懸念した通り、あさひは何も変わらなかった。
外へは一歩も出ようとせず、何にも興味を示さず、ただ事件の前の芹沢あさひを演じ続けている。
あさひが外に出ないのは、怖いからではない。そこに面白いことがないからだ。
「世界は変わっちゃったっす。つまんないっす」
腕の中で、あさひが疲れたようにため息をついた。
今日もあさひは泊まりに来ている。何かあったのかと心配したら、あさひは口をへの字に曲げた。
「何かないと、泊まっちゃダメなんすか?」
「いや、あさひ、もう俺のこと、好きじゃないのかと思って」
「意味がわかんないっす。ずっと一緒にいる約束、まだバリバリ有効っすからね?」
何故か俺が怒られたが、迷走を纏った後でも信頼してくれているのは嬉しい。
いつものようにお風呂でエッチした後、脱衣所で体を拭いていたら、あさひが挑発的な目で俺を見上げた。
「プロデューサーさん、ああいうことするの、わたしの愛っすからね?」
「お、おう?」
突然のことに、思わずしどろもどろになる。もう何度もエッチなことをしているが、あさひがはっきりと「ああいうこと」に言及するのはこれが初めてだった。
あたふたしていると、あさひが軽く腕を組んで、疑うように目を細めて俺を睨んだ。
「前に、冬優子ちゃんがいるならもう俺の役目は終わったとか、意味のわかんないこと言ってたから、わたし、考えたんすよ」
「そうか。それで?」
「もしかしたら、プロデューサーさんにはそう見えないのかもっすけど、わたしはわたしなりに、プロデューサーさんのこと、好きっすよ?」
淡々とそう言って、あさひはむくれた顔のまま俯いた。
そんなあさひが可愛くて、愛おしくて、思わず強く抱きしめると、あさひは苦しそうに手足をばたつかせた。
それからいつものようにのんびりと時間を過ごして、適当な時間にベッドに入ると、あさひが世界の話をし始めた。
あの事件の後、あさひの世界は何もかも変わってしまって、面白いことがなくなってしまった。世界は色を失い、音を失い、光を失い、動きを失い、何もかもただの塊のようにそこに佇んでいる。
河原の石にすら声を弾ませていたあさひは死んでしまった。今のあさひは空虚なぬけがらで、まだ色が見えた頃の自分を必死に演じている。
「わたし、どうしたらいいんすかねぇ」
もう自分ではわからないと、あさひが諦めたように呟いた。何とかできるなら何とかしてくれと、自分のすべてを俺に委ねる。
俺にはそんなあさひを受け止める覚悟がある。覚悟はあるが、方法はわからないし、間違ってばかりの気がする。
そう吐露すると、「ダメじゃないっすか」とあさひが残念そうに首を振った。
しばらく舌を絡ませながらごろごろして、眠そうにあくびをするあさひを上に乗っけて抱きしめた。運動量は減っているはずなのに、少し痩せたように思う。あまり食べていないのかもしれない。
「あさひ。万策が尽きる前に、一つだけやってみたいことがあるんだけど、聞いてくれるか?」
髪に指を滑らせながらそう言うと、あさひは「はいっす」と頷いた。
「やっぱり、一緒に壁を見に行かないか?」
ずっと、頭から離れない一言。
事件のあった日、一緒にシャワーを浴びながらあさひが言った。一緒に壁を見に行こうと思っていたが、全然違う一日になってしまったと。
もし事件がなかったら、どんな一日になっていただろうと、俺も思った。
あさひが元気に事務所に現れて、「変な壁を見つけたっす!」とはしゃぎながら、俺を外に連れ出したはずだ。
それが出来なかったことで、あさひの世界はズレてしまった。それならば、もう一度、本来起きるはずだった世界に戻そう。
「俺、結局壁、見てないし、ちょっと気になってる」
写真はもう、消してしまったそうだ。もしかしたらあさひの中で、あの壁は事件の象徴にでもなっているのかもしれない。嫌なことを思い出させてしまうかもしれない。それでも、俺に残された手はもうそれしかない。
やはり気が乗らないのか、あさひは押し黙ったまま何も言わなかった。背中やお尻を撫でながら辛抱強く待つと、あさひはぽつりと呟いた。
「わかったっす」
「よし、じゃあ明日行こう」
「行ってもしダメだったら、二人で海に行くっす」
「海か」
海もいいかもしれない。泳ぐにはまだ早いが、波打ち際を手を繋いでのんびり歩くのも楽しそうだ。
「壁の後、海もいいな」
明るい声でそう言ったが、あさひはそれっきり何も言わなかった。
そして、とうとう俺は、あさひと二人でその壁に来た。他に誰もいない、あさひの秘密の場所。あの日あるはずだった光景。
手を繋いでじっと見つめていると、隣であさひが声を震わせた。
「この壁、赤いっすね」
「赤いな」
小さな動きで隣を見ると、あさひはぼろぼろと涙を流しながら壁を見つめていた。
歓喜の涙かはわからないが、少なくとも悲しみの涙ではなさそうだったので放っておいた。
青空の下に佇む赤い壁は、確かに変だった。俺にはむしろ、この壁のある世界の方が奇妙に感じるが、あさひの世界にはこういう奇妙なものがたくさん存在していたのだろう。
「あはは。面白いっすね、この壁」
そう言って、あさひが泣きながら笑った。
その瞬間、胸が詰まって、視界が涙でぼやけた。ずっと、毎日のようにあさひが言っていた言葉を、あの日以来、初めて聞いた。
「面白いか?」
「面白いっす。面白いっす、プロデューサーさん」
堪え切れなくなって、泣き顔を見られないようにあさひの体を抱きしめた。
あさひも俺の胸にすがりついて、むせぶように泣いた。
二人して抱き合いながら泣いている光景はさぞ不気味だったろう。しかし、幸いにもあさひの秘密の場所は、俺たちの他に誰もいなかった。
しばらく泣いてから、あさひはしゃがみ込んで足元の草に触れた。
「この草は緑っす。空は青いっす」
見上げる瞳が、キラキラと光る。
もしかしたら、喩えではなく、本当に色が見えていなかったのだろうか。思わず真顔になった俺の腕を、あさひが笑いながら引っ張った。
「これから、色を探しに行くっす。72色制覇するまで、帰らないっす」
「そりゃ、夜になるな」
「じゃあ、またプロデューサーさんの家に泊まるっす」
あさひが元気に笑う。一体この中学生は、どれだけ外泊を許可されているのか。
この先きっと、あさひは「面白い」を取り戻す。たくさんの面白いものに囲まれた時、果たして今のあさひはいるだろうか。
夜に怯えて、俺に依存して、ぎこちない愛で俺を好きになってくれたあさひは、元の世界にはいなかった存在だ。
なかったものは消える。でも、それでいい。笑顔のあさひとどちらかしか選べないのなら、俺は迷わず「面白い」に全力なあさひを選ぼう。
ずっと先まで走っていたあさひが俺を振り返り、同じスピードで戻って来た。
「もうっ、何してるっすか!」
「いや、なんか、あさひの背中、久しぶりに見たなって思って」
「意味がわかんないっす。早く来るっす!」
あさひが俺の手を引っ張る。それがとても力強くて、俺まで元の世界に引き戻されたように感じた。
俺たちだけの、色褪せた世界が遠ざかっていく。けれど、それを寂しがることだけはしてはいけない。
「あさひはもう大丈夫だな」
感傷に浸ってそう言うと、あさひはむっとした顔で俺を睨んだ。
「全然大丈夫じゃないっす。ずっと一緒にいる約束、ちゃんと守るっすよ?」
そう言って、あさひが俺の手に指を絡めた。あさひなりの、「好き」の形。
あさひがそれを望むのなら、望んでくれるのなら──いや、俺自身がそうありたいから、ここから始めよう。
俺を好きなあさひと、「面白い」のたくさんある世界を。
事件の前とも後とも違う、新しい世界を。