崩天地壊郷 作:山明鏡 紫水
山脈と海に挟まれ、その実りを他都市へ運ぶセンヒ街道沿いの宿の中。質素な木製机の上には似合わない大量のビーカーとフラスコ、実験器具の類いが陳列されていた。
疫学が“彼方”から伝わる前から薬学は存在していたが、森人の長き生のうちでどれだけを研究に充てたのか。複数過程に及ぶ作業にも滞りはない。
「や、傷の加減は?」
「おかげさまで大分善くなった。しかしあんなバケモン、野戦で装甲車に追いかけられた方が楽だったよ。弾が通りゃしねぇし、毒食らってもピンピンしてやがった」
「ま、そんな
「おだてても何も出ねぇよ。“客人”様でも倒せないのに、黄都のロスクレイ様とやらは本当にどうやって倒したんだろうな?」
「アンタが竜を狩れるようになればその答えも分かるでしょ」
色素の足りない細腕で半ば抱き抱えるようにして、真っ白な包帯が老人の日焼けした腕に巻きなおされる。小柄な怪我人の横には使い古された銃があるが銃士ではない。銃士の客人は既に先客がいる。
彼は
「ま、約束の為にも、早く治しちゃッてね?」
「分かってる。助けて貰った恩くらいは返すさね」
トラジは野生の形態を整え、その中で人族を生かすためにのみ銃を取る。であれば他所から飛来し、在来の獣を食い荒らし、住民から恐れられた竜を排除しようとするのは当然だった。しかし愛用の猟銃を用い、毒の罠まで仕掛けたがそれすらも失敗に終わり、今はこうして流れの薬師の世話になっている。生術によって外科的治療の発達していない世界で、初見の薬師を頼るというのは危機意識のある者なら敬遠するところだが、彼とは明確な取り決めがあった。
腕の調子を点検するように回す。
「ヒティーア地塁街に行きたいんだろ?」
「そ、あそこは今じゃ樹海だからね。山中行動の専門家でもいなきゃ安全には行けないよ。それに、野戦なら下手に傭兵の集団を雇うよりもアンタみたいなのに頼った方がいい」
「違いない。後の約束も信用していいんだよな?」
「もちろん。非力な人間でも
ワートルテは現存する薬剤の凡そに精通している。そして傷を癒すだけでなく、より身体能力に効果的に干渉する“彼方”の技術も承知していた。すなわち、ドーピング。もちろん世界が違うのだから植生も異なるが、特性を把握し網羅していれば代用はできる。ワートルテはその域にいる森人だった。
ワートルテが差し出すのは治療と今後の狩猟に用いるドーピング剤。代償としてトラジが差し出すのはヒティーア地塁街までの案内及び護衛。それが今回の契約である。
包帯を巻き終えたワートルテはまた別の作業に入る。ごりごりと何かの粉末を擂る背中が無防備に晒される。
「しかしわからないのは、なんでヒティーアなんだ? あそこにあるって噂されてるのは魔王自称者テルキの遺産、つまり鋼鉄の兵器なはずだ。薬師のお前さんとはお門が違う。それとも、他に希少な山菜でも自生してるのか?」
「や、狙っているのはテルキの遺産だよ。間違いない。時に、ナノマシンってのはご存じ?」
「ナノマシン……“彼方”じゃ医療用に開発されてたあれか」
「俺はね、あそこに存在している脅威のうち一つがナノマシンだと睨んでる。数十人が調査に赴いて手掛かりが皆無となると、
「だがそれでも兵器だ、分野が違うだろ」
「薬ってのは何も傷薬だけじゃない。人族の健康を維持して守るものだ。爆薬毒薬も使いようッてね」
圧政者を殺す毒薬や外敵を殺傷する爆薬は、種族にとって最良の薬に違いない。
ワートルテはそこまで手広く薬師を極めるつもりもなかったが、それでも体内に侵入してくる異物を排除する程度には薬師としての矜持がある。ナノマシンの構成を紐解き、人体に影響を与えずナノマシンのみを崩壊させる溶剤の生成。それが彼の語った目標だった。
その目標にトラジは唸った。
「なるほど、だがオイラもナノマシンは撃ち落とせねぇよ?」
「さすがにアンタを雇った理由はこれじゃない」
ワートルテは苦笑いを浮かべ、三枚の薬包紙を盆に載せる。
「ヒティーアには推定で三種類の脅威がある。第一に、町そのものを消滅させた脅威」
薬包紙からサラサラと粉末が杯に注がれ、溶ける。
「第二に、その跡地に樹海を作り出した脅威。第三に、樹海への侵入を拒む不可視の脅威。おそらくこれがナノマシンじゃないかと疑ってる。アンタに頼みたいのは他の二つの方」
「最初の事件からは何年も経っている。前二つの脅威は今も待ち構えているかは怪しいぞ」
「や、確かに今あるのはその三種類、もしくはそれ以下の脅威だけど……増えるじゃん?」
「……他の冒険者か」
「そ」
どこから噂が流れたのか、ヒティーアにはテルキの遺産があるとの噂が広まっている。多くのものは与太と考え、動きはしないだろうが今回は本人の消失から数年が経過しているのだ。何かが違うと察するものもいるだろう。ワートルテもそうだ。テルキの遺産を確保したとして、
説明を終え、薬湯も完成したらしい。温い薄緑の液体が手渡される。ここ数日は、こうして謹製の薬湯を飲まされ続けていた。本来ならば警戒してしかるべきなのだろうが、もう七日目にもなって慣れてしまった。最初こそは毒見をさせていたが、今となっては少なくとも遺産の攻略が終わるまで手を出されることはないと確信している。
「さ、これ飲んで早く寝ちゃッてね」
「はいよ」
一気に飲み干す。
目前の薬師は新たな注射器を手に笑った。その陰影が前日と僅かに違って見え、その意味をすぐに身をもって知る。
「ゲッ……エェエ……ッ!」
「は、こんなに油断しちゃッてまぁ。普段は獣しか相手にしてないからかな?」
(何故、何故今なんだ……!?)
からんとトラジの手から杯が滑り落ちた。
知覚可能な手足の痺れ、即効性の麻痺毒。飲み込んでしまった毒はもう吐けない。吐くために
だが理解できないのは、今毒を盛ったところでワートルテに得られるものはないはず。毒殺したいのならば少なくともヒティーアを踏破した後の方が実利はある。
「怪我したままだと“彼方”由来の免疫も弱化してる可能性があるからね、万全の標本じゃなきゃ意味がない」
(最初から目当てはオイラの死体……それも新鮮なものだったのか)
もはや呂律も危うい。逃走は不可と断じて猟銃を手繰る。野生を超越した瞬発の銃口がワートルテの胸を捉えた。気紛れにトラジが毒味を頼んでいた場合、毒を飲んでいたのはワートルテの方だ。解毒剤は手近に、例えば白衣の中に用意してあると睨んでの制圧。
笑みはそのまま、しかし冷淡な目の森人を照準器の中に収める。超至近距離からの単発の弾丸は、弾けるような衝撃波と共に打ち出された。
「琥珀茶三滴と根獣の一欠片、他にも色々。世界で俺しか知らない調合だ」
机上の実験器具が一列に砕け散る。猟銃の弾道はワートルテに掠りもしない。発砲の寸前、ワートルテは首筋に用意した注射器を射していた。それはトラジのための毒ではない。
神経伝達の加速、視野の拡張、速筋の増強。彼の編み出したドーピングは、逸脱の客人を上回る身体能力を一切の
今までトラジは、ワートルテは身を守る術がない弱者である前提の下で契約を結んでいた。もしもそれが誤算で、トラジを一蹴するほどの猛者であり、彼がおらずとも未知の樹海を攻略するだけの力があるならば。
「欲を言えば竜の検体も欲しかったけど、ま、いいか」
(……まさか)
第二射、再び器具が砕け散る。しかし充血したワートルテの眼球はこちらを視認し、銃口を回避していた。散乱したガラス片が白衣を滑る。ただの白衣ではない。明らかに戦闘を考慮されている防刃性。
動かない体の中で、唯一動く頭でふと考えついた。自分がワートルテに救われたのは果たして偶然だったのか。最初から竜と自分の双方が無傷では済まない結末を設け、最後にどちらかは確保、あわよくば両方確保する算段だったとしたら。
(ただの気が狂った薬師じゃない。もっと規模の違う……)
派手な発砲音と破砕音が鳴ったはずだ。宿の人間も、宿泊客も誰一人騒がない。全員が懐柔されている。
ワートルテの呼吸に合わせ、腰に
「あ、まだ動ける? 俺特製でも改善の余地ありッと」
不意に色素の足りない細腕で肩を押される。抗えない。トラジの方が呼吸を読まれていた。不随意の硬直のまま腰掛けていた寝台に押し倒され、膝で腕を封じられる。
徐々に黒く狭窄する視界の中で、最後までこちらを覗き込む瞳だけが。新たな標本に対する興奮の、絞るような吐息を感じた。
「じゃ、さようなら」
その手には、中の満たされた注射器がある。
それは“彼方”の学問を応用し、自己の因子に極限までの強化を施している。
それは一昼夜にて、現行の方法では検出不能な劇毒を調合できる。
それは薬剤の掛け合わせによって、歴戦の武人を上回る膂力を獲得する。
遍く疫病と健常を気儘に貪る、胎内世界の掌握者である。
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