崩天地壊郷 作:山明鏡 紫水
幼い記憶では、いつも母の頭越しに青い空があったように思う。そして空を見ていると、決まって母は自分よりも一本多い翼で抱き締めてくれた。ずっと黙っていたので、さらさらとした羽根の触り心地だけはなんとなく覚えている。
後にも先にも、母が嗚咽しながらキララを抱き締めたのは一度しかない。
「各関節も問題ないな? よし。後は練習だ、よほど無理な動きじゃなければ誤作動もないように設計したからな」
「お前の言う無理な動きの基準がわからん。そもそもどうやったら翼の内部運動が金属で再現できるんだ?」
「この世界の学問が弱すぎるんだ。基礎を省略して発展させてきた“客人”の弊害だな。俺が言えた事じゃないが」
テルキと山道で会ってから太陽が二周半した頃。手土産にしゃらしゃらと鳴る扇のような物を携えて、次は彼らが会いに来た。金属の扇を欠けた腕に取り付けられ、指示されるままに羽ばたくと軽い快感に包まれた。空人の遺伝子が色めき立っている。
「うむ、義翼は初めてだが、アシンメトリーの魅力はここでも適用されるらしい。今度鳥竜でも捕まえてみるか? フルカスタムしてやる」
「やめろテルキ! 改造された鳥竜なんて最悪すぎる。自警団もいない村落でどれだけ被害が出てるか……だから魔王自称者なんて呼ばれるんだぞ」
「やめろも何も、俺はお前らが協力してくれなきゃ何もできない、っと」
飛んだのは精々三十センチだろう。それでも、飛べた。
母がテルキを突き飛ばして、キララを抱いた。いつも乾いていた羽根は湿り、生ぬるい。肩の稜線を水筋がさめざめと通っていく。
「あー……そういえば、この娘の名前は?」
腰を労りながら逸脱の救世主が立ち上がる。
当時のキララに名前はなかった。二つ目の名前はおろか、一つ目の名前も。飛べない空人が長生きするとは誰も考えていない。ならば名無しのまま思い入れも抱かせずに死んでくれと、それが一族の救いだった。
「まだないなら、俺がロマンチックな名前を」
「あんまり口を出すなよ。責任を取れるならいいが、お前責任感は皆無だろうが。子供も孫も嫁に任しきりで、少しは会いに戻れ」
「手紙のやり取りはしてるぞ。孫の成長記録も送られてくる……今俺の話は置いておけ。この子の名前の話だ。候補の一つにしてくれればいい」
この日から隻翼の空人は希望の翼を得た。
「
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「あいつだ」
天に満ちた砂煙。その奥に赫灼と輝く影。そして届いてくる暖気。四年前と何もかもが酷似している。
瞳を閉じれば何度でも戻れる幸せな時。それが灰色に没してしまった日。四年前、全てを失った。
「あいつがキララの幸せを」
幾条の雷がキララを追い越して砂雲に刺さる。一定以上の高度に達した者は砲撃機魔の洗礼を浴びる。だがそれで止まるならあの日の悲劇もなかった。鳥竜を骨まで焼く雷を逆に食らうように、紗幕の奥から岩とマグマの槍が四方に伸びて砲撃機魔を破壊した。力術ではない。疾速の工術で為し遂げている。
(もう翼は奪わせない)
これで援護射撃は潰されたが、庇護を受けるべき者も既にいない。キララ以外の空人は皆殺された。
「【キララよりヒティーアの風へ。】」
大気が流線型の殻の形に固まる。あの日、この殻と金属の義翼が破滅から生き残らした。鳥竜の鋭い爪牙を防ぐ強度の殻。鳥竜を閉じ込めて落とせば棺にもなる。また頼ることになるとは。
頬を撫でる母の金翼を幻視する。空の記憶は常にキララと共にある。そのおかげで今も生きている。
(自由。この空は、キララの)
下方から土の柱が旋回する鳥影の軌跡を追うように、断続的に生える。円周に八本。鳥籠のように乱立する。当たらない。地知らぬキララ。大地の
テルキに武装構造を教えられていないナズカの攻撃は児戯と大差ない。権能だけを与えられた赤子だ。キララは違う。活用する知識も与えられている。
空気の流れが変わる。後ろから前へ、谷底を吹くような風を知覚する。
(……来た道を塞いだ)
柱と柱の隙間がなく、木の緑は下にしか見えない。乱立した柱を一枚の塀のように加工された。生成した後の柱を再加工できるならば、前方と下方のみならず後方にまで注意を払わなければならない。反射的に速度を落としてしまう。下からは土の柱が。
「うっ、ぐっ……」
大気の殻が砕けながらも、直撃した強圧から薄い身を守る。痺れるような痛みに喘ぐ。
(今は、それどころじゃない)
殻の残骸にしがみついて泣いていた過去とは違う。抗う力がある。守っているだけではいつか負ける。勝ち残るには、戦わなくては。
テルキやヨザマのような自分より賢い者も、戦う道しか選べなかった。彼らは闘争に取り憑かれた修羅ではないのに。戦わずに理想の叶う道があれば、そちらを選んでいたはずだ。
即席の足場で姿勢を立て直す。
「【キララよりヒティーアの風へ】!」
大気の床から飛び出す。畳み掛けるような地柱を置き去りにして、一直線の加速。累積していく追い風の詞術がひしひしと肌を削いでいく。最盛期の空人でも未翔の速度領域を飛んでいた。
だが空人は知能に劣った種族である。故に最初に見た攻撃手段を再度思い出すことができなかった。ナズカの攻撃は二通りあり、大地からの土柱、そして本体から打ち出されるマグマの絡んだ槍。柱より細いとはいえ直径五メートルを越えるそれを急加速した相対速度の世界の中で避けることはできない。
「キララが、勝った」
それが幻影でないのならば。
本物のキララは哀れな幻影の様を砂雲から直下に収めていた。空気が光の屈折に関与し、離れた地点へ像を結ばせる現象を蜃気楼という。旋回しつつ飛行高度を偽装していた。下方からの線の攻撃は当たってしまったが、点の攻撃には当たらない。
空人は愚かだが人族に数えられる事実が、獣以上の知性を証明している。大気の殻と撹乱の蜃気楼。生存闘争のため、テルキが丹念に教えた技芸は吸収されていた。
(タイマーは十秒、範囲は最大。臨界起動──じゃあね)
そして彼が教えたのは大気への詞術に限らない。逸脱の“学者”であって戦闘の専門家ではないが、“彼方”の鉄翼や星の海を泳ぐ翼すらを知る。ならばその使い方も想定している。
減速しつつ砂の雲から銀の箱を落とす。片手で抱えられる人頭ほどの鉄製の機械。煉瓦が融解する熱波と、それに対なる寒波を超短周期で放つ兵器は“
索敵網を欺いて浸透し、高空より広域を壊滅させる──空爆。“彼方”末期の戦争形態を彼女だけが体現できる。
「終わらなかったらまた来ればいい。勝つまで、ずっと。キララよ……ペっ。キララよりヒティーアの風へ」
口を片羽で蓋をして、“灰暮の壺”の範囲から脱出しようとして。
「あれ?」
ゆっくりと、放物線をなぞって落下している。
「浮かべ。浮かべ。浮かべ。あれ?」
風が従わない。焦って隻翼を広げても錐揉み回転するだけで勢いは止まらない。天は既に崩れた。
「キララの空は?」
地知らぬキララ。彼女は、
「……嫌だ。嫌だ! 空はキララの!」
時間が引き延ばされる。賢者も愚者も心があるならば恐怖する。重力の手が彼女を引きずり落とそうとしている。キララは死の恐怖に屈してしまった。詞術に縋ることもできない。
遠い。彼女のいるべき場所が。戻りたい場所が。分厚い壁が阻んでいる。彼女の抜け落ちた世界で、青い空がぞわぞわと
──昔は、砂や石から成分が抽出されて雲になると思われてたんだ。その素材らしかったのが
違う。瞳を閉じれば何度でも戻れる。鯨波のテルキは全てを与えてくれた。彼も間違えたのだ。馬鹿な自分は諦めてしまっても許されるはずだ。金の羽で自分を抱き締める。かつて母がそうしていたように。
「砂が雲になるなんて、テルキも──」
そして彼女は、大地を知った。