青葉が家事に興味を持ったのは、何も小遣い稼ぎのためだけでは無かった。それがきっかけではあったが、何より単純に料理や掃除など全てをこなせる母親を尊敬したからだ。
そして、家事をこなせばこなす程、今まで母親が感じていた苦労を理解するようになり、それと同時に父親に家事をさせるようにもなった。
だが、まだ経験していないことがひとつ……それは、お弁当作りである。誰かの為に、朝早く起きてお昼ご飯を作る……それがいかに大変かを知るのに、今日のそれは良い機会だった。
料理人の母親に教わって来た九年間と、一人暮らしになってからの三ヶ月弱での経験から、まず間違いなく弁当のために作ったおかずは全部入らない。弁当箱の大きさから見ても、それは明白だ。皿の上に盛り付けるのと、小さな箱に敷き詰めるのでは訳が違う。
だから、朝ご飯とお弁当が同じものになる理由がよく分かった。
トークイベント、と仰っていた。あまり辛いものは入れない方が良いだろう。細かいスケジュールを聞いたわけではないので詳しい事は分からないが、お弁当を要求して来た以上「午前中に集合し、昼に現地到着し、昼飯。午後からトーク」と言ったところか。
ならば、まず辛いものは控えた方が良い。また、美琴のように運動大好きな人なら、座っているだけの時間は疲れそうだ。同じユニットの子とおかずのシェアの可能性も考え、少量ずつのもの。当たり前だが、体重も気にしないといけない。歯にくっつくものもなし。
……と、いう作戦を昨日のうちから立てていた青葉は、お弁当の準備を終えた。
「よし……!」
完成したので、蓋を閉めて昨日のうちに預かっておいた箸をつけて、風呂敷に包む。
それを持って、部屋を出ると隣の部屋に持って行った。インターホンを押すと、青葉だとすぐにわかったようで、応答はなく直接玄関が開いた。
「おはようございます。お弁当です」
「ありがとう.朝早くから」
「早弁しちゃダメですよ?」
「しないよ」
「後程、感想お願いします」
「うん」
良かった、受け取ってもらえた、とちょっとだけ安心する。向こうから頼んできたのだから当たり前なのに、変に緊張してしまうあたり、やはり憧れの女性が相手なだけある。
「では、失礼しま……」
「あ……まって」
「?」
止められたので、閉めようとする扉を止める。
「なんですか?」
「この前、お味噌汁、飲んだ日、身体の調子、良かったんだ」
「そりゃそうでしょう。栄養満点のスペシャル味噌スープですから。あれ一杯で朝の活力、全て漲りますよ」
「うん。……それで、一宮くんがよければ、なんだけど……」
「? 何ですか?」
「毎朝とは言わないから、その……朝ご飯も作ってくれると嬉しいな……」
「ッ、ゲルッ、ググッ……!」
「ど、どうしたの?」
思わず咳き込んでしまった。毎朝じゃない、とは言われたものの、プロポーズに酷似した台詞を抜かされたからだ。
だが、大丈夫。心を落ち着かせる。毎朝とは言わないから、と前振りとして言われている。それは単純にプロポーズ回避とかではなく、労力を気遣ってのことだろう。
ポジティブに捉えよう。それほど自分のお味噌汁が誉められているのだ。
「っ……ふぅ、落ち着いた」
「え、落ち着いてなかったの?」
「要するに、今日も何か食べたいと?」
「うん」
うん、じゃないよ可愛いな、と思いつつもため息を吐いた。まぁ別に良い。思ったより弁当早く出来たし、時間に余裕はある。
「……わかりました」
「ありがとう」
それだけ話して、朝食を作りに行った。
×××
七草にちかは、ソワソワしていた。それはもう、青葉が見ていたら引く程ソワソワソワソワしていた。
何故なら、今日は美琴とのお出掛け……ではなく、初めて一緒の仕事だ。埼玉県の奥の方で、小学生の子供達を相手に色々と話をする事になった。
当然、まだまだ新米アイドルの自分ではなく、どちらかというと美琴メインのイベント。正直、それでも全然構わない。プロデューサーも、勉強のつもりでその仕事を入れてくれたのかもしれない。
さて、今はその行きのバスの中。隣の席には当然だが、美琴がいる。
「み、みみっ……美琴さん!」
「何?」
「じ、実は私……車内でお腹空くかな、と思ってお菓子持って来たんです! 食べませんか?」
「ん、ん〜……帰りにもらおうかな」
「あ……そ、そうですよね! 太りますもんね!」
「ん? あー……うん」
そういうわけではないのだろうか? いや、美琴がそう言うなら太るからなのだろう。それなら仕方ない。……正直、じゃがりこ食べたかったが。
「そ、そうだ。美琴さん!」
「? 何?」
「私、前から美琴さんの大ファンで……見て下さい! グッズとか自作してるんですよ!」
言いながらにちかが見せたのは、スマホに映っている写真。ローダーと呼ばれる、通常はトレーディングカードを入れるプラスチックのケースを加工し、美琴の写真が入った大きめのストラップのようにしていた。
「すごいね……にちかちゃんが作ったの?」
正直、ほとんど青葉にやってもらった。昔から色んなものに手を出していた青葉は、ガンプラ作りも自分でよくやっていたこともあって手先が器用な奴で、こういうのを作れる。
でも……まぁ美琴と青葉が出会う事なんてないだろうし、そのときは自分が青葉に唐揚げにされている時だろうし、言ってしまうことにした。
「はい! 私が作りました!」
正直者である。少しは自分も手伝ったし。それを聞いて、美琴はニコニコと微笑んだ。
「そっか……ありがとう。嬉しいな。にちかちゃんも、いずれ作られる側になるかもね?」
「そ、そんな……私なんかが……」
で、でも……もしそうなったら……ニヤけるほど嬉しいかもしれない。アイドル志望として、それほど光栄なことはない。
……その時は、青葉も自分のグッズを作るのだろうか? いや、作る。そして、にちかの姉妹や兄弟に配るだろう。
「ちなみに……オリジナルグッズって、よく作るの?」
問われて、にちかは少し狼狽える。自分は購入したモノで満足する事も多いが、青葉は多く作る。今後、青葉にまた作ってもらえるとして、これから先、自分はそれを美琴に絶対、見せたくなる事だろう。
その時に備えて「よく作る」と言うべきだろうか? いや……しかし、さっき思わず嘘ついてしまったし、これ以上、敬愛する方に嘘を重ねるのは……。
少し悩んだ挙句、とりあえずふと思いついた最適解を出した。
「最近、作り始めました!」
「そうなんだ」
「み、美琴さんも好きな推しとかいたら、私が作りますよ!」
「ありがとう」
これで、これからにちかは家でグッズ作りの練習をしなければならなくなってしまった。
だが、まぁ望む所だ。宿題はともかく、グッズ作りはそろそろ青葉に頼らないようにならなければならないと思っていた。
「……」
少し、美琴は考え込むように顎に手を当てる。やがて、美琴はふと思ったように言った。
「作り方とか……教えられたりする?」
「えっ⁉︎」
これは……もしかして疑われているのだろうか? あ、いやいやまさか。というか、作り始めたばかりって言ったし、大丈夫なはずだ。
「あ、いえ……まだ作り始めなので……」
「私も一緒に作って良いかな?」
「ええっ⁉︎ お、推しがいるんですか⁉︎」
「ん? んー……にちかちゃんの」
「わ、わわっ……私⁉︎」
一気に顔が真っ赤に染まる。そんなの……他のファンにバレたら八つ裂きにされる! と、思ったが、自分はよくよく考えたらユニットの一人だった。むしろエモいと思われるかもしれない……。
が、そこでふと想像する。まだ、にちかのグッズなんて世に出回っていない。つまり、自分のグッズを作るにはプライベートで写真を撮り、それを現像し、加工するしかない。
……それを、自分自身の手でやらないといけない。
「で、でも自分のグッズを作るってちょっと羞恥プレイが過ぎるというか、何というか……」
「大丈夫。これから、にちかちゃんもそういうのに使う撮影、たくさん受けるんだから。慣れておかないと」
「っ、は、はい……」
そう言われると仕方ない。……願わくば、その時が来ない事を祈るだけだ。やはりなるべくなら避けたい所だ。
そんなにちかの内心を見透かしたように美琴は、顎に手を当てたまま唸ったように呟いた。
「うーん……じゃあ、何か前払いとかしないとね」
「え? い、いえそんな……!」
「そうだ……最近の若い子はこういうのが好きなんだっけ」
急に言われて、にちかは頭上に「?」を浮かべる。が、どんなのであっても遠慮しなくては。欲しがりさんだと思われたら印象が悪い。
なんて言ったら失礼にならないか考えている間に、美琴はにちかの肩を抱いた。
「ふぇっ?」
「おいで」
その腕に力を込められ、自分の身体を真横に倒される。そして、にちかの頭は美琴の膝の上に倒された。
柔らかい部分に、ふわりと頭が乗せられる。
「っ、っっっ⁉︎ みっ、美琴ひゃんっ⁉︎」
「ふふ、どう?」
「よ、柔らかくて張りのある硬さがあってとても心地良……じゃなくて!」
「良いんだよ、そのまま寝てて」
「はっ、はわわわわっ……!」
何が気になるって、太ももと一緒に自分の顔をハンバーガーしているバスト。スライムが二体、横並びして降って来ているそれに、非常に視線が吸い寄せられる。
耳に当たるか当たらないか、スレスレの所で弾力が特徴的な揺れを繰り返していた。
「どう?」
「き、気持ち良……」
「すみませーん、急カーブしまーす」
そんな声が、運転手さんから漏れた。その直後、車内が大きく揺れた。
「うわっ、と……!」
美琴の上半身は前のめりに倒れ込んだ。
直後、にちかを包んだのは、地球だった。まるで、母なる海。深く広大な生物の源を産み落とした深淵なる神秘に顔から飛び込んだような……そんな世界を体験した。
「っ、とと……大丈夫? にちかちゃ……にちかちゃん?」
「……」
「あれ、おかしいな。呼吸……というか、応答がない……」
失神した。
×××
学校に来てから、青葉は少し退屈そうにしていた。にちかの奴、今日は学校が休みらしい。物理の授業が今日なくて助かった。昨日、貸したままにしてしまっていたから。
まぁ、何にしても、とりあえずにちかがいない学校を堪能する。あのうるさい奴は一々、自分に食いかかって来るから、たまにはこんな日があっても良いだろう。
「ん〜……眠い」
伸びをしながら、そんな風なことを思う。朝早起きしたからだろうか? 母親の苦労を知ってしまった。
お昼まではまだまだ時間がある。美琴は喜んでくれると嬉しいが……まぁ、大丈夫だろう。
「帰って来たら……いや疲れてるだろうし、明日かな」
明日、感想でも聞いてみよう、そう決めて、青葉はとりあえず授業中のノートを取った。なんで休んでるのか知らんけど、授業の板書くらいにちかも必要だろう。
帰り、家に寄ってやる事にして、とりあえず眠気は堪えた。
×××
バスは小学校の近くに止まった。ちょうどお昼頃なので、先にお昼を取ることになる。
小学校の空き教室で、スタッフみんなで食事を摂る。その中で、普通にお弁当が用意されていたわけだが、美琴は持参したお弁当を取り出した。
「わっ……美琴さん、手作りですか⁉︎」
にちかが隣でキラキラした瞳を見せながら聞いて来た。手作りは手作りだ。自分のじゃないけど。
しかし、それを言えば「じゃあ誰の手作り?」となるのは明白だ。
「うん」
「わっ……す、すごい……」
「? まだ蓋開けてないよ?」
「あ、いえ……好きな人の手作り弁当……というだけで少し……」
嬉しい、思わずそんな直球で言われると照れが隠しきれなくなる……が、その反面で「これむしろ男子高校生の手料理なんだよなぁ……」という残念な感想がそれを抑える。
まぁ、それはさておき、さっきバスの中でお菓子を遠慮したのは、お昼が食べられるようにだ。それほど、割とお昼が楽しみだったりしていた……のと同時に、同じ部屋の中にいるプロデューサーにも視線でアピールしておく。
バッチリそれを受け取ったようで、プロデューサーも頷きながら自分の食事をしていた。
とりあえず、風呂敷を広げてみる。すると、まず目に入ったのはブレスケアとキシリトールのガムだった。
「? それが……お昼ですか?」
「う、ううん。お昼の後のケアのためにね」
「な、なるほど……勉強になります」
流しておいた。自分が入れたことにしなければならないから。
それ故に、美琴は少しだけ「そんなに臭いのキツいおかずにしたの?」と勘繰ってしまう。
とりあえず蓋を開けると、中に入っていたのはタコさんウインナー二本、卵焼き二切れ、ほうれん草のバター炒め少量、うさぎのりんご、そして鮭の炊き込みご飯が入っていた。
どれも少量ずつであり、食べてもお腹いっぱいにはならない程度。というか、ちょっと食べるのが勿体無いくらい可愛いおかずで纏められている。
「わっ……み、美琴さん……可愛いおかずですね……!」
「う、うん……」
恥ずかしい。24歳にもなって割と恥ずかしい。何より、これを自分のために自分で作ったことになっているのが恥ずかしい。
……いや、まだ大丈夫。誤魔化せる。これが自分の趣味と思われないようにするには、もうこれしかない。
「実は、にちかちゃんと一緒に食べようと思って」
「え……い、良いんですか……⁉︎」
「勿論」
「あ、ありがとうございます!」
うん、これなら自然な流れだ。
「み、美琴さんの手料理なんて……そ、そうだ。食べる前に写真……!」
「どうぞ?」
なんてやっている中、少し罪悪感。だってそれ、自分が作ったのではなく、お隣に住んでいる可愛い男子高校生作だから。
カシャっと写真に収めると、改めて食事にした。
「じゃあ、いただきまーす!」
「召し上がれ」
話しながら食事にした。
とりあえずウインナーから摘んで口に運ぶ。そういえば……手作りのお弁当なんていつぶりだろうか……。
「ーっ……」
美味しい。それと同時に、なんだか懐かしい気がする味……そうだ、小学生の時は、よくこれを母親が作ってくれていた。昔を思い出してしまう。もしかしたら、これが「お袋の味」というものなのかもしれない。
少し感慨深くなっていると、ふとにちかが声を漏らす。
「お、美味しい……」
「ほんと? 良かった」
「けど……」
「え?」
けど、なんだろうか? もしかして、口に合わなかったか、それとも気を遣っていたのか。心なしか、少し眉間に皺を寄せて咀嚼しているように見える。
「なーんか……食べなれた味のような……」
「……えっ?」
この男子高校生が丹精込めて作ってくれた料理を、食べ慣れている? いやまさか。彼女はまだタコさんウインナー現役バリバリの年齢だろうに……。
そこで、美琴は思わずハッとした。もしかすると、この子の感性は似ているのかもしれない。まさか……。
「もしかして……おふくろの味、とか?」
「え? ……もしかして私、美琴さんにバブみを感じていた……?」
「……」
そうだった。バブみとは何のことか分からないが、その弁当作ったの自分ということになっているんだった。
「ごめん……な、何でもない……」
「でも言われてみれば……確かに昔から食べたことある気がする味だし……そ、そうかも……」
「気の所為だよ」
「え? ア、ハイ」
なんとか気の所為にしておいて、食事を続けた。
しかし、あらためてお弁当を見ると、ふと思ったのは、特に口臭を気にするものは入っていないということ。強いて挙げるなら、鮭の炊き込みご飯? ピンとこない。
そもそも、美琴は基本、歯ブラシを持ち歩いているので必要ないアイテムだ。
何だろう……と、少し不思議に思っていると、にちかが耳打ちするように小さな声で聞いて来た。
「あの……美琴さん」
「何?」
「良かったら、なんですけど……後でブレスケア、もらっても良いですか……?」
「? どうして?」
「あの……私、歯ブラシとか持って来てなくて……」
「……」
もしかして、この子の為? と言うより……備えあれば憂いなし、という奴だろうか? そこまで気を回さなくて良いのに……本当にお母さんか何かなのだろうか?
「……」
まぁ、何にしても気遣いは嬉しかった。バスの中で話した時から考えていた事を実行するべきだろう。にちかから教わったグッズの作り方で、自分が作ったものを青葉にあげれば、少しはご飯を作ってくれているお返しになるかも……と、思い教わることにしたのだが、それに色をつけてにちかもセットにしてあげても良いかもしれない。
そんな風に思いながら、美琴はとりあえず食事をすすめた。心なしか、少しだけバスでずっと座りっぱなしだった疲れも取れて元気になった気がする。今日のお仕事、完璧にこなしてみせる。
×××
放課後、青葉は七草家に立ち寄ったが、家ににちかはいないと言われた。学校サボって何しているのか知らないが、とりあえず風邪ではない事にホッとしつつ、はづきに連絡を取り、職場まで預けに行くことになった。
電車で移動し、その建物に来てみる。「283」のロゴが入った窓がやたらと目を引いてしまう。
さて、どうするか。はづきは忙しいのか、出て来ていない。かと言って、よりにもよって283事務所の場所は階段でしか行けない二階。入った瞬間、通報とか全然、あり得る。
どうしたものか悩んでいると、背後から声をかけられた。
「あれ、もしかしてアオちゃん?」
「? ……あ、ユイシス!」
背水火力バカのような呼び方をしてしまったが、それが昔からのお互いの呼び方なのだ。
ユイシス、と呼ばれているように、本名は三峰結華。メガネをかけた大学生で、マッチングアプリでも使ったのか、と思うほどに青葉と趣味がマッチングしている、一応年上のお姉さんだ。
出会ったのは、去年の冬のグラブルフェス。受験生とか、そもそも成績が良い青葉は何一つ気にすることなく遊びに行った時、たまたま知り合った人が同じ騎空団の人で仲良くなってしまったのがきっかけだった。
「久しぶり〜!」
「ホントな! 最近、イベント行っても見かけないんだもん」
「ごめんねー、色々忙しくてさぁ」
「何してるのこんなところで?」
「ん、仕事」
「あれ、今年大学生じゃありませんでしたっけ?」
「大学生だよ? ……あ、言ってなかったっけ」
「?」
「三峰は、なんと今年からアイドルになったのです!」
「……は?」
あ、アイドル? と小首を傾げたのも束の間、すぐに恐る恐る口を開いた。
「アイドルって……え、美琴様と同じ?」
「そうそう、そのアイドル」
「ど、どうして⁉︎」
「スカウトされちゃったんですよー」
「すっげー! なんで⁉︎ 綺麗だから⁉︎」
「そうなんだけど‥……面と向かって言われると、やっぱり照れますな〜」
ポリポリと頬をかいてはにかむ姿を見ると、アイドルにスカウトされるのも納得する可愛さがある。
「え、じゃあ……事務所って、283?」
「そう。……だから、頼めばもらえるよ。緋田美琴様の、サイン」
それは、あまりにも魅力的な提案だ。三峰様とお友達になってて良かったやったーと狂喜乱舞していた所だ。つい二週間くらい前の自分なら。
だが……今では、サインなら料理を作ると言うだけで貰えそうだ。その上で……。
「お願いします!」
「任された!」
貰える美琴のサインは全て貰っておきたかった。
さて、結華も仕事らしいし、そろそろこの辺りでお別れだろう。それに、ちょうど良い。
「じゃあさ、ユイシス」
「何?」
「悪いんだけど、これはっちゃん……じゃない、はづきさんに渡して欲しいんだけど……」
「何これ? ……ていうか、はづきちさんと知り合いなん?」
「うん。10年くらいの付き合い」
「へ、へぇ〜……そうなんだ」
「で、はづきさんの妹と同じ高校なんだけど、今日休みだったから授業のノート」
「あ、なるほど。了解了解。三峰におまかせ」
「じゃあ、よろしくお願いします」
それだけ話して、ノートを預けた。
×××
「たっだいまー!」
にちかが事務所に戻ると、はづきが出迎えてくれた。
「おかえりなさいー。どうだったー? 初めてのお仕事ー」
「カッコよかった! 美琴さんが!」
「うん、そうじゃなくてねー?」
当の美琴は、上のレッスンルームで自主練中である。本当はにちかも混ざりたい所だったが、姉から呼び出しのチェインをもらって仕舞えば仕方ない。
「雰囲気とか、空気とか……やっていけそうー?」
「も、勿論! やらないとなんだから!」
やっぱりそういう話か、とにちかは理解する。姉は自分がアイドルをやることに反対している。少しでも厳しい現実を見せて諦めさせる腹のような気がしてならないのだ。
「……そう」
「そ、それで? 話はそれだけ?」
「ううん、詳しい話は後で聞くからー」
「え?」
その話じゃなかったんだ、とすぐに落胆する。しかし、だとしたら他になんの話があるのだろうか?
その内心の質問に答えるように、はづきは机の引き出しから数冊のノートを取り出した。
「はい、これー。アオちゃんから、今日の授業ノートー」
「え、あ、ああ。休んだから?」
「そー」
「っ……」
わざわざマメな男である。別に、届けてくれなくても良かったのに。昔からだ。喧嘩して、意地の張り合いをして、割と怪我に発展する殴り合いも子供の頃はしたのに、たまにそういう変な気回しをしてくる辺りが、どんなに喧嘩しても嫌いになれない所である。
なんだかんだ、宿題も見せてくれるし、それを姉に内緒にもしてくれている。
「……何なの、あいつ」
「そういう事言わないのー。お世話になってるんだからー」
「その分、私だってお世話してるもーん」
「も〜……」
「あいつ、昨日なんて言ったと思う? 人がレッスン行くのに『エンコーでもしてんのか?』だってよ⁉︎ 女の子に!」
親しき仲にも礼儀ありである。……まぁ、思春期真っ最中だった頃には、お互いに美琴でちょっとエッチな妄想をしていなかったわけでもないが。
しかし、姉はその愚痴に取り合ってくれなかった。
「それはちゃんとアイドルの事、アオちゃんに言わなかったからでしょー?」
「っ……だ、だって……美琴さんとユニット組んでるのバレたら……カラッと揚げられる……」
「揚げられないからー……」
いや流石にそんな猟奇的な殺され方はしないだろうが、何をされるかなんて分かったものではない。
「というか、アオちゃんだってむしろ安心するんじゃないのー? 他のファンならまだしも、にちかが相方って分かるならー」
「それはない!」
「……も〜……まぁ、にちかがそう言うなら良いけど〜……」
はづきの言うとおりである可能性は確かに十分ある。だが、その可能性が外れたら終わりである。殺されないにしても、確実に嫌われる。そうなれば……。
「っ……」
「とにかく、宿題は渡したから。ちゃんとお礼、言うようにねー」
「……は、はーい……」
ノートを鞄に入れてから、トボトボとレッスンルームに向かう。美琴にこの後、色々指導してもらう予定だから。
美琴に、相談してみようか? ……いや、美琴にプライベートのことで面倒は掛けられない。やはり、自分でどうするべきか考えたほうが良い。
どうせ、本格的にデビューが始まればバレる事だ。何なら、今現在、バレていない事が奇跡なのだ。なんか向こうは向こうで最近、美琴の見方が少し変わって来たみたいなのか、前までほどのギラギラした感じはないが、それは今のにちかには助かる。
「はぁ……」
どうしよう……なんて思いながら、とりあえずレッスンルームに入った。