腕の中で大人しくしていた珊瑚が、出したままの隠し武器を横に振った。首を狙われ反射で仰け反った弥勒から逃れ、地面に手を突いて後転する。一回転分、離れた場所で、隠し武器を構えた。
僅かに法衣の襟元を切られた弥勒が、腰を上げて困ったように口角を上げる。余裕綽々に見える顔に、ほんのり冷や汗が流れた。向かい合う弥勒と珊瑚を見て、雲母がオロオロとしている。
「やはり、そう簡単に離す気はないか」
「当たり前だろ」
「……珊瑚?」
ニヤリと、悪戯っぽく目を細めた珊瑚は、さっきまでと違う雰囲気を醸し出していた。動揺を滲ませた声で名を呼ぶ弥勒に、含みのある妖しい笑みを咲かせてみせる。
「鈴を壊さないで、法師さま。あたしはもっと、法師さまにくっついていたいんだ」
「——心を食われすぎて、精神まで乗っ取られたのか」
「うん、法師さまがあたしを受け入れてくれたおかげだよ。ありがとう」
ようやく事態を把握した弥勒に首肯し、恍惚とした笑顔を湛える珊瑚。心まで手に入れた欣喜で興奮しており、別の意味で頰を色づかせている。蕩けた瞳で愉悦に浸る姿に、弥勒が微かに焦りの色を浮かべた。
急いで鈴を壊さねば、珊瑚の感情が消えてしまう。弥勒は錫杖を持つ手に力を込め、珊瑚を操る鈴と距離を詰めた。走り寄ってくる法師に小さく笑い、珊瑚が後方に逃げる。
追いかけ合う恋人みたく駆け回る弥勒と珊瑚に、野次馬達が微笑ましそうにしていた。法師と退治屋の会話が聞こえず、押し倒したり甘えたりする姿しか見ていない分、勘違いを加速させている。
村の者に見られながら珊瑚を追う弥勒は、足の長さで優位に立ち、遂に細い腕を掴んだ。左手で驚く珊瑚を捕まえたまま、錫杖を振り上げて鈴を狙う。珊瑚が降ろされた錫杖を隠し武器で受けた。
退治屋の里の手練れ故、簡単に懐に入り込めず舌を打った弥勒に、珊瑚が両手を頬へと伸ばして顔を綻ばせる。不意に構えを解かれてよろけた弥勒の頰を手で包み、あくどく口の端を吊り上げた。
「次は法師さまの番だよ」
そして、素早く肩の入れ物から何かを取り出し、防毒面をつけると同時に叩きつける。地面で割れて煙を噴き出す退治屋道具に、咄嗟に鼻と口を覆うも身体から力が抜ける弥勒。少し吸っただけなのに、全身が痺れて脱力している。
「うっ。これは、痺れ薬か」
「動けないだろ? 退治屋の里特性の煙玉だからね。さて、あんたも照れさせて心を食べさせてもらうよ」
防毒面をつけた珊瑚が、フラリと傾いて片膝を突く弥勒と目線を合わせた。まるで力が入らず、地面に錫杖を突いた法師を嘲笑し、隣に正座する。弥勒が巻き込まれて動けない雲母と共に睨む中、ぐいっと強く引っ張られて膝枕をされた。
「へっ?」
柔らかな太腿の上で固まる弥勒から錫杖を奪い、遠くに放り投げる。喜色満面な表情で仰向けに転がし、間抜け面を見下ろした。きょとんとする弥勒にニコリと相好を崩して、よしよしと頭を撫でる。
「いつも法師さまに甘えてばかりだからね。今日はあたしが甘やかしてあげる」
「——……甘やかされるなら、元に戻った珊瑚がいいです」
「このっ……」
母性溢れる眼差しで頭を撫でていた珊瑚が、少し落ち着きを取り戻した弥勒の挑発に乗った。動けない癖にツンとそっぽを向く生意気な法師に、怒りで握り拳を震わせる。
だが、何とか怒りを鎮めて拳を下ろすと、法師を照れさせるべく挑発し返した。
「そんなこと言っていいわけ? 普段なら言わないようなこと、たくさん言ってあげようと思ったのに」
「ほう? 例えば、どんなことですか?」
すっかり余裕を取り戻した弥勒が、スッと妖しい光を帯びた双眸を細める。周囲に野次馬が居る中で、好きな女に膝枕をされても平気そうで、鈴は面白くない。
完全に乗っ取ったわけではない為、身体の中であわあわしている持ち主。そんな彼女の心をほとんど食べたことで、共有している状態の記憶を覗く。勿論、探すのは法師への本音だ。
「あんまり無茶しないでほしい。もっと、あたしを頼って? 法師さまの背中はとても頼もしいけど、時々、酷く儚くて消えてしまいそうだ」
縋るような泣きそうな顔で、控えめに、けれど力強く手を握られる。弥勒は本当に珊瑚に言われている錯覚に陥った。意表を突かれて、目を仄かに見開く。
「好き。大好き。他の人のところに行かないで。法師さまの隣はあたしがいい」
花が咲き綻ぶようにゆっくりと瞼を下ろし、両手で包んだ弥勒の右手に擦り寄る珊瑚。動けないのと驚きでされるがままの弥勒に、悩ましい表情を向ける。眉を垂らした姿は、うっかり抱きしめたくなるほど儚げだ。
珊瑚は庇護欲やら恋心を激しく駆り立てられた弥勒の上に跨る。後ろで一つに束ねた髪の先が、法師の頰をくすぐった。彼の戸惑いで揺れる瞳を真っ直ぐ見つめ、徐に身体を倒す。
「いつも法師さまから貰ってばっかりだけど、本当はあたしも同じぐらい——ううん、それ以上に、法師さまのことが愛おしくてたまらないんだ」
口付けしてしまいそうなほど顔を寄せて、額同士をコツンとくっつける珊瑚。困惑する弥勒への愛しさを溢れさせ、ふんわりとはにかんだような笑みを浮かべる。鈴に見つけられた本心を全て暴露され、心の中の珊瑚はまともに弥勒を見れなくなっていた。
「——……左、様で」
頰を朱色に染めた弥勒が、恥ずかしそうに視線を逸らす。誰がどう見ても照れていて、珍しいものを見た珊瑚の心を騒つかせた。珊瑚同様、最初の方は食われても違和感がなく、弥勒に変化は見られない。
胸を撃ち抜かれた珊瑚と照れてしまった弥勒が、甘酸っぱい雰囲気を醸し出す。満を持した法師の羞恥なのに、鈴はここから逃げ出したくなった。口も体内も蜂蜜みたく甘ったるい。
すると、人混みを掻き分けて、見慣れた緋色がこちらに近付いてきた。
「やい、弥勒に珊瑚! 何、チンタラしてんだ。村を狙ってた妖怪、俺が倒しちまった、ぞ——……」
不満を露わにする犬夜叉だったが、密着した二人を見てピシリと固まる。こんな昼間から村人の前で戯れる仲間に、隣のかごめが目をキラキラさせていた。
「——こっちが情報を集めたり、妖怪を退治して動き回ってる間に、仕事サボって何してやがる」
二人の側に屈んで呆れたような半眼を突き刺す犬夜叉。柄の悪い半妖に絡まれて、弥勒と珊瑚を取り巻く甘い空気は、完全に雲散霧消した。
それにより、含羞の色も祓った弥勒が、身体を起こして珊瑚を腕に閉じ込める。頭を動かされないよう後頭部に手を添え、珊瑚の顔を袈裟に埋めた。
「あっ」
「後で説明してあげますから、珊瑚の鈴を壊して下さい」
「鈴? これか?」
痺れ薬を吸わせて慢心していた鈴が、犬夜叉の手であっさりと壊れる。ようやく目的を達成して、安堵と精神的な疲労で、短い嘆息と共に肩の力を抜く弥勒。
元に戻ったはずの珊瑚が、法衣に顔を埋めたまま動かず、様子を確かめるべく解放する。恐る恐る目を上げた珊瑚だったが、すぐサッと赤い顔を逸らした。
自分がやらかした行動の数々により、弥勒をまともに見ることができない。柘榴の果実みたいな紅味を帯びた真紅の満面を、覗き込んでこようとする弥勒から必死に背ける。穴があったら入りたい。
恥ずかしさのあまりギュッと目を閉じた瞬間、意識がふわふわとし始める。操られている時と似た感覚に陥り、珊瑚の身体が勝手に動かされた。物入れからもう一つの鈴を出し、弥勒の指に結ぶ。
「なっ!?」
「——逃がさないよ、法師さま。言っただろ? 次は法師さまの番だって」
小指に繋がれた呪具に大きく目を見開く弥勒を見上げ、鈴に操られた珊瑚が強い色香を放ちつつ艶美に微笑んだ。