――相手の防御を打ち上げてから、斬る。そう考えた瞬間だった。
予備動作として左脇をほんの少し上げたと、自身が認知してもいない僅かな隙間。思考の間隙。
相手の刃がそこにスルリと入り、そのまま上がる腕を斬り上げられて御刀を消失。『写シ』も消え、それでも刀使はまだ戦えるが、これは歴とした継戦能力の消失である。
であるならば試合である以上敗北以外の何物でもないと。あの状況を百人が百人見れば、皆同じ判断を下すだろう。
あれは糸見沙耶香の負けだと。
「………」
すぐさま終わらせる。
試合の開始時、沙耶香はそう念頭に置き、必殺である縦一文字の斬撃を放っていた。文句なしの初太刀だったが、相手はその更に一枚上手であり受け流され、どのような攻撃も軽くいなされてしまっていた。
そしてあの結末。終わってみれば終始相手のペースに呑まれていて、沙耶香は利き手が空を掴む手の内をジッと見詰め続けていた。
――彼女の剣は、あの美濃関の刀使に全く通用しなかったのだ。
「いい?確かに伝えたからね。学長も来てるから」
「………」
自分を降した美濃関の刀使と、平城の刀使が御前試合会場にて折神家当主に狼藉を働き逃亡した。
予選で敗れ、刀使の待機室で正座していた沙耶香は同僚に告げられたその情報を聞き、しっかりと頷いた。
しかし傍から見れば、それはいい加減に小さく頷いて、こちらの話を本当に理解しているのかと問い質して余りあるものだったが、いつもの事だと力ずくで腑に落とした鎌府の同僚は素早く身を翻した。
――こいつの考えている事など分からない。 同僚は視界だけでなく思考からも沙耶香を消失させていった。
「………」
独りきりに戻った部屋で、沙耶香は正座を崩して立ち上がり、刀を正眼に構えて眼を瞑る。想起するのは美濃関の刀使との剣戟。自分が負けた理由を探す為に。
「―――分からない」
何度シミュレートしても、今度こそ自分が勝つ未来しか見えない。ああ来たら、こう来たら。文字通り返す刀で斬り伏せる事が、今度は出来ると。
再戦すれば必ず勝つのだと。………でも、
「――無い」
…自信が無い。それが果たして出来るのか?本当に果たせるか?相手は自分の思った通りに動くのか?
閉じた目蓋の裏側で、鎌府刀使・糸見沙耶香は暗中を模索していた。
「沙耶香」
ミシリとした重みのある声が目蓋を開かせ、その先にいる人物を沙耶香は捉えた。
「……、はい」
「こちらに来なさい」
鎌府学長。すなわち彼女の上司である高津雪那が視線と声で命令する。
「…ご無沙汰しています。学長」
「挨拶は後よ、沙耶香。稽古中悪いけれど、早速貴女には任務よ」
「はい」
「二日後、貴女は東京に出立。紫様に刃向かった逆賊どもを討ち取りなさい」
「…了解」
「問いたそうな表情だけれど、二日後と言ったのは現在行われている刀使達を中心とした事情聴取、及び逆賊の現在地探査が終了するのが大体それ位だからよ。 いい?我らが王たる紫様に御刀を向けるなど、そしてそんな輩を野放しにするなどあってはならない。これは我々が果たすべき重要な任務なの。何か質問は?」
「ありません」
暗中であった沙耶香の脳内はまるで雲ひとつ無い快晴へと急速に移行していた。
任務は果たすべきもの。討てと言われた敵は倒すもの。敵は斬るもの。自身が刀使であるならば。それが彼女の今までであったから。
「御前試合には敗れてしまったけれど、任務成功率100%の貴女なら難なくこなせる筈。一人で為し遂げなさい」
「了解」
彼女の上司は満足でも不満足でもない表情で頷いた。
◆
「綿貫さん聞きましたか? あの糸見が単独任務に就いたって。しかも学長直々のご指名で。やっぱりお気に入りは違いますね」
「単独任務ですって?」
「ええ」
前代未聞、折神家当主襲撃から二日が経った頃である。
事情聴取を終えた御前試合の鎌府刀使衆(警備担当)達は母校に戻り、ある者は疲れを取る為に風呂場へ、ある者は自室のベッドへ、ある者は日課の稽古へと向かおうとしてしていた。
その例に漏れない貴女の元に、耳が早い同僚の刀使が素早く顔を寄せて、周囲の言う所のいけすかない後輩の事を告げていた。
「――妙ですね。我々の仕事は最低でもツーマンセルの筈。…どういうことです?」
「さあ? 糸見は学長一のお気に入りですから。知った事じゃありませんよ」
「………」
「でかい失敗でもすればいいんですよ。あんな気味の悪い子なんて」
つまらない表情を表に出さないように、貴女は一目散にその気味の悪い子の元へと向かった。
「糸見!!」
鎌府女学院内の駐車場兼駐輪場。そこに糸見沙耶香はいた。
遠出の任務を担う刀使達は皆ここから任務に臨む為、ここに居ると考えた貴女の読みは当たっていた。鎌府は折神家本邸と隣り合っていて、それ故に刀使専用の設備や待遇は他の伍箇伝よりも優遇されているからだ。
すぐに来る専用車を待っているのだろう、手持ち無沙汰の彼女がこちらを向いて会釈した。
「探しましたよ糸見。どういう事です、単身で賊に立ち向かうなどと。しかも相手は御前試合で、貴女を降した刀使との事ではないですか!」
「……。誰から聞いたの?和美」
「巷はもう噂で持ちきりです。人の口に戸は立てられません」
「そう」
何も映さない彼女の瞳。しかしこちらを向く顔の表皮は迷いの色でやや濡れていて、だが自分に間違いなど無いと真皮はひどく乾いていた。
――だって仕事は為し遂げねばならない。それが仕事というもので、他は知らない。
少なくとも自分はそう捉え、考え、そして修めてきた。命令されればそれを成す。それだけを思ってきた。他はどうあれ。完璧に、努めて、それが刀使。それが価値。
そんな沙耶香の瞳の無色が、貴女の瞳に反射した。
「和美。 勝てるかな」
「………、」
洩らしそうになった声を、貴女は努めて噛み殺した。
「一度立ち合ったけど、あの人、強い。多分今までの誰よりも。試合でも実戦でも」
「…無想の貴女よりも。ですか?」
「うん」
無想とは沙耶香だけが行使できると噂されている、『迅移』の特殊形態の事である。
「勝てと言われたのですね? 高津学長に」
「うん」
「たった一人で。それが任務だと言われたのですね?」
「うん」
「―――勝ちたいのですね?」
「うん」
弱音と書いてある沙耶香の表情が、答えと同時に何かを宿し直して頷く。その様を見て、貴女は我慢した。
「成る程。では私も一緒に行きます」
「だめ」
一人でやれと言われたから。沙耶香は眼を逸らさずにそう続けた。
「話を聞きなさい糸見。ここに居るという事は、足は必要だという事でしょう?それを買って出ます。これは必要経費ですよ」
「……。だめ」
「勝てるかと私に訊いた時点で、一人では勝てないと言っているようなものです。貴女が馬鹿でないのなら、一人で抱え込むものではありませんよ。暇な先輩の一人ぐらい頼りなさい」
「………」
明暗の色が貴女と沙耶香の瞳にうつる。しかしそれの発生源が何処なのか、沙耶香だけには分からなかった。
「………。よろしく、お願いします」
小さく、しかししっかりと頭を下げる沙耶香を貴女は見つめる。馬鹿だなと、貴女は不意に思った。
――何を考えているか分からない?気味が悪い?この子が?
「可愛い後輩の為です。任せなさい」
こんな強さと意志に溢れた刀使。稀有以外の何があるというのだろう。理解できずして何が剣士であるのだろう。刃を、この眼を見れば全部分かるだろうに。
「しかしその前に、まずは一つ」
勝ちたいと。こんなにも発露しているのに。
「……?」
「稽古が要りますね」
勝つ為の。貴女はそう言って、もう我慢せずに笑った。