春。ほのかに香る梅の花の気配が近づくこの頃は、恋の始まりにもなぞらえるシーズン。このトレセン学園においても例外でない、心身ともに開花の季節。
「もし、会長のトレーナー。最近会長の様子がおかしいのだが……何か思い当たる節はないか?」
事の発端はエアグルーヴの一言だった。廊下でばったり、柱の隅から煙ったい感じで姿を現した彼女に声をかけられた。時刻は朝6時前――本来の三倍の厚さまで膨張したクリアファイルを片手に、
こんな時間に、しかもわざわざ出待ちしてまで女帝が声をかけてくるなど珍しい。何故か居心地が悪そうにソワソワしているのも要領が掴めず、「全くわからない」とだけ返答した。
「……そうか。いや良いんだ、これからトレーニングだろう? ただその……今日、会長の様子をよく見ておいてほしい。いや、貴方が普段より練習をないがしろにする人間でないのはわかっている。……では失礼」
そう言い放ったのち、そそくさとすれ違うようにいなくなってしまったので疑問の解を得ることも出来ず、その日はモヤモヤした気持ちのままトレーニングに臨むこととなる。今思えば俺も、胸に引っかかるものがあった時点で、何となく察していたのだろうとは思った。何故なら彼女の言う通り、シンボリルドルフの生活を一番間近で見ているのは自分に違いないと思っていたからである。
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俺はシンボリルドルフが好きだ。競技者としてだけでなく、間違いなく一人の女性として好きだ。それというのも未だ気持ちを伝えたことはなくて、デビューから数年
春の暖かな黄色い風のせいだろうか、彼女がトレーニングコースを颯爽と駆け抜ける姿を見るたび、胸の下の方がドキ……とするようになってしまった。多くはジャージ姿、時に''皇帝''たる威厳を示す勝負服で走る時、彼女の後背に砂塵が舞う。力強い、時に大地に対して暴力的とさえ感じる最強のウマ娘の踏み込みで、青やかなトレセンのターフが春風に乗せられる。風――そう、人当たりの強いやや粗暴な春の風と、オレンジ色の日差しの中に……
そして青空になびくこげ茶の長髪。真昼でも構わず堂々と現れる真っ白な流星。アメジストの瞳。ひるがえるバルバロッサのマント…………と、容姿だけでも他にも色んな魅力があって、とても言葉のみで伝えるのは難しいのがシンボリルドルフである。ウマ娘とか年齢とか関係なく、一端の男としてどうしても、とにかく彼女に目を奪われがちなのだ。
『おはよう、トレーナー君……!』
終いにはキラキラした効果音と一緒になって担当ウマ娘の重みのある美声が脳内に流れ出し、たまらず水筒の口を含む。声も良い、凄く良い……。
「よし、
ウォーミングアップ中だったルドルフを呼び、一旦は少しの休憩に入ることになっている。今日は休日、そして午前中のみのトレーニングなので内容はハード寄りで走ってもらい、午後は予定通り一緒にホットケーキでも食べに行くとしよう。
少しも息を乱さないままに彼女が駆けてくる。学園で販売しているツートンカラーのシンプルな水筒を手渡し、彼女が水分補給する様を見る。
「ん……どうかしたか?」
「え。あ、いや……なんでもないよ」
今朝に言われた一言のせいか単純に自分の変態性のせいか、彼女をまじまじ見過ぎていた。普通に考えて、好きな女の子が目の前にいるというだけで人間なら緊張はする。
問題はその後だった。実は今日の午後の……デートを楽しみにしている自分がいたのだった。
「それよりさ、噂のホットケーキ……楽しみだな! 生徒たちもみんな話してるよな」
噂のパンケーキとは、近頃駅前に移転してきた老舗の菓子店、その支店の出すメニューのことだ。支店といえど店舗は新しくそれなりの規模があって、トレセン学園の生徒向け……つまりウマ娘サイズのメニューも充実していると聞く。元の店での最も人気なものが
最近は年度の初めというのも相まって、生徒会長でもある彼女に癒しを届けたいと思っていた……。疲れを隠すのがシンボリルドルフだが、それでも隠し切れないほどの疲労が目に見えて伝わるのは心苦しい。よって、午後までコースを借りられたのにも関わらずこのような休みを設けた。休日と言えど午後までトレーニングに勤しむウマ娘は多いので、おそらく店内の座席も空きがあるだろうと思う。ルドルフも先週から楽しみにしてくれていたホットケーキ……ふふ……一緒に食べに行かずしてどうすると言うのか!
「あ……。そうか……しまったな……」
「ん?」
「いや、その……トレーナー君、本当にすまない。その約束、また次の機会とさせてほしい」
……深々と腰を折りまげ、律儀な謝罪をする皇帝がそこにいた。
こんな返事が返ってくるとは夢にも思わなかったのだ。だって、つい一昨日まで‘‘LAIN''の通話で『スイーツも勿論そうだが、何よりトレーナー君と出かけられるのが……期待で‘‘おかし''くなりそうだよっ……ふふっ……』って夜まで談笑してたのに。書類整理の手も止めてニヤニヤしてたのに!
唖然とし、口を開けたまま石になったトレーナーを見かねたのか、全ウマ娘界の皇帝も思わずたじろいで弁明してくれた。
「あっ、あいや……本当の本当に、君との外出は楽しみで仕方なかったんだぞ? ただ、至急別件が迷い込んできてしまってな。というより、私が迷い込んだというか……。伝えるのを今まで忘れていたのも謝ろう……ごめんな、昨日のうちに言っておくべきだった。しかしとにかく、出来るだけ早くしないと都合が悪そうなんだ」
「うん…………」
「すまないっ……来週空きの時間があれば、必ず一緒にホットケーキを食べよう!」
「……来週どころか……来月までめぼしい休みは……繁忙期だから」
「……本当に、心から謝罪するよ……」
その日のトレーニング用語以外の会話はこれっきり。お互い気不味い空気が流れるまま、充足したトレーニングも出来る筈もなく。
二人してやる気が下がり、冷や汗をかきながら苦笑いばかりの朝だった。
♦︎
ルドルフが、俺とのデートをキャンセルした理由を知りたい。一体どれだけの用事だったというのか。いや、所詮俺との時間など皆を引っ張るウマ娘としての使命に比べたら、些事——つまり造作もない日常の一頁であって、天地がひっくり返ろうとその逆転は許されないのだが……それでも、寂しいものは寂しいよ。
わかっている、彼女を癒すつもりが困らせては本末転倒であるから、詮索するのもトレーナーとしてあるまじき愚行なのだ。
だけど、しかしだな。
「やはりか……しかしまさか、あの会長が……」
「うそだ………………」
トレーニングが終わるなり、同じく午後は空けていたらしいエアグルーヴに再度捕まり同行することに。彼女の用事とは……それすなわち会長の尾行。日頃より憂慮の本となっていた『事』の真相を掴むため、彼女自らの目で確かめたかった、とのことだった。
「ほら見ろ、会長が謎の男とあんなに愉快そうに談笑なさっているぞ……! あれは……トレセン学園のトレーナーか……? とにかくこのような……休日に私服で、ご自身のトレーナーにすら説明なしに密会するとは……やはり、やはりそうなのか……!?」
もうやめてください、お願いしますと懇願するが、女帝は女帝で普段見せない掛かりぶりを発揮していて頭が沸騰しているみたいだった。誰か止めてほしい、このままだと永遠に俺の脳を破壊し続けるから。
路傍の垣根の物陰から、双眼鏡で密会とやらを覗き見る状況……普通に考えてこんなの間違ってる。しかし人間の力では踏ん張るウマ娘を連れ帰ることも出来ず、当然密会の様子も気になるのでやむなく俺も参加しているのだ。頼む、向かいの交番にいるお巡りさん。不可抗力だからストーカーじゃないんです。
「エアグルーヴ…………なんで俺に教えたの……? 君が教えてくれなければ……傷付かずにすんだかもしれないのに……」
「ええい、会長のトレーナーなら黙って諦めろ! 貴方が会長に好意があるのも知っている、だからこそ特別に教えてやったのだぞ……!」
「ちょ、声大きいって……!」
「……ほら、
女帝おさがりのやたら性能の良い双眼鏡を使って、渋々対向車線の歩道を歩くルドルフを覗き見る。なんだ、涙でぼやけてよく見えないじゃあないか……。
「ほんとだ……ひっぐ、ルドルフ……俺との約束を断って……あんなに楽しそうに……ぐすんッてええ!?!?」
「うわ! 貴方こそ声が大きいわどうした!」
「あ、あ、あ、アイツは!?!?!?」
説明すると、選ばれしトレセンのトレーナー言っても沢山の人材が揃っていて、その中で‘‘偶然''と言って差し支えないほどの幸運をもって、かの皇帝と契約出来たというだけの一人がこの俺だ。最初から偉かったわけでも、偉大なる功績を残したウマ娘のトレーナーだからと言って今でも偉くなったわけではない。
故に、気の置けない同僚同士での飲み会というものがある。少し前、俺はある一人の男と席を共にした。
『それでな……ルナはな……すっげえカッコいいんだけど、すっげえかっこいいんだよ……。ん"ん"ん!』
酒に酔い、仕事の疲れを語り合い、もつれにもつれ宴もたけなわといった辺りになって、お互いの担当について喋くりあったものだ。
俺とソイツは自分の担当ウマ娘についても夜なべ熱心に語って、語って、お互いに感心し合った。ガラス瓶のガチャンガチャン喧嘩する音や、大勢のトレセン関係者の怒鳴り声、腹の底からの笑い声が飛び交う中で……最後には二人して涙がぽろぽろぽろぽろと……。
それからというもの、関係を深くした俺たちは日頃より意見交換やら飲みの席やらで一緒になることが多いのだ。
そんなアイツが! 何故か俺の担当とデート!? しかも例のホットケーキ店から100m付近の場所で!?
「泣いていいかな……」
「おい、二人とも喫茶店に入るようだぞ! 着いていかなくて良いのか!?」
正直もう心は決壊寸前だったが、万が一にも危険な目に遭わせるわけにはいかないとエアグルーヴが言う。そういうことならと、最後の力を振り絞って戦場に復帰した。
昼間といえど休日、それでいて駅前のお洒落な飲食店の多く並ぶ通り。車道を走る一般車も中々に忙しく、信号がない横断歩道は悠に渡れずエアグルーヴは尻尾を激しく揺らしていた。俺はこの川を向こう岸まで渡れない様子に、最後まで彼女に届かなかった思いを勝手に投影して涙していた……。
♦︎
実は、俺も女帝もそれなりの変装をしてきている。出来るだけ顔が見えないように、どこで調達したのかグラサンと大きめの白マスク。キャップも被っているが、黒だとかえって不審者のそれ過ぎると彼女が言うので赤いキャップである。結局全体で見ると意味不明な格好になってしまっている。更に服は時間がなくて調達出来なかったのでトレセン関係者ということは一発で見抜かれてしまうだろう……。
とりあえずターゲットの二人が窓際の席へ、テーブルを挟んで向かい合って座ったのを見届ける。その後、一瞬だけ顔の装飾品を全部外して普通に店員さんの案内を受ける……エアグルーヴの一連の動きは本物のストーカーの如し素晴らしいシーケンスだった。以前も似たような経験があるのだろうか?
こう言っては悪いが取り止めもない普通の喫茶店だったので、特別混み合った様子でもなく座席は
そして、この場所取りには俺の助言も一役買っている。ルドルフの…………こ、こいびとであるアイツは俺と同じく阿呆の類だ。恐らく皇帝の目にさえ留まらなければ、下手に注目されることもないだろうというのが俺の所感だった。故に、どちらかと言うとルドルフの後背にエアグルーヴと横並びに座る。正直言って俺と彼女の方がカップルに見えなくもないが、そんなことはこの際どうでも良いのだ。
「おい……あれを見ろ。二人ともコーヒー1杯しかオーダーしていない様子だ……」
「つまり、あんまり長居しない……?」
「そのようだな……くっ、会長の身に何かあってからでは遅すぎるっ。会長と見知らぬ御仁。申し訳ありません、盗み聞きをお許しください……!」
エアグルーヴが聞き耳を立て始めた。——気は進まない。ルドルフの向かいで楽しそうに笑うアイツが、ただの気のいい男であって悪人でないことはなんとなくだが知っている。女帝の言った通り、ルドルフのあんなに嬉しそうな顔も……俺は見たことがない。
嬉しさの‘‘度合い''、と違うとは思った。二人で日本ダービーを獲った時……俺を含むトレーナー、ウマ娘たち皆の想いを乗せて、あらゆるレースを駆け抜けた時……間違いなく、彼女は何にも変え難い最高の喜びをレースで味わったと知っている。だから、今あの笑っているルドルフが、一生限りの絶頂を味わっているというわけではないのは俺には理解出来る。
ならば、あの喜びようは何だ……? そう考えると、彼女は今、‘‘恋している''としか思えなかった。レースや使命に関連したものとは、全くもって別種の喜び……。頬を赤らめ、口角を釣り上げ、『楽しいです』と顔に描いたかの様な表情で……。
「……うん。エアグルーヴ、ありがとう。俺の為にこんなことしてくれてるんだよな……。でも、もう良いよ。トレーナーとしても男としても、彼女を応援する」
「……本当にそれで良いのか? ずっと思っていたのに……」
「正直悔しいけどな、特に相手もトレーナーって所が」
「——此度の行い、これは貴方の為だけではない。そら、会長がお手洗いで席を外した様だ。私はかの男性と話してくる」
「直接話すのか……?」
「元より、尾行なんて犯罪チックな方法は好まん……直接ぶつかるのでは貴方の方が気分が悪いだろう。ただ、どうせ調べるなら貴方もともに見た方が踏ん切りがつくかと思ってな。……最初から隙を見て、男性の方には直接行く予定だった。……ここにいても良いぞ」
エアグルーヴが立ち上がって、哀れにも一人ぼっちに取り残されたヤツの所へ向かっていく。慣れないエスプレッソに顔を歪ませて呑気なヤツ。まあ、彼女はしっかりしているので心配ないだろう。
エアグルーヴは彼らの会話が聞こえていたのだろうか。さっき決めた位置取りだが、ウマ娘の聴覚がヒトより優れていることを念頭に置き忘れていた。なので結局俺にはなーんにもわかっていない……とにかく楽しそうに話していたこと以外は。
「エスプレッソでございます〜……」
年若いウマ娘のウェイトレスさんが、一応にと頼んでおいたコーヒーを持ってくる。奇しくも彼らと同じメニューだった。俺たちも長居しないからだった。
真っ黒に揺れるカップの水面を覗き込んで、不安な気持ちで胸がいっぱいになってしまう……。ルドルフ、上手くやれてるかな……多分だけど、いざこういうことになると普段通りともいかないのが彼女だ。勉強とレース、はたまた生徒会の多忙の日々のおかげで恋愛なんて不慣れだろうし、最近は疲れもあるだろうし……。というか、俺との予定に被らせた時点で失敗してるじゃん……。突然変な親父ギャグ言って失笑されないかな……。何か揉め事をして、レースに支障はないだろうか……。なんて、親子さんみたいな口ぶりだなぁ、俺。
でも、ウマ娘とトレーナーってそうじゃないか? 順風満帆な関係を築ければ、ほぼ毎日多くの時間を共に過ごすんだし……本当に、家族か恋人みたいなもんだよな……。担当トレーナーと一緒になるウマ娘も多いって聞くし……でも、ルドルフはそうじゃなかったんだなぁ……。
エアグルーヴが、あちらの席でアイツと話している。何だか涙ぐんで視界も覚束なくなってきたせいで、二人が何を話しているのかはてんで予想だに出来ない。最早ルドルフに金輪際会えないんじゃないかって気すらしてきた時、突然女性に話しかけられた。
「——すまない、お待たせした。それでは……大方ご察しの通りとは思うが、本題に移ろうか」
目を見張った。テーブルを挟んで向かいの椅子に座ってきたのは……他でもない、シンボリルドルフその姿だった。
なんとも形容し難い、ターフの上に立つ雄々しい姿とは似ても似つかないラフな私服。人間で言うなればごく普通のどこにでもいる女子大生の様な、俺の最愛の担当ウマ娘。
この子は何をしている? 今さっき何か喋っていたような……ボーっとしていて彼女が近付いてくるのに全然気が付かなかった……。そういえば、彼女はトイレに行っていたんじゃなかったか……? エアグルーヴは、女帝はどうなった。
「単刀直入に言おう」。いきなり、目の前の彼女がそう言い放った。どんな気持ちで喋っているのか……この数年間一番近くで一番彼女の声を聞いてきたから、俺には手に取る様に感ぜられた。——この声は、記者会見や式典でのフォーマルな形。自然体に少しの厳格さと強気な物言い、そして誰にも悟られないほどの微細な緊張のそれぞれが、はた織り機で編み上げられたみたいに巧みに混ざりあった声色だ。
そして彼女は、今朝のそれと同じ様に頭を下げて——
「頼む。どうか私のトレーナー君から、手を引いて欲しい……」
どんなギャグよりも意味不明なことを、口にした。
正直、全く頭が追いついていなかったが……彼女が何か勘違いをしていることはわかる。俺は彼女が机に目線を落としている隙に、助けを求めて窓際の……今、アイツとエアグルーヴが話しているであろう席を顧みた。
「えっ……」
よく見たら……アイツの格好と俺の今の格好。ちょっとだけ似ているかもしれなくて……もしやルドルフは、席を間違えて座って、アイツに言うべき言葉を俺に、勘違いで言っているのか……? そんな陳腐な推測がよもや当たっているとは正直思えない。だって俺の担当は物凄く聡明で、本当にたまーに些細なドジがあるだけの、賢いウマ娘で……。
しかし俺のニューロンの働きより早く、彼女は駆けることが出来る。
「君が彼に好意を持っているのは……なんとなく話を聞いていてわかるよ。最初は探りのつもりだったんだが、確信した。君ほど、トレーナー君の心身を支えられる人材はいないだろう、と……だがな」
唾を飲み込み、俯きながら彼女の告白を聞いている。何がどうなっているんだ、今この喫茶店で何が起こっているんだ。
「
「彼の気持ちはどうなんですか?」
俺は、多分トレセン一の馬鹿だ。いつも心が熱くなると、なりふり構わず口が叫び出す。
今、彼女の言っていることの半分は理解できていなかった。しかし、何故か彼女と話してみたくなった……エアグルーヴがここにいたら叱られるだろう、何を言っているって……。
正面を見る。シンボリルドルフがキョトンとしていた。多分世界で一人しかよく知らない顔だけど、結構馴染みがあった。
「…………彼の気持ち、か。そうだな、ふふっ……確かにっ……。私としたことが、全く考慮していなかったよ。だって……私と彼は、どれほどの艱難辛苦をともにしたのだろうな? 私は……何事にも、いつだって熱心で、心優しく、レースへの激情に篤いトレーナー君の横顔が、大好きで」
「…………」
「君も知っている通り、私の事となると話が終わらないみたいでな……ふふっ、
「ぷっ…………」
思わず、止まっていた呼吸が吹き返した。心臓も肺も、内臓とか神経とか激しく動きすぎておかしくなりそうだが……何かが崩れ落ちて、ものすっごく安心することになったのだ。
「ルドルフ、顔真っ赤っ……初めて見たッ……あっはははっ……!」
真っ赤なゆでだこ状態のウマ娘、実際は皇帝なんだけど、今は大失敗した可愛い年頃ウマ娘。何が何だかよくわからないけど、俺の愛バは俺のことが、大好きだったのだ。
「はぁ…………会長、話は終わりましたか? このトレーナーと、話しかけるタイミングを図っていたのですが」
「あの、会長さん。オレ別にこいつの事恋愛対象としてみてないッスよ! 普通に友達っていうか……俺も、ウマ娘第一なんで!」
「だそうです。つまり全て会長の思い違い、早とちりかと。……近頃はまた一人で担いすぎて、どう見てもお疲れなのですよ……」
騒がしい二人がやってきた。皇帝の右腕、エアグルーヴとただの俺の同僚トレーナー。岩石みたいに固まったルドルフを差し置いて、話はどんどん進みそうだ。
優しい女帝が、「よかったな」と俺に耳打ちする。対して同僚は皇帝を恐れもせず「頑張ってください!」などと激励していた。その様子に、更に腹がよじれてねじれて。
「あの、エアグルーヴ。悪いけど先に帰っててくれないかな? ルドルフ、ちょっと落ち着く時間が必要だと思うから……」
「む……そうか。会長、どうかトレーナーとたっぷり休息を取ってください。しばらくは私が先導しますので」と最後まで厳しい顔で立ち去るエアグルーヴ、それと酒飲み友達のトレーナー。俺はただルドルフが顔真っ赤で見たことない顔してたからバカ笑いしてただけで、何にも状況は理解出来てなかったけど……アイツがほんのちょっぴり説明してくれたなっ。
店内に、二人きりになった。多分他にお客さんもいないので、店員さんにカップルの密会だと思われている。
「…………ルドルフ、あのトレーナーに俺が取られると思ったんだ……」
「やめ、やめてくれトレーナー君! それ以上言ったら、お、襲っちゃうぞ!?」
「まだ情緒がおかしいよ、アッハハ……。はぁ、安心した……ちょっと休んでくか、折角だし」
窓の外に、春の日差しと黄色い何かが舞っている。まだ時刻はおやつの時間だから、駅前も大騒がしとは言えないぐらいのエンジン音と信号機の音などが聞こえてきた。室内なのに、遠くの風景を見ると梅の香りが漂う。
♦︎
「なるほどなぁ……恋のライバルが現れたと思ったから、そんなに急いでたのか。出来るだけ早くしないと、先を越されたら嫌だったから……」
「本当に、その……何から何まですまない。随分と、失望……しただろう……?」
「いや、してないよ」
失望というか、以外ではあった。考えたことはなかったけれど、心のどこかでこのウマ娘は、恋敵がいるなら真正面から決闘を挑んで勝利して、添い遂げる様な子だと思っていたのだ。結局実際に勝負は申し込んできたけど、意外と右往左往していた格好だったし……。
「やっぱり、根っこは女の子なんだなぁ……」
ターフに出現すれば、あらゆるウマ娘を一目で萎縮させる皇帝……強き者が集うレースでのみ内なる本性を覗かせる、普段は品行方正な生徒会長、絶対無敵のシンボリルドルフ……その更に内側には、またそれも‘‘本性''である可愛らしさが眠っているなんて、本当に愛らしいと思う。
たまたま俺とアイツの身なりが似通っていて、たまたまミニサイズの紙コップが机に置かれていて、たまたま一人で座っている客と二人で座っている客が逆の位置になっていたとしても、彼女は座る席を間違えたのだからそれはもう緊張だ。真面目な謝罪、そして勝負の申し出……自分なりの矜持があると、その事だけは声を震わせながらちゃんと相手に伝えつつ、お互いの気持ちにわだかまりの残らぬよう、公平な方法で決着させようとするルドルフ。共に過ごした時間だけで優位を測らないのも、本当に点を突き抜ける実直さだ。多分彼女はこれからも、例えいつか夫婦になっても……相手を『正当なる恋敵』と判断すれば、同じように闘いを挑むのだろう。その時は今回の失敗から学び、少し慣れた口ぶりで。
「……ふぅ。トレーナー君のおかげで少し落ち着いたよ。もう出ようか?」
「うん……あ、料金は払われてるみたいだぞ」
「エアグルーヴか……? うっ、彼女にも悪い事をした……また今度謝罪をしなければ……」
自動ドアが左右に開いて、ふっとぬるい風が舞い込んでくる。その中で、ルドルフが思い付いた様に話した。
「もしエアグルーヴの気遣いが無かったら、トレーナー君が支払ってくれていたか?」。またしても質問の意図が掴めず、「割り勘だよ。ルドルフの方がお金持ちだよ」と答えると彼女がこちらを見て笑った。エアグルーヴと盗み見た、あの珍しい顔をしていた。何だか今日は立て続けに、もしや自分はにぶちんなのかもしれないと思わせられる日である。
「ルドルフ……ホットケーキ、近くにあるから行かないか」
「うん? あぁ……」
俺も勇気を出してデートの提案をする。実は件のスケジュールの発端は、ルドルフの方から切り出された『君とスイーツでも頬張りながら出かけたい』という冗談だった。つまり、俺はろくに彼女にプレゼント出来た試しがないのでこれが初めてなのだ。
「ああ行こうっ。美味しそうだな、ホットケーキ——」。色々あっても彼女の笑顔が眩しくて、心配事や疲れの全てはおじゃんになった。
多少のキャラブレは許してください。エアグルーヴと皇帝のトレーナー君の関係はちょっと考えたんですけど、育成ストーリ―でも結構会うし敬語だと流石に突き放しすぎだと思ってこんなんになりました。
それと……BLOW my GALEのルドルフ、カッコよすぎませんかね?