崩天地壊郷   作:山明鏡 紫水

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 ワートルテの遺体が繭のように包まれていく様を、イザベルは傍観していた。美術商を思わせる丁寧さだ。それだけの価値があるのだろう。

 もしこのまま拉致されていれば、彼女は逸脱の兵力を量産する無私の機構に堕ちていたはずだ。“客人”は老衰で死ぬことすら許されない。どんな嫌悪を抱く外見であっても、奈落の底から連れ出してくれたのはこの一体だけだった。

 品位を保ちつつ、深く頭を垂れる。

 

「……ありがとう。助かったわ」

「礼なら行動で返せ。メルサランという従者がいるな? 要求はそいつに伝えてある。無茶な要求はしていない」

「ええ、必ず返しましょう。……?」

 

 自分のものではない、嗄れた吐息を確かに聞いた。必死に喘ぐような荒い呼吸音。この場に第三の生存者がいるとすれば。

 

「……ィルザ」

「まだ息が……あなたが背負ってコーズまで運べば」

「無理だ。こいつの異能に触れれば死ぬ。蜘獣であってもだ。それに、脳まで弾丸が到達している。長くて五分の命だろう」

「それはあなたの見立てでしょう? ワートルテと同じように繭で包んで……」

「ここで死ねと?」

 

 狂ったように下草と砂をかき混ぜる黒獣がいる。横たわったまま、起き上がるだけの感覚と体力がもうない。

 剪定のトラジの弾は眼窩を貫き、脳を損ずる致命傷を与えていた。血の泡がたらたらと涌き出ている。傷を癒せる、腕のいい生術師も生憎とここにはいない。黒い粒子は帳を維持できずにほろほろと流れ、所々に藍色の竜鱗が見え隠れする。

 テミルルクがコーズ渓谷橋梁で何をしたか、フィクメロウは知っている。黄都の部隊を鏖殺した怪物を匿って、築いてきた信用をふいにしたくはない。彼の異能を扱うにしても、剣呑な獣の手綱を握るよりシパースの欠片に粒子だけ封入しておく方が利口だ。つまるところ、助ける気は毛頭なかった。

 歌姫が跪き、触れようとして手を引く。ここが彼女の物語であるならば、都合よく救世主も現れたのかもしれない。だが“本物の勇者”すら現れないのに、どうしてこんな場末の劇場に現れるだろうか。

 

「イルザは」

 

 寝言のような声はまだ続いている。だがそれはうわ言ではなく、何かを伝えようとしていた。

 

「……イルザは、悲しんでたんだ。何も信じられない、英雄の死ぬ、世界に」

 

 今も月明かりに光った涙を覚えている。濡れた毛並みを梳いた指の感触を思い出す。

 人混みの中で、財布を盗まれるかもしれない。次の角を曲がったら、殺人犯が待ち構えているかもしれない。暗い夜道で、想像もできぬ妖魔に呪い殺されるかもしれない。そんな漠然とした恐怖から、過敏な彼女を守る存在が必要だった。不撓のオスローのような英雄でも足りない。もっと、地平の全生命を制覇しうる存在でなければ。

 だから夜の帳のテミルルクはそれになろうとした。

 

「そのままイルザは、死んだんだ。ひどいだろ」

 

 諧謔ではなく、本気で憤っている。ずっと本気でイルザの為に生きている。命を救われた対価でも名付けの恩義でもない。

 

 ──君は傍にいてね。テミルルク。

 

 約束してしまったからには是が非でもそれにならなくてはならないと思った。

 

「死者の蘇生は不可能です。ワートルテに裏切られてわかっているでしょう?」

 

 もし夢物語が叶うのであれば、歌姫にも生き返らせたい人はいる。定命の人間より離別を経験した“客人”。彼女はその運命を見逃すしかなかった。

 しかしテミルルクはあまりに多くの光明を奪い過ぎた。次は彼が希望を見る番だ。目を背けることは許されない。

 黒い霧が揺らぎ巡り、取り囲む。友好的な形勢ではない。フィクメロウが歌姫の隣に跳ぶ。本人が抵抗しても、彼女の安全だけは確保する。

 

「知ってるよ。だけど、“客人”は年を取らない。何百年後でも、いいんだ」

 

 いつか、何百年後でも死んだイルザを完全に蘇らせられる者が現れたら、頼んでほしい。これはそういう脅迫だ。拒否すればここで殺す。

 どれだけ先の話でも、愛した彼女と共に世界を駆けられる。素晴らしい未来だと思った。もっとも、テミルルクはここで死ぬ。成果を確認する者がいない以上は空手形で終わる公算が高い。だとしても、可能性があるならば賭けなくてはならない。

 針金を入れたように背を伸ばし、答える。

 

「そういう事なら、お断りしますわ」

 

 返事を聞くやいなや岩礁に打つ波より荒く、萎む蕾より密に薄闇が殺到する。幕が降り、歌姫の存在は消えてしまったのか。

 

「どうして承諾しなかった……!」

「承諾しても救われません。私でもテミルルクでも、あなたでもなく──」

「いいや、もう付き合えない」

「待って!」

 

 不服に鋏角が震える。黒い霧がテミルルクの視界も遮った時、蜘獣がイザベルを退避させていた。力を貸すのは構わない。だが今のは明らかに蛇足だ。素直に頷いておけばよかったものを。その価値観が理解できない。

 

「何故だ。いつまでも善意が続くと思うな。蜘獣を掌で踊らせられると思うな。望むのは共存であって搾取ではないぞ」

「……前提が違います。メルサランやあなたには悪いですが、私はここでも死んでも構いません。身辺整理の時間は腐るほどありました。もちろん、生還するに越したことはないですけど」

「……好きにさせろと」

「ええ。楽団員にも普段からそう伝えています。今回の依頼はメルサランの私情でしょう」

 

 地を踏む足が二本増える。

 

「テミルルク」

 

 あれが最後の力だったのだろう。既に薄闇は霧散し、鱗の半身が露出している。

 脱力した躯体に呼び掛ける。まだ間に合うか。

 

「確かに、いつかは死者を完全な形で蘇生できる者が現れるかもしれません。けれど」

 

 ──そこは生死という最大の常識が壊れた世界だ。他の常識が保たれているはずがない。

 

 当代最高峰の詞術士たる真理の蓋のクラフニルを筆頭に、“黒曜の瞳”の精兵や雌伏を強いられた魔王自称者。彼らは“本物の魔王”の時代が産み出した逸脱者だ。最悪の外敵が彼らを必要とさせた。クラフニル以上の者を望むのであれば、“本物の魔王”以上の恐怖と争乱に覆われた世界を求めるしかない。

 そしてその世界は砂州のイルザを絶望させる。

 

「……どうすれば、よかったんだ」

「そういえば、この世界にも天国と地獄の概念があるようですね。天使がいて、悪魔がいる」

「そんなの、おとぎ話じゃないか」

「ええ、おとぎ話です。加えて言えば、死者蘇生というのも同じおとぎ話ですよ」

「何が言いたい……?」

「信じてみれば良いでしょう。死者の国があって、あなたの思い人もそこで待ってると。もう一度、会いに行ってあげなさい」

 

 “彼方”においてバーゲストは不吉な死を呼ぶ悪霊とされている。だがもしも、逆であったのなら。

 死を呼んでいるのではなく、臨終を報せているとしたら。魂を正しい場所に回帰させる(しるべ)だったのかもしれない。

 イザベルも今だけはそのように思うことにした。

 

「ァ───」

 

 静かに歌う。黒獣(バーゲスト)の英雄を讃える歌。宿した特異によって竜を斃し、逸脱の軍団を壊滅させ、そして最悪の血鬼(ヴァンパイア)すらを殺した。彼女の楽団に黒獣はおらず、そもそも教授できる技術でもない。ただの歌でしかない。

 麗しきイザベルは“彼方”で歌手の職業が成立する時代から生きている“客人”である。死生観も安泰の世に準じていた。

 

(英雄の死ぬ世界に絶望した……。その点で私と彼女に違いはない)

 

 英雄の産声が悲鳴と嗚咽に流される。そんな地獄があった。

 

(何かを為せば、何者かになれると信じていた。その権利だけは皆が平等に持つと)

 

 麗しきイザベルは聴衆に。夜の帳のテミルルクは砂州のイルザに。愛護や賞賛の形で、誰もが自身の価値を他人に委ねている。だがあの時代だけは。

 

(必要だと思った。勇者になれたはずの、死者を弔う者が。偶々私にはできたし、したかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()?)

 

 死んだ本人には何の褒美もない。墓前で手を合わせるような行為でも、安泰な世の見地に立つイザベルには必要だった。修羅の道の半ばで果てた彼らに、報いる者がいてもいいはずだ。

 テミルルクも信念に沿って敵を倒し、大団円を目指した英雄だろう。イザベルにはそう見えた。ならば利己的な動機であっても救ってやりたかった。

 歌が終わる。寂寞の夜が終わる。

 

「あは、は、イルザ……今そこに……」

 

 歌姫の歌は詞術ではない。しかし脳裏に鮮明な映像を描かせることもできる。

 

「良い夢を」

 

 少し熱を孕んだ風が吹いて、闇が剥がれていく。

 汚れた涙は、もう乾いていた。

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