崩天地壊郷 作:山明鏡 紫水
ソナカ群落は都会から嶮山の数々を踏破しなくてはならない辺境の、しかし自然の恵みは豊かな土地である。魔王軍にも到達困難な秘境であり、数少ない平和を保った地だ。特筆すべき名産品も無いが、今は王国に仕える大英雄──
「おーイルザちゃん、いい青桃が実ったんだ。一籠持っていきな」
「あんたバッカ、イルザちゃんはそんな無茶させちゃいかんよ!」
「いいの、あとで荷車で貰いに来るね」
よく日に焼けた筋肉質な腕が、横から叩かれる。近隣の農家夫婦のいつも通りのやり取り。それを見た少女、砂州のイルザは爛漫と笑った。
産まれたときより虚弱である彼女は、外の世界を知らない。一度暇な若者に連れられて都会を訪れたが、その時は顔を煙のように白く染め、今にも消えてしまいそうな様子であった。空気が合っていないのだと、都会の医者は言っていた。
「あっ、ウィドルおかえり。狩りの成果は?」
「今日は赤銅猪が二匹だけだな」
「『だけ』? 十分じゃない」
「けどこいつ、弓なんて持った事も無いのに、遠くに鳥を見つけた瞬間俺の弓奪いやがって、しかも外したんだぜ? ダサすぎるわ」
「おまっ、それ言うなよ!?」
ふざけて仲間に殴りかかった男の背後には、両断された巨猪の首が二つ並んでいた。下は肉が傷まないように処理できる人間に引き渡した後なのだろう。たとえ失態を
「今度から弓の練習も始めてやる……ああ、あと途中で狼を拾った。まだ子供だから食糧にもならないし、放置しても良かったんだがな」
「傷だらけだったもんなぁ、親から捨てられたんだろ。今は口と手足縛って医者のホロリス爺さんに預けてきてる。今はまだ見るに堪えないから、イルザちゃんは見ない方がいいよ」
「へぇ、狼の子……そういえば“彼方”だと獣を育てて、狩りに使うらしいわね。ウィドルも試してみたら?」
「この間の“客人”の話か。俺は狩りの道具は足りてるからいいよ。イルザが育ててみるか? 案外足代わりになってくれるかもしれないぞ」
イルザは群落から出られない。だが自分から外の情報を得られない代わりに、流れてきた少ない情報だけはしっかりと覚えていた。山での狩りが異様に巧い、まだ見ぬ獲物を追い求める猟師を名乗っていた“客人”。獰猛な獣との突然の遭遇、物資も尽きた不知の山中での極限生活。イルザは猟師の様々な武勇伝に心を躍らせていた。
ウィドルのおどけたような提案。しかし彼女は真面目に考え、大きく頷いた。
「そうね。私が育てるわ」
「は、冗談だろ? 野生の狼なんていつ噛み殺すか分かったもんじゃねえ。やめとけ」
「まだ子供なら大丈夫よ。それに、いざとなったらウィドルが助けてくれるでしょ?」
「……まあ狼の一匹くらいなら」
渋々、自分が言い出した事もあってウィドルの側が引き下がる。彼がイルザに抱くのは善意と好意であり、可能なら彼女が望む事は叶えてやりたいと思っている。それは単なる憐憫ではなく、きっと甘い恋慕なのだろうが彼女が察することはない。これから育てる狼の子について頭の中は既に一杯になっていた。
「名前はなんて付けようかしら……オスローとか?」
「王国の英雄の名前を獣に付けるって不敬にならないか?」
「それもそうね。じゃあ──」
他愛ない、よく晴れた夏の日の一幕であった。
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それから数年、もはや同じ光景は拝めない。
いかに閉鎖された環境下でも、悲劇はあった。例えば英雄であった不撓のオスローの訃報であったり、親しい隣人の死であったり。だがそれら全てを些事に貶める災禍が今まさに訪れている。
時は夕刻。青々としていた果樹林は斜陽を呑むほど真っ赤に燃え上がり、悲痛を喚くものすら消えていた。皮肉にもオスローを葬ったものと同種の絶対的な災害が、群落を焼いていた。
「不遜なる人間の名を知っているか。この我の翼を撃ち、あまつさえ汚毒を呑ませた人間の名をォ……!」
「知らねえよ」
仰々しく開かれた
生き延びた住人はほぼ全員が退避した。だが竜の羽搏きの前に、人の歩みはどれほど価値を示せるだろうか。誰かが死地にて食い止める必要があった。
ウィドルの手が大地に突き刺した大剣に触れる。数年前とは同じ大剣でも、二回りは巨大に鍛えていた。それでも、対する相手にとっては誤差なのだろう。
「何を壊してもいいが、ここだけはやめろ」
「なんだ、宝でもあるのか?」
「そうだな……お前にとってはただの石ころだよ」
ウィドルの背後には墓標がある。刻まれた名は、砂州のイルザ。大英雄たるオスローの訃報より数日後、眠るように彼女は息を引き取っていた。心の拠り所であったはずの大英雄が、その依存性ゆえに却って彼女を憔悴させてしまったのだと皆は嘆いた。イルザが育てていたいつかの狼も、死んだ主を追うようにどこかに去っていた。
「その貧相な墓が宝というのならば、これから溢れんばかりに増やしてやろうか?」
竜眼が浅ましく窄まる。その視線は既にウィドルを捉えていない。森林の奥、逃げたはずの民を見透かしていた。
金床に槌を落としたような音が、竜の頬から鳴る。鉄の鏃と青い竜鱗の衝突音であった。
「俺から、目を、逸らすな」
噛んで含めるように呼吸を整えながら、まだ弦の震える弓を置き、大剣を引き抜く。放った一矢は首さえ動かなければ眼球を貫く軌道で飛んだが、二度目はない。逸れていた注意は確実に収束した。不機嫌な気配がウィドルを絡めとる。
「
「ティアエルの話か」
返事はしない。大剣を前へ。重心の赴く前傾姿勢のまま駆け出す。竜と対面し、剣を振るう。その事実と恐怖が脳髄に追い着く前に。
竜とて永遠に空を飛べるわけではない。むしろ地上を闊歩する時間の方が余程長い。この突撃の意味は決闘ではなく一人でも多く救うための時間稼ぎである。故に狙うべきは致命の一撃ではなく、今まさに振り下ろされんとする鋭爪を備えた脚部の───
「…………なんでここにいる」
「この視界封印、なるほど」
鋼を断つ、快音が響く。竜の爪は足を止めたウィドルを紙一重で掠め、鍛えた大剣を半ばから切り裂いた。本来の竜の動体視力ならば、人間が急停止したところで狙いを外すはずがない。本来の力が発揮できなかった理由がある。そしてそれはウィドルの足を止めた物と同一である。彼はそれの本質を知らなかったが、
遥か竜頭を暗闇で覆い隠し、墓標を守った存在を。
竜の巨影の暗がりに、更に濃い影が見える。
「
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不撓のオスローの訃報が群落を駆けた夜。砂州のイルザは一人で、否、一人と一匹で自室に籠っていた。夏の日より育んだ、狼である。すっかり健康なその首を抱き、梳かしたばかりの柔らかい闇に顔を
「なんで、なんでオスローさんは死んだの……?」
砂州のイルザと不撓のオスローの間に、大層な関係はない。精々が彼女の幼い時分に会ったことがある程度だろう。この悲憤は、なればこそ。もし自分の肉親が死ねば悲しみはする。だが絶望はしない。その人間の身の丈を理解しているから。
「怖いよ。絶対なんてないよ。オスローさんだって死んじゃった。もう絶対なんて信じられるわけない。あの人なら私も……私もッ!」
彼女はソナカ群落から出られない。医者は、都会の空気が合わないからだと言っていた。しかし真実は違う。健康に支障はない。ただ、
“本物の魔王”に比べれば卑小極まる規模の恐怖、それでも砂州のイルザは見知らぬ領域が怖い。未知への好奇心よりも恐怖心の方が数千倍も大きかった。だから守護者を欲した。如何なる暗黒の中でも自分の隣で守ってくれる絶対の存在を。だが何もかもが彼女に届かないままに勝手に消えていく。無敵の英雄すらも、全幅の信頼を裏切って逝く。何度も武勇を聞き、歪みを認識できない環境下で
砂州のイルザは時代の波間に取り残されたままだ、助けは来ない。今の彼女は意思疎通の図れぬ獣相手に情けない泣き言を連ねるしかなかった。
「……そういえば君の名前も不幸な名前になっちゃったね。ごめんよ。なんて言ってもわからないか……ありがとうね、こんなよくわからない鳴き声も黙って聞いてくれて」
漸くイルザが顔を上げるが、狼はその顔を見ない。
窓からの月光が濡れた毛並みを照らす。
「君は傍にいてね────
狼は答えない。
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「
黒獣の中には纏った黒い粒子の闇で獲物の目に入る光を吸収し、視界を封じる手立てを学ぶ者がいる。この個体もおそらくそうだ。しかし視界を潰されてもなお、竜に焦燥はない。黒獣には自分を殺す手段など無いことを知っているから。過去に出会った黒獣は堅牢な鱗に牙が徹らず、適当に振るった尾に当たって死んだ。そしてこの視覚封印も永久ではない。雨でも降ればすぐに流れ落ちる。
“彼方”に伝わる黒獣は墓地に佇み、時に迷い子の前に姿を現すという。きっとその双瞳には
「【
瞼を落としていても、
「……失敗したか」
目を瞑ることも忘れたウィドルの前で、竜は一呼吸を遂げた。天変は起こらない。竜は群落の周辺には棲息していなかった。不発の可能性は十分にある。だが。
「ならばもう一度。【
絶望は終わらない。目は見えないが、方角は覚えている。進撃を止める方法は存在しない。悠然と木々をなぎ倒しながら森へ
「【
破滅が、傾ぐ。単独で人間の軍をあしらう四足がばきばきと枝葉の上に倒れる。竜頭は依然として隠れたまま表情は窺えないが、断末魔の悲鳴すら上がらない。最期の疑問の声からして竜自身も我が身に何が起こったのか理解していないようだった。そのままゆったりと眠るように、脈動を止めた。
あまりに静かな、自然摂理の崩壊に場の全てが凍りつく。ウィドルは視界に黒い影が割り込んだことでようやく沈黙していた思考が働き出した。
「
「それはどうでもいい。イルザは無事か?」
「テミルルク……喋れたのか、ただの狼じゃなかったのか?!」
彼の頭にはあまりに考察すべき事項が多すぎた。短い髪を掻き毟り、何とか整理しようとする。竜の襲来から黒獣の再来、そして竜の死亡。
陽は既に沈んだが、まだ残照はある。だというのに黒獣の周囲だけは白の一滴もない
「訊いているのは、僕だ。もういい」
「待てって!」
「……なんだよ、これ」
掴んだ毛皮の感触がない。それどころか腕を振っても空を切る感覚すらない。
「なんなんだよこれ! おい!」
肌に触れれば触覚を、吸いこめば体内の臓器を。種より逸脱した闇は生体電気を奪い、あらゆる生命に永遠の眠りを齎す。それは
この地平のどこかには、亡者すらを再び呼び起こす術があるという。死した理外の肉体ならば、呼吸と睡眠の生体活動を無為にできるならば、彼はまた彼女の隣に寄り添える。彼はイルザが
騒ぐ
「僕は」
全ては在りし日の約束の為に。
「ずっと傍にいるよ」
それは夢想の英雄譚より、全生物の抵抗叶わぬ異能を会得している。
それはあらゆる欲求の上位に、最愛の亡骸を位置付けている。
それは不幸な目撃者から光明を奪う、絶望の暗影を纏う。
かつて折れた魔剣の名を継ぎ凌駕する、凶報の魔犬である。
次回投稿予定は明日です
穢れなき白銀の剣を通過していない人には不親切かもしれないけど、UA50以下の小説を3話まで読んでる時点で今更だと処理しました