芹沢あさひは危なっかしい子だ。好奇心が強くて、やりたいことに真っ直ぐで、時々周りが見えなくなる。
いや、ほとんど周りを見ていないと言った方が正しいだろう。周囲に気を遣うこともないし、大人にも物怖じしない。
出来ないのではなく、していないだけだと言う人もいるが、俺の見立てでは、あさひは出来ないのだと思う。
納得できないことはやらないという頑固さは確かにあるが、そもそも常識や人の心に対するアンテナがあまりにも弱い。
恐らくそれは、普通に生きていく上では欠陥とも呼べる欠点であり、直していくべきだろう。
しかしあさひはアイドルだ。しかも、他人に嫌われることを何とも思っていない。好かれるに越したことはないが、好かれるための努力をするつもりは一切ない。
それがまたあさひの魅力であり、あさひの輝きがあの性格から来ているのは間違いない。
あさひの性格を矯正することは出来る。しかし、矯正して性格の変わってしまったあさひは、果たして芹沢あさひと呼べるのだろうか。
芹沢あさひは難しい。
少なくとも何かしら教えていなかなくてはいけないと思う。今のあさひの魅力は、14歳だからこそ愛されるものだ。5年後10年後に通用するものではない。常識のない大人にはしたくない。
未来のビジョンがまるで浮かばない子だ。そもそも、アイドルを続けているだろうか。ただでさえ興味の無いことはやりたがらない子だ。常に辞めてしまいそうな危うさのある子を、どこにどう導いて行けばいいのだろう。
「あさひ……」
呟いて時計を見る。今日はオフだが、遊びに来ると言っていた。そして、その時間はとっくに過ぎている。
きっとまた、何か面白いものを見つけて寄り道しているのだろう。仕事ではないから好きにしていいが、日頃出来ないことは、しなくてはいけない時にも出来ないものだ。
それもまたレッスンの一つだと思うが、そんなことを言ったら、また「えー、めんどうっす」と嫌そうに言われるだろう。そんなあさひの表情を思い浮かべて笑っていたら、事務所のドアが開いた。
ようやく来たかと腰を浮かせて、思わず息を呑む。
乱れた髪、汚れた服や肌、血のような染みの付着した唇。膝や肘からは血が流れていて、左腕は力なく垂れ下がり、青ざめた顔で俺を見つめる瞳には涙が浮かんでいた。
「ど、どうした……?」
車にでもぶつかったのか、神社の階段から転げ落ちたのか。俺が足を動かすより先に、あさひが俺の胸に飛び込んで、聞いたこともない泣き声を上げた。
「怖かったっす! ひどいっす! わたし、悪くないのに! わたし、なんにもしてないのに! いきなり……っ、うぅ……うわああぁぁっ!」
俺は思わずたじろいだ。あさひがこんなに取り乱すのは初めてだし、そもそも泣いているところすら見たことがない。
痛くないように背中を抱き寄せて、もう片方の手で髪を撫でる。「大丈夫だから」と囁くように繰り返したが、あさひは大きく首を横に振って泣きじゃくった。
「怖かった! 痛いし、今も痛いし、怖いし、わたしが悪いの? わたしは、だって、別に……うぅ……っ! だって、わたし……」
「あさひ、落ち着いて。もう大丈夫だから。な?」
泣き続けるあさひを慰める。これは事件だ。ちゃんと対処しなくてはいけない。けれどまず、あさひの心と体が第一だ。
しばらく抱きしめていると、やがてあさひは苦しそうに深呼吸して体を離した。腕にしがみついたまま、涙で濡れた顔で俺を見上げる。
よく見ると頬が腫れている。明らかに対人トラブルだ。断片的な情報から察するに、誰かに殴られたのだろう。
「とにかく病院に行こう」
「嫌っす。見た目ほどひどくないっす」
「今、痛いって言ってただろ?」
「大丈夫っす。プロデューサーさんに手当てして欲しいっす」
「応急処置はするけど、病院には行こう」
「絶対に嫌っす!」
あさひがはっきりと拒絶するように声を上げてから、急にはっとしたように呼吸を止めて、怯えるように眉をゆがめた。
「ごめんなさい……」
その一言は、あさひが殴られたことよりもショックで、俺は思わず目眩がして体を支えるようにあさひの肩に手を置いた。
「今、何に謝ったんだ?」
「何って……」
自分でもわからないと、あさひが悲しそうに首を傾げる。俺はあさひをソファに座らせて、ぎゅっと手を握った。
「俺にはいいから。言いたいことを言っていいから」
「でも……」
「病院には行かない。でも、本当に我慢できないくらい痛くなったら言うんだぞ?」
諭すようにそう言うと、あさひは硬い表情のまま頷いた。
救急箱を持ってきて、擦り剥いた箇所の消毒をする。あさひは痛みを堪えるように俺の腕を掴んで、時々苦しそうに声を漏らした。
手当てをしながら話を聞くと、思ったよりも完全に傷害事件だった。しかし、あさひは警察にも絶対に行かないと言った。
「逆恨みとか怖いっす。別に謝ってもらわなくてもいいし、お金も要らないっす。だから、警察に行く必要はないっす」
それももっともだ。その手の連中は、捕まったところで反省などするはずがないし、むしろ恨まれて報復される方がよほど怖い。
心無い謝罪を受けたところで、あさひの受けた心のダメージは少しも軽くならないし、たとえ相手が警察でも、長時間にわたって知らない大人に色々聞かれる方が、今のあさひにはつらいだろう。
「じゃあ、家まで送るから、怪我が治るまで出歩かずにゆっくりするんだ」
手当てを終え、救急箱を片付けながらそう言うと、あさひは腰を浮かせて俺の腕にしがみついた。
「帰りたくないっす」
「帰らずにどうするんだ?」
「プロデューサーさんの家に行くっす。親には心配かけたくないっす」
あさひの指が、俺の肌に食い込む。その指先が震えていて、俺はやれやれと息を吐いた。
「わかった。わかったけど、一日で完治する怪我じゃないぞ?」
親には心配をかけたくないが、俺にはかけていい。あさひのそんな無意識の信頼を無下にはできない。
たぶん俺の選択は、何もかも間違っている。しかし、きっとあさひにとっては正解だ。今は常識的な判断よりも、あさひがどう感じるかが大事だ。
「ありがとっす……」
呟くようにそう言って、あさひが俺の肩に額を押し付けた。
今日はまだ、一度もあさひが笑っているところを見ていない。もしかしたら、もう二度と見られないのではないか。
そう考えたら、心が薄ら寒くなった。