はじまりの気持ち
褒められたい。そんな子供じみた動機だって、子供ならなんの問題もない。だから小さい頃の私の行動には、いつもそういう理由がついて回っていた。頑張っていて偉い、いろんなことを考えていてすごい、そうやって褒めてもらえるのは当たり前のように嬉しかったし、じいちゃんは特に褒めてくれたから私はますますいい気になった。けれど──。
「入学おめでとう──」
──スピーカーの音を耳が拾ってしまい、私の微睡は蜘蛛の子を散らすように飛んでいく。机から顔を上げた時に最初に目に入ってきたのは、窓の外に広がるキレイな青空だった。
ここは無人の教室。そして私が本来いるべきなのがスピーカーの先、トレセン学園入学式の会場。とどのつまり、やる気のないウマ娘たる私セイウンスカイは、初日からサボりを決め込んでいるのだ。
「日進月歩──是非とも──」
生徒会長にして七冠ウマ娘、最強の皇帝シンボリルドルフさんのありがたいスピーチも、今の私には心地よいそよ風のよう……そう、また眠くなってきたような……。再び瞳を瞼に閉じ込めながら、思考は緩やかに滑っていく。どうせ私なんていなくても、入学式はつつがなく進行しているし、とか。だから気にするな、そのままサボってしまえ、とか。きっとこれからも、予想通りで、期待以上なんかには、とか。滑って、滑り落ちていく。まるでそのまま眠ったら、奈落の底まで落ちていきそうなほど、だった。
「何してるんだ、こんなとこで」
後から振り返れば。あくまで後からの話で、その時は見知らぬ男が叩き起こしてきた以上ではなかったけど。
「見ない顔だな、新入生だろう? なんで入学式に出てないんだ!」
この正論男は最初から、私を掬い上げていたのかもしれない。鬱陶しくて暑苦しくて、それでいて私より本心を隠しがちな、私のトレーナーさんは。
〜セイウンスカイは正論男に褒められたい〜
「いきなり入ってきて、どちらさまですか〜?」
「俺か? 俺はここのトレーナー、チーム<アルビレオ>のトレーナーだ。君は?」
話題を逸らしたつもりなのに、真正面から受け止められた。太い眉と白い歯が、大きな声と合わせて大体の人物像を印象付けてくる。既にわかる、苦手なタイプだと。
「ごあいさつどーも、私の名前はセイウンスカイです。まあ、これきり会うこともないでしょうけど」
そう言って、席を立つ。眠気も飛んでしまったし、学園の中をうろちょろしてみようかな。入学式に今更出るのはやっぱり居心地が悪いし。とにかくこの教室からは出てしまおう、そのつもりだったのに。
「セイウンスカイか。いい名前だな、覚えておこう。俺は走りそうなウマ娘の名前は覚えておくことにしてるんだ」
「……なにそれ、本気で言ってますか」
走りそう、だなんて。
「ああそうだ。トレーナーとして、自分の目には自信があるぞ」
「あなたのチームはなんだか暑苦しそうで、私としてはごめん被りますけどね」
「そうだな! <アルビレオ>の練習はそれなりにハードだと自負している!」
こりゃだめだ、と再確認する。一瞬彼の言葉に惑わされたけど、ハードさを自慢するチームなんてまっぴらごめんだ。のんびりゆるゆる、ゆるーいチームがあれば……そうだ。
「そうだ。トレーナーさんなら他のチームにも詳しいんじゃないですか? 教えてくださいよ、練習の楽そうなチーム」
「それなら<アルゲニブ>なんかは、そういう話を聞くな」
すんなり答える。みすみす他のチームを紹介するなんて、この人は自分が何をやっているのかわかっているのだろうか。……まあ、いいか。どうせ私なんて、どこに行ったって。
「ありがと。それじゃ、ばいばーい」
「待て」
「……なんですか。別に私がどこに行ったって、いいじゃないですか」
「一つだけ言っておこう。セイウンスカイ、諦めるな」
……なんで。
「なんですかそれ。藪から棒に、知ったようなことを」
「トレーナーとして、自分の目には自信があると言っただろう」
「要するに勘と大して変わらないじゃないですか。さっきからずっと」
なんで。いい名前だとか、走りそうだとか。諦めてる、とか。
「君は強くなれる。これはそのためのアドバイスだ」
「初対面の人にそんなこと言われても、説得力なんて」
私が諦めたものを。私が諦めたことを。なんでこの正論男は、そう言い当ててしまうんだ。そんなふうに全てを見抜いた上で、私に期待なんかされてしまったら。
「俺は俺の目を信じている。君は『走る』と」
その期待すら、裏打ちされてしまうじゃないか。消えたはずの、遠いはずの、届かないはずの、諦めたはずの。
とうの昔に、終わったはずの。
※
なんてことない日だった。強いて言うならその日も青空だった。すっかり近所の人気者になっていたと思い込んでいた幼い私は、今日も褒められるような立派なことをしようと意気込んでいた。先に言っておくとするなら、これは誰かが悪い話じゃない。取るに足らない言葉で過剰に傷ついた私自身も含めて、大した話ではない。ただ、私が聞いた会話はこうだった。
「セイちゃん、いつかはトレセン学園に行ってしまうのかねえ」
「どうだろう、あそこはとんでもなく厳しいって聞いたよ」
「さすがに大変かねえ、可愛い子だけど」
いつも優しくしてくれる近所のおばあちゃんたちの会話だった。ひょっとしたらその会話だって、優しさから来たものかもしれない。私に聞かせるつもりだってなかった、そんな会話。けれど幼い私にとっては、忌避すべき冷たい現実だった。
微笑ましく、可愛らしい。それが私への賞賛の正体で、私は私が思っているほど素晴らしくなんてなかった。あまつさえ自分のことを天才だとすら思っていた。幼少期の無根拠な傲りに、ヒビが入った。ああでも、それだけならよかったのだ。結局私は私自身で、己の幻想にとどめを刺すことになる。
その話を聞いた時の私はまだ、自分のことを信じていた。トレセン学園に入れば引っ張りだこだとか、私と無縁のものに縁を感じていた。そして夢見る少女は、見知らぬ街へと飛び出した。どこに居ても私は優秀でチヤホヤされて、スカウトまでされてしまうかもしれないと。皆が私を愛する場所を作ってくれていただけで、世界は私を愛してなどいなかったのに。
そこから先は、何も起こらなかった。街をうろちょろして、当たり前のように他のウマ娘を見て。私程度のものなんか、ありふれていることを実感して。遠くの河川敷まで来て、幼い思考で最後の望みを託した。走って、走って、河川敷という小さなコースを何周も走って。この走りを見れば、私に才能があると誰かが言ってくれるんじゃないかって。この現実が変わるんじゃないかって。ずっと頑張れば、一日中頑張れば、なんて。
何も起こらなかった。だから私はその日初めて、諦めることを覚えた。
ぐしゃぐしゃになりながら家に帰った時、皆が心配して駆け寄ってきた。そこにあった心配というものは、その日まで私が受けてきた賞賛と本質的には同じものだ。その日までの私は、周りに心配をさせ続けていたのと何ら変わらない。ここまで言語化できるようになったのは最近のことだけど、この気持ちはその日からずっと抱えている。
その次の日からの私。ダメなりに手のかからない、誰にも迷惑をかけない私。それが、今の私の原点だ。
※
去るつもりの踵を返して、振り向いて。目の前の男の方を向く。その強い瞳からは目を逸らしてしまう。
「目を逸らしたな。やっぱり諦め癖がついている」
「……暑苦しくて、まともに見てられませんよ」
限界だ、と思った。どうしてエスパーの如く、私の全てを見抜いてしまうのか。そう、今度こそこの場を離れなければ。つくづく苦手なタイプの男だと思った。
「じゃ、今度こそ。もう入学式も終わりそうですし、私も帰らなくちゃ。さよーなら」
そう言い捨てて、なりふり構わず全力ダッシュ。気づけば校門の外まで出てしまっていたが、そうでもしないと追いかけてきそうな気がした。これ以上あの調子で来られたら、こちらも余計なことを口に出していたかもしれない。ずっと昔に閉じ込めたはずの言葉。大人びたふりをする私が、一歩も進めていないことを示すもの。
「褒めて、ほしい」
そんなみっともないこと言えない、なんて羞恥心と。褒めるに値しなかったらどうしよう、なんて自尊心が。二人がかりでひしめきあって、その言葉を塞ぐ。大人になれないのに大人のふりをするというのは、そういうことだから。
※
寮に帰ってベッドに飛び込むと、いやに疲れがのしかかってきた。理由は紛れもなく、あの正論男。休憩を中断させ、ずけずけとものをいい、そして……そこまで思い返して、気づく。
「私、あの時割と嬉しかったのか」
ぐるり。制服姿で天井を見上げて、小さくため息をつく。主に、嬉しがってしまっていた私自身に。結局私がトレセン学園に来たのは、どこかで自分に期待して欲しかったからだ。全部の幻想を捨てたふりをして、それでもどこかでウマ娘らしい『夢』を追い求めてしまっている。言い訳をすれば、じいちゃんが応援してくれたというのはあるけれど。
「頑張れ。スカイ、お前ならやれる」
それがじいちゃんの口癖。あの日泣きながら家に帰ってきた私から、本当の事情を聞き出したのがじいちゃんだった。そうしてそれからも、変わらず私に頑張れって言ってきたのがじいちゃんだった。才能とかではなくて結局孫可愛さだとは思うけど、私をずっと元気付けてくれたじいちゃんがいる。それが私をトレセン学園へ向かわせる理由となった。……あるいはそういうことにして、私は私を諦めきれなかった。そうだとしたらどうすればいいんだろう? 勇気を出すのは、怖い。幼い頃の私のように、残酷な現実を目の当たりにすることもあるから。
「……そういえば」
あの正論男も、言ってることを分解してみれば「頑張れ」みたいなものかもしれない。なるほどそれがじいちゃんを思い出させたから、なんとなくドキッとさせられたのか。いやいやしかし似ても似つかないような、案外要素を抜き出したら似てるような、でもあの男は苦手だし……うーん。
そんな感じの無意味な自己問答は、大体眠気の合図。今はまだ夕方だから、この時間から寝ても明日の朝にはならないだろう。明日から早速、トレセン学園での授業が始まる。次起きた時にその準備だけして、もう一回しっかり眠って。そうしようと、そこで意識を手放した。
「……ん……」
予定通り深夜に目が覚める。お風呂には入らないとしても、シャワーくらいは浴びなければ。ゆっくりと起き上がると、自然に外の光に目が移る。……夜空、だった。
都会でも強く光れる星は一握り。多くは街の灯りに照らされれば、見えなくなってしまう程度の光。夜空に光る星々が場所によって見え方を変えるのはそういう理由だと、昔どこかで見たことがある。つまり私が今見ている空は、僅かな力強い星しか見せてくれてはいない。私はどちらだろう、そんなことを考えてしまう。これから出会い、競い合う沢山のウマ娘。皆が自分を信じていて、それでもその中で明暗は別れる。明るく光るか、暗く闇に紛れるか。私はどちらだろうと、思う。
「頑張れ。スカイ、お前ならやれる」
そうじいちゃんは言っていた。皆のようには自分を信じきれないけど、私が代わりに信じるものだ。
「セイウンスカイ。君は『走る』ウマ娘だ」
……って、なんでここであの男の言葉まで思い出すんだろう。それでも確かに、私の中にその言葉が息づいていた。正直不安だらけだったこれからに、二重の光が差していた。明日から、うまくやっていけるかな。口元には出てこなかったけど、心に自然と浮かんだ笑みがあって。……と。夜空に耽っている場合じゃないな。さっさとシャワーを浴びて、準備を済ませなきゃ。思考を打ち切り、微かな灯りを。部屋と、心の奥底に点けた。
温かいシャワーを無心で浴びて、湯気と共に曖昧模糊なイメージが立ち上る。ありふれた自己紹介や、顔も知らない同級生。一生懸命……はガラじゃないし、そこそこの気持ちで挑む授業。そしていつか立ち向かう、トゥインクル・シリーズ。もちろん不安でいっぱいだけど、浮かんでくるものは決してそれだけではなくて。身体を洗い終えてさっぱりした時には、再び心地よい眠気が私を包んでいた。授業の準備など忘れてそのまますぐに寝てしまう。湯気や眠気や布団だけじゃない、暖かいものが私を包んでいた。
予定調和を崩した、波乱の幕開け。そのせいで新しい日常に、少しだけ期待してしまったということ。その変化のきっかけは小さすぎて、その時の私は気づいていなかった。けれど確かに、密やかに。トレーナーさんから貰った、初めてのものだったと、今なら思うのだ。
※
大人になれないと諦めてしまった、一人の少女がいて。
不器用な大人になってしまった、一人の男がいて。
そんな