脚だけでは勝てない。技術だけでは勝てない。気持ちだけでは勝てない。心技体が揃っていなければいけない。いかにもトレーナーさんが好きそうな結論だけど、今の私に見えている結論も同じものだった。そうしてこの瞬間も、その全てを伸ばすためにある。
「セイウンスカイ、次はうちの子たちと併せをやってみなさい」
「はーい、わかりました」
<デネブ>のトレーナーさんに軽く返事をして、汗も乾かぬうちにグラウンドへ戻る。今日は<アルビレオ>と<デネブ>の合同練習。その目玉が私の特訓というのは、少しむず痒いかもしれない。<デネブ>の方が人数が多いし、トレーニングに幅が出るのはいいことなんだろうけど。あからさまに両チームのメンバーが私に注目しているのは慣れないな、と思った。でもきっとそれくらい跳ね除けなきゃ、ダービーじゃ勝てない。
「──で、トップロードさんの今のフォームはこんな感じなんですけど」
「なるほど、確かにそれならもうちょっと、踏み込みを深くした方がいいかもしれないですね……参考になります、フラワーちゃん」
少し離れたところからはそんな会話も聞こえる。トップロードさんとフラワー、結構気が合うのかな? 二人が仲良くなるきっかけが私の存在だったとするなら、嬉しいような、なんだか恥ずかしいような。……と、気を緩めてる場合じゃない。私は私に集中しなくちゃならない。私自身を疎かにしてしまえば、それは誰かの期待を裏切ることと同義だ。私は独りじゃない。だから、期待を裏切るわけにはいかない。予想はどんどん裏切っていきたいけどね。
独りじゃないと気付いてから、私はまたトレーニングに向き合えるようになった。皐月賞前に戻っただけにも見えるけど、着実に進んでいる実感がある。観客全員を驚かせるのが、新たな目標だ。それは今までなかったものだ。トレーナーさんの不安を裏切れた皐月賞の先に、初めて褒めてもらえたあの日の先にあるのが、紛れもなく今の私。スペちゃんにもキングにもない、私独自の強み。張り合えるもの。それを見つけられたのだから、この変化もまたいいものだった。
だん、と大地を蹴る。また一日、決戦に近づく。
※
練習を終えてチームの部屋に戻ると、小さな明かりの下でトレーナーさんが書類の山と睨めっこしていた。そういえば今日は<デネブ>のトレーナーさんが練習を主導してたから、この人はここに篭りっぱなしだったのか。
「お疲れ様です、トレーナーさん」
「おお、スカイ。お疲れ様」
見るからに忙しそうなのに、わざわざこちらに向き直って挨拶するトレーナーさん。いつもの暑苦しい表情も崩してないけど、若干疲れが見える気がする。いったいそんなに頑張って何をしてるんだろう、そう思ってちらりと彼の手元を覗いてみる。ははあ、これは。びっしりと並べられた文字列が指しているのは、どれもレースにおける技術や理論の話。真新しい赤インクが色んなところに書き加えられていて、なるほど今日はこの勉強に費やしていたらしい。
「トレーナーさん、ついに根性論とお別れするんですか」
「いいや、これはあくまでサブだ。努力を重ねて、闘志を燃やす。そんなウマ娘が一番強いと俺は思ってる。……ただ、な」
「ただ、なんですか?」
まあトレーナーさんの言うことにも一理あるのは事実だ。努力は大事だし、勝ちたいって思わなきゃ勝てない。それはやっぱり正論。若干かなり、耳が痛い話だけど。けれど今のトレーナーさんは、それだけではないらしい。私の問いに、少し考えてから答えを返す。
「それだけじゃないとも思っただけだ。色んな手が使えるのは悪いことじゃないだろう」
「なるほどなるほど、それを一人のウマ娘に教わったと」
「そうは言ってない」
やれやれ、相変わらず頑固なトレーナーさんだ。でも私も他人のことはいえない。私に起こった変化のうち、いくらかはトレーナーさんによるものだから。でもあなたがそれを明言しないのならば、私だって隠しても許されるだろう。
「ねえ、トレーナーさん」
「どうした」
「私、勝てるかな」
私から歩み寄れるとしたら。きっとこういった回りくどい形。不安を口にし、あなたの期待を確かめようとする。揺るがないと信じているからこそ、弱い自分を見せてしまう。そしてそれすらポーズに過ぎなくて、本当の自分はどこにも出てこない。難儀で、卑怯な性格だ。
「もちろんだ! 君は『走る』、そう信じている」
「私、期待に応えるのは苦手なんですけど」
私なりの期待への応え方。それは驚かせること。つまり、ある程度不安に思ってもらわなきゃ成立しない。不安を裏切り、予想を超える。そうしてやっと期待に応えられる。だから、そうやって真っ直ぐなのはやっぱり苦手だ。期待が純粋であればあるほど、応えられなかったらどうしようって不安が増える。だからいつもやる気ない素振りをして、努力や根性は苦手で。本当はちょっと、憧れているのかもしれないけど。
「君は皐月賞を勝った。ダービーでも有力候補だ」
「それはどうでしょう。私の評判、知ってます? 皐月賞はフロック、まぐれだって。次はスペちゃんだって」
「そんなものは一部の意見だ。いいかスカイ、諦めるな」
「また、正論ですか」
ダービーに向けての特集は、色んな雑誌や新聞で組まれ始めている。そこにあったフロックという言葉が、私に対する世論。だからそれを受け入れて、逆手に取ってびっくりさせてやろう。それが私なりの結論。トレーナーさんが言うように、それは一部の意見ではある。だから気にする必要はない、それは正論かもしれない。でも。
「正論でみんなが納得できるなら、苦労しませんよ。それに私はいいんです。期待と不安への折り合いの付け方、もう見つけましたから。この前評判は、私の強みです」
私には正論は似合わない。むしろそれすら超えてこの正論男をびっくりさせてやろうと、そう決めたのだから。
「折り合い、か。諦めとは違うんだろうな」
「はい。セイちゃんも大人になったってことです」
「ならよかった。期待してるぞ」
……初めてトレーナーさんを言い包められたかもしれない。これは私の成長の証? 口ばかり上手くなっても仕方ないけど、それなりに自分の芯が出来てきたということ。いや、そうじゃないかも。むしろ変わったのは、トレーナーさんで。
「でもこれだけは言っておく。スカイ、俺は君に期待している」
最初に会った時は、死ぬまで調子を変えなさそうに見えたのを思い出す。あれからほんの数ヶ月で、この人の色んな面が見えた。正確には、見えるようになった。見せてくれるようになった。私が彼に弱みを見せるように、彼も私に弱みを見せている。なら、どうやって私はトレーナーさんの同一性を認識しているのか? それは簡単だ。簡単だけど、ついさっきわかったことだ。
「うん。しっかり見ててね、トレーナーさん」
私への期待。それだけはずっと、変わっていないから。何度もゆらぐ私へ示された道標。たとえフロックと言われようと、そちらに流されないように灯された灯台。これがある限り、私は本命じゃなくたって闘える。私が逆境に対して、「驚かせたい」と言えるのは。言えるようになったのは。
きっと、あなたのおかげだと。いつか伝えられたらいいな、そう思った。
※
五月になった。日本ダービーが近付いているのもそうだけど、月日の巡りは様々な変化をもたらす。春の陽気というには少し暑くなってきたり、釣れる魚が変わったり。誰にでも関わる変化と、個人的な変化が入り混じっている。とはいえここ最近で一番大きな変化は、やっぱりNHKマイルカップだった。エルはここでも快勝し、最早敵なしといった感じ。そこまではよかった。そこまでは私も、テレビの中のエルを他人事のように見てたんだ。だけどそのあとのインタビューで、エルの所属するチーム<リギル>のトレーナーさんが言った一言が、聞いていた皆に衝撃を与えた。
「次は日本ダービーに出走する」。そうエルのトレーナーさんは言った。エルコンドルパサーは無敗のまま、ダービーに挑戦する。楽には勝てないな、そう口から漏れたのを覚えている。けれどもっと深く突き刺さったのは、その後のエルの言葉だった。エルがダービーに向けての宣戦布告を行った相手は、スペちゃんだった。スペちゃんには負けない、そう言っていた。確かにそれは順当な発言だ。現状、ダービー最有力なのはスペちゃん。それが世間の評価。そしてそこに迫るのが、エル。突如現れた刺客たるエルコンドルパサーは未知数だけど、きっと上位人気に食い込む。そしてその分一段落ちるのが、私。それはわかっている。理屈ではわかっている。けどそれをテレビで聞く私は、掌を握りしめていた。悔しいって、思っていた。期待薄でもどんとこい、そんな考えが初めてゆらぐ。
(負けて、られない)
スペちゃんとは、弥生賞でも皐月賞でも鎬を削った。なら私たちは互角のはずだ。スペちゃんのライバルは、エルじゃなくて、私だ。人気がなんと言おうと、私はそれには縛られない。そう思った。そんなふうに強く闘志を燃やす自分に、気付いた。焦っているようにすら、感じた。今までだってそう思っていたはずなのに、殊更強く感じてしまう。期待や人気をひっくり返すという点では、私の今の位置はいいもののはずなんだけど。私はそう定義した、人気を気にするより利用してやるって決めたはず。それでも意識してしまうなら、私は折り合いをつけきれていないのだろうか。私がこの数日でつけた自信は、偽りのものだったのだろうか。虚勢に過ぎず、また閉じこもってしまうのだろうか。それは嫌だった。それこそ期待を裏切ってしまう、だから前へと進みたい。けど、進むためには? 決心を取り消さなければ、正しく進めないとしたら?
テレビはもう次の番組に切り替わっていた。切り替えきれないのは、私だけだった。一度したはずの決心が、新たなる変化で歪んでいく。対応すべきなのか、貫くべきなのか。悩んで、悩んで。ライバル達は強い、改めてそんな当たり前を実感する。また、後戻りしてしまいそうになる。内容が全く頭に入ってこない画面を、ただ見つめて。かつての自分なら、そこで立ち止まっていただろう。正解の見えない問いなんて嫌いだし、感情に振り回されるのだってまっぴらごめんだ。それが私だった。
けれど。気付けば私は、無我夢中で走り始めていた。頭で考えるより先に、外へと飛び出した。ジャージに着替えて、他のチームの練習で埋まっているコートを横切って。自主練に励むなんて、本当今の私はどうしてしまったんだろう。そう思いながら、川沿いの一本道を走り抜ける。誰が見ていようと、見ていなくても関係なく。かつての私は、誰かに見てもらうためだけに色々なことをやっていたけど。誰かに褒めてもらおうとしていたその行動は、あくまで他人のための行動で。今わけもわからず走っている私は、確かに自分のために行動している。それは変化。けれどそれが出来るのは、独りじゃないとわかっているからこそ。がむしゃらに進んでも導いてくれる誰かがいる。言語化できない動機を与えてくれる誰かがいる。期待してくれる、信頼してくれる。勝負を仕掛けてきてくれる。だから私はこの学園で、ここまで来れたのだと。他人がいるからこそ、自分の意志を見つめられたのだと。その日の夜までひたすら走り続けて、少しだけ答えを見つける。シンプルだけど、長々しい答えだった。
「やっぱり、走るのは楽しい」
走りたい。それが私自身の気持ち。だから色んな理由をこじつけて、私は走ろうとしているんだ。たとえばライバルのため。トレーナーさんのため。チームメイトのため。ファンの期待のため。前評判を見返してやるため。勝った喜びを噛み締めるため。自分の行動で、驚く誰かを見るため。今まで複雑に入れ違ってきた全部に通じるものがあるとすれば、全てが走る理由だった。私は子供だから理由を絞りきれないのかもしれない。時には思ってもないことを言ってまで、自分の心を隠してしまう。でも、それだけきっと大切なんだ。私にとって走ることは、大切なことなんだ。
ならば、走ろう。理由はなんであれ、走りたいのなら。