─夢を見ていた。
夢の記憶は無い。
だが、目頭に溜まった熱い物の存在が、その夢の重要さを身に染みて味合わせる。意地悪な夢だ。
記憶の無いとは正確ではない。記憶の片鱗に夢の存在があるのだが、思い出せそうで思い出せないのだ。
夏にも関わらず分厚い毛布から顔を出した人物は、稀に見る美貌を持ち合わせた少女だ。腰まである長さの髪を一つのバンドで纏め、低めな身長。その美貌故大人な雰囲気を漂わせているが、か弱い体が子供を感じさせる。
眠気を覚ます為に腕を組んで大きく伸びる。
今日は友人と「ある場所」に行く約束をしている。が、その友人は毎日1時間程遅刻してくるのが定石なので、ある程度はゆっくりできそう。
大空 時 (おおぞら とき)の朝のルーティンは決まっている。
鳥の鳴き声一つ聞こえない朝にゆっくり目覚め、まず一番先に向かうのは洗面台。が、顔を洗う為ではない。顔色と綺麗に整った歯を確認する為だ。ちなみに、「よし!」と頬を叩いて意気込むのもルーティンの一つ。
その後、用意されている筈の朝食はトキが自分で作る。
まだ未熟故、手の凝った料理はできないが、目玉焼きやスクランブルエッグ、ベーコンを焼く上手さなら誰にも負けない─はず。
それをパンに乗せ、ゆっくり食した後は皿を洗い学校なのだが、今日は休日。
「暇だなぁ。」と朝日が差し込む窓から外を見詰め、吐き捨てる。
朝日が目に染みる程のいい天気だが、「よし!外で遊ぼう!」とはならない。
理由はただ一つだけ。
外には出会したくない人が腕を組んで待っているのだ。
思わず「うっ」という声が盛れるが、地獄耳(腕組みしてる人)にバレる事はない。
地元でも有名な子供大好きおじさんで、名を(トロイ)と言う。
幼児誘拐の常習犯であり、身長二メートル近くある肥満体型オジサン。だが無理矢理連れて行かれる事は無い。
トロイは過疎地を回って子供達を探すので、トロイが粛清される事はない。 過疎地に子供を持つ親達は常に一緒に子と行動を共にするが、トキに親はいない。
要するに、絶好の狩場って訳だ。
「正攻隊様が捕まえてくれたらいいのに。」
本に出てくる騎士隊の名前を綴る。胃から込み上げて来た溜め息を吐き、木の模様があるカーテンを勢いよく閉めた。
もう13になったトキに人形遊びは似合わないし、絵を描こうにも描く道具がない。2階立ての家なので、走り回る事は大家さんを困らせる事になるのだ。
大家さんに「走り回るな。」とは言われた事がないが、トキはお世話になっている大家さんを困らせない為に、自ら暗黙のルールとして走る事はしていない。
まだ幼い女の子なので、やはり外で遊びたい。
胸騒ぎを沈めるために深呼吸。
もし、トロイに出会したとしても暴言の右ストレート。
それを心掛け、二階に存在する老朽化で滑りが悪くなった木のドアを体当たり気味にこじ開ける。
トロイがいない事を確認し、すぐさま荷物を取りに行く。
昨夜事前に用意していた荷物(カバン)を背負い、トロイに勘づかれる前に裏口へと戻った。が…。
「トキちゃん。こんばんは。ケーキあるけど…どう?」
気味が悪い程汗を垂らしたトロイが、裏口に立っていた。
臭いが酷いので、咄嗟に鼻息を止める。が、脳を突く激臭に耐えられず、目頭に熱いのが溜まった。
─落ち着いて。ちゃんと対策はあったはず。
「えーと、えーと、暴言の右ストレート!」
あからさまに焦り過ぎてしまった。
出たのは暴言の右ストレート。間違ってはいない。
思考しては捨てを何回も繰り返し、辛うじて出た言葉は。
「えー…ケーキ美味しそう…。」
鼻息を立てる度に激臭を吐くトロイの影響で、思考回路が破壊され、今にも目が回りそうだ。
勿論、思考能力は現在ゼロに等しい。
「でしょでしょ!じゃあ、僕の家で食べよ?」
そう言ってトロイが取り出したのは、又もや異臭の漂う箱を目の前に差し出した。恐らくケーキだ。
激臭が至近距離。
暴力の暴言の右ストレートは、激臭の左ストレートに惨敗。
激臭で放心状態なり、トロイの質問を静寂で返答する。
勿論、そうなるとトロイの手中で、肯定と自分勝手に決め付けたトロイがトキの手をガッシリ掴み、連れて行こうとする。
無理矢理家から引っ張り出されたトキは、未だに放心状態。
地面へと続く急な階段をゆっくり降りるトロイの背中にいるが、喉の奥に謎の存在が。気持ち悪い。
臭い等の感覚は全て捨て去った。
「トキちゃん。もう、家に住まないかい?だって、君親居ないし、一人じゃ忙しいでしょ?僕とならいっぱい遊べるしさ。ね?」
放心状態のトキが返す返答は、勿論静寂。静寂は全て肯定となる。
余程嬉しかったのか、トロイは木の階段でジャンプ。
100キロを優に超える重りを老朽化した階段は耐えれるはずがなく、結果は大きく割れた木の階段と倒れるトロイ。
「何事だ!!」
暗黙のルールを破る所か、爆発音を鳴らしたのだ。
そうなると出てくるのは一階に住む大家のサイガ(大家さんと呼べと言っていた。)だ。
あまりの激臭に大家さんは指で鼻を抑えるが、放心状態になっているトキと、倒れるトロイを見て一目瞭然。
地元で有名なトロイとまだ幼いトキだ。あと、腐ったケーキ。
揃い過ぎた証拠に、大家さんは思わず笑みが漏れる。
「トロイ、美味しそうなケーキだなぁ。
今回は言い逃れは無理だぞ?弁償だ弁償。分かったな?」
皮肉をタップリ塗った大人の本気の右ストレート。
タダでさえ刺さりやすい脂肪に遠慮無く刺さっていく光景は、舞台上で踊る駄作のピエロ。
罵倒耐性のないトロイはその場でうつ伏せになったまま黙り。
そんなトロイを片目に、大家さんは激臭に包まれ放心状態となったトキに近付いた。
「ほら、トキ。お風呂行くぞ。臭くて仕方ない。」
放心状態で倒れるトキをお姫様抱っこで持ち上げる。
トロイの問題もあるが、石像のように動かないのでスルー。
▫️ほら!後は自分でやれ!
放置されたのは、大家さんのお風呂場。
辛うじて保つ意識の中、それを阻止しようと未だに激臭が襲う。
実は、大家さんの風呂場を借りるのは三度目。
トロイは以前からトキに目を付けていて、三回中、三回全敗。だが、トロイは毎回ドジって失敗に終わっているので、全勝?だろう。
その度にお風呂を借りているのだ。
「服は俺が用意してやるから、上に行って着替え直せ。」
風呂場越しにそう伝えられ、何回も頷く。
ソラとの約束までは余裕がある。
トロイがどうなったかは知らないが、時間を食われずゆっくり約束の場所まで行けそうだ。
激臭に染まった服を脱ぎ捨てる。
「お気に入りだったのになぁ…。」
純白のワンピース。動き安く、空を舞うようなスカートはまるでモンシロチョウのようだった。が、激臭に犯されてしまった。
今までトロイの激臭によって捨てた服は数知れず。
大家さんから頂く僅かな小遣いを溜め、買った服が殆どだった。
愛着が湧いているのもあり、思わず目頭が熱くなる。
「頑張って貯めて買ったのに…。」
まだ若いの女の子だ。
町に売ってある可愛い人形や、服が欲しくて欲しくて仕方ない。
だが、「純白のワンピース」を買う為に、欲を支配し、今まで堪えて頑張って来たのに、全部消えて無くなった。
「トロイのおじさん大嫌い…。」
激臭に染まったワンピースを力強く抱き締め、目頭に溜まった熱い物が流れ出てくる。
暫くの間、そうしていると…
「トキ。やっぱり服は上で着替えなくていい。
さっさと臭い汗流して、友達とこ遊びに行きな。」
「うん。」とだけ返事を返すと、石を積み重ね、隙間を粘土で固めた湯船に足からゆっくりと入った。
▫️大家さんこれって…!
激臭を取り除く為に30分程体を擦った後、風呂から上がったトキの手に握られていたのは「純白のワンピース」だった。
「お前が欲しそうにしてたから買ったんだ。
まぁ、結果的にすれ違ったがな。たまには甘えろ。」
満更でもない。
普段険しい顔でいる影響か、険しい顔が崩れ、言葉で照れ隠ししている大家さんの顔はとても魅力的だった。
「ありがとう!お父さ…」
つい出てしまった言葉に、強く手で口を抑える。
トキに親はいない。
それだけならまだいい。しかし、大家さんの前で言うべきではない。
三年前、一度大家さんを「お父さん」と呼んだ事があった。
忘れもしない。
離婚のショックで酒に溺れていた大家さんは、「お父さん」と呼んだトキを手加減無しでビンタした。
大人の力、恐怖を教えられた機会でもあり、大家さんの前では言ってはいけない言葉(暗黙のルール)として追加された時でもある。
過ちを再び犯すのは、あってはならないのだ。
その言葉に反応した大家さんは、無言でトキに近付く。
「ごめ…ごめんなさいっ!もう言いませんっ!だから…」
次の瞬間、襲い来るのは愛情の塊。
恐怖の余り目をつぶってしまっていたトキは、ある程度痛みを防ぐ為に手を前に持って来ていた。が、それを全部包み込む暖かい心。
トキは、大家さんの手によって抱き締められていた。
「すまんな…。
三年前の事、まだ謝れていなかった。」
「ううん。私、大家さんの事大好きだから気にしてない。」
「そうか。そうか。」と微笑みながら、纏めた髪を勢いよく崩ずし頭を撫でる。悪い気はしない。
「ほら、時間だ。遊びに行ってこればいい。
トロイの事は、俺に任せろ。」
快く返事をすると、純白のワンピースを身に纏った。
「大家…お父さん!行ってきます!」
「おう。行ってきな。」
純白のワンピースには感謝しかない。
薄汚れた私を唯一輝かしてくれる、そして大家との関係を取り繕ってくれた最高の一張羅だ。