独りじゃない
晴れた空、白い雲。その下に光る水面。そして水中にはたくさんの影が見えて、それをこれまたたくさんの人が待ち構えている。さて、私が今いるこの場所は一体どこでしょう。なんて、そんな勿体ぶることでもないか。
「スカイ! 釣具借りてきたぞ!」
「お、ありがとうございますトレーナーさん。しかし人の金で釣りができるなんて、長生きするもんですなあ」
「俺も釣りは好きだ、問題ない」
それは知ってる。トレーナーさんが、皐月賞の勝利を祝って何か奢ってやるなんて言うから、私は釣り堀を所望した。ほんとは気長に川釣り海釣りと洒落込みたいところでもあったけど、トレーナーさんは釣り初心者だし。それにせっかく人の金で釣りに行けるなら、釣り堀みたいな有料スポットの方がいいよね。
「うお! スカイ、どこもかしこも入れ食いだぞ!」
「当たり前でしょ、釣り堀なんだから」
オーソドックスなニジマス釣りでこんなにはしゃげるのは結構羨ましい。皮肉抜きにそう思う。それにトレーナーさんが喜んでくれるなら、奢りにここを選んだ意味があるというものだ。私じゃなくてトレーナーさんを喜ばせるのは、なんだかあべこべかもしれないけど。
「おっ、早速釣れたぞ! こんなに簡単に釣れるとは……」
「もう一回言いますけど。当たり前でしょ、釣り堀なんだから。セイちゃんのぶん、残しといてくださいよー」
私にとって皐月賞は、私だけの勝利じゃないから。だから、あなたにも喜んで欲しい。そして喜んだついでに、喜ばせた人のことをまた少し褒めてくれるなら、なんて。
「うお! また釣れた!」
「トレーナーさん、釣り堀は釣った分だけお金払うんですからね。私がやっと今から釣り始めるのに、もうこんなに釣られたら遠慮しなきゃじゃないですか?」
「心配いらない、今日は俺の奢りだ!」
随分上機嫌。なら、遠慮なく。ぴっ、と竿をしならせて大きな堀に糸を垂らす。ものの数秒で手応えが返ってきて、ぐいっと引き寄せた。暴れる竿の先端には、生きのいいニジマスが一匹。なるほど、確かにこりゃ入れ食いだ。
「流石だな、スカイ」
「どーも。まあトレーナーさんにはまだまだ負けられませんね」
のんびり釣る、というよりかなり忙しない感じはある。けれど、これはこれで悪くない。そう思った。人の感覚は不思議なもので、自分とは異質であっても意外と受け入れられる。たとえば私と釣り堀。たとえば、私とトレーナーさん。
ひっきりなしに人と魚が動き回る釣り堀で、トレーナーさんと並んで糸を垂らして。時折私に気づいたファンの人が、挨拶してくれて。サインも頼まれたりして、その時は釣りを中断して。改めて、ああ私、勝ったんだって。その日はそんな日だった。
「流石に釣りすぎたな……」
「でも美味しいですよ。食べきれなかったら私がもらってあげますから」
「うん、美味い。自分で釣った魚は美味いというのは本当だな」
「トレーナーさん、釣り好きでしたよね……?」
「まあそうなんだが、稚魚しか釣れたことはない。だからその、今日は楽しかったな」
本当に初心者だったのか。トレーナーさんが弱みを見せるのは珍しい気がする。強気で頑固で正論と根性論ばっかり言ってる時は、ここまでかわいげないのに。ぷっ、と笑いがこぼれてしまう。
「……初心者で悪かったな」
「違います、違いますよ。もう、そんなことで不貞腐れないでください」
意外とこの人も、子供っぽいところがあるのかも? まだまだ私はトレーナーさんのことを何にも知らない。それについては、これから。
「スカイ、これからも頑張るぞ」
「はい、トレーナーさん」
これから。私たちは、もっと上へと行ける。
※
「ふぃ〜、疲れた……」
寮の共同浴場で、誰にも聞こえない程度に疲れをこぼす。息抜きしても体力を使うなんて、この世の中は理不尽だと思った。帰り際に「明日からまたビシバシ行くぞ!」と言われてしまったから、今日休めていない私は実質休みなしということになる。トレーナーさんは私より体力ないはずなのに、あの元気はどこから出るのやら。
明日から、か。明日から目指すものは、決まっている。皐月賞の勝ちは、私を実力者として世間に知らしめた。それはつまり、これから世代を引っ張っていくうちの一人として。私たちの世代の最強を決めようとすれば、必ず名前が上がるウマ娘たちがいる。
グラスワンダー。エルコンドルパサー。スペシャルウィーク。キングヘイロー。そして私、セイウンスカイ。私がその中にいる。少し前は考えもしなかったことだ。それなりに走って、それなりにちやほやされて。それでよかった私は、いつのまにかそれ以上に手が届きそうになっている。そして私自身も、それを求めている。
本気で勝ちを求めて得た勝利は、私にとって劇薬だった。今でも余韻が残っている気がする。いつまでも過去を振り返れる気がする。かつての私は、苦々しい過去を捨てて諦めて、今の私になったのに。これも変化だろうか? 望ましいものなのだろうか? これは誰かに聞けることじゃない。自分で答えを確かめるしかない。
そんな何もわからない今、確かなことがあるとすれば。私は未だ、勝利に酔っていた。初めての感覚を手放せず、切り替えれずにいた。その栄光は、あくまで幕開けに過ぎないのに。次の勝負は既に始まっている。頭ではわかっている。ウマ娘の祭典たる日本ダービーまで二ヶ月もない。クラシック一冠目を取った私には、次が期待されているだろう。期待は私を休ませてはくれない。頭も私を駆り立てようと、ひっきりなしに動き回っている。
けれど、今だけは。そう、心はぬるま湯を求めていて。今の私の肢体のように、温かさでふやけ切るのを望んでいて。勝負事においては難儀な性格なのかもしれない。一つの玩具で何度も繰り返し遊ぶ子供のように、私は一つの勝利を舌の上で転がし続けている。飲み込めなければ、糧には出来ないのに。きっとライバル達は、敗北を糧にして更に強くなるのに。勝者故に、私はそれが出来ないでいた。
「ねえ、トレーナーさん」
じんわりと浸かり続けているうちに、すっかり人のいなくなった浴場で独り。私はこの場に絶対居ない人に問いかける。今日はいくらでも直接言えるタイミングがあったのに、つくづく私は臆病だ。
「私、やっぱり才能ないのかな」
でも、言えない。今ここでしか、言えない。勝ち続ける能力こそが才能だとすれば、それは走る力だけでは測れないだろう。もう聞き飽きた根性論も、正論の一つなんだ。勝利への渇望が、私には足りない。私一人では、あっという間に足を止めてしまう。
けど、そうではない時もあった。もっと上へと行ける。そう、トレーナーさんの前では思えた。きっとそんな心の持ちようも、勝ち続ける力になれる。私は臆病で、一人ではそう思うことができない。不安が迫っても、それに立ち向かっていけない。だけど、独りじゃなければ。
今の私に出せる答えは、そこまでだった。
※
結局何だか寝付けなくて、次の日の授業中はうとうとしてしまった。まあそれはいつものことではある。そしてこうやってみんなで昼食を食べるのも、いつものこと。
「スペちゃん、大丈夫ですか? なんだか授業中も集中出来ていなかったような」
「そうかな、あはは……」
「まったく。スペシャルウィークさん、そんなことでダービーでも腑抜けていたら、承知しないわよ!」
スペちゃんを気遣うグラスちゃんと、叱りつけるキング。まあどちらも本質的には一緒で、スペちゃんが心配なのだろう。
「そーだよスペちゃん、授業は集中しなきゃ」
「スカイさんは他人のこと言えないでしょう!」
「厳しいなあ、キングは。ダービーに向けて気合い十分だね」
まあ見ての通りのキングはともかく、スペちゃんの異変も少し注視すればわかる。ご飯が少ない。スペちゃんにしては、だけど。多分このダイエットが、スペちゃんが集中できない理由。そしてダイエットの理由はおそらく……。
「スペちゃん! 今気付きマシタ、アナタダイエットしてマスね! ズバリ、ダービーに向けて!」
おっと、エルに先に言われた。結局エルはニュージーランドトロフィーでも勝ったんだっけ。さっき後ろのテレビに『四戦四勝の怪鳥、エルコンドルパサー』とかなんとか流れていたような。
「えっ、えへへ……。実は、そうなんだ……」
「やっぱり! エルのコンドルの如き眼は誤魔化せないデース!」
「エル? あんまり乙女の体重をとやかくいうものではありませんよ〜?」
グラスちゃんからものすごい殺気が。エルも流石に察知したのか、慌てて話題を転換する。
「そ、そう! アタシ、次はNHKマイルカップに出マス! みんなにも見てほしいデス!」
「ふふっ、私の分までエルには頑張ってほしい……などというのは傲慢ですが。頑張ってくださいね」
さっきまでのやりとりなどなかったかのように、グラスちゃんが笑いかける。そう、グラスちゃんは本来なら、ニュージーランドトロフィーからNHKマイルカップへのローテーションを通る予定だった。けれど練習中の怪我が今でも治っていなくて、結果的に両レースを諦めることになった。そして、エルとの対決もまた。
「はい。アタシ、勝ってきます。グラスが居たって勝てたってお客さんみんなが思うくらいに、強烈に」
ここまで負けなしのエルコンドルパサー。きっと次の勝負を迎えるたびに抱えるプレッシャーは大きくなるのに、それでもエルは走っている。どうしてそんなに強くあり続けられるんだろう。なんとなく、答えはわかる。一つは自分に対して、まだまだこんなもんじゃないと思えているから。私と違って、満足してしまっていないから。そしてもう一つは、きっと。
「はい。いつか、今度こそ。エルと走れるのを楽しみにしています」
今のエルは、グラスちゃんの想いを背負って走っているから。独りじゃないから。それはもしかしたら、私が思い悩むそれと同じ原動力かもしれない。つまりエルは案外寂しがり屋なのかもね、なんて。私と似て。一人でも生きていけるふりをしているのに、独りじゃ立ち止まってしまいそうな、私と似て。
「私も、頑張らなきゃ」
小さな声でそう聞こえた。エルとグラスちゃんのやりとりから、何かを受け取った声。それを発したのはスペちゃんか、キングか。
あるいは、私自身か。
※
それから数日が過ぎた。まだ数日だけど、決戦の日にはまだ遠いけど。私はそう自分に言い聞かせて、まだ何も変わっていない。
「ごきげんよう、スカイさん」
「ごきげんよー、何か用?」
「別に。……いいじゃない、用がなくても」
日差しでほんのり暖まった机に突っ伏していると、キングがやってきた。そういえば、キングはどうしてそんなに頑張れるんだろう。そう思い巡らせて、いつかの会話が頭に浮かぶ。お母さま、だったか。それがキングにとっての原動力なら、反骨精神のようなものだろうか。私には到底無理な気がした。今だって正面から近づく決戦に、目を背け続けているから。
「キングはさあ、すごいよねえ」
「何よ、急に」
ふと口から漏れる賞賛。いや、これは羨望かもしれない。自分自身にないものを、求めているだけ。それを持つ他者を、羨んでいるだけ。
「いつでも頑張っててさ、落ち度がないように過ごしてるっていうか。完璧でさ、ほんと私なんかとは」
「……馬鹿にしてるのかしら」
キングの顔が静かに歪む。いつか彼女のお母さんのことを聞いた時より、仄暗く。
「ど、どうしたのキング」
「私が完璧? あなたはじゃあ何者なの?」
「私? 私はただの」
「それなら完璧な私が、ただの取るに足りないウマ娘の貴女に負けたのかしら。……最近特に腑抜けてると思ったけど、ここまでだったとは驚きね」
見え透いた挑発。けれど小賢しい私はそれに乗るより先に、その奥の意図に気づいてしまう。
「流石、お嬢様は優しいね。腑抜けた私を心配して話しかけにきて、それでもだめなら発破をかけて奮い立たせようって魂胆か。それって君にとってなんの得があるの?」
「これは、得とかじゃないでしょう」
「いいや、損得の問題だよ。ライバルが消えるなら、少なくともキングの順位はひとつ上がるよ? それが得じゃなかったらなんなのさ」
明らかに頭に血が上っている。これじゃキングの思う壺だ。それでも私の口は、後ろ向きな言葉ばかりを並べてゆく。どうしても前に進めない。
「はあ。スカイさん、少し頭を冷やしてきなさいな。というより冷やしにいくわよ。ほら、ついてきて」
「……え? ちょ、ちょっと待って」
ぐい、といきなりキングが私の手を引っ張る。予想外すぎてあっさりと、私はそのまま引きづられていく。そして、たどり着いたのは。
※
「スペ〜、そろそろ目隠し取っていいぞー」
そう拡声器に伝えるのは、チーム<スピカ>のゴールドシップさん。そしてそれを飛び込み台の上から聞いているのは、スペちゃん。そんな光景が繰り広げられているのは、トレセン学園のプール。
「キング、なにあれ」
「知らないわよ!」
ここまで連れてきたキングもこんなことをやってるとは知らなかったらしい。そもそも私、泳ぐの苦手なんだけど。
「ひぃやああぁぁぁ〜!!」
……あ、スペちゃんの悲鳴が聞こえた。本当に目隠しさせられてそこまで登らされた、って感じの悲鳴だ。それにしてもなんでこんなことしてるんだろう。その疑問に答えるように、ゴールドシップさんが再び喋り出す。
「ウマ娘は度胸! ばーんと飛び込めー」
度胸、か。その言葉は、心臓の近くで瞬いた。今の自分に足りないピース。せっかくキングがここまで連れてきてくれたんだし、これも何かの巡り合わせだとすれば。
「じゃ、私も行ってくるよ」
「えっ!? ちょっと、スカイさん!?」
キングが驚いてる。それならこれがきっと、私にとっての正解だ。するすると飛び込み台に登って、まだ怖がってるスペちゃんの側へ。
「行かないなら私が行くよー」
「へっ?」
うんうん、スペちゃんも驚いてる。でも本当は、私が一番驚いてる。ふわふわと掴みどころのない素振り、そのためだけにありもしない度胸を振り絞る自分に。
「いざという時には度胸がたいせつー」
そんな言葉は自分に一番聞かせてやりたい。そう思いながら、くるっと私は落ちていった。
ゼロへの距離は、長く、長く感じられた。結局私、なんで飛び込んだんだろう。何もかもが怖いし、勇気を出す理由なんて見つからない。それは水面がいくら近づいても変わらない。停滞を好んで、度胸なんてかけらもない。一連の行動は嘘ばっかりだ。
思考はそこまでで、私は水面に突き刺さる。ざばん、と派手な音がして、叩きつけられた身体はびりびりと痺れた。小さな水泡を吐きながら、濡れた頭を水中から引き抜く。なんだったんだろう、これ? びしょびしょの姿でプールから上がると、キングもそんな顔をしていた。なんだったんだろう、って。そんな顔。
「す、スカイさん、貴女……」
「どうしたのキング。顔真っ青だよ」
「そりゃそうなるわよ! あんなに元気なかったのに、急に人が変わったみたいに動き出して、飛び込んで」
驚きすぎて本音が出ている。やっぱり私の元気がないことを気にしてたんじゃないか。確かにそれは間違いなかったんだけど、なんでそんな私が度胸試しみたいなことができたのか。今、ここだからわかることがある。それはきっと。
「まあ、キングにびっくりしてもらえたなら、何よりだよ」
キングの驚く顔。心配してくれた私の友達が、我を忘れるほどびっくりしてくれる。私はきっと、それが見たかった。それは幼い私が褒められたいって一生懸命だったのと、同じようなものだった。期待を寄せられて、それを上回りたいって。どこまでも子供染みているのかもしれないけど、今の私なりの、期待への応え方。
きっと誰もが、そうやって何度も折り合いをつけていく。寄せられた期待と、自分のやりたいこと。どこかで妥協して、それでも諦められないものがあって。……漸く、皐月賞を飲み込める。そこから生まれる期待も不安も、逆に利用してやるんだ。何にだって縛られず、空に浮かぶ雲のように。そう決めた。だから、道は開けた。
「ありがとう、キング。おかげですっきりしたよ」
「なんだか腑に落ちないけど」
「ダービーも、私が獲るよ」
「……それだけ元気になったなら、充分ね」
こん、と拳を合わせる。私はやっぱり、独りじゃない。