その日もあさひは元気に走っていた。
体を動かすのは好きだ。ダンスに限らず、自分の気持ちや感情を体いっぱいで表現するのは、あさひの最も好きなことの一つである。
今はただ事務所に急いでいるだけだが、後のことを考えると胸が弾む。変な壁を見つけた。あの壁がいかに変であるか、少しでも早くプロデューサーに伝えたい。
あさひの唯一の理解者であるプロデューサーなら、きっと面白がってくれるだろう。あの壁はあさひの秘密の場所に認定したが、プロデューサーなら連れて行ってもいい。一緒に共有できたらもっと楽しい。
全力で走っていたら、前から若い男がスマホを見ながら歩いてきた。その横を通り過ぎようとした時、軽く肩が当たった。
わざわざぶつかりに行ったりはしないし、身の幅を見誤ったわけでもない。前を見ていなかった向こうが少しよれたのだ。
あさひが足を止める気配を見せなかったからか、男が振り向いて「おいっ!」と低い声で凄んだ。あさひは思わず足を止めて振り向いた。
「なんすか?」
「今、肩当たっただろ!」
「当たったっすね」
この事実確認は何だろう。あさひが首を傾げると、男は眉間に皺を寄せてあさひを睨み付けた。
「言うことはないんか?」
どうやら謝れと言うことらしい。さしものあさひにも理解できたが、謝らなくてはいけない理由が思い浮かばない。急に飛び出したわけでもないし、当たりに行ったわけでもない。少なくともあさひだけが謝る理由はないし、両方が謝るにしても、先に謝るべきは向こうである。
「そっちがスマホ見て歩いてたんすよね? 歩く時は前を……」
その言い分を、最後まで言うことは出来なかった。いきなり顔面目掛けて突き出された拳を辛うじて腕でガード出来たのは、天性の運動神経と日頃のダンスレッスンの賜物だろう。それでも強い衝撃を受けて、あさひは背中からアスファルトに叩き付けられた。
一瞬息が詰まって、喘ぐように息を吐き出す。腕が痺れている。しかしそれよりも、自分の腕で殴られた顔が痛い。立ち上がろうとしたら目眩がして、がくりと膝をついた。口の中を切ったようで血の味がする。
思わず顔をしかめると、いきなり体を蹴られて、鈍い痛みとともに景色がぐるぐる回った。そのまま壁にぶち当たり、あさひはぐったりと肢体を地面に投げ出した。
「うぅ……」
体に力が入らない。あちこちが痛い。
「ガキがナメてんじゃねーぞ!」
男の怒鳴り声がしたかと思うと、髪の毛を掴まれて無理矢理顔を上げさせられた。
「ごめんなさい……」
反射的にそう言うと、顔が熱くなって涙が零れ落ちた。ぼやけた視界のすぐそこで、男が鬼のような形相であさひを睨んでいる。
怖い。ただ怖い。
本当にここは、ついさっきまであさひが自由に駆け回っていた世界なのだろうか。走っていたらいつの間にか、まったく違う世界に迷い込んだのではないだろうか。
肩が当たっただけで、大人の男が中学生の女の子を殴り付けるような世界を、あさひは知らない。あさひの周りには優しい大人しかいなかった。意地悪な大人はいても、こんなにも暴力的で、まったく会話ができない人間は見たことがない。
これでは、ライオンやオオカミと同じではないか。いや、本当にライオンやオオカミなら、今頃あさひは食い殺されていただろう。
「最初からそう言やいいんだよ、ガキが!」
そう吐き捨てて、男は歩いて行ってしまった。
助かったと言うべきなのだろうか。体中が痛くて、どこにも力が入らない。骨とか折れていたらどうしようと思ったら、怖くて涙と震えが止まらなくなった。
このままここで倒れていたら、きっと通りがかった人が助けてくれるだろう。救急車が呼ばれて、警察が来て、親も来て、一大事になるに違いない。
それは嫌だ。
壁に手をついて、よろよろと立ち上がった。下半身を見下ろすと、擦り剥いた膝に血が滲んでいた。歩くと痛んだが、肉が抉られるような傷ではない。
口の中が気持ち悪くて唾を吐き出すと、真っ赤な唾液が地面に染みを作った。足蹴にされた肩を回してみたが、こちらも大丈夫そうだ。
ハンカチを出して涙と傷を拭った。無理やり笑顔を作って歩き出す。
通りがかった人に心配されるのも面倒だ。もし話しかけられても、走っていて転んだと誤魔化せるくらい、元気に振る舞おう。
そして、少しでも早くプロデューサーのもとに行こう。変な壁を見つけた話がしたい。きっと楽しんでくれるはずだ。
涙を拭って、足を引きずりながら、あさひは歩いた。