刀使育成校の一つ、鎌府高校の稽古場は二つあった。
一つは一際大きな建物で、仮に中等部と高等部が合同で使用しても尚余りある板張りの修練場。
そしてもう一つは自身の剣法・刀法を同僚であっても他人に見せたくはないと考える刀使が使う、こぢんまりとした修練場である。
室内には衝立(ついたて)でスペースが確保してあり、ここで稽古する者には他人の稽古を覗き見てはならないという暗黙のルールがあった。
「よろしくお願いします」
入室の際に声を出す事は稽古をしている他者に自身の存在を伝える為であり、こっちを見るなよという意思表示の意味がある。
「………」
正座。刀礼して雪那は御刀・妙法村正を鞘から抜き、足を大きく前後に広げたスタンスで刀を振り下ろす。基本稽古である素振りは疲れるものではない。疲れるのだとすれば只の怠けである。
「……、……、……」
振りかぶったら間髪を容れずに振り下ろす事。こう斬り下ろそうかな?とか、いや待てよ?とか迷ってはならない。
仮に迷うとすれば振り下ろし終わった時。力の配分、速度、刀の重さの把握が出来ているか?と考え迷って次はこう?と工夫し、次の瞬間にはそれら全てを消し去り素振りをし続ける。
覚えて忘れよ。又は、払い捨てる心。かくて次なる技も生れるべし。
「まあ、普通」
調子の確認と素振りを百本程で終わり、雪那は技の稽古に入ろうとした。
「よろしくお願いします」
・・・・・。
この声は。
「――あら柊さんじゃない。お疲れ様」
「……? 雪那」
それは珍しい光景だった。いつも紫と一緒にいる篝が、今は独り。ここに来るという事は修練をするという事だが、こんな強い女でもちゃんと稽古するのねと、雪那は何故か面白くなった。
「お疲れ様。珍しいのね」
「稽古ぐらいするわよ、刀使だもの」
「ここでという意味よ」
「お互い様でしょ。ていうか何?今日は紫お姉様は一緒じゃないの」
「一人の時間は必要でしょうと、紫様がおっしゃったので」
「それで稽古ってわけ?」
「そうよ」
二人はそれきり無言になった。別に仲が良いわけでもないので、互いに互いのスペースの中で稽古に没頭する。
時より聞こえる踏み込みの音と刀刃の風斬り音が修練場を揺らし、…やっぱりコイツ出来るなと心の中でほんの少しだけ思った所で、御刀を納めた。
―――収穫はあったなと、雪那は思う。しかし次の工夫は実際に斬らねば手応えが掴めないので荒魂を斬って練磨するとしよう。
刀礼し、修練場を出る。するとそこには何故か篝が立っていた。
「何アンタ。もう稽古終わり?」
「ええ」
「じゃあちょっと顔貸しなさいよ。嫌とは言わせないわ」
「不良みたいね」
「刀使よ。今もこれからも」
こじんまりとした修練場の傍には太陽を遮る木々が生い茂っていた。
暑い時期になると、入学したての中等部生はこの辺りの日陰が恋しくなるだろうなと雪那は歩きながら思って、クルリと後ろを振り向いた。
ぼうっと突っ立って、けれど膝と腰の落ち着きと据わり方が師範のそれに似ている刀使が、髪をかき上げる風を物ともせずに真っ直ぐ、こちらを見ていた。
「――紫お姉様の事なんだけれどさ。私、あの人護りたいと思ってるのよ」
「はあ、成る程」
篝は同意という意味で頷いた。
「柊さんは側付きだけれども、人一人刀使一人には限界があるでしょ? 貴女だけでは太刀打ちできない状況は、私がなんとかするわ」
「………どういう心境の変化か訊いてもいい?」
「変化も何もいつも通りでしょ。私は紫お姉様を護る。だってあの人は私達刀使に、そしてこの国に必要な人なんだから」
「そうね」
「あとさ、これオフレコなんだけど、私相模湾の警備に出向することになったの。だからその間お姉様の事は任せたわよ、柊さん」
殊勝な何かを見つめる瞳をかき消した篝は、怪訝な目つきをし始め終には首を傾げていた。
「…?出向?そんな通達は来てないけれど。……それは誰からの命令?紫様…ではないわよね?」
「……」
・・・・・。
「御当主葵様からよ」
「! あの方に粗相でもしたの貴女」
「逆よ。気に入られたの。私のフットとレッグが良いんだって」
「嘘は止めなさい。あの方が只の刀使でない事は雪那にだって判るでしょう。一体何をしたの」
「……。貴女のお母さんの話をされた」
「………。は?」
「只の昔話を聞かされたのよ。40年前互いに母親を失ったんだっていう昔話。だから今後は私の側に付けってね」
「……部下を脅すだなんて…」
「勘違いしないで。脅されてなんてないわ。 これは私の意思で、あちら側の刀使として出向するのよ」
「………」
雪那は不可思議な自覚の中にいた。スラスラと言葉がコイツ相手に出てくる事ではない。――私はコイツに本音を喋っているのだなという驚きにも似た感情。そして理屈や感情では説明できない何かが自身を支配し始めているという奇妙な充足感。
昂ぶらず、荒ぶらず。それはきっとシンプルな。
きっと、それは始めから、この刀使を見た最初から抱いていたシンプルな―――。
「だからちょっとさ、もしかしたらもう貴女とこうやって会えなくなるかもしれないからさ。――ちょっと私と斬り合ってくれない?」
柊さん。 雪那がそう言うと、眼前の不愛想刀使は一度瞬きをした。遠くの山を見詰めているような瞳を覆い隠すように。
「私達にそんな必要があるとは思えないけれど。 本気なの?」
「見れば分かるでしょう?葵様の側になってしまった私とお姉様の側である貴女。私達は近い将来、気軽に会えなくなる。何より御当主様と紫お姉様は家族だけど向いている方向が違う。道を違える事は必至よ」
…将来ね。篝は軽蔑に近い眼差しを雪那に向けた。
「紫様に仇為す者を私は許しません」
「でしょうね」
「…でも貴女はあちら側に立って、紫様を護ろうというのでしょう?」
「そうよ。全ては自業自得。私も焼きが回ったわ」
同い年のくせに。篝は呟いた。
「…私は紫様に剣と身命を預けてる。もし仮に違えたら、私の道は決まっているわ」
「でしょう?だから立ち合ってほしいのよ、今ここで。柊篝」
「―――本気なのね」
「アンタに借りを作ったままだなんて。私が私で無くなるわ。だから教えてやるのよ、私は大丈夫だって。貴女よりも強いって。
お互い御前試合予選、選抜戦には出なかった。私の剣は人外のみを滅するものだから。そして貴女は、」
「私の剣は荒魂のみに向ける。未来永劫、柊の剣は」
――折神を護る為に。
「似た者同士かもね、私達」
だからこれは例外。彼女達の流儀と誓いの、その埒外という名の闘争心。
雪那と篝は同時に、刀の柄へと利き手を飛ばした。
◆
――雪那はスタンスを途轍もなく大きく取った。それはおよそ、どのような流派において、聞いた事も見た事もない奇怪な構だった。
ただ柄頭だけを篝の正中線に向け、腰を深く沈ませた納刀の状態でその場に居る。
和平の意思表示とは似ても似つかない雪那の刀法は、これこそが彼女の流派の真の戦闘態勢であるのだろう。
荒魂討伐任務であってもこの構を他者に見せた事はない。自身の師を除いて。
ひりつく空気と圧(プレッシャー)が篝の眼球とほぞを瞬時に乾かせて、一度、弾指よりも速く瞬きをした篝は瞬時に勝つ為の方程式を完成させた。
「………」
「………」
御刀を抜き、篝は左肘を突き出し静止するように構えた。
その様はさながら弓を引き絞るようでいて、しかし水面下では常に身体は動き続けているのだろう。
――こうきたら?こう。そうきたら?こう。考えるという事は組み立てるという事、組み立てるとは動くという事であり、動くという事は斬るという事。それが剣法。
それが武芸。
「ちなみにだけど」
笑いをこらえるように。こみ上げてくる何かを遮るように、雪那は世間話をする時の声色を喉から出した。
「禁を破るのは貴女で二人目よ。柊さん」
「結構いるじゃない。笑ってほしいの?雪那」
「かもね」
『写シ』という名の絶対防壁を張った時が、勝負の時。
今、二人の剣士はそれを張った。
◇
―――篝が摺り足で雪那の左側に移動する。
側面もしくは後方に回り込んで攻撃するつもりだろう。剣士にとって左側は支え。そこを潰さんと相手は考えている。
左手で抜くかとも、雪那は思った。でもギリギリこちらにとって足りない間合。つまりは誘い。
篝はこちらの先手を待っている。
―――させるものか。
では期待に応えてやろうと、雪那は右手で抜刀した。
腰を左に切りながら繰り出す横一文字の斬撃の初太刀を、対して篝は御刀をすぐさま振り下ろしていた。刀と刀をぶつける事で雪那の斬撃をとめ、しかも勢いそのままに相手の御刀を掬い上げるように振り上げて、無防備な雪那の左頸部を斬りに来る。
敵の攻撃を防いですかさず反撃。後の先の勝機である。
「……ッ!」
「!?」
しかしそれこそが雪那の誘いであった。
あらかじめ反撃を予想していた雪那は、足を一歩踏み込み腰を地面へと落としに落とし、まるで沈み込むように体重を下方に向かわせていた。
体重移動とは全身の力、エネルギーの移動。その力でもって鯉口を握る左手を勢いよく突き伸ばし、篝の左手、御刀を支える左手にブチ当てていた。
「……ッ!?」
一瞬、篝の剣が空中で完全に止まる。
雪那は無防備となった彼女の肺へ刃を突き入れようと力を込めた。後はそれだけで終わりであり、咄嗟に飛び退こうとしても無駄である。
すでに雪那は自身の鯉口から手を離し、篝の左手をしっかと掴んでいる。身体を捩じろうとも、この近間では刀刃の突きを避ける事は不可能。全ては終わる。雪那の勝利という形で。借りは返したという満足感で。
篝を真っ直ぐ見据えている雪那には見える筈だった。手を掴まれ行き場を失くし、空中に留まるしか出来ない無限の遠さにある篝の御刀が、
篝の御刀が、
篝の御刀が、
刀は、
――――何処だ?
◆
柊に抜かせるな。それは、古の刀使達の合言葉。
――頭を真っ向唐竹に斬られながら。雪那はそれを心底思い知る事となった。
工夫は刀使の特性・『写シ』である。
どのような攻撃であっても肩代わりし、自身には僅かな痛みしか与えないこれは、篝たち柊の剣士に天啓を与えていた。
――折神を守護し、いざとなれば大荒魂と刺し違える。それを為すには、守る為には我らは一度斬られた位で死んではならない。
攻撃は最大の防御なれば、絶対防壁たる『写シ』もまた最大の攻撃手段と心得よ。刀使は一度であれば殺されてもよい。それは自刃であっても同じ事である。
我が身を案じず攻撃を行う。
我らにとって真の攻撃とはすなわち相手のみを害する事ではなく、こちらごと相手を害する事である。
自身の身体が刀の間合を、道筋を阻害するのなら、その身体ごと斬って捨てる。
篝は右手だけで刀を振り下ろし、自身の左手ごと雪那を唐竹に叩っ斬っていた。
『写シ』を行使する事が前提の刀使とはいえ、まさかそんな。こんな捨て身の方策を敢行するとは。……ありえない。雪那は驚愕の中で、そう思わざるを得なかった。
いやしかし。だからこそなのか。
斬られて『写シ』が解けた雪那は、執念の塊のような剣を振るった篝を見続ける。
『写シ』があるから大丈夫だなんて、刀使ならば誰しもが一度は口にするし思うだろう。だがそれを自分自身で失くす事など誰にか出来よう。
死中に活を求めるだの捨て身だの、そんな物この刀使の前では陳腐と映る。…為すべき事を必ず為す。それこそが柊が柊である故であり、今の雪那が負けた理由。
そう、彼女こそ折神紫の絶対防壁。柊の刀使は今までもこれからも、自身の意味と価値を刀に、折神に見出し続けるのだろう。きっとずっと、それが定めなのだろうと、雪那は悟った。
「…………気持ち悪いわ。貴女」
「何とでも。 私の勝ちね」
歩き去る篝を尻目に、雪那は次こそはと息巻いたが、彼女と再戦する事は二度と無かった。篝自身が雪那との再戦を拒み続けたのもあるが、一番の理由は篝が刀使としての力を失ってしまったのが原因だった。
―――鎌府に戻ったら、今度こそ勝ってやるんだから。
これから相模湾に向かう雪那の想いが果たされる事は二度と無く、その結末は別の形で表れる事となる。
そして暑い時期が訪れる。
9月、その化け物は相模湾岸より、突如として現れた。