広く。広く。青空は今日も広がっていた。スタンドからはこれ以上ないくらいの大歓声が聞こえる。せめてそれから耳を塞ごうと、どこまでも広がる青空に目を向けようとするけれど。代わりに私の視界を覆うのは、輝かしい黒色。
「信じられません! ダービーを制したのは二人! エルコンドルパサーとスペシャルウィークだ!」
掲示板に映し出される同着の二文字。「これ以上ないくらい互角の勝負」、そこに私はいなかった。
※
「着いたぞ、スカイ」
「ありがとうございます、トレーナーさん。それにしても運転できたとは」
「運転できると担当ウマ娘の送迎には便利だからな! とはいえ、よっぽどのレースじゃないと車を出したくはないが」
「あはっ、そうですよね。初心者マーク貼ってますし」
日本ダービーのように大きなレースとなると、出走ウマ娘は専用の入り口から直接控室に向かうことになっている。なので今朝はトレーナーさんに車で送り迎えしてもらう、というわけ。皐月賞の時は<デネブ>のトレーナーさんに送ってもらったから、この人の車に乗るのは初めてだ。……案の定、荒っぽい運転だったけど。初心者だというのなら目をつぶってあげよう。
「じゃあまあ、トレーナーさんも頑張って運転してくれたことですし。私も頑張らなくっちゃな」
「スカイ、一つ言っておく」
「なんですか?」
聞かなくても大体わかるけど。この感じは応援とかじゃない。
「油断するなよ。君のライバルは、一筋縄ではいかない」
やっぱりいつもの正論だった。でも私は知ってる。これはこの人なりの、期待の表れだと。だからこれだけ言ってくれれば十分。今は、だけど。
「ご忠告、感謝です。じゃ、行ってきますね」
「ああ。行ってこい!」
いつもの通りの大きな声と態度に送り出されて、私は向かう。東京優駿、日本ダービー。すなわち、私たちの戦場へと。
※
控室で一呼吸置いて、心を落ち着けて。静かだったけど、心臓の鼓動がその分よく聞こえる気がした。そしてあっという間にそんな時間は過ぎ、私は勝負服に着替えてターフへ向かう。目的地が近づくと、実況の人がこんなことを言っているのが聞こえた。
「ウマ娘の祭典、日本ダービー。今日は十五万の観客が、その結末を見届けようとここ東京レース場に詰めかけています!」
十五万ってどれくらいなんだろう。それだけすごいレースなんだということはわかる。そして今から私は、そこで走る。勝ちを狙いにいく。本バ場入場はもう始まっていて、出走者の紹介がまた耳に入ってくる。まず飛び込んできたのは、聞き覚えのある名前だった。
「弥生賞三着、皐月賞二着。いざ頂点へ! キングヘイロー!」
よかった、まずそう思った。その名前を聞いてほっとした。会話を避けられていたから心配していたけど、キングはいつものキングだと思った。だってレースに出てきている。たとえば皐月賞の時の私は、レースからさえ逃げようとしていたから。そうでないなら、よかったと思うのだ。
「皐月賞の雪辱は果たせるのか! 奇跡を起こせ、スペシャルウィーク!」
スペちゃんの名前も呼ばれた。一番人気、今日の大本命。彼女が果たすのが皐月賞の雪辱と言うのなら、私が一番負けられない相手。絶対、勝つんだ。決意を込めて、一歩、二歩。
「皐月賞ウマ娘、悲願の二冠へ! トリックスター、セイウンスカイ!」
そうして、私の番。スタンドからの大歓声が私に向けられる。平静を装ってはみるけど、どうしても身体の中から熱がぼうっと湧いてくる。これはきっと、武者震いってやつなのだろう。もちろん怖い。もちろん不安だ。けど私は、ここに居られている。ダービーだって取ってみせると、貪欲に勝利を望んでいる。
観客席をよく見ると、<アルビレオ>と<デネブ>のみんなが一緒になってこちらを見ていた。トレーナーさんたちも仲良く並んでいる。私は一番人気じゃないかもしれないけど、私を一番だと思ってくれている人はいるんだ。なら、負けないよ。スペちゃんにも、そして。
「さあ、最後にやってきました! 一枠一番、ここまで五戦五勝! 無敵の怪鳥、エルコンドルパサー!」
エル、君にも負けるつもりはないよ。実は私はエルのことをあまり知らない。そのマスクの裏にどんな気持ちが隠れてるのか、見当もつかない。それはエルから見た私も似たようなものかもしれないけど。私も大概隠し事をしてしまいがちだから。けど、この戦いを通して。君の目を、私に向けさせてみせる。エルは言ってたよね、スペちゃんには負けないって。なら、私にはどうかな? もちろんやってみなくちゃわからない。けど、それはやる価値があるって意味だ。
「さあ各ウマ娘、いよいよゲートに入ります!」
ゆっくりと、周りの皆がゲートへ向かっていく。私も行かなくちゃ。大丈夫、怖くない。いつものように逃げを打って、ペースを掴む。いつも通りにやればいい。
「ゲートイン完了。さあ、今年の日本ダービー、いよいよ開幕です!」
そうして間も無く。がこん、といつもの音が鳴った。ここで勝つのは、もっとも『運のある』ウマ娘。
勝利の女神よ、私に微笑め。
※
そうして一斉にスタートする。どこどこと大地を蹴る蹄鉄の音は、いつ聞いても心地よい。けれど私は、それを横並びで聞くのはそんなに好きじゃないんだ。まずは──!
「さあ、まずは誰がハナを取るのか! 外から行ったのはセイウンスカイ!」
今回も逃げさせてもらうよ。足音は後ろから聞くに限る。競り合うより追いかけるより、私は追われて逃げる方がいい。でも、そうやって踏み出した時だった。
「キングヘイロー、果敢に行く! ハナを取って行ったのはなんとキングヘイロー!」
えっ? 自分の耳を疑った。でも私の眼は、確かに前を征く一人のウマ娘を映していた。何度も見慣れた姿だった。けれど、ちらりとこちらを振り向くその眼は。
「ようやく、私を見たな」
そう叫ぶ瞳は。初めて見たものだった。
「キングヘイロー、二馬身のリード! セイウンスカイは二番手につけています!」
圧倒的ハイペースで逃げるキング。私にハナを譲らない、そのための走り。これを強引に追い越すのは得策じゃない、そう思って少し後ろにつける。そっちがそう来るなら、私はそれに対応する。そうやって努めて冷静にいなくちゃいけない。でなくちゃ勝てない。そのはずなのに。
どうしても、さっきのキングの眼がチラつく。見えたのは薄く開かれた瞳だけだった。口元だってはっきりしないし、顔の全体なんて全くわからない。それでも、その感情が突き刺さる。それほどまでに、私はキングのことをよく知っていた。知っているはず、だったのに。
どうして私は、彼女の抱えていたものに少しも気づけなかったんだろう? そんなことを考えてしまう。そんな場合じゃないはずなのに、ざわついてしまう。心臓が圧迫される感覚は、決してこのハイペースだけが原因じゃない。でも、それでも!
「セイウンスカイ、徐々に進出! キングヘイロー、懸命に逃げます!」
それでも、負けられない! スペちゃんやエルに勝つためには、ここでペースを握らなきゃ! そう、自然に浮かぶ思考があった。そこでまた、キングと眼が合う。互いを見据える。今度は彼女の口元まで見える。歯を食いしばって、揺れる瞳が私を必死に捉えようとする。そして、そこでやっと。そうまでして、やっと。
私はやっと、彼女が私を恐れていたのだと気づく。
「セイウンスカイがここで満を辞して先頭に立った! キングヘイローは下がっていく! ここでいっぱいか!」
すれ違う瞬間。彼女の顔を覗く勇気は、今の私には残されていなかった。キングが作ったハイペースは、先頭に代わった私が引き継がなきゃいけない。そうしなきゃ、追い越されてしまう。そうしなきゃ、せめて彼女に向き合えない。けれどこれは勝負の世界。私が弱みを見せたなら、他の誰かがそこに食らいつく。何度も聞いた、地面を裂いて砕くような蹄鉄の音。来る。私を抜きに、来る!
「その後ろから間を割ってスペシャルウィーク! スペシャルウィークが上がってきた! スペシャルウィークと、セイウンスカイか!」
やっぱり。けどここは坂道、スペちゃんの苦手な──!
「並ばない並ばない! あっという間だ! あっという間にかわした! スペシャルウィーク! 先頭はスペシャルウィークです!」
──スペちゃんは、皐月賞よりずっと強くなっていた。きっとあのピッチ走法も、皐月賞の経験を踏まえて特訓したのだろう。それはわかる。私だけじゃない、みんな成長しているに決まっている。でも、私だって。
「全力の、はずなのに」
絶え絶えの呼吸から、それでも漏れ出る言葉があった。どんどんと差をつけられていく。だからそんな言葉さえ届かない。これだけ必死に走っているのに。勝ちたいって、全身がそのためだけに動いているのに。悔しい、諦めたくない。今だけは、諦めたくない。そう思った。
「くっそおおおおおお!!」
だから、なけなしの力を振り絞って叫んだ。なりふり構わないから、この気持ちだけはどうか壊さないでください、そう願った。だけど。
だけど、勝負に慈悲は要らない。私の横を、ものすごい勢いで一人のウマ娘が掠めて行った。
「やはり、やはり来た! やはりここで来ました、エルコンドルパサーです!」
三強の対決はそこで終わり。そこから先にあった大迫力の競り合いは、スペちゃんとエルだけの、二人だけの世界。私は後ろに沈んでいきながら、掲示板に滑り込むのが精一杯だった。
二人の対決は写真判定にもつれ込むほどだったらしい。私は見れていないから、よくわからないけど。ふと目を向けた青空は、やっぱり今日もキレイだった。ずっと見ていたら泣いてしまいそうなほど。だからほどほどにして、歓声を巻き起こしている掲示板を見遣る。
「信じられません! ダービーを制したのは二人! エルコンドルパサーとスペシャルウィークだ!」
結果は、同着だった。きっとこれはものすごいことで、ある意味では最高に良い結果だ。いい勝負だったんだ。スペちゃんとエルは、いいライバルだったんだ。抱き合ってまで健闘を讃えあう二人を見て、純粋にそう思った。悔しいと思えていなかった。やっぱり私は敗北に慣れていないのだろう。呆れるほど贅沢な悩みだ。そんな甘さが、私を停滞させていたかもしれないのに。
そのあとスペちゃんとエルから握手を求められた時、私は自分の気持ちを隠せていただろうか。それもわからなかった。そもそも自分の気持ちが、どこにあるのかも。
※
地下バ場に、こつりこつりと足音が響く。私一人のものだ。他の子がいなくなった後にようやく歩き出しているから、ここには私しかいない。もう少し歩けば、チームの誰かやトレーナーさんが出迎えてくれるかもしれないけど。今は、独りになりたかった。
けれど少し進んだところに立ち塞がる影がある。誰なのかはだいたい見当がつく。数刻前まではまるでわかっていなかった彼女の気持ちも、今なら少しはわかるから。いつもは強気な顔を崩さないお嬢様は、みっともなく泣いていた。また、初めて見る顔だった。悔しさを露わにして、隠そうともしないで。悔しいかさえわからなくなっている今の私とは対照的だと思った。そんな誰にも見せたくないだろう顔を、彼女は私に晒していた。暴走気味にハナを進んで、後半は見事なまでに失速して大敗。そんな走りをした後なんて誰にも会いたくないだろうに、キングヘイローはそこにいた。その理由も、だいたいわかる。
今回のキングの走りは、失策と言ってしまっていいだろう。勝てるわけがない超ハイペース。けれどペースは作っていた。作ってしまっていた。その影響を最も受けたのは、私だ。私はハナを取られて他人のペースを握れないどころか、逆にペースを握られたウマ娘の典型のような結末を迎えた。それほど末脚に自信がない以上、引き離されては勝負が出来ない。そうして無理矢理キングに付き合った結果、息を入れるタイミングを失った。だからきっと、キングはこう言いたいのだろう。
「貴女が負けたのは、私のせいだ」
けれどもし君の流している涙に一厘でもその感情が混じっているとしたら、キングヘイローというウマ娘は優しすぎる。私にはそんな価値はない。私は君を、本気でライバルとして見ていなかったかもしれないのに。キングはずっと私を見ていたのに。私が君を見ていないことに気づくほどに、見ていたのに。スペちゃんやエルが私に手を伸ばしたように、私はキングに手を伸ばせるだろうか。ライバルとして見ていたと、今更表せるだろうか。友達としてしか、彼女を見ていなかったくせに。
何も言わず、何も言えず。ゆっくりと彼女の横を通り過ぎる。キングも何も言わない。それとも私と同じで、何も言えないのかもしれない。どちらでもよかった。私のことを見損なうなら、それでもいい。それがいい。せめて気持ち良く、君が袂を別てるなら。
訣別とはそういうこと。私たちは、独りだった。