いつもの昼寝が長すぎたわけじゃなかった。恐ろしい悪夢から逃れようとしたわけでもなかった。ただ、何度か目を見開いて。まだ夜なんだ、そう思った。朝が来れば全てが元通りなんて、もう信じられるはずがないのに。待っているだけじゃ何も変わらないって、散々学習したはずなのに。無意味に河原を周り続けながら、誰かの助けを盲信的に待っていたあの日と、何も。
よろよろと上体を起こす。全身には昨日の疲労が色濃く残っていた。しばらく歩きたくさえありません、そう脚が言っているような気がした。せめてちゃんと眠りにつけていたなら、今もう少しマシだったかもしれない。ウマ娘にとって己の身体は資本であり、その管理だって大事なことだ。それでも私はベッドから起き上がり、寝巻きのまま顔を洗いに洗面台に向かった。明かりをつけて鏡を見ると、酷い顔が映っていた。手入れせず布団に潜ったから髪の毛はぐしゃぐしゃで、冷水を叩きつけても顔つきはやつれたままだった。年頃の女の子なのだから、これだって管理しなきゃいけないことなのだろう。それでも、私は。
私の心は、何も許してはいなかった。休むことすら、耐えられないと。
はじめての夜だった。
※
ぎぃ、と扉が開く音。昼間は必ず誰かがその音に耳を立てるだろう寮の広間だけど、今は誰もいない。私一人だけの独壇場、そう言えば聞こえはそれなりに良かった。寮長のヒシアマさんすら寝ているから、今ここにいるのは私一人。やがて日が昇るまでの僅かな時間に過ぎないけど、今は、今だけは独りだった。
視界は暗さに慣れてきていて、明かりをつける必要は感じられなかった。寝静まっている皆と同じように、私の身体もこの闇に溶け込んでいる。けれど心の動きだけが、私を独り際立たせている。似たようなことはきっと今のこの寮だけじゃなくて、全ての夜にありふれているのだろう。こうやって広々としたソファを占有して、無為に時間を過ごすようなことは。あるいは今この瞬間さえ、どこかで私と同じような人はいてもおかしくない。けれど同じであることは、独りであることを否定する材料にはならない。たくさんの誰かと同じ空間にいても私が独りなように、同じ状況であることだけが担保してくれるものは何もない。踏み出して繋がりを持たなければ、誰もが独りのままであり。何より独りを望んでいるのなら、踏み出す理由はどこにもない。
スマホの画面を開いてみる。鮮やかなブルーライトが、痛々しく目に突き刺さる。LANEには数日分の未読が溜まっていた。大体みんな私がめんどくさがりなのを知っているから、取り留めのない会話を個人的に送ってくる子はいないけど。過去の通知を消すだけ消そうかと一瞬思い、やめた。少しでも誰かの言葉を見てしまえば、たとえ文字列でもそこにある繋がりを認識してしまう気がしたから。何より彼女との繋がりを再認識するのは、今の自分には耐えられない。私には、君の抱えた気持ちを測り切ることはできない。この先ずっと。永遠に、踏み出せない。
一つため息が漏れた。自然と身体がうずくまった。閉じ込められているのか、自分から閉じこもっているのかわからなかった。ゲートがいつまでも開かず、大事なレースは始まらずにお流れ。昨日はそうであったらよかったのだろうか? 狭いところは嫌いだけど、それ以上に取り返しのつかない感覚が全身に蔓延っていた。私一人の我慢で全てが贖えるなら、それでいいとさえ言えてしまいそうなほど。私なんかが何をしようと、変えられる結果じゃないとわかっているのに。それこそ傲慢だ。あのレースの勝者はスペちゃんとエルで、私にもしもはない。「ハナを取れていたら」それだってどうかわからない。取れなかった以上無意味な仮定で、取れたところでようやく勝機が見えるか否か。あの二人が私より強かった、それがまず目に入る結論。私がやるべきはこの敗北を糧にして、前に進むこと。踏み出すこと。たとえばあの正論男なら、当たり前のように次のレースを見据えているだろう。くよくよしても仕方ないって、いつものように正論を吐く。私にだってそれくらいはわかる。きっとそう告げられたら、わかってますよと返す準備はできている。でも、でも。
「仕方ないじゃないですか」
そう、届かない弱音を。届かないとわかっているから、誰にも聞かれていないとわかっているから吐き出せた一言だったのに。ぴろん、と。それをすかさず掬い上げるかのように、開いたままのスマホから通知音が鳴った。メッセージの送り主と内容を見て、またため息が出そうになる。こんな夜更けに「起きてるか?」って、普通そんなわけないじゃないか。私が返信サボり魔なことだって知ってるだろうに。スマホを拾い上げて、少しの間をおいて。悩んだからか、あるいは単に気取られないためか。どちらにせよ私は、五分くらいの後「なんですか?」と返す。既読自体はすぐにつけてしまっていたと気づくのは、だいぶ後のことだった。
「おお、起きてたか!」
ノータイムで返ってくる。どんな顔でこんな時間にそんなことを宣っているのだろう。テキスト上じゃ顔なんて見えないのに、あの太眉と白い歯が飛び出してきそうな気がした。逆に私の文章から、トレーナーさんは私の表情を読み取れるのだろうか? ポーカーフェイスには自信があるつもりだけど、この人には見透かされているような予感もした。まさか私の泣き言を察知して連絡してきたなんて、そこまでは思わないけれど。
「たまたまですよ」
私の手付きは拙くて、その程度のメッセージにもやっぱり時間を要した。次の返信までの僅かな時間、どうしてこの人は連絡してきたんだろう、そんなことを今更考えていた。
「そうか。いやなに、少し眠れなくてな」
眠れなかったから連絡した。それ自体は納得してやるとして、たとえ恋人同士でも許されないような時間帯だと思うけど。けれど彼に眠れない理由があるとしたらはっきりしていて、それはきっと私と同じ理由。同じ理由で同じ時間に、同じように独りなら。そこまで一致したのなら、手を伸ばすのも致し方ないのかもしれない。
「悔しいですけど、次を考えなきゃ始まりませんし」
けれど、私に伸ばせる手はこういう手だ。あくまで相手の望む答えを、妥当な言葉を引き出すためのもの。全ての流れを打ち切って「助けて」と打ち込めるほど、私に勇気と強さはない。また素早く返信が来る。きっとトレーナーさんは、そのまま思ったことを書いている。私は必死に、覆い隠そうとしているのに。
「そうだな、悔しい。でも君の口からそれが聞けてよかった」
覆い隠そうとしているのに。
※
「いやー、完敗ですね。みんなに応援してもらったのに」
「スカイちゃん、お疲れ様です」
「ありがとうございます、トップロードさん。ご期待には沿えなかったですけど」
昨日のダービーを終えて。長い長い地下バ道を抜けた後、彼女とすれ違った後。たくさんの人が出迎えてくれたのは覚えている。
「スカイさん、お水持ってきました。本当に、お疲れ様です」
「ありがとフラワー。いやー、疲れた疲れた」
そうやって、努めてやり切ったという振る舞いをした。実際全力だったし、文句なしの結末だ。最高の決着だったんだ。観客席から湧き起こっていた大歓声が、それの証明だった。
だから、悔いはない。そうでなきゃ、何もかもを汚してしまう。勝者の栄光も、敗者の苦悩も。そう希ったのを、覚えている。
※
「何がよかったんですか?」
思考時間はだんだん短くなる。今すぐ問い詰めたくなる。心を剥き出しにしたくなる。棘を孕んだとしても、耐えられなくなる。私は悔いてはいけない。その資格はない。あの闘いの場に、私はいなかったのだから。空のように高いところを地面から眺めているだけで、近くにいたライバルのことは見てすらいなかった。いるべき場所を履き違えていた。そう私は考えていて、それは誰にも見せていない。否定されないとしても、不安を見せたくなかったから。せめて誰かの中の私だけは、壊さないように。
「俺も悔しいからだ。そういう気持ちを一人で抱え込むのは、嫌だからな」
やっぱりずるい、そう思った。嫌な思いをしたくないのは自分だけ、そんなふりをして。私より上手く、本心を隠して。あくまで正論に見せかけて、私の弱さに正当性を持たせようとする。あなたの中の私は、どうなっているのだろう。そこまで弱さを見抜いていて、どうして尚期待できるのだろう。気づけば私はキーボードから画面を切り替え、キーパッドを叩いていた。数回のコール音の後、繋がる。
「どうした、スカイ」
いつもより酷く落ち着いた声だった。
「埒が開かないな、と思って。そもそもトレーナーさんも苦手でしょ、ああいうコミュニケーション」
「どうしてそう思うんだ」
「いつも楽しそうに大声出してるからです」
「その通りだな。声に出した方が何事もスッキリする。思ってるだけより健康だ」
「そうですか。耳が痛い話ですね」
相変わらずの正論。そんなもので後押しできるのは、正道を行きたいと思っている人だけなのに。私のようなひねくれものがそれを正面から受け取っても、ますます塞ぎ込むだけだ。不器用な人だなあ、と思う。本心を隠すのに使うのが正論や根性論だけじゃ、隠しているのがバレバレだ。
「スカイ。さっきも言ったが、よかったと思ってる。君が悔しがっていて」
「自分だけじゃなかったから、でしたっけ。トレーナーさんはそんなに悔しかったですか?」
「負けたら悔しいし、勝ったら嬉しいさ。自分の担当ウマ娘なんだからな」
「意外ですね。私のデビュー戦とか、そんな喜んでくれましたっけ」
そう問うと、彼は少し硬直して。
「……あまり他人には見せないようにしてるんだ。その、本人を差し置いて喜びすぎるのも良くないかと」
思わず頬が緩んでしまいそうな答えだった。それを私に言ったら今まで隠してきた意味がないだろうとか、今更そんな恥ずかしがる心が残っていたのかとか、なんだやっぱり嬉しかったんだ、とか。
「それは一理あるかもしれません。ところでそういう気持ちは抱え込まず、声に出した方がいいと聞きましたが」
「耳が痛いな」
「トレーナーさん、自分に論破されてたら世話ないですよ」
「そうだな。だから今言ったんだ。今なら君しか聞いてない」
一本取ろうと思ったのに、すぐさま返された気分だ。私の負け、そういうことかもしれない。
「そうですねえ。じゃあ私が今から喋っても、トレーナーさんだけが聞いてくれますか?」
「いいぞ。どんとこい」
「仕方ないなあ」
そうして私はゆっくりと。何度も渦巻く思いを、言の葉に乗せて打ち上げ始めた。
「私も、勝ちたかったんです。相手が強くても、怖気付きたくはなかったから。やる前から諦めるなんて、もう嫌だったから」
だけどそれは、私だけが持ち得る感情じゃなかった。
「その気持ちが私にも向きうるなんて、思ってもいませんでした。誰かと勝負してるつもりで、私は他の誰かからの勝負を避けていた」
だから私は、勝負の場にいなかった。
「私に勝ちたいって思ってた子がいたのに、私はその子を見てなかった。私はその気持ちを、台無しにしたんです」
それが理由だ。私が悔いてはいけない、涙を流してはいけない理由。
「だか、らっ……」
そのはずなのに。頬を伝うものに気づいた私は、それを止めることに精一杯になる。ほんの一厘だって、彼女を想う資格はないのに。今更優しさを見せたって、何もかもが遅いのに。
そこから先、言葉にはならなかったけど。聞いてもらえたことは、よかったのだと思う。
※
「……すみません、聞かなかったことにしてください」
「それでいい。君はまだ子供だ」
「それならいつか大人になる時、この弱さは捨てなきゃいけないですね」
「違う。捨てずに育てるんだ。この敗北にだって意味はある。スカイ、一つ言っておこう」
「もう何個も言い聞かされましたけど。もう一つだけ聞きましょうか」
「君は紛れもなく、ダービーの出走者だ。あの場にいた。全ての観客が、君の走りを保証する」
何も言い返せなかった。しばらく待つと、おやすみ、と言い残して電話は切れた。もうすぐ日が昇るというのに。授業を休んで一日ふて寝しろとでも言うのだろうか。それは数時間前なら名案だったけど、今なら授業中にうとうとしてやる方が良いように思えた。繋がりを頼る勇気はまだなかったけど、断ち切る勇気も消えていたから。……さて、猶予は短い。もうすぐ待ち侘びた朝が来る。夜更かしして改めてわかったのは、朝は全てを切り替えてなかったことになんかしてくれない。地続きになっている変化の積み重ねが、たまたま朝に結実したように見えるだけ。月が時間をかけて沈み、朝日と入れ替わるように。それでも日進月歩の如く、踏み出すことが何かを生み出すのだと。諦めなければ、努力は裏切らないと。
登りゆく太陽によって象られる青空が、私の眼にそれを見せていた。