翌日。青葉が目を覚ますと、見慣れているのに見慣れない天井だった。自分の部屋の天井かな? とはどこか思えないがそっくりな感じ……なのだが、何にしても変な感じだ。
とりあえず身体を起こすと、薄い毛布が一枚だけかけられていた。……というか、ソファーの上だった。
自分の部屋のソファーはこの位置に設置していない。
ベランダを見ると、窓が開けられている。真夏だからって、朝からクーラーを入れるわけにもいかないのだろう。そのベランダの窓の右上には、自分の父親が好きでつけっぱなしになっていた風鈴がない。つまり……。
「えっ、どこここ……」
自分の部屋じゃない、と思った時には遅かった。逆方向に顔を向けて視界に入ったのは、食卓の近くでスポーツドリンクを飲んでいる汗だくの美琴の姿だった。
「あ、起きた」
「っ⁉︎ み、美琴さん⁉︎ ここって……まさか」
「美琴さん?」
「っ……み、みっちゃん……」
「うん」
そうだった。昨日、そんな話をしていた。
訂正すると、満足そうに頷いてから改めて話を続けられた。
「? 私の部屋だけど?」
「なんでこんなところにっ……あいたっ!」
慌てて立ちあがろうとしたが、ソファーの前にある小さな机に小指の先端をぶつけた。
「こっ……ふ……!」
「大丈夫?」
「っ、は、はい……あの、なんで……俺はここで……?」
「昨日、鼻血出してぶっ倒れたまま起きなかったから、仕方なく。……もしかして、チョコでも食べすぎてたの?」
鼻血……? と言われて思い出したのは、昨日の事だ。そうだ。確か目の前の人……浴衣の下……。
それを思い出し、一気に頭がくらくらするほど熱くなり、顔が真っ赤に染まる。
「み、美琴さん! ダメで……!」
「美琴さん?」
「……み、みっちゃん。ダメですよ! そ、その……下着つけないで、出掛けたりしたら!」
「え? や、だから浴衣とか着物って、下には……」
「それは昔の話です! 『お前』って言葉は本来、神様に使うから、お客様に使っても語源的には間違いないって言ってるのと同じですよそれ!」
「へぇ……そうなんだ」
「感心するポイント違くて! とにかく、次にお祭り行くときは気を付けてください!」
「うん。……ふふっ、次、か。今から楽しみだね?」
「ーっ、み、みこ……みっさん!」
「何その呼び方?」
「すみませんね、慣れてなくて!」
本当にこの人は! と、顔を赤くして怒る。どうして男を翻弄するようなことばかり言うのだろうか? なんだか遊ばれている気がしないでもない。
そこで、青葉はハッとする。そうだ、そういえば美琴は今日、午後から仕事なのだ。お弁当はいらないけど、そろそろいつも通り朝食を作らねば。
「……今、朝ご飯作りますね」
「うん。よろしく。……あ、でもその前にお風呂入ってきたら? 昨日、そのまま寝ちゃったから、汗かいてるでしょ」
「あー……そうで……あっ、す、すみません! 汗だくのままソファーだけじゃなく毛布まで……!」
「気にしないで良いよ」
「す、すぐシャワー浴びますね!」
「うちの使っても良いよ?」
「いや流石に……」
遠慮します、と言おうとした時だ。リビングの扉が開かれると同時に、にちかが入ってきた。
「……なんで美琴さんの部屋で一泊したファンの風上にもおけない人が、美琴さんの部屋でシャワー浴びる話になってるわけ?」
「……なんでいんの?」
「あんたこそなんで泊まってんの?」
「いや俺は……」
説明しようとした所で、口が止まった。なんて言えば良いのか? まさか昨日、ノーパンノーブラでいた、なんて言えるはずがない。問題は山積みだが、何より言ってはいけない理由として「どうやってそれを確認したの?」となってしまう。
肘に胸があたった上、その感触から思わず振り向いてしまってチラ見してしまった、なんてバレたら、割とマジで暗殺されるかもしれない。
だが、無言もまずい。何か言わないと……と、頭の中で考える中、美琴が口を開いた。
「ああ、ごめんね、にちかちゃん。実は私、昨日ノー……」
「チラス!」
「むぐっ⁉︎」
余計な事をほざかれそうだった口を慌てて塞ぎに行った。
「昨日の事は言っちゃダメなやつですよ……! やると言ったらやる女に昨日のことを知られたら……!」
「っ……」
コクコクと頷いてくれたので、ホッとして手を離す。その青葉の肩を、後ろからにちかが掴んだ。
「何いきなり美琴さんのこと襲ってんの?」
「お、襲ってねーよ!」
「襲ってたじゃん! ……そういえば、思い出した。前に青葉の家で勉強してた帰り、いきなりお隣さんの顔面にしがみついた事もあったよね」
「なんでそんなこと覚えてんだよ!」
「もしかして、日常的にそういうことしてるわけ⁉︎」
「してねーっつーの! これもそれもごく稀な例だよ!」
「ごく稀でもダメだから普通そんなの! ファンの癖に!」
「ファンのくせにユニットメンバーになった奴に言われたくねーわ! つーか、そもそもこんな朝早くからお前何してんだよ⁉︎」
「ユニットメンバーの私が、お隣さんである事を利用してファンのくせにアイドルの部屋で寝泊まりする変態を捨て置けるわけないじゃん!」
「誰が変態だコラ……!」
「そこまで、二人とも」
ヒートアップする中、さっきまでケンカをニコニコしながら眺めていた美琴が間に入った。
「とりあえず……青葉。そろそろ朝ご飯、食べたいな」
「っ、そ、そうですね……!」
「にちかちゃんも。心配してくれるのは嬉しいけど、青葉はそんな立場を利用するような子じゃないでしょ。それは、にちかちゃんが一番分かってると思うんだけどなー」
「っ……は、はい……」
怒られてしまい、二人とも大人しくなる。そして、お互いに顔を向け合った。……まぁ、二人とも何よりもまずは「美琴のため」を思って動く。
従って、何も言わずに言う通りにした。青葉はまず自分の部屋に戻り、シャワーと着替えを済ませに行った。
×××
さて、部屋から戻りながら、自分もついでに朝飯を食べようと思い、いくつか食材を冷蔵庫から出して美琴の部屋に戻る。
中に入ると、にちかはいなくなっていた。
「美琴さ……み、みっちゃん……?」
「何?」
「にちかはどこですか?」
「帰ったよ?」
「え、なんでですか?」
「午前中、本当は妹さん達の面倒を見る予定だったのをバックれたんだって。はづきさんから電話かかってきて怒られてたよ」
「あいつホントロクでもねえな……」
まぁそのきっかけを作ってしまったのは青葉なわけだが。
「朝ご飯、今作りますね」
「ありがとう」
「俺もついでに食べちゃいたいので、いくつか食材持って来ちゃったんですけど……何か食べたいものとかあります?」
「うーん……お任せで」
「はいはい」
美琴は「おまかせと言ったくせに作ったら文句言う人種」ではないので、それでも困りはしなかった。一応、聞きはしたものの、普通にメニュー考えながら食材持って来ちゃってたし。
朝ご飯を作り始める間、美琴は一度、リビングを出た。
「シャワー浴びてくるね」
「えっ……は、はい……」
「覗いちゃダメだよ?」
「の、覗きませんよ!」
そうだ。元々、おそらく美琴は走り込みから帰ってきたとこだった。この炎天下だし、入らないわけにはいかない……のだろうが、ちょっと今だに気恥ずかしい、同じ屋根の下で片方が裸になっている、という感じが。
特に、昨日でノーパンノーブラの浴衣姿の美琴と一緒に歩いていて体型が割と分かってしまったのだ。一層、悶々としてしまう。
覗きたい、と思ったのは一度や二度じゃない。でもその度に他にあるありとあらゆる理性を総動員させて、身体を動かさなかった。
「……」
顔面をグーでそこそこの強さで殴って煩悩を覚まさせた。
「曇一つねえ……Thank you so much……ベストフレンド‼︎」
なんて呟きながら、また手を動かした。
サラダ、焼き魚、お味噌汁を用意し、白米を御茶碗によそって、続々と食卓に並べて行く。雲一つ無くしたから、いつもの倍速で用意が進んだ。
さて、サラダと箸も食卓に並び、お味噌汁をお椀に注ぎ、後は魚を……と、思った時だった。
「青葉、青葉ー」
「はい?」
何かと思って顔を向けると、リビングと廊下を阻む扉の隙間から顔を出している美琴が見えた。
「なんですか? もうご飯出来ますけど……」
「今からリビング通るけど……良いって言うまでこっち見ないでね」
「え……」
嫌な予感がビンビンにする。元々、ズボラな性格のこの人だ。いつかはこんな日が来る気もしていた。
「っ、わ、分かりました……」
「うん。ありがとう」
察したら、何も聞かずに顔を背けるのが紳士的ムーブというものだ。もうすぐ魚は焼きあがってしまうので、この際だからしゃがんで魚が焼かれているコンロの中を覗き込む事にした。
「……おお。良い感じ……」
なんて思っている時だった。ぶううぅぅぅぅん……と、耳に響く嫌な音。蚊ではない。蚊なら殺してしまいである。
となると、何か……そう、蜂である。そして虫は、青葉の弱点でもあった。
「ぴゃあああああああああ‼︎」
「っ⁉︎ あ、青葉……⁉︎」
「みっ、美琴さっ……みっちゃ……美琴さんっ……た、たすっ……助けっ……!」
心配して顔を出した美琴のお腹に、情けなく腰を抜かしながら這いずって出て来た青葉は抱きついて、押し倒してしまう。
「ひっ……はっ、蜂っ……! 死んじゃう、アナフィラキシーショック!」
「お、落ち着いて青葉……!」
「無理無理無理無理! ほんっっっと虫だけは……!」
何せ、保育園にいた頃に刺されたのだ。というか、やたらと保育園の時は虫の被害に遭ったことが多く、ムカデにも咬まれて、給食で最後に取っておいたメロンに蝿が止まり、下駄箱で自分の靴を開けると誰のいたずらかゲジゲジとダンゴムシのてんこ盛りが出て来て、極め付けはお泊まり保育で気分が悪くなった友達の介抱をトイレでしていたら、カサカサとゴキブリが出て来て上履きの上に乗ってきたり……などと。
とにかく、ダメなのだ。虫は。
そんな中、ふわりと頭上に何かが乗せられる。柔らかいけど、何処かハリがある……手だろうか?
「大丈夫だよ、青葉。あれミツバチだし、すぐ出て行くから」
「……い、いや蜂は蜂なので……!」
撫でられている、と今になって自覚したが、怖いものは怖い。何せ、刺されたら痛いのだから。
しかし、自分の頭を撫でてくれている美琴は「んー……」と声を漏らした後、静かに告げた。
「じゃあ……私と最初に会った時、酔っ払いに絡まれてたの助けてくれたでしょ? その時は、怖くなかった?」
「? こ、怖かったですけど?」
なんだろうか、急に。まさか、蜂よりも酔っ払いの方が怖いとかそういう話? それはない。だって、蜂には土下座も命乞いも通じないから。
「私は、あの酔っ払いの人と同じで、人間で成人してて青葉より背が高いけど……私のことは怖い?」
「い、いえ……怖くないですけど……?」
いや、可愛すぎて怖いとか綺麗すぎて怖いとか無防備すぎて怖いとかは色々あるが。
しかし、まぁ全然普通に接する事はできるし、むしろ怖いと思うことの方が恐れ多い。
「それと一緒。ミツバチも、こっちから何もしなければ刺さないし、何もないとわかればそのうち出て行くから。……だから、落ち着いて」
「っ……」
言いたい事を理解した。蜂は怖いものかもしれないが、その中には怖くないものもいるし、その怖くないものが今入ってきた種類の蜂、と言うことだろう。
その後に、さらに落ち着きに拍車をかけるように、背中にも手を回された。一定のリズムで、ぽむっ、ぽむっ……と背中を叩かれる。
「……落ち着いた?」
「…………は、はい……」
なんとか、気を取り戻した。それによって、しつれいながら意外な顔をしてしまう。
それに気付いたのか、美琴は青葉に「何?」と視線で聞いてきた。
「あ、す、すみません……その、ちょっとだけ……意外だったので……」
「? ……ああ、慣れてるなって?」
「……は、はい……」
「まぁ、昔からユニット組んだ子、年下の方が多かったからね。初ライブ前に声かけてあげる事も多かったから」
なるほど、と青葉は当たり前のことを理解した気がした。この人もこんな生活してるけど大人なんだな……と、今更になってしみじみと思った。
「ふふ……でも、青葉こそ意外だな」
「え、何がですか?」
「意外と、大胆な真似するんだね」
「? ……あっ」
改まって、今の状態を理解した。上半身に服を着ているとはいえ、薄い黒のタンクトップのみの美琴のお腹に、顔を埋めている。
何より困るのが、美琴の下半身は黒のパンツ一枚だった。つまり、自分は下着姿のアイドルに情けなく虫にビビり散らかして甘えてしまっているわけで。
「ふふ、甘えん坊さん。また虫が出たら、私に言ってね。助けてあげるから」
「……ー〜〜〜っっ⁉︎」
オーバーヒートした。口を半開きにし、吐血しそうになったが、美琴の身体を汚すわけにいかない、と踏み留まる。
代わりに口から漏れ出したのは、魂だった。
「……ぽえっ」
「? 青葉?」
白目を剥いて失神した。
×××
さて、そろそろレッスンの時間……なのだが、珍しくレッスンルームはおろか事務所にさえ現れない美琴に、ジャージ姿で待機しているにちかは少しだけ不安そうにしていた。
実際、不安なのはそれだけではないが。昨日、余りにも態度が悪かったので、はづきに何度も叱られたのに、朝も怒られて少し気に掛かってしまっていた。
……ちょっと世話、かけさせてしまったし、後で甘いものでもご馳走しようかな……と、思っていると、ようやく事務所の扉が開かれた。
「おはようございます」
「おはようございますー」
「あ、美琴さん! おはようございます!」
秒で忘れて出迎えに行った。
「おはよう、にちかちゃん」
「大丈夫でしたか? あのバカ助に何かされませんでしたか?」
「……大丈夫だよ」
珍しく視線を逸らして答えられたのが気になったが、美琴がそう言うのなら信じた方が良いのだろう。
「そんな事よりごめんね、ギリギリになって」
「い、いえ! 遅刻したわけではありませんし……それより、何かあったんですか? 珍しくギリギリでしたけど……」
「うん。青葉が蜂を怖がって気絶しちゃってね……」
そういえば、青葉は虫が苦手だ。この時期が苦手な理由も虫嫌いからきているし、妙な綺麗好きも害虫を排除したいと思っているからだ。
そこで、にちかは思いついた。
……これは、青葉の株を下げるチャンス……!
「あー……あいつ、男の癖に虫苦手ですからねー! ホント、情けないというかなんというか……苦手ならまだしも、怖がるってダサいですよね。女の人が平然と虫潰せるのと同じくらい性別の壁、超えちゃってますよねー!」
「私、ゴキブリくらいなら潰せるんだけど……女性らしくないのかな?」
し、しまったあああああああ! と、頭の中でムンクの叫びの如く両頬に手を当てるにちか。というか、美琴さん虫潰せるの? 嘘でしょ? とギャップ萌えが起こり始める。憧れの女性ならどんな性質も萌えに変換されるのだ。オタクは。
いや、そんなことよりも弁解しなくては。
「あ、いえよく考えたら、女性でも虫と戦えるのは、堂々としててカッコ良いなー!」
「ふふ……そっか。ありがとう。じゃあ、着替えて来ちゃうね」
「は、はい……じゃあ私、先にレッスンルームに居ますね!」
「うん」
そのままにちかはダンスレッスンの部屋に向かった。
とりあえず、ホッと胸を撫で下ろす。ついうっかり地雷に足を踏み入れそうになったが、ぎりぎりで避けられた。
足を開いて柔軟ストレッチをしながら、しかし腑に落ちない……と、言わんばかりに悩む。
しかし……青葉は虫嫌いではあるが、気絶するほどだったっけ? と、小首をかしげる。確かに木にしがみつくコアラのように、はづきに抱きついていたし、はづきがいない時はにちかにさえ助けを求める事もあった。
……でも、触りでもしない限り、気絶することなんて……いや、まぁ良い。あのバカはもう敵なのだ。
青葉がいない事務所での時間は、自分と美琴がイチャつける最高の時間なのだ。そして……明日のテスト返却日に自慢する……!
そんな風に思っていると、レッスンルームの扉が開かれた。
「お待たせ。背中押そうか?」
「あ、は、はい!」
たとえば、これだ。二人で密着して柔軟体操……あの男には一生無理な芸当だろう。
ゲスい欲望やえっちな事を口にはするものの、実の所ウブ過ぎて思いつくだけでそういう事をしたいという欲望もないし、いざそういう空気になっても度胸がないので出来ないのはわかっている。身体に触れることさえままならないだろう。
あと普通に運動できないから、彼自身も交ざりたがらないはずだ。
「お……にちかちゃん、柔らかくなったね?」
「えへへ……これでも、毎日お風呂あがりに柔軟しているので……」
「偉いね、じゃあもう少し強く行くよ?」
「はい! ……えっ?」
「よいしょっ……」
あががががががが! と、脳内で奇声を発する。痛い。全然、もう少しじゃない。え、ヒバニーからすぐエースバーンになった? と、とにかく涙が浮かぶ。
だめだこれ。流石に、流石に言わないと股裂ける。アマイマスクになる。
そんな風に思って、口を開きかけた時だ。やたらと至近距離にあった美琴の美人な甘いマスクから、色っぽい声音が耳の中から脳に届いた。
「どう? イイ感じ?」
「はい、とっても!」
反射的に答えた自分を頭の中で刺し殺しながら、ガッツで乗り切った。
さて、終わった後は交代。ガニ股になるのを必死に抑えながら、美琴の背後に立つ。
「ふふ、にちかちゃんホントに柔らかくなったね」
「は、はい……」
「私も、負けていられないな」
明日、ルフィみたいになってたらどうしよう……と、ふらふらした足取りになりながら背中に手をつけた。
大丈夫、頑張れる。こうして美琴の背中に触れられるのは自分だけなのだ。青葉に言えば絶対、羨ましがられる。そう思えば頑張れる……!
「じゃあ、押しますね」
「うん。強めでも良いよ」
「はい……!」
そんなわけで、グッと押した。しかし、流石の柔軟性。大人になるほど硬くなると言われているが、美琴の身体は綺麗に少しずつ床に接着されるように吸い付いて行く。
「ねぇ、にちかちゃん」
「はっ、はい⁉︎ 強すぎますか⁉︎」
「あ、ううん。柔軟はこのままで。……あの、もし……仮に、なんだけど」
「はい」
「にちかちゃんに、とっても好きな男性アイドルがいたとして」
「……は、はい?」
急になんだろうか?
「にちかちゃんはついその男の人がパンツ一枚の時に抱きついてしまって」
「あの……どんな例えですか?」
「分かるけど、最後まで聞いて?」
「アッハイ」
「絶命しちゃったとする」
いや、ほんと何の話だろうか? そんなショック死、あってたまるか。
「どうやったら、戻って来れる?」
「いや絶命したのに戻って来れるはずが……」
「ごめん、絶命は言い過ぎかも。呼吸してないで白目を剥いてる状態」
「それ絶命なのでは……?」
「ごめん、答えてくれる?」
しかも声音が真剣だし。何一つ理解出来ないが……まぁ、たまには美琴にもそういう下らない話をしたくなることがあるのだろう、と思い、乗ることにした。
「そうですね……それ以上の刺激を与える、とかでしょうか?」
「それ以上……なるほど」
「えっと……なんだったんですか? この話」
「何でもないよ」
本当になんだったのか……なんて少し別のことを考えていたからだろうか? 背中に置いていた手を、滑らせてしまった。
「きゃっ……!」
「おっ、と……!」
そのまま顔を美琴の肩の上に置いてしまう。
「す、すみません……!」
「ううん。こっちこそごめんね。押してもらってる時に、変なこと聞いて」
「い、いえいえ! 面白かったですよ?」
「ふふ、なら良かった。……あの、それよりさ」
「? はい?」
「手を、離してほしいな。流石に恥ずかしい」
「?」
言われて、視線を手がある下に向けた直後だ。美琴の両胸を、ガッツリ掴んでしまっていた。
「っ、す、すみませっ……柔らかっ……あ、いやすみません……!」
「いいよ、ホント。気にしなくて。私の不注意でもあるから」
慌てて離れたが、両手にはいまだにずっしりした感触が残っている。……大きかった。そして、重かった。とても自分と数センチしか差がないとは思えない。
……もう一度触りたい〜……と、思ったが慌てて首を横に振った。今はもうユニットメンバーとはいえ、元ファンとして矜持は失えない。
「じ、じゃあ、もう一度押しますね」
「うん。お願い」
とりあえず、柔軟を続けた。……これは、流石に黙っていよう。でも、向こうがその手の切り札を出してきた際のカウンター罠として一生忘れないようにしよう。
お陰で、この時のにちかは「それ青葉にされたんですか?」という疑問を浮かべる事はなかった。
×××
レッスンを終えた美琴は、今日は足早に帰宅した。普段はにちかと一緒に帰る事もあるのだが、どうやらにちかも姉に甘いものを買ってあげたいと別行動したので、普段より早く事務所を出ることが出来た。
すぐに電車移動を終えると、タクシーを呼んでマンションまで足早に移動する。
そして、部屋の中に慌てて入った。リビングのソファーでは、相変わらず身体の力が抜けている青葉の姿が目に入った。
「っ……」
確か……強い衝撃を与える、だっただろうか? 男の子にとって、お腹に抱きつく以上の衝撃……考えてみたが、すぐににちかが答えを教えてくれた。
その為、それを実践する。……どんなに鈍い美琴でも、多少は恥ずかしいし勇気も必要だったが、やらないわけにはいかない。人命に関わるのだから。
「っ……ふぅー、よし……」
覚悟を決めると、青葉の手を取った。そして、緊張気味に自身の方に伸ばさせ、そして近づけていき……むにゅっという感触が美琴にも伝わった直後だった。
ぱちっ、と唐突に青葉の瞳が開かれた。ロボットの目覚めのように覚醒され、思わず美琴はその手を離して、若干後ろに仰け反ってしまう。
「あれ……みことさん……じゃない、み……みっちゃん……?」
「おはよう……青葉」
本当に素直な良い子だ。こんなアホな手段が通じてしまう程度には。
が、それ故に青葉は美琴の顔を見上げると頬を赤らめる。思い出しているのは、気絶する前の出来事だろう。
直後、その場で唐突に土下座し始めた。
「すみませんでした美琴さん!」
「あ、落ち着いて。みっちゃんで……」
「俺を、通報して下さい! やっては……やってはいけない事をしでかしてしまいました!」
「うん。でもわざとじゃないんでしょ?」
「わざとではありませんが……しかし!」
「なら、落ち着いて。わざとじゃないなら、気にしないから。……ね?」
「…………でも、俺は……」
……本当に、自分のどこに惚れてそんなに自身を律する事ができるのか、と不思議だ。
あの時は確かに驚いたし恥ずかしかった。けど、自分のお腹の前で震えていた青葉を見て、それどころじゃない事を察したのだ。
酔っ払いにさえ強く出れる彼が怯えていたのだから落ち着かせた、それだけの話だ。
そんな時だった。ドオオォォォォンッッ……と、腹に響くような音が耳に届いた。二人とも、何事かと思って顔を上げる。ちょうど、窓の方から聞こえてきた。
「…………わ」
「……そっか。今日か」
音の主は、花火。本日はお祭り最終日……つまり、花火の日だ。ドン、ドォォン……と、爆音で太鼓が鳴っているような音に、少しだけ二人とも魅入ってしまう。
そんな中、ちょうど良い、と思った美琴は、青葉の手をひいた。
「青葉、出よう。ベランダ」
「え?」
「多分、絶景だよ。花火」
言われるがまま、青葉は美琴と一緒にベランダへ出た。
自分で言っておいてなんだが、本当に絶景だった。空へ何発もぶちかまされる火薬の花は、何度も何度も散っては咲き、咲いては散る。
「すごいね……これ、毎年やってるんだ?」
「は、はい……」
「にちかちゃんも、一緒に見たかったな」
が、向こうは向こうで姉妹で仲直りしているかもしれないし、邪魔は出来ない。
「……来年こそは、にちかちゃんもはづきさんも一緒だね」
「……そうですね」
「ならさ、通報なんてするわけに、いかないよね?」
「っ……そ、それは……まぁ……」
ニコリと微笑んで見下ろすと、青葉はハッとして俯いてしまった。
「い、意外とずるいんですね……」
「青葉の聞き分けがないから」
「…………」
ちょっと悔しげな顔になった。生意気可愛い、というたまに聞く言葉の意味がようやく分かった気がする。
「じゃあ、もう気にしない?」
「……は、はい……」
「うん。良い子」
頭を一撫でしてあげた直後だった。自分のお腹からぐうぅぅと情けない音が鳴る。
横を見ると、青葉が意外そうな顔で自分を見ていた。恥ずかしい音を聞かれてしまった……が、まぁ気にするような事でもないので、誤魔化すように笑顔だけ浮かべた。
「締まらないね……」
「み、みっちゃんのお腹も、鳴るんですね……」
「鳴るよ、それは」
「……じゃあ、何か用意しますね。花火見ながら食べられる奴」
「花火、終わっちゃうよ?」
「30分くらい打ちっぱなしなので大丈夫ですよ。今始まったばかりですし」
「流石、地元の子」
それだけ話し、青葉は部屋の中に引っ込んでしまう。その背中を見た後、再び花火に目を向ける。
……何か、さっきまでの感動が、少しだけ小さくなった気がした。同じ花火を見ているはずなのに。
もしかして……と、思った時には、自然と背中を追っていた。
「……あ、青葉」
「? なんですか?」
「何作るの?」
「んー……30分しかありませんし、ちょうど面白いと思って買ったパンがあるので、ホットドッグでも……」
「私も……手伝える?」
「……え?」
自分でも、その気になっているのに驚いた。けど、普通に考えれば、普段食事を代わりに作ってもらっているのは、美味しいからという理由以外にも、作ってもらっている時間をトレーニングに回せるから、というものがある。
けど、今はトレーニングしないし、花火をただ一人で見ているくらいなら、彼のお手伝いをした方が良い……そんな気もした。
自分でさえ意外に思ってしまっているのだから、当然、青葉も意外そうな顔をしているわけで。
「え……いや、変なアレンジ加えられると食べられなくなりますよ?」
「……つだう」
「え?」
「絶対に手伝う」
「良いですけど……」
お腹に抱きついちゃったことで謝るくらいなら、そのたまに出る生意気で謝ってほしいと思わないでもなかった。
さて、そんなわけで、青葉の部屋へ。なんだかんだ、青葉の部屋に来る機会はそう多くないので、いまだに新鮮に感じることはある。
「じゃあ、俺はウィンナー焼くので、パンを焼いてもらっても良いですか?」
「うん。任せて」
「パンの方が早く焼き上がるので、その後はレタスを挟んでおいてください。焼きすぎると熱くてレタス挟めなくなるので、気をつけて下さいね」
「分かった」
と、テキパキと役割分担をする。出してもらったパンとレタスを受け取り、まずはトースターに入れた。
待っている間、暇だったので青葉の手元を眺める。慣れた様子で、大きなソーセージを二本、フライパンの上で転がしていた。フライ返しで押し付けるように焼き、表面をカリッとするように焼き上げる。
腕をまくり、エプロンも何もしていない姿で真剣な眼差しを火に向けている姿は、確かに料理できる男子がモテる、という噂にも頷ける。
「手慣れてるね」
「もう毎日作ってますから」
声をかけても平気なんだ、と思っていると、パンが焼きあがった音がしたので、取りに戻った。
お皿の上に二つ、乗せると、あらかじめ入っていた切れ込みにレタスを挟まないといけない。
「青葉、レタスって……」
「適当に手でむしって下さい」
「え、そんなんで良いの?」
「はい」
まぁ、そういうわけなので、レタスを手で割いてパンに敷き詰めてみる。想像したのは、前にI○EAで食べたホットドッグ。どちらかというと、ソーセージのが多いくらいの感じで……と。
「出来たよ」
「じゃあ、ケチャップとマスタードを冷蔵庫から出して下さい」
「うん」
言われた通り、それを出して流しの横に置いた。なんか……良い匂いしてきた。
「よし、こっちも上がり。パンもらっても良いですか?」
「うん」
レタスが入ったパンを渡すと、器用にフライ返しに乗せたソーセージを落とすことなく持ち上げると、パンの亀裂に転がり込ませた。それを二度も成功させているあたり、偶然とかではないのだろう。
あとは、マスタードとケチャップを程よく掛けるだけ。ボトルを二つ手に取った青葉は、ホントどこでそういう技術を身につけるのか気になるレベルで、置いてあるパンに向けて左右対称に斜め上からボトルの口を向け、揺らしながら二匹の蛇を描いた。
「す、すごいね……」
「そんな事ないですよ。慣れです」
「私でもできるかな?」
「慣れれば」
「やってみても良いかな」
「どうぞ」
せっかくお手伝いしたんだから、この辺もやってみたい。
「まずは片方ずつから盛った方が良いですよ」
「了解」
言われた通り、マスタードから手に取った。
「まずは少しずつ中身を端に出してみてください。それで、どのくらいの強さで握ると、どのくらいの量が出てくるか把握してみて下さい」
「ソースをサラダにかける時、特に意味もなく渦巻きにする感じ?」
「あ、はい」
なるほど、と美琴はマスタードを手に取った。すでに形を成しているホットドッグの端から、少しずつ蛇行させていく。綺麗に、黄色い竜が出来上がった。
「……上手ですね」
「思ったより簡単だね……」
「じゃあ、今度は逆の手で」
「……うん」
そうだ。両手でやるには、利き手じゃない方も使わないといけない。
今度はケチャップを持って、少しずつ垂らす……が、聞き手じゃない方は力加減が非常に難しい。何より怖いのは、握り過ぎでケチャップがジェット噴射する事だ。
なので、無意識に握る力は弱くなってしまうのだが……それはそれで、ケチャップの思う壺。
「あれ……中々、出ないなこれ……」
「あ、みっちゃん。上に向けない方が……!」
詰まってる? と思うと、何故かひっくり返した時に強めに押してしまうのであって。
ビュピュッと、少量のケチャップが噴射された。顔に飛沫が掛かりそうになり、反射的に目を閉ざしてしまう。
「……だ、大丈夫ですか⁉︎ 今、タオル……」
「ふふ、やっちゃった」
「っ……」
ちょっと気恥ずかしくて、頬を赤らめたまま笑みを浮かべた。照れ隠しのつもり……なのだが、何故か青葉が頬を赤らめて目を背けてしまう。
「? 青葉?」
「……ほんとなんでそんな可愛いんすか……」
「え?」
「っ、い、いえ……なんでも。タオル持ってきます」
聞こえなかったが、なんでもないと言うのなら、今はスルーした方が良いのだろう。
台所から立ち去った青葉を横目で見つつ、再びケチャップを垂らし始める。青葉ほど綺麗ではないが、ちゃんと蛇行させた……が、散った飛沫のおかげで、黄色の龍が血反吐吐きながら飛んでいるみたいになってしまった。
「みっちゃん、はい」
「ありがとう。食べよっか。花火、終わっちゃうよ」
「そ、そうですね」
なんだかんだ、後10分で花火は終わりだ。
青葉と一緒に、今度は青葉の部屋のベランダに出た。二人で立ったままベランダの手すりに両肘を置いて、空を見上げる。
「うん……やっぱり、二人で見た方が綺麗だね」
「え……それで、お手伝いしてくれたんですか?」
「バレた?」
「っ……そ、そりゃ……今の聞いたら、わかりますよ……」
また照れている。こういうファンの子の反応を見るたびに、また明日もレッスン頑張ろう、なんて思えてしまった。
「青葉」
「な、なんですか?」
「写真撮ろっか」
「え?」
「にちかちゃんには内緒で」
そう言いながら、半ば強引に青葉と腕掴み、引き寄せるとそのまま肩に手を回した。
反対側の手で、スマホを構える。花火が映るように調整し、ホットドッグも胸前に寄せた。
まだ自分の顎くらいまでしか身長がない未成年の少年と、マンションのベランダでツーショット……こんな写真、283事務所以外の人間には見せられない。
「撮るよ?」
「は、はい……」
「笑って?」
「っ……無理です……」
「こちょこちょ」
「ひゃはっ⁉︎」
脇の下に指を差し込み、笑みを浮かべた一瞬を狙った。写真を撮り終える。
「な、なんてタイミングで撮るんですか⁉︎」
「いや、笑わないから」
「絶対、変な顔してたじゃないですかー!」
「ふふ、大丈夫。笑ってはいるから」
「変である事は否定しない時点でお察しですよ!」
「消したかったら取ってみたら?」
「あっ……こ、このっ……!」
「あんまりジャンプすると、ホットドッグ落とすよ? せっかく作ったのに」
「どこでそういう悪知恵覚えてくるんですかもー!」
なんてやりながら、今では283事務所関係者と家族と青葉以外に友達がいないと思っていたチェインのトプ画に、後でこっそりと変更した。たった一人、連絡先を残している奴がいたのを忘れて。
×××
「……病んだ」