九月になった。つまり夏合宿は終わったし、新学期が始まった。夏合宿最後の日は練習抜きで色々変なことをやってた気がするけど、最終日だからって私も抵抗なく乗っかってしまっていたような。焼肉パーティで率先して肉焼き役を務めていたのは記憶に新しい。いくらフラワーも手伝ってくれたとはいえ、そんな面倒そうな仕事を引き受けてしまうとは。そして今もそんなに後悔していないのだから、やれやれセイちゃんったらどういう風の吹き回しですか、という感じである。
他に夏合宿ラストの忘れられないイベントといえば、トレーナーさん主催の暑苦しい決意表明合戦。チームメイトの前で今後の目標を叫ぶ、というもの。ちなみに<デネブ>のトレーナーさんは乗り気じゃなかったので、フラワー含めた自分のチームメイトを率いてその時間に片付けとかをやってくれていたらしい。本当に申し訳ない。私もそちらを手伝えれば絶対にその方が良かったのだけど、「スカイ! まずはお前からだ!」とかトレーナーさんが言ったから。いや普段だったら逃げてただろうに、結局それに乗せられた自分自身の責任だろうと言われると、やはりぐうの音も出ません……。まあ何はともあれそうやって決意表明をしたわけで、その内容についてキングが突っかかってきてそのまま次に壇上に上がったりして、あれよあれよと流れができてしまって。そうしてみんなが叫び終わった後、最後に喋り出したのはトップロードさんだった。
「私、デビューを決めました!」
って。輝いて響く声だった。
「不安なこともありますし、怖いこともあります。でも、楽しみです!」
とか。自然と拍手が巻き起こって、特にトレーナーさんは手を叩く音が大きかったように思う。私もやっぱりぱちぱちと鳴らしていた。もちろんここに来る時の電車の中で、既に聞いていた内容には相違ないのだけど。そこに込められた想いは、より一層強く感じたから。この夏を通した、確かな変化を見た気がしたから。
そしてそれはきっと私も同じだと、自信と決意を胸に重ねたから。だから、また前を見て。
それが二日前の出来事で、一日だけ休んで今。新学期最初の日、体育館での始業式。今の私は、そこにいる。サボりも居眠りもせず、真摯に会長さんの話を聞いている。やっぱりおかしくなってしまったんじゃないか、私。過ぎた時間に願いを馳せて、新たな時間に祈りを澄ませる。それは立派なことだけど、私はそんな立派だったっけ、みたいな。過去にあるのは後悔で、未来に望むのは平穏で。私という存在は、そうするつもりだったはずなんだけど。そんな思考に、会長さんの声が混じる。
「勇往邁進。君たちトレセン学園の生徒全てが、これまでもこれからも成長していけることを願っている」
そしてそれを受けて私が思ったことは、割と単純明快で。
これも成長、変化の一つ。やはり踏み出しているのだと、そういうことだった。
※
「みんな、久しぶり!」
「はい。私もスペちゃんに久しぶりに会えて嬉しいです〜。やっぱりエルだけじゃ、寂しい時はありましたから」
「ちょっとグラス! アタシじゃ力不足デスカ!?」
今日は始業式だけで、授業はない。つまりお昼にはもう寮に帰れるんだけど、やっぱりいつものみんなで食堂に集まっていた。まあ周りを見れば大体他もそんな集まりみたいだし、考えることは皆同じというやつか。
「はあ……。相変わらずね、あなたたち。まあ私も、スカイさんと話すのは飽きてきたところだからちょうどいいけど」
「あらキングちゃん、夏はセイちゃんと一緒だったんですか?」
「あっ、それは」
「そうなんだよグラスちゃん、なんと夏合宿に合わせて移籍してきてさ。セイちゃんのことが恋しくてたまらないんだって」
キングが激しい抗議の目を向けてきているが、別にチーム移籍は頑張って隠すほどのことでもないだろう。いや、それ以外の部分に抗議したいのかもしれないけど。
それにしても夏合宿を終えて、やっぱりみんな見違えた気がする。暫く会っていなかった分、その差はくっきりと。もちろん、一日一日の努力の積み重ねなのだろうけど。私だって負けてられない、そう思った。
「それより、スペシャルウィークさん。今度の京都新聞杯、私が勝つわよ」
咳払いののち、キングがびしっとスペちゃんに宣言した。空気がぴりりと引き締まる。この夏、キングもまた変わった。今までは私くらいしか知らなかったそれを、この瞬間皆が感じ取る。
「……うん。負けないよ、キングちゃん」
「もちろん。貴女もそうでないと張り合いがないわ」
互いに全力で。全力の戦いこそ、ライバルの証明だから。
「ふふっ、私たちも負けてられませんね。京都新聞杯より前に、毎日王冠がありますから」
「あっ、グラスちゃん、それって……」
「はい。スズカ先輩も出走するそうですね」
「アタシも出マース! スペちゃん、応援よろしくお願いしマスよ!」
「あら、スペちゃんはエルじゃなくて私を応援してくれますよね?」
「ええっと、それは……」
「冗談ですよ〜。スズカ先輩を差し置いて、なんて言えませんから」
そんなやりとり。人気者だなあ、スペちゃんは。私も応援に行きたいのは山々だけど、あいにくその日は予定がある。この感じだと、友達は誰も応援に来ない気もするけど。そもそも私にも同日にレースがあるなんて、みんな知らないんじゃないか?
「心配しなくても、私は見にいくわよ。チームメイトなんだから」
「おお、お嬢様に慈悲を賜るのはとても光栄でございます。というか鋭いねキング、ひょっとしてエスパー?」
はぁ、とため息を吐かれた。まあ京都大賞典に出ることは言っていたから、それくらい察知するのは当たり前か。ともあれしっかり見られるのなら、手は抜けないや。まあ、抜くつもりなんて最初からないけどね。夏を終えて最初のレース。菊花賞に向けての試金石。相手はいつものライバルじゃなく、シニア級の強豪ウマ娘たちみたいだけど。それは負ける理由にはならない。諦める言い訳にはしない。どんな相手でも、って。そんな強がりを、たまには吐いてみようじゃないか。
きっとこれも私の変化。踏み出した、その先。
※
そうして、その日はすぐにやってきた。しんとした控室。体操服に着替えて、私はそれなりにリラックスしていた。七人だての四番人気。そもそも今日全国の注目はどちらといえば、ここ京都じゃなくて東京の毎日王冠に向いている。それくらい注目されていない方が、驚かせ甲斐があるというものだろう。こんこんと、扉が叩かれる。うっすら見える影の大きさからして、あれは。
「スカイ、入っていいか」
「いいですけど。トレーナーさん、どうしたんですか?」
もうとっくに観客席に行ったものだと思っていたけど、何か用事でもできたのだろうか。招き入れるとすぐに、答えはわかった。
「さっき毎日王冠の結果が出た。サイレンススズカの勝利だ。異次元の大逃げだと、そう実況が言っていた」
「それはそれは。スペちゃんは喜ぶけど、グラスちゃんとエルは悔しいだろうなあ」
「そこでだ。スカイに二つ、伝えたいことがある」
はて。まあそんな他人事だけでわざわざここまで来ないだろうとは思ったけど、こんな土壇場でなんだろうか。
「一つ。今日は絶対に勝つぞ!」
「そりゃもちろん。勝つつもりがないなら走りませんよ」
「そうだな。俺は君を信じている」
時折こうやってストレートに伝えてくるから、トレーナーさんは油断ならない。何回も聞いたフレーズだとしても、それだけで心の模様が変わるのがわかるから。
「そりゃどうも。で、もう一つはなんですか?」
「二つ。サイレンススズカにも負けるな」
「……意味がよくわかりませんね」
それは別のレースの話じゃないか。どうやって勝てというのやら。流石に説明が足りないと思ったのか、トレーナーさんは言葉を付け足す。
「あちらでは異次元の逃走劇が見られたらしい。鮮烈で、記憶に残るような。つまり今日逃げを打つなら、それに並ばなきゃいけない」
「トレーナーさん、結構無茶なこと言ってません? 私がそんなスーパーウマ娘に見えます?」
でも、言いたいことはわかった。それくらいこの人は、私に期待しているのだとも。予想は裏切れど、期待は裏切っちゃいけない。それにそう言われたら、おいそれと負けたくなんてない。誰にだって、負けたくない。
「……そこで、一つ考えたことがある。作戦だ」
「なにそれ。トレーナーさん、作戦なんてガラでしたっけ。それについさっき考えたようなの、ほんとに作戦って呼べるんですか?」
「それでも君の強みは戦略だ。スカイならできる、俺はそう信じている」
「……また」
信じられたなら、応えるしかないのに。この人はつくづく、少しずるいところがある。
「じゃあ聞きましょうか、トレーナーさんの作戦とやら。負けたらトレーナーさんのせいかもしれませんけど」
「ああ。まずは──」
私たちの作戦。それなら尚更、負けられないのだ。
※
芝を踏み締めると、バ場はそれなりに重かった。体力勝負になるなら、私はそれなりに不利だろう。シニア級のウマ娘が立ち並ぶ中、私はダービーでバテてしまっていた「実績」がある。特に要注意なのは、一番人気のメジロブライトさん。屈指の長距離レースである春の天皇賞を勝った、折り紙付きのスタミナ自慢。今日も当然のように一番人気だ。
「今日のメインレース、京都大賞典。いよいよ各ウマ娘がゲートに入ります」
私もゲートに入る。久しぶりのゲートは、やっぱりいつも通りに緊張する。ゲートは平等に開いているのに、ゴールはただ一人のためにしか存在しない。それを私の脳裏に刻み込む奈落の穴が、今日も開いている。けれど、それは。
「スタートしました!」
それが、私たちの走る理由の一つ。ゲートが開く特徴的な音とともに、勝利を目指して駆け出した。
「さあ、まずは激しい先頭争い! おっとセイウンスカイ、一気に抜け出した!」
だん、と踏み込みハナを取る。ここまでは大体いつも通り。三十六計逃げるに如かず、いやそれはちょっと意味が違うかな? でも、ここから!
「おっとセイウンスカイ、早くも五バ身六バ身と差を広げていきます!」
逃げ、逃げ、大逃げ! 観客席が沸いてるのが聞こえる。いやあ、走るのも驚かせるのも、最高に楽しいなあ! 前にも後ろにも誰もいない。このままどんどん突き放す。風を切って、気ままに進む。これじゃ気ままじゃなくて暴走、なんて言われそうだけどね。
「向正面に入って、セイウンスカイ依然独走! ただ一人コース中頃まで来ています! 二番手との差はおよそ二十バ身ほども開いています!」
いやあ我ながら、だいぶ頑張っちゃってますねえ。「作戦通り」と言えばそうなんだけど、こんなやたらしんどい作戦はトレーナーさんじゃなきゃ思いつかなかったかも。とはいえ。
「セイウンスカイ、坂を上る! 後続がだんだんと差を詰めてきています!」
とはいえ、それだけで勝てるほど甘くはない。私の脚の回転が遅くなってきたのを見逃さず、後ろから迫ってくる足音たち。坂道はもちろん平地より体力を使うし、ここまで爆走してきたセイちゃんとしてはよたよた歩かないように取り繕うので精一杯。やれやれなんてざまだろう。こんなみっともない姿を見せてしまったのだから、トレーナーさんには責任を取ってもらわないと。
もちろん、勝った後。
「残り400m! 二番手との差はもう少しだけ! セイウンスカイ、ここまでか!」
さあ、ここからが真骨頂。目立つ動きで餌を装い、ぎりぎりまで引きつけて。
「……おっとセイウンスカイ! ここで更に逃げ足を伸ばす!」
食い付いたその一瞬を逃さない。待つ時間もこの瞬間も、全てが勝利のための布石。
「メジロブライトここで追い込んでくる! しかしセイウンスカイ、逃げ切るか!」
……ここまでやってこれだけぎりぎりなのだから、やっぱり私の勝負は作戦ありきなのだろうけど。作戦勝ちだと言い換えたら、とってもいい気分だ。誘って引きつけて、食い付いたところを狙い澄ます。うん、これぞまさしく。
「セイウンスカイ! セイウンスカイ、ゴールイン! セイウンスカイ、僅かに押し切ったか!」
これぞまさしく、
※
走り終えて、こつんこつんと地下を歩く。いつぞやの再現のように、一人のウマ娘が待っていた。
「おめでとうスカイさん。最初は当てつけかと思ったけど」
「大逃げのこと? それならキングがわざわざ地下バ場に迎えに来たのも、あの時の当てつけかな」
せっかく勝ったところなんだから、ほんとに当てつけだったらかなり酷い話だと思うけど。
「まさか。これで菊花賞に向けての準備が整ったライバルを、讃えに来たのよ」
「それはありがとうございます。……うん、今日はばっちり策がハマったしね」
「貴女あんなの練習してたかしら? 肝が冷えたわよ」
「そりゃさっきトレーナーさんに伝えられたばかりのやつですから。まあそれで驚かせられたなら、策士冥利につきますなあ」
「呆れた。そんな急拵えとはね」
それはまったくもってその通り。まあそれが通じたのは、ひとえに私に合った作戦だったということなのだろう。伊達にトレーナーさんも私のトレーナーさんをやってるわけじゃないな、みたいな話。そう思ったのは、作戦だけの話じゃない。
「キング、さっき走って気づいたことなんだけどさ」
「権利を……なんて言わなくても喋りそうね。何かしら」
もう一つ、気づきがある。私の気持ちの話。踏み出したことで新たに見えた、更なる変化の話。
「私、かなり負けず嫌いみたい。それもだいぶん、欲張りな」
「あら。今日はライバルなんて気にしないんじゃなかったの?」
それはその通りで、夏合宿の時にキングに言ったことだ。あえて誰のことも考えず走ろうと、自分を俯瞰してみようと。けど。
「そのつもりだったんだけどね。でもライバルが出ないレースとなるとさ、やっぱり他の人と走るんだよ。というより、それもまたライバルみたいなものなんだって。たとえば今日あっちで走ってたスズカさん。私はそんな遠くの人にも、負けたくないんだって」
「本当、随分と欲張りね」
誰とでも、気ままに。そんなふうに思っていた。けれど本当は、誰であっても、だった。やっぱりこれも、コインの裏表に近い。
「うん。私はやっぱり、ライバルに勝ちたい。キングにも、スペちゃんにも。でも菊花賞だって、それだけで走るんじゃない。私は、全員に勝ちたいんだ」
「なるほどね。大変そうだけど」
「確かにね。でもそれが、一番になるってことじゃないかな。レースの一番、その日の一番。もっともっと、大きな一番だってさ」
「言うようになったじゃない。あのやる気のないスカイさんと同一人物とは思えないわね」
本当に、自分でも変わったと思う。もちろんだらだら休むことは、相変わらず好きなんだけど。そして今の気持ちは、それと別のところにあるわけでもない。きっとどちらも私。セイウンスカイというウマ娘だ。
「来週は頑張りなよ、キング。スペちゃんは強敵だけど」
「あら、応援してくれるのかしら」
「一応チームとしての義理がありますからねえ。そこまでは応援してあげる。……だけどさ」
「菊花賞は敵同士。当然ね」
「ちょっとキング、セリフ取らないでよ。まあでもその通り。菊花賞は、私が勝つ。待ってるよ」
そう言って、彼女に手を伸ばす。すぐにあちらからも伸びてきて、固く掌を握る。やがて離れる。
いい勝負をしよう、と。それが宣戦布告だった。
未来は既に始まっている。