鎌府女学院の校庭を歩いて、沙耶香は少し憤りのような感情を声に出していた。
「和美。私は急いで東京に向かわないといけない。…稽古は大事だけど、今はそんな時間が、」
「『迅移』を使います。問題ありません」
対する貴女は何も問題はない事を伝える。もっとも案の定、100%信じてはくれなかったが。
「問題しかない。『迅移』は発動者の時間流を異にするけど、あくまで瞬間的な物。
…もしかして和美は今が永遠に続けばいいと思っているタイプなの?個人が抱く思想や信条は自由だけど、押し付けるのは私、よくないと思う」
「まあまあ、聞きなさい。 貴女と同じく、私もあの美濃関の刀使とは戦いました。あの者の天賦の才と努力の跡は眼を見張るものがある。現時点の貴女が勝つ事は容易ではありません。苛烈に打ち込んだとしても、転じて応じられて終わるでしょう。
よって必要な技と専心は、相手に触れさせず疾く斬ること。それを会得しなければなりません」
「………負けたの?和美」
「あの段階では」
嘘でしょう? 沙耶香はそんな表情をしながら貴女に尋ねた。
…勝つ為にはどうすればいいか。それを追究している貴女の事を、稽古を通じて理解している沙耶香だからこその表情だった。
「さあ、着きましたね。早速始めましょう。よろしくお願いします」
「……分からない。和美は私に何をさせたいの」
「勝たせたいのですよ。戦に」
「戦に………?」
二人が辿り着いた場所は鎌府の古い施設だった。
その建物はこぢんまりとした修練場であり、室内は衝立(ついたて)でスペースが確保してあった。
「糸見、貴女も同じく掛け声を」
「…? よろしく、お願いします」
こんな場所に来るのも施設を見たのも初めてなのだろう。沙耶香は恐る恐るお辞儀した。
「ここでは他人の稽古を見てはならないという暗黙のルールがあります。声掛けはその誓約。
かつては高津学長もここを利用し、20年前の相模湾岸大災厄を生き抜く力を得たという伝説が、あるとかないとか」
「こんな所初めて見た……」
「自分の剣を見られたくないと思う刀使は現代では減少傾向にありますからね。我々の仕事は連携とカバー命。流派を隠す一匹狼はチームワークを乱します。それは致命ですよ、守るべき市民とチームの」
まあそれはさておき。貴女はそう言って御刀を抜き、『写シ』。沙耶香に向けて大上段に構えた。
「糸見、貴女も御刀を構えて『無念無想』を」
「………」
有無を言わせない貴女の声と構に、観念した沙耶香は言われるがまま『写シ』、『迅移・無念夢想』を行使した。
「私の打ち込みよりも疾く私を斬ってみなさい。出来ますか?」
「出来る」
それが刀使だから。沙耶香は言いきった。
「その意気です」
「………!」
貴女と沙耶香は同時に、縦一文字に斬り込んだ。
御刀同士が空中でぶつかる。切り落としを試みた沙耶香の斬撃は剛力と言って差し支えない威力だったが、しかし力負け押し切られ、貴女に面を斬られていた。
「もう一度です」
「……」
頷く。『写シ』。しかし今度は斬撃を咄嗟に防いでしまい、自分の御刀の鍔を自分の額に強打して写シが剥がれた。
「防ぐのではありません。斬るのです。私よりも疾く」
沙耶香は迅移の段階を上げた。貴女もそれと同時に段階を上げる。
――迅移を行使しての刀使の斬撃は、それを行使していない人から見れば超高速と言って差し支えない。しかも瞬間的にしか使用できない通常の『迅移』とは違い、沙耶香の『迅移・無念無想』は持続的に使用する事が出来る。
それは避けるのも受け止めるのも至難である超高速の鉄の塊が、絶え間なくこちらに襲撃してくるという事。通常ならば貴女はジリ貧、敗北は眼に見えている。しかし、
「――っ!!?」
「どうしました?糸見。疲れましたか?」
迅移の最中、沙耶香は驚愕した。
自分と全く同じ時間流の中で、今も変わらず自分と会話をしている貴女の顔を見て。
危うく無念無想を解きかけてしまう程、沙耶香は驚愕でもって貴女を再度凝視した。
「……。無念無想?」
「貴女だけが使えるものだと誰かに言われましたか?」
「…聞いてない」
「今まで誰にも訊かれた事がありませんからね」
瞳から滲み出る独特なピンクスピネル色の光は、この迅移特有のもの。
沙耶香は自身のこの能力を誇った事も強さの縁(よすが)とした事も無いが、他の刀使もこれが出来るという事を今の今まで知らなかったという眼前の事実は、彼女をひどく狼狽えさせるには充分すぎた。
「『無念無想』を使用する刀使が複数いる場合のみ、その刀使達の時間は留まります。誰かが無念無想を解かない限り、我々は言わば凍った時間の中で稽古を続けられる。さあ、やってみせなさい」
「――うん」
『迅移』とは異世界である隠世より湧き出す力の一端。
刀使とは異世界の力をこの世に持ち出せる唯一無二の存在。そんな彼女達が集まって行う稽古が普通の筈が無いのだ。
互いの瞳に互いの姿を認めて。沙耶香は最早考えるのを止め、貴女にただ打ち込み続けた。
◇
「駄目ですね、次です」
―――和美は先の勝機で斬ってくる。
「もう一度」
――つまり、こちらの攻撃のゼロ地点もしくは攻撃しようと意図した瞬間を間違える事なく一文字に斬ってきてる。
後の先は通じない。先程から使用しているのに、防御ごと打ち砕いてきてるから。
「もう一度」
…迅移が同段階同士であれば、同じ時間流にいる以上相手より早く斬る事は不可能。速く斬る事も力量によってそれも不可。それが現状。
先程からやっているように、和美は必ず一撃必倒の斬撃でこちらの刀ごと叩き斬ってくる。普通に斬り込んだのでは、こちらに触れさせない疾さは手に入らない。
――正面から砕く。叩き潰す。一方的に。
そんな剣が上段に振りかぶられ、それを骨の髄まで感じ取った沙耶香が一拍おいて同じく振りかぶり、やはり為す術なく斬られた。
「……っ」
「もう一度」
「……何で和美は疲れないの?」
「それを知るのも稽古の内です」
沙耶香が疲れて『迅移・無念無想』が解ければ凍った時間が通常のそれへと戻り、二人で休憩。少し経ったらまた稽古、その繰り返し。
体感時間では二日以上が経過しているが、現実の時間は一時間程度しか経っていなかった。
そして、ついに稽古の連続が祟ってきたのだろう。
頭もぼうっとしてきている沙耶香はついに棒立ち、もはや貴女の剣を御刀の耐久に任せてガッチリと防ぐしか出来なくなっていた。
「まるで川の中の岩のようですね、糸見」
「………」
「しかし岩が恐れますか?岩が考えますか?」
「……、?」
「岩はただ前からくる流れを、後ろに受け流すのみでは?」
――普通に斬り込んだのではこちらに触れさせない疾さは手に入らない。ならばいっそこの身体が岩ではなく、こちらに流れゆく水であったなら。
そんな一意専心が、今、沙耶香の全身を覆い尽くした。
「……―――」
「ご名答」
貴女の眼前に立つ剣士が、自身の刀を納めていた。
「誰も私をご丁寧に一刀両断しろとは言っていません。為すべき事は只一つ」
――相手の行動よりも技よりも疾く斬る事。沙耶香は心中に期し、鞘に納めた刀の柄頭を貴女の正中線に向けた。
同時では駄目。後手に回っては駄目。ならば先手を、先の先を獲る。
―――抜刀術。その恐ろしさの片鱗はここにある。
刀を納めた剣士を目にした人間の多くは、相手はパッと横一文字に刀を抜き斬って、勝ちを納めると思い込むのであろう。
だから避けてしまえば、或いは柄手を封じれば勝てると考える。
間違いではない。相手は横に抜いてくると判っていて、その通りに相手が抜いてきたのであれば。
すなわち、相手が自分の思う通りに斬ってくるという前提条件の達成が、抜刀術を無力化できる要項である。
…もし相手が素早く距離を詰めて抜かずに柄でこちらを打ってきたら?横からではなく上から或いは下から抜き上げて抜刀してきたら?跳びながら抜いてきたら?飛翔したら?
見破られた策など無残なものである。
そして基本的に両手で斬る事になる剣士と、片手で斬る事になる居合抜刀。構造的速度差で劣るこの術は、相手にこちらの意図を読ませないという前提条件の下でのみ行使される。
すなわち先の先、騙し討ち(居合)の勝機。
――まこと汚い術である。仮に相手の敵意害意を事前に察知しているのであっても、こちらは貴方に何もしませんよと一見意思表示をしているように見える納刀状態で、何処から襲ってくるか分からない刃を恐ろしい速度と間合で振るうのだから。
しかしながら全ては勝つ為。戦いとは古今東西騙し合いである。
勝利とはそういう物で、だからこそ誰しもに価値と欲が生まれる。
沙耶香は目蓋を限界まで見開き、貴女と貴女の剣を見詰めた。この目蓋は決して閉ざさないと誓って。閉ざすのは勝った時。
「―――」
「―――」
敗れた時は。またもう一度、相手を斬るその時まで何度でも―――。
沙耶香の抜刀の閃きが、貴女の瞳に焼き付いた。
◇
「――お見事です」
「………、え?」
凍っていた筈の時間が元に戻っている。
沙耶香は自身を見つめた。『写シ』は剥がれていない。まだ。つまり、
「二連撃とは。流石は糸見沙耶香ですね」
「二連……撃?」
「憶えていないのですか? 貴女は縦横十文字の二撃でもって私を斬り捨てた。留まらず、流れ続ける水のように」
「………」
「それこそが疾さ。スピードともタイムとも違う、無心に、只ひたすら疾さのみを専心した抜刀術。まだ攻撃をしてこないと相手が意図した瞬間、その一刹那(スペース)を私達は斬る。我が流派では、これを一つの奥義と呼んでいます」
腑に落ちましたか? 貴女が言うと、沙耶香は頷いた。
「―――うん」
今まで見えなかったものが見えた。自分の剣と、この流水の剣との組み合わせ。それは技術的なものだけではなく、必ず敵を斬るという専心と意地に他ならない。
迅移を解除した沙耶香が時間を確認すると、稽古開始から約二時間が経っていた。
「和美。ありがとう」
「礼には及びません。これを実戦で生かすも殺すも貴女次第なのですから」
「でもいいの? 剣法の奥義は基本的に門外不出。これは和美だけの剣なんじゃ…」
「ああ、良いのですよ。この剣はそういった堅苦しい物ではないのです。誰が使おうとどれほど時が経とうと、研鑽され続けようと生涯未完であり、ただ戦いに勝つ為の剣。それだけですから」
「……。戦いに、勝つ」
「必要でしょう?今の貴女には」
「――うん」
渇望に似た何かを宿して、沙耶香は答える。湧き出るそれは彼女が刀使だからなのか。或いは人だからなのか、剣士だからなのか。
勝ってみたいという想いは人に力を与えるのだろう。貴女がそうであるように。
「さて、では参りましょう。行き先は何処でしたか?」
「東京」
頷いて、修練場を出た貴女は沙耶香に愛車のヘルメットを手渡した。
「…?バイクの?」
「学長には私から連絡をします。さあ、私の後ろにしっかり捕まって。飛ばしますよ」
これから東京までちょっとドライブ。風を切って行きましょう。貴女がそう言うと、何故か沙耶香はより一層困った顔をしはじめた。
「……。私知ってる」
「? 何がです」
「和美の運転はワイルドだって」
「それは面白いジョークですね」
アクセルを吹かせ、二輪タイヤを切りつける黒いアスファルト。
二人を乗せるバイクはまるで前途を祝すように煙を上げて、鎌倉の街を走り抜けていった。