崩天地壊郷   作:山明鏡 紫水

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“岳城”

 草靴(そうか)のチワンは旅人である。

 知った顔に埋め尽くされた狭い世界から飛び出し、広い世界の道を眺めて歩きたいと、それだけを考えた旅人。腕っぷしが強いわけでもなければ特別な詞術を会得しているわけでもない。結果として、比較的安全の保障された道を行脚するだけの日々。それでも彼女は初対面を繰り返し、新たな縁を結ぶ生活を楽しんでいた。

 今日も今日とて乗り合い馬車の荷台に揺られて次の町を目指していた。しかし。

 

「うわー、地図置いて来たのは失敗だったなー……」

 

 草木を払う袖は露と泥に汚れ、触れるのも躊躇われる醜態だ。運悪く山道を登っていた所を山賊に見つけられ、馬は射殺され馬車も横転。チワンの同乗者も蜘蛛の子を散らして逃げ出したが、果たして生き残れただろうか。

 チワンは行軍訓練を受けた兵士では無いが、旅の月日により足腰はそこらの娘に比べれば頑健である。その彼女が息を切らす距離を駆けた頃だった。

 

「な、何……?!」

 

 がさごそと、頭上の暗い茂みを騒がして何かが高速で接近してくる。山賊ではない。彼らならもっと素直に走ってくるはずだ。わざわざ猿のように枝伝いに移動する理由もない。得体の知れない恐怖が、チワンの足先から這い上がる。

 

 疲れた足が(すく)み腰の抜けたチワンの目の前に、何者かは追い詰めるように回り込み、その姿を曝した。

 

「大きな蜘蛛……蜘獣(タランチュラ)?」

「この姿を見て恐れない人族は久し振りだ。蜘獣を知っているのか。珍しい」

「五つ前の町で会ったお爺ちゃんから聞いたの。けど蜘獣の地域ってもっと遠いんじゃなかったっけ? 東の方」

「詳しいな」

 

 黒真珠のような八つの眼がチワンを捉える。彼女の恐怖の正体、それは一匹の蜘獣だった。“彼方”の者が見れば生理的な嫌悪すら抱きそうなその獣族は、詞術が通じる為に辛うじて人族とか細い関係を保っていた。だが本来は人里の近くに暮らす生物ではない。

 

「じゃあなんであなたはここに?」

「人族は皆が皆、お前のような奴じゃないという事だ。何の用でここに居るか知らないが、しばらくここから動くな。逃げ延びた山賊がまだ残っている」

「ああ、それならあっちの」

「分かっている」

「え?」

「それより、お前はここに一人で来たのか? 連れは?」

「さあ? 乗ってきた馬車の中には他にも何人かいたけど詳しくは覚えてない。四人くらい?」

「そうか。四人……。【フィクメロウより三番目のシパースの欠片へ(fickmelo io 3 sipaz)途方の唾(awey selba)蟠る片鱗を括る(lokre skle)──」

 

 人の声帯では出しようもない、異国の楽器のような詞術を聞いて、チワンはまだこの蜘獣の名を知らなかったことを思い出した。それだけ彼女も平静ではなかったのだろう。

 蜘獣の初めの名はフィクメロウ、二つ目の名は“岳城(がくじょう)”。だが彼がその名を進んで名乗ることはない。彼は有名になりたいが、彼自身は有名にはなりたくない。

 

 “彼方”では同じ言葉を話せても、肌の色の差異を理由にした虐殺もあったらしい。それに比べればこの世界はまだ平和だ、まだ。しかし争いは世の常としてこちらにもある。既に小鬼(ゴブリン)鳥竜(ワイバーン)は人族の敵として狙われている。次はきっと人を食らう鬼族のどこかだろう。

 

 ではその次は?

 地平全ての生物が、ただ己だけに集中していなければ生き残れなかった、新たに何かを手に入れる高度な欲求が許されなかった“本物の魔王”の時代が終わってしまった弊害。

 生物の欲は自身に向かえば成長の薬にもなるが、他者を殺す毒にもなる。蜘獣が邪魔な先住民として人族に絶滅させられる可能性は高いと、フィクメロウは考えている。

 その絶滅の未来を回避するために彼は足掻くのだ。悪人を捕え害獣を排し、簡潔に存在の価値を示す。人を喰らう鬼族や竜族と異なり、獣族は未だ世の認識が及ばぬ部分が大半。だから彼は名乗らない。フィクメロウという稀代の個ではなく、蜘獣という種族の価値として認識させるために。

 

「──動いていいぞ」

「何をしてたの? 」

 

 石に座し、休んでいたチワンが尋ねる。派手な光も音もない。彼の脚数を越えるほど繰り返された詞術は、その一つ一つが狙撃である。力術による狙撃はさして珍しいものでは無いが、それでも条件はある。

 第一に起点は自分の手元、或いは視界の範囲内。そうでなくては敵に命中させるのも難しい。“客人”の中には詞術を介さず詞術以上の逸脱した弾道制御を行う者もいるが、それは人族の中でも例外だ。

 一方で、今述べたのはあくまでも()()()力術を用いるのに必要な前提。その前提にさえ綻びはある。ならば他の種族にまで焦点を当てれば、その綻びはさらに広がる。

 

 キラキラと複数の黒眼が神経質に星明りを反射する。フィクメロウは蜘獣だ、その身体能力は人間と大きく異なる。眼球は人の四倍、強靭な糸を紡ぎ、密林を跳び回る八脚の筋繊維は発条の如く。そしてその()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 視界に頼らない環境把握能力を持つフィクメロウならば、たとえ暗中だろうが壁に隠れようが関係ない。木立は城壁、弾丸を仕込んだ草葉が砲台。彼を一晩野に放てば、それだけで荒れた森林は要塞へ姿を変える。

 

「少しばかり足りないが……まあいい。樹上かどこかに逃げたのだろう。それよりもお前だ。この森を抜けるまでは送ってやる」

「その前に馬車のところまで戻っていい? 慌てて荷物全部置いてきちゃったから」

「なら取ってきてやる。今この森を無闇に走り回られると困るんだ」

 

 走り去ろうとするフィクメロウに、チワンの腕が伸びる。一人で残される孤独感による恐怖だったのかも知れない。だが彼女の口が何かを伝えるよりも先に、針の穴を通す精度の一矢が眉間を狙い撃った。

 大きく頭が仰け反る。

 

「痛っ」

 

 絶叫には程遠い小さなつぶやき。ちろりと赤い筋が額から流れる。鏃に浅く切られたのだろう。だがそれだけだ。致命傷ではない。

 チワンはただの人間である。体が特別に頑丈なわけでも再生能力に優れているわけでもない。ならばその異常性は矢の方にある。

 

「……なにこれ、糸?」

「見つけたぞ」

 

 矢羽に何重にも絡み付いた太細(たさい)様々な糸が、その勢いを完全に削ぎ落としていた。

 フィクメロウは蜘獣だ。防壁、あるいは文字通りの包囲網として糸を張り巡らすなど造作もない。針の穴は通せても、蜘獣の巣を破るには至らなかったらしい。

 

 ぐるりと八つの眼球が、切れた糸の道筋を見透かす。その先には樹上で弓持つ森人が一人。

 巨体が(たわ)み、跳ねる。何もない中空に着地し、駆ける。否、それは暗闇の中では目を凝らしても見えないほどに細い、蜘獣の糸で編まれた巣だ。空中のフィクメロウを三度迎撃の矢が襲う。しかし焦りからか恐るべき蜘獣を足止めする威力は出ていない。

 諦めて逃走に切り替えたようだが、遅い。ここは彼の城だ。

 

「【フィクメロウより十番目のシパースの欠片へ(fickmelo io 10 sipaz)──】」

「ひぃ……!」

 

 異国の楽器のような詞術が聞こえる。しかし賊の側に止める余裕は無い。詞術などなくとも、竜に次ぐ脅威は到達するだけで矮小な人族の勝利を絶望的なものにする。走りながら、眼前に射出された翠色の小弾を必死の反射で倒れこんで回避する。

 シパースの欠片。弾丸というより星形の立体に近いそれは、接触と同時に筋弛緩剤を体内へ打ち込む捕縛用の武装である。

 

「【──途方の唾(awey selba)蟠る片鱗を括る(lokre skle)──】」

 

 再び走り出すが、立ち上がって数歩で足に何かが掛かり、前へ倒れる。空中に張られた巣と同じ細い糸だ。だがそれは大鬼(オーガ)の腕力でも千切れぬ縦糸である。足止め用の罠として、逃げ出す者のための検知装置として既にこの森林地帯全域に張り巡らされている。チワンを置いていこうとしたのには理由があった。

 

「【──割れ(craok)】」

「ぅあ」

 

 そして遂に、暗い横倒しの視界の中で翠色の輝きだけが(またた)いた。

 ぷすりと脇腹に軽い衝突の感触。その傷を中心に、やがて全身の力が失われていく。

 

「これで最後……何故付いてきた」

「いくら野盗がいないって分かってても夜の森は怖いからね。何回か()けちゃったけど」

 

 無力化させた賊を、器用に自前の糸で縛り上げる。何百度も繰り返して慣れた。そのような作業をしながらでも、彼の感覚器は背後に歩み寄る存在をずっと前から察知している。新手の賊ではない、草靴のチワンだ。

 

「優しいんだね」

「……」

「野盗なんて、殺しても文句言われないのに。そいつらだってあの馬車の人を殺したし」

 

 流石に背後の人間の表情は読めないが、フィクメロウは温情から野盗を生かしているのではない。

 “本物の魔王”の時代には誰もが剣を研いでいた。“本物の魔王”が死んだ今、まだ振るわれていない剣も数多残っている。蜘獣がその剣の標的になってはならない。そして牙を剥かない獣よりも牙の無い獣の方が脅威は小さく見られる。ただそれだけの話だ。強固な倫理観を持ち、絶対に人族を殺めなかったという実績だけ得られれば、あとは悪人の生死に思うところなどない。

 張り巡らした縦糸を、鳥竜の骨も切断する横糸に変えれば。シパースの欠片をもっと凶悪な毒薬に変えれば。フィクメロウにはそれができる。

 無言を貫くフィクメロウに何を思ったのか、チワンは(おもむろ)に野盗の頬を小突いた。

 

「この後はどうするの?」

「野盗を官憲に引き渡して……また別の犯罪者を探す」

「賞金狩りみたいな生活してるんだね。なら、いい場所を教えてあげる。悪人の集まりそうな場所」

「……何処だ?」

「最近、昔の魔王自称者の遺産が眠ってるって噂の広まってる土地がある。少なくとも、私の行った四つの町には広まってた」

 

 詞術が通じたとして、外見の大きく異なる蜘獣が人族と歓談に興じるにはまだ時代が早すぎる。しかし旅人であり、変化に寛容なチワンは別だった。

 二つと八つの視線が交わる。

 

「ヒティーア地塁街。遺産が兵器だって言われてるから、きっと集まるのは善人より悪人の方が多いよ」

 

 

 

 

 それは複数の眼と地を這う蠕動によって死角を作ることはない。

 それは射手に由来しない遠隔より魔弾を放ち、正体の一切を悟られずに標的を仕留める。

 それは大鬼にも千切れぬ白糸を張り巡らし、瞬時に包囲網を形成する。

 来る廃滅の為に未開の地より現れた、自然淘汰の先導者である。

 

 工兵(パイオニア)蜘獣(タランチュラ)

 

 岳城のフィクメロウ





次回投稿予定は明日です
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