ストーリーのネタバレを含みます。
ーーこの作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。時代描写に事実と異なる説明があってもフレーバーテキストとして暖かくスルーしてください。ーー
痩せ気味の40代くらいの女性が皆が座る長く大きなテーブルの端で、小さくも良く通る声で挨拶をする。
「みんな、おはようございます。今日も1日楽しく過ごしましょう。では、いただきます」
これは遠い昔の記憶。
母が生きていた頃の当たり前の朝食の風景。
もう二度と訪れない朝、どれだけ皆が切望しても戻れない時間。
無理だと分かっているからこそ、皆は悪魔の囁きに抗うことが出来なかった。
ー・ー・ー・ー
時は西暦1915年、大正4年。
昨年ヨーロッパで起きたサラエボ事件により、世界は戦乱の渦に飲み込まれていた。後に語られる第1次世界大戦である。
遥か遠いオーストリアから始まった戦争はこの国、日本にまで影響を与えていた。
庶民には正確な情報を与えられていない。それでも連日新聞を賑わすのは不安定な世界情勢と、気の滅入るような国内の不景気な話題ばかり。明るい話題を探すのが大変に成り、感じる不安は人伝てに徐々に広がって行った。
その世相は帝都東京への水運を担うこの港町にも、暗い影を落としていた。
しかし、そんな暗い雰囲気も恋人たちの語らいには関係ない。
心が通じ合っていればどんな話題でも、たとえ無言であったとしても心安らぐものだ。
暗くなった道を男性が持つ提灯の灯りを頼りに談笑しながら歩く、赤いリボンの着いたかんざしを髪に刺して朗らかに微笑む16歳くらいの少女たちの様に。
だが、世相が関係ないのは闇に蠢く輩達にも同じ事だ。
恋人たちは自分たちの輝かしき未来を信じて疑わないだろう。
直ぐ後ろに破滅をもたらす沼が近づいていることも知らずに。
俺は沼鬼たちが上の方でワチャワチャやっているのを、食べ残しであろう誰かの手をポリポリとスナック菓子感覚で食べながら眺めていた。
血鬼術で作られた亜空間である沼の出入り口を出現させると外の景色が見えるのだが、着物姿の女性を下から見上げれる位置にある穴に成人男性が群がるその絵面は完全に事案である。
まあ、この後行われるであろう悍ましい狂乱の宴のことを考えれば事案どころではないな。
「しかし『毎夜、少女の消える町』か。」
原作にあるエピソードを思い出す。
原作主人公である竈門炭治郎が俺が憑依したこの沼鬼と戦う前々日に襲われたのが、あのかんざしをつけた少女なのだ。
明後日には炭治郎がやってきて沼鬼は退治されてしまうだろう。
このままでは確実に処分される。
いや、炭治郎を殺すだけなら出来なくはない。単純な戦闘能力では確実に劣っているが、炭治郎は不用意にも沼に足を踏み入れる。そして呼吸し技を出す。
これだけ解っていれば対策は簡単だ。
沼にある空気中の一酸化炭素濃度を上げるだけで良い。一酸化炭素は無臭だ。炭治郎の鼻では気付けない。高濃度にしておけば一呼吸で意識を失うだろう。
炭治郎さえ殺せば禰豆子は放置で良い。炭治郎さえ居なければ何れ鬼殺隊に狩られるから、禰豆子が沼鬼より強い鬼でも問題無い。
だが、果たして炭治郎をここで殺してしまって良いのだろうか。まあ、間違いなく鬼滅の刃のストーリーは完全に崩壊するだろう。
「と言うわけで、俺は潜伏するから二人には言わないでくれ」
「何がと言うわけか解らんが、自ら伏兵になるということか、俺よ。確かにそろそろ鬼殺隊に見つかる頃か。我等の血鬼術の前には奴等も無力だろうが、保険のひとつぐらいあってもいいかもしれんな」
一角の沼鬼が顎に手を当て考える素振りをしながら答えてくる。まだ顔合わせをしていないニ角と三角は食事を終えて満足したのか何処かに行ってしまった。
「敵を欺くにはまず味方からだ、俺よ」
「悪くはない案だ。採用しよう」
俺の建前の案は、特に問題なく受け入れられたようだ。
今回の炭治郎の襲撃には原作通りの展開を選択した。
理由はいくつかある。一番大きな理由は原作と差異なく事が進行する方が、俺が目的達成に有利だと感じたからだ。
『鬼滅の刃』のストーリーを知っているアドバンテージを利用するのは手段の部類だ。目的では無い。履き違えないよう注意が必要だ。
人類種の間引きが目的の俺としては、鬼側に勝利してもらう必要がある。鬼を退治するストーリーでは困るのだ。
態々『鬼滅の刃』の世界を憑依先に選んだのは鬼が居るからだ。
鬼は主食『人間』と言う素晴らしい性質を持っていて、日光に焼かれるか日輪刀で頸を斬られない限り処分されない。
ならば、日輪刀などの鬼を滅ぼせる武器も原材料である猩々緋砂鉄の精製技術を失伝させれば良い。他に藤の花の毒も効果があるが一分の天才にしか精製出来ないので対応してもしなくても変わらない。
兎も角、鬼への対抗策を人間から奪い去る事が出来れば、鬼は倒すことの出来ない絶対的な人類の敵になるだろう。
其のためには鬼殺隊を、特に刀鍛冶の里の職人を皆殺しにする必要がある。
ここで問題になるのが鬼の首領である鬼舞辻無惨様の存在だ。
無惨様はそれらの手段を使わず唯一鬼を処分出来る存在なのだ。
彼の目的が人間の支配や殲滅であれば問題は無かった。だが彼は自分だけが完璧超人になりスローライフを楽しむ事を目的にした『な○う系主人公』なのだ。
手段として同族を増やしているが、目的が達成したら全ての鬼を処分しかねない。
それでは困るのだが、無惨様を処分することは出来ない。無惨様を処分すると眷族の鬼は全て消滅してしまう。無惨様は邪魔であるが必要でもある。
このジレンマを解消してくれるのが『鬼滅の刃』のストーリーだ。
無惨様は最期の時、竈門炭治郎に自らの夢を含む全ての能力を託し、次世代の鬼の首領にした。
炭治郎は鬼になったが、その場で『鬼を人間に戻す薬』と『散っていった柱たちの魂』で人間性を取り戻した。
そして鬼にしようとする鬼舞辻無惨の魂の残滓を振り切り、人間に戻った。
消極的な鬼の首領の方針が変えられるのは此時しかない。
そう一瞬だけだが鬼の首領が入れ替わるこのタイミングが『鬼滅の刃』の改変ポイントだ。
「炭治郎を鬼舞辻無惨様の後継者とする」これが第2段階の達成目標でありストーリーを最後まで歪められない理由なのだ。
しかし、其のために禰豆子に手を出せないのは口惜しい。今が一番弱い禰豆子だと言うのに。
今後の事を考えれば早めに禰豆子の血は欲しい。仕方がないが、それはまた別の機会にしよう。
諸々の事情により、今回の炭治郎の襲撃は静観に徹することにする。
俺は沼の底に広がる蠢く闇に横たわり、徐々に埋もれていく。
『におい』での感知対策のためだ。
炭治郎の嗅覚は異次元の領域だ。探索、索敵、読心術、何でも御座れである。極めつけは動作予知すら可能とか血鬼術と同レベルの能力である。流石漫画の世界の主人公、何でもありだ。
沼鬼はにおいを消せない。亜空間である沼の中に居ても外に漏れ出すくらいだ。普通にしていては気付かれる可能性が高い。
沼鬼は3人と誤解させにおいの染み付いた沼の中で遮蔽物に隠れる。
此れで気付かれるか五分五分だろうか?
「即興にしては悪くない。戦闘中なら隅々まで調べる時間も無いだろう」
隠れる技術は持っていないが、出来栄えは上々だと自画自賛する。
底に沈み過ぎると概念の変わったこの世界では時空の狭間に落ちるだろう。気を付けてギリギリを狙い全身を隠した。
泥を寄せて視界を確保しておく。『生』炭治郎は見たい。
これから自分勝手に壊す世界だが、『鬼滅の刃』は好きな漫画なのだから。
「全集中・水の呼吸 陸ノ型 ねじれ渦!」
炭治郎の繰り出す洗練された剣技によって沼鬼の2人が同時に頸を斬られた。
竜巻に巻き込まれたかのようにバラバラになる様に俺は感嘆の眼差しを向けた。
(素晴らしい!足場の無いこの空間でアレ程の破壊を生むとは。鬼を滅する為の技術とは、正に人の執念の結晶か!)
荒れ狂う水の流れを幻視しながら、今回の襲撃は沼の底に隠れて正解だったと改めて思う。
鬼殺の剣士の脅威度を上方修正しなくては駄目だ。
まだまだひよっ子炭治郎のレベルでこの威力なら、柱たちは目に留めることも出来ないだろう。
柱を倒す必要は無いはずだが、逃亡くらい出来ないと原作介入は難しい。少なくとも隻腕の〈冨岡義勇〉を相手にする可能性が高いのだから。
炭治郎が予想通り、此方に気付かずに沼を出ていった。だがまだ気を抜くわけにはいかない。
沼鬼を倒しきれていないと悟られるわけにはいかない。
開いたままの沼の出口を炭治郎が出て3秒待ってから素早く閉じる。
そして間髪入れず沼の座標を下げる。
血鬼術の操り方は分裂前の沼鬼の記憶が有るので把握していた。先程まで制限が掛かっていたが大部分が緩和されていて自由に操作出来て助かった。
『沼』の血鬼術は亜空間を創る能力で中の広さは東京ドーム一個分くらいだろう。
中は広大な空間だが出入り口は外の座標が起点になる。中でどれだけ離れて隠れても意味がないのだ。
出入り口は不可視に成るが外から干渉可能な為、地中に滑り込ませる。臭い物も埋めてしまえば分からない。これなら炭治郎も気付かないだろう。
暫くして血鬼術を完全に掌握した感覚があった。外に居た二角の沼鬼も処分されたようだ。
炭治郎の襲撃は思った以上にあっけなく終わった。
落胆の様な安堵の様な微妙な感覚を覚えながら、昨日の内に3つ準備したセーフハウスの中より現在地点から最も離れたあばら小屋に移動を開始した。
町外れに建てられたあばら小屋は、昔は小作人を住まわしていたのか少しの農具が放置してあるのが見て取れる。
人の手を離れた小屋の周辺には草木が生茂り、まるで太陽から覆い隠し闇の中に飲み込もうとしているかの様であった。
小屋の中は外から分からない様に板が張り巡らされ、微かな陽光すら通さない空間が造られていた。
床には大きな縦穴が開いていて、穴を囲むように物資が積んである。
東の空がうっすらと白んできて鳥の囀りが聞こえてくる頃に突然、縦穴の壁に黒い穴が開く。
闇より滲み出る様に現れたのは、着物にインバネスという様相の男だった。
着物の袖口から見える白いシャツや首元のネクタイは後に大正ロマンと称される出で立ちである。
額の左右に二本ずつ有る四本角を除けばの話だが。
市街地からの逃亡に成功した俺は、突貫で造った拠点で一息ついていた。
次の目的地は浅草だ。
炭治郎が鬼舞辻無惨と遭遇するイベントが起きる。そして、禰豆子が無防備に一人取り残される珍しい場面だ。
利用しない手はない。
俺は沼を使って他人様の家から集めた『懐中時計』と『関東の地図』そして大量の『木炭』を沼に放り込んでいく。
ふと、先程までの事を思い出す。
「完全に想定外だ」
思わず呟く。
俺はセーフハウスに向かう傍らで、血鬼術による戦力増加を企てていた。
結果は失敗だった。
血鬼術自体は自在に操ることが出来て問題無かった。しかしエネルギーが足りていなかった。
血鬼術は沼鬼たち全員で共有で、維持エネルギーも共有だった。
今にして思えば、その維持エネルギーの提供者が一気に3人も減ったのだから当然の結果だ。
失敗した事は問題ではない。そこで起きたことが問題なのだ。
血鬼術が発動し、沼鬼の形に成ったかと思ったそれに変化が起きたのは突然だった。
身体が端から沼の泥に変わりながら崩れ落ち、瞬く間に周りの泥に混ざり分からなくなってしまった。
「イアァァァァァァァァァ!」
自分と瓜二つの存在が溶ける様を目撃したショックで金切り声を上げてしまったが、俺は悪くないと思う。
俺の醜態は兎も角、失敗で泥に成ったと言うことは、『分裂』の血鬼術の原材料は沼の泥になる。
俺は勝手に切り離された肉体が互いに別の体に再生するのだと思っていた。沼鬼の記憶に無いのは再生が早くて見えないだけだと勘違いしていた。
これは果たして『分裂』なのか?
俺は根本的なところで勘違いをしていたのか?
沼鬼は特殊だと言われている。別々の概念の血鬼術をニ種類持っているからだ。
『沼』と『分裂』。ニンジャなら有り得る。しかし沼鬼の元が土遁や水遁を使うニンジャであるなら挨拶が絶対の礼儀のはずだ。彼はニンジャでは無い。
2つの概念ではなく1つの概念の延長に『沼』と『分裂』がある方が他の鬼の操る血鬼術と変わらないので特殊性は無くなり現実味が増す。
ニンジャでは無いのなら・・・
「
この時代にはまだない概念が思い浮かぶ。
「ははは!鬼に憑依したと思ったが、実際には泥人形か」
笑いながら思い出すのは沼鬼達の最期の姿。
オリジナルが消えてコピーだけになった沼鬼の存在は酷く歪な存在に感じる。血鬼術で産まれた存在が血鬼術を操るのだ。
世界の理を歪める血鬼術が意思を持って沼鬼を模倣する。
果たして自分とは何か、と無駄に哲学的な思考になったので頭を振って切り替える。
「関係ない。もとより俺の存在は歪だよ」
俺は呟きながら首の裏に出来た瘤をそっと撫でる。
『精神体のみを過去に飛ばす薬で、過去に類似した創作世界に無理矢理憑依先を捻じ曲げた』などと言う荒唐無稽な話は、普通なら信じるに値しない。
だが、魂から湧き出る憤怒が些細な考えを吹き飛ばし確かな信念を呼び起こす。
「俺は俺だ!泥人形?俺に相応しい丁度良い器じゃないか」
俺は不敵に笑った。
手に持った方位磁石で目的の浅草の方向確認する。
浅草には今、無惨様がいる。癇癪で簡単に鬼を処分出来る鬼の首領が。
まだそんな下らない理由で終わる訳にはいかない。
慎重に行動しなくてはと再認識しながら、俺は沼に沈んでいった。
沼鬼「沼男だ!!(ドヤァ」
ΩΩΩ〈ナ、ナンダッテーー