横浜にある某高級ホテルには、一般客には存在すら公開されていない最上階フロアがあった。これは華僑資本が入っているゆえに通せた無茶であり、彼らと関係深いチャイニーズマフィアの根城として用意したものだ。
美しい夜景を見渡せるその部屋で、2人の人間が言い争っていた。いや、そのうち一方だけが口角泡を飛ばす勢いで、何事かを言い募っている。
「話が違うではないか! 誰でもない周先生の頼みだからこそ、1年前から準備していた賭博用の仕掛けをフイにしてまで……イムギに明け渡したのだぞ! 今になって、補填分を払わないなんて……」
でっぷりと太ったスーツ姿の男──香港系犯罪シンジゲート「
無頭竜東日本支部は、例年九校戦を使った賭け事を開催している。最初は身内で始めた遊びのようなものだったが、時が経つにつれて取引相手をも含めた大掛かりなものへと変貌した。そんな一大イベント開始直前に、新興マフィアが個人的な復讐を行うという理由で中止にするよう求めてきたのだ。もちろん、普通なら相手にするわけがない。しかし、仲介してきた人物が面倒だった。
仲介人は周公瑾という男であった。彼は横浜中華街内でかなりの影響力を持っている。なぜなら、華僑やチャイニーズマフィアは彼の培った強力なコネクションに助けられなければ、満足に仕事をすることができないからである。日本の水際作戦は優秀であり、幻術に長けた古式魔法師の力を借りでもしない限りは見つかってしまう。無頭竜もまた、日本進出以降ずっと周の援助を受け続けているのだ。彼の頼みを断れるわけがない。仕方なく、賭けイベントを中止にしたのだ。
「えぇ、分かっていますよ。お約束しましたものね。賭けを実施できないことで出る損失分を私が支払うし、彼らは彼らでレリックを謝礼として出す……確かに言いましたよ。覚えています」
対して、椅子に座って悠然と微笑んでいる美丈夫。かなり若い男だ。しかし、見た目に騙されてはならない。彼こそが、あの厄介な周公瑾なのだから。
「でも、気が変わりました」
「気が変わった、で済む問題ではないのだ!」
この状況をなんとしてでも打破しなければ、自分が処分される。だからこそ、幹部は目の前の男を説得せねばならなかった。
「……私はともかく、ボスは冷酷な方だ。この不誠実に対して『然るべき対応』をするだろう」
首領の存在をちらつかせて脅迫する。しかし、周は余裕の笑みを崩さない。
「対応している時間がありますかねぇ……司直の手が迫っているというのに」
「貴様、まさか……!」
情報を流したのか、という言葉は口にできなかった。突如として黒い獣が現れ、彼の腹を食い破ったからである。内臓をずたずたにされた人間が応急措置もなしに生きていられるわけがなく、しばらくすると生命反応を失う。
黒い獣──影を媒体に作り出す特殊な化成体は、周の使う特殊な技術の一つであった。
(やれやれ……。これで無頭竜もいずれは空中分解ですか。あっけないものです)
大義名分を手に入れた公安の仕事は早い。本国のアジトはともかく、東日本支部は壊滅だろう。
(貴方がたのお遊戯には興味はなかったのですが)
無頭竜の存在は、周にとってもかなり有用だった。彼らの行うギャンブルがもたらす利益によって、彼も甘い汁をたくさん吸わせてもらったのだ。それを捨ててまで、やらなければならないことが出来ただけで。
(面白いものを見つけてしまいましたからね……)
最初、イムギに陳情された時は「一色家の援助を受けている奇妙な少年」など、周は興味を持たなかった。だが、彼は気づいてしまったのだ。津久葉夜久の動きを監視する黒羽の存在に。
現在、在日華僑やチャイニーズマフィアは四葉を警戒している。4〜5月頃の反魔法団体をめぐる問題のせいだ。それは向こうも認識している筈。そんな状況においても、わざわざ四葉家が中華街に出張ってまで動向を探る魔法師。今後スカウトをする予定で、引き抜きに警戒しているのだと推測できたが、四葉の戦力が増強されては困るのだ。だから、一色家への報復に協力する対価として、夜久の暗殺を依頼した。
(捜査の手も伸びるでしょうし、イムギはもう切るしかありません。──よくやってくれたんですけどねぇ……構築に数日は掛かる術式を見事完成まで持って行ったというのに。いや、相手が間抜けすぎたのもありますが)
その間抜けな夜久は、術で死ぬことは無かった。目をつけられるだけはあり、そこそこ有能だったのだ。これ以上彼らに任せてはいられないと、周は自ら出向いて術師を餌に化成体を使っての殺害を計画。しかし、それも失敗した。
(もう少ししっかりと考えないといけませんね……)
用意していた化成体は虎の子であった。何しろ、作るのに10年を要する代物。それをあっさりと対処されてはどうしようもない。同じことを何度やっても意味がないためである。夜久が四葉と接触してしまう前に殺せないのなら、とりあえずこちらからも引き抜きを試みてみるべきではないか……そんなことを考え始めた。
◆
倉庫を放火したことで留置所にでも引っ張っていかれるのではないかと思っていたが、おれも巻き込まれてしまった哀れな人間と思われたのか、愛梨と共に保護されてそのまま病院へと運ばれた。よく考えれば、自分も身体中の皮膚が裂けていたのだ。どちらにせよ、治療を受けるべきだったろう。
縫合手術を受け、傷が塞がるまでベッドに横たわるだけの生活が続く。天井を眺めながら、愛梨は無事だろうかと考える。あの日から、本人の姿を見れていなかった。もう1週間も経っているので、流石に気になってくる。
「──今回は良い方向に転んだな」
初めての見舞客は一条であった。彼はベッド脇の椅子に腰掛ける。この男がここにやってきたということは、問題はひと段落したということだろう。
「お陰様で、愛梨さんは無事だったよ。既に目も覚ましたし、手足の再建手術も受けられている。リハビリは多少時間がかかるだろうが」
「そうか……」
おれは成すべきことを成したのだと、安堵する。
「ただ、事前に連絡は欲しかったがな」
「何もするな、と言ったのに? それに、おれの言うことを信じたか?」
「それでも言うんだよ。コミュニケーションとはそういうものだ」
当たり前だが、達也などとは全く違うタイプだなと思った。二度手間になる会話を良しとする、なんて合理的ではない。それとも、一条のような人間のほうが世間では大多数なのか。おれには皆目見当もつかなかった。
「……」
「まぁ、いいや。──ところで、もう歩けるんだろ? ちょっと散歩しよう」
「痛いから嫌だ」
寝る以外のことをすると、皮膚が引き攣って鈍い痛みが走るのだ。切れた筋肉を縫われたからか、こころなしか手術後の方が辛い。
「……ここでは話せないことなんだよ、察しろ」
渋々起き上がり、彼についていく。エレベーターに乗せられ、上階へと上がる。そのフロアには、過剰とも思えるほどの人間が廊下に待機していた。物々しすぎる。どこに連れてこられたのか察したおれが立ち去ろうとするよりも早く、一条はある病室の扉を開けた。
「……一色」
特別室なのか、普通よりも広い部屋の中。窓際で、車椅子に乗った愛梨が外を眺めていた。彼女の両手足は、固定用の包帯でしっかりと巻かれており痛々しい。だが、窓から差し込む陽の光をたっぷりと浴びている彼女の様子は、いつも結われている髪が下ろされていることも相まって、一つの芸術作品のような雰囲気を醸し出していた。
入り口で突っ立っていたおれは、一条に背中を押される形で部屋に足を踏み入れる。意を決して、彼女の側まで行く。
「あの……」
「謝らなくていいわよ、別に」
言葉選びに詰まるおれに愛梨は言う。それでようやく、おれは彼女に謝ろうとしていて……そのくせ、何を言うべきか分からなかったのだと気づく。
「話は全部聞いたわ。でも……私が自分で決めて、自分でその報いを受けたの。それだけよ」
彼女の中では、最終的な判断をしたのは自分だという思いがあるらしい。原因がおれのせいであることを責めるつもりはない、という態度だ。
「あの、愛梨さん。彼を庇うつもりなのはわかるが……でもなぁ」
「将輝さん」
一条が愛梨を諭そうとするも、彼女は静かにそれを遮った。
「……馬鹿にしないで」
彼女の中の論理がよく理解できなくて、おれは内心で疑問符を浮かべる。
「もし、あの時死んでいたとしても……いえ、死ぬより酷い目に遭ったとしても。私を哀れむことができるのは、私だけ」
自分の経験を、似た事件に重ねていることは伺えた。そして、それは間違いなく「2062年の悪夢」だ。四葉に復讐の炎が燃え上がったきっかけ。
「思っているわよ。どうして、私だったのか。なぜ、お父様でも弟たちでもなく。この私が見せしめに選ばれたのか……」
世界に偏在するはずの不幸は、時に片方の天秤に傾く。愛梨はその理不尽を思い知ったのだ。
「でも、この怒りは私のものよ。どこにぶつけるかも自分で決めるの……勝手に気持ちを代弁して、犯人を作り上げて、気持ちよくならないで」
隣にいる一条の、息を呑む音が聞こえる。もちろん、愛梨の意志の強い目がこちらに向けられたからだろう。視線の鋭さには、おれだって身体を射抜かれそうな錯覚に陥った。
「怒りはお前のもの……」
おれは思わず呟いた。頭を殴られたような衝撃。信じられない概念が飛び出したから。けれど、同じようなことをどこかで聞いた気がする──あれは、伯母様の話になかったか。
──真夜の思い出も経験も、何もかも勝手に引っ掻き回した……本当はあんなことしなくてよかったのに。魔法は万能じゃないもの。
伯母様は、精神構造干渉魔法を行使し──お母様の経験記憶を知識に改変し、世界の感じ取り方を完全に変えてしまった。その罪を悔いて、おれに語ったこと。
お母様の悲しみは、憎しみは……四葉家全体のものでもあったと思う。だが、きっと過剰に同一視し過ぎてしまったのだ。だから、今になってもおれたちは後に引けないのかもしれない。いや、けれども……
「──……すまなかった」
おれの思索は、外部からの声で遮られる。ふと見れば、一条が愛梨に謝罪していた。
「貴女の気持ちも考えず、無遠慮な発言をしてしまった。少し、頭を冷やしてくる」
そう言って、彼は病室を出て行く。
閉まった扉を愛梨はしばらく眺めたのち、そっと鍵を閉めた。そして、おれの方を向き直る。
「今言った話は全部、本当に私の思ってることよ。だけど、将輝さんは同じ『一』を冠するライバル。少しだけ、見栄を張ったところがあった……」
彼女は車椅子を器用に動かし、おれの側へと近づいてきた。身を乗り出したかと思えば、急におれの胴に手を回す。こちらに寄りかかる形だから、頭の重みが服越しに伝わってきた。
「お、おい……」
「もしも、あの時来てくれなかったら……と考えると、怖くてたまらなくなるの。助かった今でもよ」
震えるような、弱々しい声だった。
偉そうで、意地っ張りで……わがまま。それを欠点だと思っていたが、愛梨らしさでもあったのだ。恐怖は人を変えてしまう。こんなしおらしい少女ではなかったのに。彼女を襲った理不尽を実感し、初めてやるせなさを覚えた。
「もう大丈夫……。大丈夫だから」
迷いつつ、髪を手の指で梳いてやった。同時に、彼女の頭を自分の胸へと抱き寄せる。どれくらいの間、こうしていただろうか。
「……運んで」
愛梨がぽつりとそう言った。おれは彼女の身体を抱き上げ、ベッドの方へと移動させる。横たわらせてやると、彼女は徐に呟いた。
「目を瞑れば、天井が崩れてくるの……」
「……ごめん」
「言ったでしょう。謝って欲しいわけじゃないわ。──……ほら」
耳元で「守ってよ」と囁かれる。悪戯っぽい表情には、何処か色気があった。
「私が天井に押し潰されないように……」
黙ってカーテンを閉め、ベッドの上に乗り上がる。病院の寝具特有のリネンの匂いがした。重めの布団をかけると、世界で2人きりになったような錯覚がする。
「……傷は、もう治ったの?」
「一応は」
「そう」
ぴったりと身体を寄せ合うことで、何とか証明できるだろうか。怖いことなど、ここには何も無いと。
「キスくらいしておく?」
「馬鹿」
頭を軽くぶつけられる。しかし、愛梨は「……しましょうか」と言った。
「忘れたいの。何もかも、全部……」
彼女が軽く目を閉じた。静寂の中で、お互いの息遣いがする。鼻が触れ合う距離まで顔を寄せると、ゆっくり唇を重ねた。乾燥でちょっとかさついている。ふやかそうと、ほんの少し舌を出してなぞる。それゆえか、口を離すと糸を引いた。
「……夜久くん」
「なに」
彼女は柔らかく微笑んだ。ただ、その奥には翳りもある。
「これからは、愛梨って呼んでね……──」