BanG Dream! 二つの星と笑顔の魔法! 作:黒マメファナ
上原さんが店を出て少ししてから、つぐみはエプロンを取って俺の向かいに座った。手には薄いピンク色ソースがかかったかわいらしい印象のあるケーキが二つあり、温かく淹れたての紅茶と一緒に机の上に置かれた。控えめなジャズのBGMは、この空間に長居をさせる効果があるらしいと、何かのテレビ番組で聴いたことがある。そんなピアノとハイハットが奏でるスウィングという独特の──小節の頭を伸ばす技法を用いたリラックスするような柔らかい音に包まれながらつぐみと向かい合った。
「ごめんね、ひまりちゃんのこと」
「いいよ、いや……ちょっと強引だなとは思ったけど」
「だよね」
「でも、まぁああいう子も苦手じゃないから」
そもそも人間的な相性で得意も不得意も感じたことはないけど。強いて言うならガタイが大きく言動全てに威圧感のある人間くらいだろうか。そんな人物に積極的に関わる機会なんてないからやっぱり不得手を感じたことはない。特に異性に関しては。
上原さんはそりゃ強引だけど、明るい子は好きだ。笑顔がキラキラしてる人はそれだけで俺の気分も明るくしてもらえる。弦巻こころを追いかけてる人間が苦手なんて言うわけはないだろうけど。
「それで、大地くんはどうなったの?」
「ああ、あの後ね、軽く連絡した通りなんだけど」
「こころちゃんの家で一ヶ月過ごすって?」
「うん」
結論から言えば。過程にはもう少し複雑で、こころにとって笑顔を損なう事情があるのだろうけど。俺も今の所はその事情については聞かされることもないし、気づきも得ていない。とにかく、結論から言うとそれまではステージを見上げることしかできなかった弦巻こころの笑顔が、左手下を見るとあるってことだ。少なくとも一ヶ月の間はそういう日々が続く。
「大地くんは──」
そこで、つぐみは目線を俺から切って紅茶のカップを持つ手元に、そして左斜め下に移動させる。カップの持ち手に右手の人差し指を通し、左手人差し指と触れ合わせて、言葉を探している。顔を僅かに傾けてボブカットの茶髪がゆらりと湯気のように揺れた。
それから、時間にしてほんの二秒くらい止まってからつぐみはようやく言葉の続きを捕まえたようだった。
「──嫌じゃない?」
「嫌ではないよ。予想してなかったから戸惑ってはいるけど」
「そっ、そっか」
安堵だろうか、あるいは落胆だろうか。どちらとも取れるような少し長めの息を吐いて、つぐみはまだ熱いだろう紅茶に勢いよく口をつけて顔をしかめる。
すかさずほんのひとくちふたくちしか口をつけていない水を差し出すとそれを一気に半分くらい口に入れて、今度こそ間違いなく安堵であろう長い息を吐き出した。
「あ、ありがと……」
「心配しなくていいよ。俺のやることは少ないし」
「うん」
「……あ、そうだ。一回は断ったんだけど、どうしてもって黒服さんが譲らないから」
心配しなくていい、と言われてもそうはいかないのがつぐみの性格だ。心配性とかそういうんじゃなくて、あの時自分も一緒にいたのに自分は何もしていないという罪悪感と責任感。頑張り屋で、それが彼女のいいところでありまたそれが時折暴走してしまうという欠点でもあるから。
俺は、そんなつぐみに昨日、こころにおやすみと言って部屋に戻った後にやってきた黒服さんから提示された
「ほう、しゅう?」
「流石にこんな大変な狂言の片棒を担がせるんだから、対価を払うべき、らしい」
「そうなんだ……えっとそれで?」
「夏休みにどこか行きたいところ言ってよ。なんなら海外でもいいから」
「えっ?」
お金は、一度にもらいすぎるとヤバいからと交渉しバイトより少し多めくらいもらっておいて、それじゃあ釣り合わないと言われて俺が保留にしているのは弦巻グループ所有の別荘もしくはホテル等の福利厚生サービスを最大一週間受けられるというものだった。移動も黒服さんが手配してくれるらしく、日本全国名所、果ては海外でバカンスを楽しむことも可能らしい。
保留にしていた理由は行く相手が見つからないから。両親は特に旅行を楽しいとは思わないタイプの人間だし、一週間も休みはとれない。でもつぐみがいてくれるならそれに越したことはない。
「い、いいのかなわたしが……何もしてないのに」
「何もしてなくていいよ。心配させたお詫びの気持ちだから」
「大地くん……ううん、ありがとう」
心配させたお詫びなのに、お礼を言われてしまうとむず痒い。もちろんつぐみは昔なじみであり、ここ一年くらいで再会し今の関係を築いている。二人で旅行なんてする間柄じゃないため複数人でというのが望ましいだろうか。対応策としては上原さんを始めとするつぐみと仲の良い友達と行っておいでと言うことくらいか。
「大地くんが頑張った報酬なんだから、大地くんがいないとダメだよ!」
「いやいや、俺としてはそもそも報酬もいらないんだって」
「でもダメだよ、行くなら大地くんも一緒」
眉を持ち上げて、ちょっと不満顔をする。つぐみがこんな表情をするのは珍しい気がする。少なくともぱっと記憶から引っ張り出してこれるほどよく見る表情ではない。
俺はわかったと小さなフォークを手に取る。これはつぐみのお母さんが作っている季節のケーキだろう。淡いピンク色が示しているのはやっぱり桜だろうか。一口に切り分けて口に運ぶと目の前からすごく視線をぶつけられる。
「どう?」
「ん……ほんわかした甘さがいいね、おいしい」
「よかった、ちょっと自信なくて」
「え、これ……つぐみが作ったのか?」
「うん」
「いつの間に」
「ふふ、わたしだって上達してるんだよ?」
どうやら口の中でほどけるような優しい甘みがするケーキはつぐみの習作であるらしい。俺が勘違いしたということは気づくことないほどに腕前が上達してることになる。
バンドと家の手伝いとそれから学校は一年生の頃から生徒会庶務として活動しており明日からは一気に生徒会副会長だ。多忙であるはずの彼女はどうやってここまで努力ができるのだろうか。情熱と気力を保てるのだろうか。正直なところ羨ましい。
「おいしかった、幾ら?」
「ううん、紅茶もわたしが自分で勝手に淹れただけ、ケーキも商品じゃなくてわたしの趣味みたいなものだから」
「そっか」
「そうなんです、ふふ」
あっという間に完食したケーキと同じ、優しい甘みのする笑顔を向けられて俺は思わず目を細める。
──思えば、受験期はハロハピだけが原動力だったわけでも、一人で頑張ろう、もっと頑張れると机に向かっていたわけじゃない。むしろなれない努力に疲れて、この羽沢珈琲店で頭に入るのか入らないのかわからない状態で参考書を読んでいたことも多かった。
『大地くん、休憩にしませんか?』
集中が切れてくると決まってつぐみは、紅茶を淹れて、簡単な手作りのお菓子をくれた。今と同じ言い訳をして、お代は一度だって払ってこなかった。迷惑な客だよなと自嘲するとつぐみは同じ顔で、同じ笑顔で首を横に振ってくれた。時には外に出て散歩しながら世間話をしてくれた。
合格決まったことを一番最初に報告したのも、つぐみだった。彼女はまるで自分のことのように少しだけ涙ぐんでおめでとうと笑ってくれた。
「ありがとう、つぐみ」
「えっ? 急にどうしたの?」
「ずっと言ってなかった気がしたから」
「ええ? 言ってた気がするけど……どういたしましてっ」
返して行きたい。一年間もらったものを、これからこうして会える時間をめいっぱい使って笑顔と優しさを返してあげたい。俺は強くそう思った。こころのように、つぐみのように。
それが今の俺にできる、彼女への精一杯の恩返しであると信じているから。
「それじゃあ、またのご来店をお待ちしてます!」
「うん、またね」
「はーい!」
つぐみとしゃべってたことで長めの昼食だったせいか、弦巻家にある自分の部屋に戻ってきてのんびりとスマホでゲームをしたりテレビを見たりしているうちにあっという間に日は傾き始めていた。
ふと、暇つぶしの意味を込めて俺は机に向かう。机上には入学祝いに買ってもらったちょっと値段の張るノートパソコンを開いて、なんとなくもらったチケットがどれくらい価値あるものなのか、そして『Afterglow』というバンドがどのくらい人気があるのかを調べてみた。
「……え」
ツイッターに呟かれていたもの、その文字に思わず机の上に無造作に置いてあるチケットをまじまじと眺めてしまった。俺が本当にハロハピにしか興味がなかったのがよくわかるけど、このガールズバンド流行期において地元民なら抑えておきたい注目バンドの一つがつぐみや上原さんの所属する『Afterglow』なんだそうだ。活動はもう五年目に突入するようで去年までとは違い今年は大きなフェスに出演のオファーがあるという噂もあって、プロ入りも時間の問題と言われる実力派アマチュアバンドである『
「マジか……すごいなつぐみ」
「何を眺めているの?」
「こ、こころ!」
「ノックしたけれど、反応がなかったから」
「あ、ああごめん……でも、これからは気を付けてほしい」
いつの間にか後ろには不思議そうな顔をした家主、でいいのかこの場合は。とにかく俺のような居候とは違う本来の住居者である弦巻こころが立っていた。今回は昔なじみのバンドを検索してただけに過ぎないけど、俺だって一応は健全な男子なのだから有り余ったエネルギーをどうにかしている場面で何を眺めているのと訊ねられたらこのリアクションじゃ済まない。聞こえないくらい集中してた俺も悪いわけだけど。
それはさておき、こころは俺の机の上にあるチケットと検索された画面を眺めてぱっと笑顔に変わる。いつもの、こころのフラットな表情だってことは過ごしているうちにわかってきた。
「あら、Afterglowのライブに行くのね!」
「それなんだけど、日付がね」
「日付?」
ここに来たということは練習と会議はつつがなく終了し、各々の家に帰っていったのだろう。こころは俺のベッド──俺が昨日、そしてこれからしばらく寝て起きるだろうベッドに腰掛けてこころと出かける日と、デートをする日と被っていることを話した。上原さんによってほぼ強引に手渡されたチケットをどうするべきか、こころに相談がしたかったことも。
だが彼女は、俺の迷いに対してあっさりとした解決方法を提示してきた。
「ならあたしとのデートはキャンセルでいいわよ?」
「……え、いやそれじゃあダメでしょ」
「どうして?」
「どうして……って、こころ? 本気で言ってるの?」
そもそもなんで俺が、ハロハピの──そして弦巻こころのただのいちファンでしかない俺がそんな彼女とのデート予定を立てているのか、どうしてこの弦巻家の客間に私物を大量に置いて占拠してるのか、ということについて完全に忘却してしまったかのようにこころは首を傾げた。あまりに意味のわからない解決策に、俺は少しだけ苛立ち気味にこころに向き直った。
「俺、こころと一緒にいなきゃいけないって話だった気がするんだけど」
「
「……だけど」
「大地は、自由に過ごしてほしいの! あたしと一緒にいてほしいだけで、嫌なら別に構わないわ!」
彼女の言葉に対して、口を開き何かを言いかけて、それがなんであれ適切じゃないと判断して口を閉じた。我ながら間抜けな数秒だったと思うけど、俺は苛立っていたから、熱されて正常でなくなった思考に冷水をぶっかける。それが焼け石に水とはならなかったようで、そもそも苛立ちの正体も少し不明瞭だったせいか、すぐに冷静になれた。
「嫌なわけじゃない。俺がこころと一緒に
「そうなのね」
「だけど、チケットをもらって、やっぱり行きませんってのも居心地が悪い」
「そうね、もらったのなら行くべきだわ!」
「けど一枚を、もう一枚ねだるいい方法を思いつかない」
「もう一枚?」
幸いなことに今のところデートでのタスクは季節限定のジャンボパフェを食べること。そしてライブは十八時からだ。時間の調整をすればなんとかなるだろう。
だけどそうじゃない。本来なら一日一緒にいるはずのこころを予定が変わったからと言って解散するのは違うと思う。それは納得できる行動じゃない。
「大地は、あたしとライブに行く方法を探していたのね」
「……うん」
「それなら簡単よ! あたしがお願いしてあげるわ!」
あっさりと、これまた随分あっさりとした解決方法を提示するこころに、だが今度は全く不快感も苛立ちも感じなかった。フラットな笑顔とは違う、キラキラとした星の瞬きみたいな優しい笑顔に思えた。
──同時に、扉をノックされ、俺が何かを言うよりも前にこころが素早く立ち上がり扉を開ける。
「あら、誰もいないわね?」
「……なんでだよ」
「でも何か引っかかってるわ!」
「なんでだよ」
外側のドアノブには小さな紙袋が引っかかっていた。ご丁寧にミッシェルのプリントがされた紙袋だ。サンタさんにしてはあまりに季節外れすぎるなと苦笑してしまう。
その中身には俺が持っているものと同じ日付と同じ開始時間が記された「CiRCLE」のライブチケットが封入されていた。一体どうやってこの短時間で、という疑問は野暮だということは昨日から強く実感しているため言葉にはしない。客間の内装がそれを物語っている。
「こころ」
「なあに?」
「それ、一旦俺にもらえる?」
「ええ、いいわよ!」
紙袋ごと手渡されて、俺は思わず自分がやろうとしていることの恥ずかしさを客観的に振り返ってしまった。顔どころか耳が熱くなっている。でも、これじゃないと納得できない。
そうだ、頼まれたからじゃない。俺がそうしたいからだ。俺が、弦巻こころのことを知りたいと思った。
──だからこれはその一歩目、それも大事な一歩目だ。今でもデマという噂が囁かれているニール・アームストロング船長が月に踏みしめた一歩のように、幼児が震える脚でものにつかまり立ちすることなく踏み出した一歩のように。
「あー、えと、俺と一緒に、ライブ行きませんか?」
「もちろん! いーっぱい、楽しみましょうね!」
「……うん」
その時のこころの笑顔は、満面の笑みをきっと俺は忘れないだろう。この一ヶ月が終わっても、俺とこころがまたステージの上と下という世界に分けられても、歌っている時の笑顔を見上げながら。
こころはその紙袋を手に持ったまま、まだ話足りないのか再びベッドに座る。ここで本物の恋人同士なら多少はロマンチックな雰囲気になるのだろうか。変な妄想をしてしまい、少し居心地が悪くなってしまった。
「どうしたの?」
「あー、いや。それで、もしかしてハロハピの話でもしてくれるの?」
「そうね、今日はやっぱりミッシェルは来なかったわね」
「そうだったね」
どうやら、こころはミッシェルと奥沢美咲がイコールでは繋がっていないらしい。会議中に観察していた感じだとはぐみちゃんとなんと薫さんも言動からそれが伺えた。逆に花音さんだけはちゃんと認識できているらしい。だから俺がそれを無理やりなんとかしようなんて考えちゃいない。あれだ、キグルミの中身を暴いても面白いって感情は湧かない感覚だな。
「でも、そういう時は代わりに美咲がDJをしてくれるの! 美咲もミッシェルに負けないくらいとーっても上手なのよ!」
「ミッシェルのDJはいつ見てもすごいと思う」
「でしょう!」
主にあのつまみやらを動かすのに向いてなさそうなデカい手でどうやって演奏してるのか、とか。噂になっていた弦巻グループによる最新技術が詰め込まれてるという話は、内部に入ったらどうやら事実であることがわかったし。きっと超技術でなんとかしているんだろう。詳しいことを調べたら消されそうな予感がある。
余計なことを考察して、実のところはさっき抱いていた変な妄想から意識を逸していると、こころは何を思ったのかベッドから立ち上がり俺に近づいてきた。
「な、なに?」
「さっきから大地の目が見えないもの」
「あ、あーえと、それはですね……」
「どうしたの?」
覗き込まれて疑問を抱かれてしまえば隠し通すことも難しくなる。だけどこれを暴露したらもしかして黒服さんによって尋問、拷問という地獄の門が開かれるのではなかろうか。ワンチャン処刑されたりしないだろうか。物理的は無理でも社会的、精神的な死が待っているんじゃなかろうか。少しビクビクおどおどしながら俺はなるべく黒服さんに聴かれたくないという意味を込めてこころの耳に向かって小さな声で話した。
「……なるほど」
「ご、ごめん」
「いえ、あたしが迂闊だったわね? 気をつけるわ!」
「あ、うん……ありがとう?」
だがこころは思ったよりもあっさりとした態度で納得してそのままソファに座った。
別に相手も女子高生であるため何も不思議なことじゃないが、純粋無垢で天真爛漫な弦巻こころにもそういった言うならば下世話であり、だけど人間として誰かを愛するという以上は必要不可欠な知識を有していることになる。
すると俺はもしかして、余計に恥ずかしいことを口走ったのではなかろうか。そう考えるとソファの方を向き直ることができなくなってしまった。
「大地」
「な、なに?」
濁流のように溢れ出す後悔の言葉をせき止めたのは、短い俺の名前を呼ぶ透き通った声だった。だが声に返事をしても続きの言葉が返ってくることはなく、俺はゆっくりと振り返る。もう空は赤色ではなく紺色に変わり始めており、その僅かな光に照らされるようにこころの声がもう一度聴こえた。
「大地」
「……こころ?」
もしかして、こっちに来てということなのだろうか。立ち上がって俺はソファの方へと向かう。ふとテレビを見ると暗転した画面の向こうにはうつむき気味のこころの顔が映されていた。手は膝と膝の間に置かれており、なんというか少しだけ気まずそうな顔をしていた。また、俺が見たこともないこころの表情だった。
俺が左隣に座ると、こころは右に少し、窓際に身じろぎする。呼んでおいて近づきたくはないのか。
「お話、続きをしたいの」
「うん」
「でも、大地は……あたしのことを襲おうとしてる」
「してない、してません」
手を高く上げて降参のポーズをしながら己の身の潔癖を証明する。変なことを考えて意識はしたけど邪な考えを持ってはいないです。それこそ黒服さんによって俺はどんな目に遭うかわかんないからね。
そもそもの話、そもそもの話をするんだけど下世話なこと、もっと明け透けに言うとえっちなことを考えていた。これは事実、このまま不意にこころを押し倒したら、勢いに身を任せてしまったら──なんて居候の分別も弁えないクソみたいなことは考えた。
でも考えたからって言って実行に移すわけじゃない。逆に確実に実行に移さないと誓う覚悟がある。不安なら契約書作成してもらってもいいし血判押印してやる。
「そりゃ、ほら恋人同士がこういうシチュエーションなら俺も多少強引な手段を取るかもしれないけど」
「恋人同士よ」
「偽のね!」
「でも、恋人同士のように振る舞うべきだわ」
「対面上はね!」
──と、押し問答になり始めたあたりでこころの口許が緩んでいるのがわかった。
もしかしてわざと言ってませんか? 年下女子にからかわれて遊ばれているという状況にちょっとだけショックを受けていたが、こころは俺の顔に何か満足したようで、またいつもの笑顔に戻った。こころがそんな悪戯をするなんて、なんだか意外な一面だ。
「冗談よ! あたしは、大地のこと信じているもの」
「どうして? 一応だけどこうして知り合ってから俺たち、30時間も経ってないからね」
「そうね、なんでかしら?」
「え、理由ないの?」
「ないわね! 勘みたいなものだわ!」
勘みたいなもの、か。それでこの純粋なキラキラ笑顔を向けられたら反論できなくなるよ。本当は他人同士なのに、パーティの一日を誤魔化すためだけの関係なのに。それが終わればステージの上と下、二人の世界は元通りに分割されるのに。
俺はどんどん、たった一日、しかも丸一日一緒にいたわけでもないのに、この空間の居心地がどんどんよくなっていくのを感じていた。他愛のない、今日あったことを話すのが楽しい。そして話してもらうのが楽しい。
上原さんに会った時のこと、薫さんとはぐみちゃんのせいで花音さんがナイトくんとジョーさんで名前を覚えかけていたこと。桜のケーキがおいしかったこと、奥沢さんがこころに対して何度も何度も俺の部屋に入る時は気をつけてよと念押ししていたこと。
──たくさんの話をしているとやがてこころのお腹が明るい音を立てた。
「晩ごはん食べに行こう。話の続きはそれからだね」
「そうね!」
こころが先頭に立って食事をするスペースまで案内してくれる。この道も早く覚えないとなと道順に気を配っているとこころの歩みが少しだけ遅くなった。
こころって猪突猛進なように見えて案外、細かいところまで気付いてくれるんだな。
「ありがとう、こころ」
「どういたしまして! でもゆっくりでいいわよ!」
「うん」
今日のメニューは肉厚の網焼きの焼き跡のついたステーキと彩り豊かな生野菜サラダ、そしてコンソメスープだった。こころはライスが──ここは何故かお茶碗だったけど、山盛りになっており俺はその食欲にびっくりしてしまう。バンド練習した後はお腹が減るし、エネルギーを使っているからということらしいけど。あの、俺はもうちょい小盛りでお願いします。
「いっぱい食べないと大きくならないわよ!」
「もう俺は横にしか大きくならないんだよね、これが」
もう十八、そのうちすぐに十九になる俺としてはもうとっくに身長が伸びるフェーズは終了している。もう俺の成長ホルモンは既に眠りにつき、もう目覚めることはないだろうから。
こころはそれなりに小柄な身体のどこに入ったんだろうというくらい食べた。ステーキを俺と同サイズ、サラダもスープもライスもおかわりをした。しかも山盛りだ。明らかに俺より食ってる。
「ふふ、昨日も思っていたけれど誰かと一緒のご飯ってやっぱりとーっても楽しいわね!」
「そっか、俺はこころの笑顔見てるだけで楽しいよ」
「あたしは、大地が楽しそうにしてると楽しいわ」
笑顔を投げかけあって、そしてその笑顔をもらって二人でまた笑いあう。そしてご飯を終えるとお互い自分の部屋に一番近い風呂に入って眠りにつく。これで昨日と同じ流れで、それが毎日のルーティンになるんだなと思っていた。
──だがどうやら、こころにとってはそうでなかったらしく。
「大地! 遊びに来たわよっ!」
「……だから、急に来たら危ないって」
本当に危なかった。さてとって賢者のための時間を過ごそうとパソコンが立ち上がったところで済んでて本当によかった。
それはさておき、なんと寝間着姿のこころが部屋に突撃してきたのだった。どうやら寝るまでの間、おしゃべりをしに来たらしく、昨日はハロハピで通話をしていたのだと明かされた。
「それにあたしの部屋にはテレビがないのよ」
「まぁ寝室にテレビを置くバカはそういないでしょ」
「大地みたいに?」
「そ、俺みたいに」
くすくすと笑ったこころはリモコンの赤い電源ボタンを押した。ちょうど夜ニュースが途中からになっており、こころはソファに座ってそれをじっと見つめていた。
俺はそれを左隣に俺が来るのを待ってるんだと判断し座ると目線はテレビから変わらないままこころは言葉を紡いでいく。夜だからか、いつもよりも静かな声だった。
「色んなニュースで溢れているわね」
「そうだね」
「大地は花粉症とか大丈夫かしら?」
「ああ、明日すごいってね。大丈夫だよ」
「あたしも全然花粉症にならないわ、だけど花粉症の人はこの時期が好きじゃないのかしら?」
「まぁ……好きじゃない人もいるんじゃない? でも花粉をなくすことはできないよね」
「そうね、スギだって、ヒノキだって──みんなこの暖かい季節を待っていたんだもの」
パタパタと両足を交互に動かしながら、花粉情報やニュースでインタビューを受けるマスク姿の通行人を見てこころはそんなことを呟いていた。
春は、別れの季節であり出逢いの季節、でも生物にとってみれば目覚めの季節なんだ。目が覚めて、また日差しの下で元気よく活動する。動物も、虫も、木々も。それを人間の都合で良いと悪いは決められないよな。
「不思議ね」
「何が?」
「大地がいてくれるの、ずっとずっと前からそうだったみたい」
「……それは気のせいだね」
俺のコメントに対してこころは同意の代わりにそんな感覚の話をしてきた。
お互いがお互いを知っていたのは、少なくとも俺はこころを知ってから約一年が過ぎようとしている。その影響もあるんだろう。ステージの上にいた彼女が今は隣でニュースを見ながら、一生懸命に俺との時間を、空間を共有しようとしている。俺にとってみればそっちのほうがよっぽど不思議な感覚だよ。
──少しの沈黙があり、いや、沈黙が長すぎるな。そう思ってテレビから右隣へと視線を向けようとすると、右肩に黄金の穂波を思わせる髪と、太陽の香りが俺の鼻孔をくすぐった。
彼女の頭を俺の肩で、身体で支えてるのだと気づき、やや焦りながらその表情を伺った。
「こ、こころ?」
「ん……」
「……寝てる、というか眠かったのか」
いつもはキラキラと輝くような瞳は瞼に遮られ、穏やかな寝息がテレビの音の間を縫って聴こえてくる。静かな声だったのは睡魔という海原に舟を漕ぎ出してしまったからか。時計を見れば良い子は寝る時間はもう既に三十分以上も前のことだ。いつもはその時間に寝てるとするなら、仕方のないことだろう。
一瞬だけ、肩を持って揺すろうか、それとも抱きかかえようか、悩む。ソファの背もたれと彼女の背中には隙間があって右手をそっと動かせばこころの右肩に触れられる。
「こころ」
「だい、ち?」
「自分で部屋まで帰れる?」
「ん」
頷きはしたが、まぁ無理だろう。こうして会話が成立してはいるけど既に受け答えの最中にもこころは睡魔の波にさらわれて、夢の世界へ沈もうとしている。このまま運ぼうにも俺はこころの部屋を知らないし、黒服さんはこの状況なのにも関わらず出てくる気配を見せない。
もしかして普段のあれは労働に値するのか、そうしたらもう傍にいないのかもしれない。すると、俺の部屋で寝かせる? いやいや、それこそ後でこころになんて言われるかわからないだろ。
「ごめん、こころ」
「なあに……?」
「文句は後で受け付けるから」
幸い、というかおそらく客室の備え付けであろうベッドは俺とこころが揃って眠って、どっちかが一回くらい寝返りを打っても大丈夫なサイズをしている。意を決した俺はなるべく起こさないようにと、こころを抱き寄せる。
何をされるのか察したのか、こころの腕は俺の首に巻き付いて抱きかかえやすくしてくれた。そのままベッドに運び、部屋に来た時に持っていたロケットのカタチをした抱きまくらを隣に置くと──クセなのだろう、こころはそれに抱きついて穏やかな寝顔で深い眠りについていく。
「おやすみ、こころ」
テレビを消し、枕元にあったリモコンで電気を消す。こころは右で、俺はなるべく左端で彼女を視界に入れないようにしながら。
いやまぁしばらくスマホとか見てましたけど、ちょっと簡単に寝れそうな空間じゃないからね。枕が変わると眠れないタイプと誤魔化したいところだが、残念なことに枕は元は俺んちで毎日使っていたものだった。