されろ」
(倒木)
テミルルクよりも手前で大木を蹴った。左右で二本。樹皮を毟るような音もせず、空気抵抗すら無いようにぽっきりと折れる。だが黒獣の臓物を溢させる質量はある。迎撃に構えていたテミルルクは判断が遅れ、双樹の下敷きになり──
「……囮。違ッ、本命もこっちか!」
赤い瞳が、ない。
そして見当違いの方向から黒獣が現れる。黒獣の纏う粒子は正体の隠匿にも秀でている。影絵のように曖昧な輪郭さえあれば、その下にいるのだと信じさせられる。誰も見えていないのに。
倒木の下から黒い粒子が盛大に飛散した。下敷きになったところで終わるはずがない。挟撃が成立する。
「死ね。イルザのために」
「……ヤだね」
「何を」
突然ワートルテが歌姫を抱え込むように膝をついて丸まる。
静謐を銃声が裂く。そして。
「……は?」
銀弾が赤い目を爆散させ、脳までを抉った。
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炸裂した血が闇から散乱し、もはや赤い目は見えない。寸分違わず命中させた。森林浴によるフィトンチッドの影響を極端に受けやすい体質の狩人。剪定のトラジは、山中限定で“黒い音色”にも劣らぬ射術を発揮する。自然の内に人を生かすにはそれだけの力が必要だった。
〈よくやった、褒美でもやりたいくらいだ〉
「そりゃどうも」
(簡単な仕事だ。範囲攻撃も群れているのと大差無い。耳目が少ない分は群れより楽だろ。狂犬の牙も摩訶不思議な霧も、結果は同じだ)
ラヂオから興奮したワートルテの声が聞こえる。これで最悪の疫病を止める者は存在しない。適当に返答しておく。
ただの獣なら臓器のどれであっても狙撃できる自信があったが、鎧は獣のものではない。堅牢な鎧にも脆弱性はあるはずだが、纏う霧が一切の光を吸収し露見させない。それでも双眸だけは見えていた。そこを塞げば黒獣も視界を失うからだ。眼底を砕いて脳までを撃つ。竜の頭蓋骨では不可能な弾道でも、獣には可能だった。
「じゃあな。切るぞ」
“黒曜の瞳”になったトラジは母体に逆らえないが、命令外の意志までもが消えたわけではない。無情な斥候も密かに聖域を保有している。故に彼は命令を遂行した後にラヂオを切ることができた。次の命令を受けるつもりはない。
簡単な仕事だ。常に彼は勝者として君臨していた。勝者の立場しか知らなかった。
「──ずっと気にはなってたんだ。森に感情があったら、オイラはどうなるのかってな」
彼は“彼方”にいた頃から自然を剪定する猟師だ。その剪定は誰の為の行為だったのか。一番の恩恵に預かっているのはトラジだ。しかし自分だけ得をするのは嫌だった。自然は何億年も前から人の剪定を必要とせずに存続している。実は彼の行為は不要な介入で、自然を切り刻んでいるだけなのかもしれない。
今まで答えを知る術はなかった。
「教えてくれるか?」
「「…………」」
二度の銃声が呼び寄せた根獣の群れに直面する。樹木から進化した彼らなら、あるいは。
状況をワートルテに話せば、きっと素直には死なせてくれないだろう。この数が相手では勝ち目などない。何より無遠慮な死を積み重ねたくはなかった。
猟銃を捨て、深呼吸する。この湿気た空気がどんな甘味よりも好きだった。最初はただそれだけだったはずだ。いつから愛した場所を修羅場にするようになってしまったのか。
(まぁ、どうでもいいか)
やがて他の侵入者と同様に、無数の気根が全身を貫いた。彼の血肉は聖域へ還っていく。