こつ、こつ。僅かに私の足音が響くだけの、静かな通路だった。この空気は一週間ぶり。レース前の緊張や不安と、一人きりで戦うこの独特の空気。まあ、今日の私は当事者じゃない。それにこれから、彼女の独りを破ってしまう。極めてお節介な行為だと思う。でも、それでも。それでも私は、そのドアをノックする。きっと今だから、確かめられることがあるから。
「入っても、いいかな」
それは、私だけにとってじゃなくて。
「いいわよ。キングの部屋に入る権利をあげる」
私と君の、両方にとって。扉は既に開かれているのだから。
「そこ、座っていいわよ。もっともすぐに時間が来てしまうけど」
「それではお嬢様、お言葉に甘えさせていただきます。……なんて、ちょっと聞きたいことがあるだけなんだけど」
レースが始まるまでの、ごく短い時間だ。そこで私たちに出来ることは少ない。だけどそれは小さくはないし、全てをひっくり返すものですらあるかもしれない。何故か。答えは簡単だ。
「何かしら」
なぜなら。なぜならこの極小の刹那は。
「今しかできない夏合宿のリマインド。あれ、覚えてる?」
全てが、那由多の連鎖の果てにあるから。過去を一瞬に込めて走るからこそ、私たちは夢を駆けることができる。夢とは微睡の狭間のわずかな時間にあって、それでいてそれまでの積み重ねから写しとるものだから。それゆえに今過去を改めて振り返ることが、本物の夢に近づく一歩になる。たとえば夏合宿。たとえばダービー。たとえば、それよりもっと前。
「……覚えてるわよ。"周りを気にせず走ってみたら"」
「うん。覚えててくれて嬉しい。あのさ、やっぱり思うんだ。キングにとっての、『周り』について」
「今日で言うならスペシャルウィークさんね。もちろん手加減はしない。そういうことなら、私は周りを気にしていない」
それはきっと間違いない。強がりや意地じゃなくて、キングは今度こそライバルとの折り合いをつけている。『友達』が、その刃を曇らせることはない。それ自体は、間違いない。……でも。ここに至って、私はもう一つの『周り』を見つけていた。
「キング。多分それだけじゃないんだ」
まだ。まだ彼女が本当に振り切れるには、まだ。
「……そろそろ時間ね。"それだけじゃない"、気には留めておくわ。……ありがとう」
「うん、頑張って」
まだ。時間が足りない。やっぱりこの僅かな時間では、出来ることには限りがある。けれど、そこで終わりじゃない。これも積み重ねて、更に進もう。だって、そうやってここまで来たのだから。
道は続いていく。
※
がこん!
「秋の日差しをいっぱいに受けまして、十六人のウマ娘が一斉にスタートしました!」
芝2,200m、京都新聞杯。私はそれを観客席から見守っている。このレースも、ほんの一瞬。それまで重ねてきたトレーニング時間に比べたら、数分で終わるレースは本当にちっぽけだ。それなのに、これほどまでに大きなものはない。観客にとってもそうだし、何よりそこでひた走るウマ娘たちにとっては。
「二番人気キングヘイロー、今日は好位から少し後ろにつけています!」
少し抑えて冷静にレースを進めるキング。けれど後方よりは前目に付けているのは、やはりそこから迫り来る脅威があるから。今日も一番人気、夏を越えて更に手強くなった私たちのライバル──。
「第三コーナーを登って後方から早くも動き出したのはスペシャルウィーク! スペシャルウィーク、中団まで一気に押し上げてきた!」
スペシャルウィーク、やっぱり君は強い。多大な期待を背負い、それよりも重い自らの夢まで抱えて。どれ一つ取りこぼさず、全速力で走り抜けようとするのだから。でも。
「スペシャルウィーク、キングヘイローの直後だ! 四コーナーに入るところで、キングヘイローとスペシャルウィークが並んだ!」
でも、キングも負けてない。私のライバルたちは、並び競い合うたびに強くなれる。あのダービーから、チームを移籍して。そして練習に励んで、時には星の下で語らって。だからキングも強い。スペちゃんもキングも、私のライバルはとっても強い。
「キングヘイローか!? スペシャルウィークか!? スペシャルウィーク、キングヘイローを躱せるか!」
キングとスペちゃんは、互いをちらりと見て。そこからはひたすらに、前だけを見ていた。全身全霊、精も根も尽き果てるまで。きらきらの汗とどろどろの靴が、どうしようもなく輝かしくて。
「キングヘイロー先頭に立っている! キングヘイロー頑張っている! しかしスペシャルウィークか! 最後の最後で差し返した! スペシャルウィーク、ゴールイン!」
そうして、大歓声が巻き起こる。おめでとう、スペちゃん。キングは残念だったね。それぞれ抱える思いは違って、この勝利と敗北にも、すぐには結論が出ないだろう。でも、これだけは言える。これは間違いなく、いい勝負だったってこと。その事実だけでも、この瞬間に価値はあった。得難くかけがえのない、綺羅星のような価値が。
うん、居ても立っても居られない。キングが"ちゃんと"周りを気にしなかったか、それも聞いてみたいし。なにより、なによりも。いずれ相見えるのなら、私には必要な行為がある。いち早く観客席を抜けて、地下バ場へ。目指すのは当然、来たる菊花賞の好敵手、スペシャルウィークとキングヘイローだ。
※
「お疲れ様、二人とも」
「あっ、セイちゃん!」
「慰めに来たのなら結構よ、スカイさん」
地下バ場で対面したのは、土で汚れた二人のライバル。だけどそれが何故か、とても眩しい。でもそれを見た私の感情は、決して羨望じゃない。奮い立ち、昂る。
「いいや、ここに来たのはキングを慰めるためじゃないよ? もちろんスペちゃんにおめでとう、みたいなのを言いに来たわけでもない」
「ならスカイさん、貴女は何をしにここに来たのかしら」
私がここに来たのは、もちろん君たちに言いたいことがあるから。打ち勝つべきライバルというだけなら、宣戦布告がふさわしいのだろうけど。もう一つ、私には伝えなきゃいけないことがあった。ちょっとだけ、息を吸って、吐いて。二人の眼を見て。
「菊花賞。最高のレースにしようよ」
ライバルとして、友達として。私たちは競い合い、協力するのだ。最高を創り出すために。
「……うん、もちろん!」
ある者は勝利を積み重ね、その先の夢に手を伸ばす。
「当然よ。次こそ、私が勝たせてもらうわ」
ある者は敗北を乗り越えて、それでも夢を握りしめる。
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
そしてある者は、そんな二つの煌めきを見据えて。また強く、強く夢を想う。私たちの夢は一つ。道は違えど、友達だから。
これ以上ないくらいの最高。皆で、そこまで駆け抜けよう。
「……ところで、スカイさん」
「どうしたのキング。スペちゃんが見てるから、変なことはしないでよ」
「おばか! そうじゃなくて、私はどうだったかしら」
なるほど。キングはやっぱり、レース前のアレを気にしてる。『周り』の話。とはいえそれについて話すなら、私より適任がいるだろう。
「ふむふむ。ところでスペちゃん、今日のキングはどうだった?」
「えっ、私!? セイちゃん、なんのことかわからないよー!」
「そんな特別な話じゃないよ。走ってる時、何か変だったかなって」
そう、大事なのは走っている間。その間彼女が、『周り』を気にせずにいられたか。忘れられていたか。それはきっと、キングとあの激戦を繰り広げたスペちゃんなら、わかること。少し考えた後にスペちゃんが言った答えは、やっぱり鋭かった。
「それなら、二つ。いつもとなんとなく違ったから、変だったかも」
うん、キングは変わっていた。さまざまを越えて、前走った時とは見違えた。そういう意味では、変で当たり前。
「でも、これもなんとなくだけど。今日のキングちゃんは、いつもよりキングちゃんらしかったと思うよ。だから、変じゃない」
そしてそれも、その通り。変化はどれだけ重なれど、本人らしさをより鮮明にするもの。変わって、変わって、だからこそ変わらないものが見えてくる。つまり変じゃないのも、やっぱり当たり前。
「……なんだかピンとこないわね」
「こういう変化は、中々自分では気づかないものだからね。だから私たちには、友達が必要なんだよ」
たとえライバルを気にしないとしても、友達だからと容赦しないとしても。それでも繋がりは切れなくて、なんだかんだでその繋がりに救われてしまう。だから、無理に意識しなくていいんだ。遠慮も出来なければ無視もできない、それが気の置けない仲、ってやつなんだから。
「それにしても、うん。確かに私から見ても、今日のキングは『周り』を気にしてなさそうだね」
「奥歯に物が挟まったような言い方ね」
「そりゃ、言って気付かせるのも良くないし。自分では気付きにくいと言った手前だけど、後は自分で考えなよ」
「なによ、それ」
ちょっと不満そうなキングヘイロー。それでもそれ以上追求してこないのは、きっと彼女なりの信頼の示し方。私なりの信頼の示し方は、そのまま彼女を放っておくこと。きっと来たるべき時には自らで気づけると、それが信頼。そしてそうやって、互いに互いを信頼しているのなら。ありきたりで、陳腐ですらありそうな答えだけど。
それが、友情だ。
※
その日の夜、久方ぶりに眠れなかった。いつかのそれとは違って、高揚感によるものだったけど。まだ菊花賞前日でもないのに、こんな調子では身体が保たない。一刻も早く意識を切り替えねばならないという点では、なるほどあの日の夜に似ているかもしれない。だから。だから多分、あなたに電話をかけるのは、必然で。
「おう、どうしたスカイ」
そうやってあなたが応えるのも、必然なのかもしれない。
「夜分遅くにすみませんね、どうにも眠れなくって」
「そうか。俺は勉強していた。徹夜で勉強なんて久しぶりだ」
「学生の私ですらしてないですけど。トレーナーというのは大変な職業ですねえ」
大人故の苦労、の一つだろうか。大人のふりをしているだけの私は、大人と子供のいいとこ取りをしてしまっている。たとえば今夜こうやって、子供のように大人を頼る。たとえば今夜こうやって、大人のようにあなたに頼られたい。そうしてやっぱり、どちらにせよ。あなたのその頑固な口から、褒められたい。
「今日のキングの負けは俺の責任だ。新入りでも、いやだからこそ。俺は結果を出させてやらないといけない」
「なるほど、それで勉強していると。でもチームの誰かが負けたら責任取らなきゃいけないなら、次の菊花賞は困りますねえ」
「……あっ」
つくづく融通の効かない性格だ。キングと私の両方を応援するんだから、トレーナーさんの責任はとても重い。どっちかが勝っても、どっちも負けても。どちらにせよ大人として苦労しなきゃいけない。私たちが付けたライバルと友達の折り合いより、ある意味ではもっとシビアなもの。そういう意味では不器用すぎて、対応するための大人らしさが足りないのかも、なんて。
「それでトレーナーさんは、キングと私のどっちに肩入れするんですか?」
「どちらも、だな。優劣をつけるわけにはいかない」
「それが大人の対応、ってやつですかね。私としては、本音が聞きたいですけど」
「今のが本音だ」
「またまた、それならもっと上手く誤魔化してくださいよ。いつもの正論じゃないですか」
優劣はつけられない、なんて正論。いつも通りそういう言葉は、この正論男の感情を覆い隠すもの。もう慣れっこだ。だからたまにはその先の、聞いたことのない言葉を聞きたい。あなたに、私を頼ってほしい。それとほんのちょっとだけ、意地悪してみたい悪童の如く。
「本音、か」
「はい。今なら、私しか聞いてませんよ?」
「そうだな。今なら、君だけだ」
「はい。だから、今だけです」
今だけ、気を抜いてほしい。これは純粋に、あなたを慮って。私がいつまでもなれない大人というものは、とても大変みたいだから。電話が切れたかと思うほどの沈黙の後、聞き馴染んだ声が聞こえてきた。少しだけ、知らない声音が混じっていた。
「俺は、キングに勝ってほしい。もちろんまだ浅い付き合いだ。あの子が俺をどう思ってるかもわからない。でもそんなことはどうでもいい。チーム移籍願いを出してきた日のキングヘイローに、俺は覚悟と根性があると思った。それを信じたい」
「その日のこと、詳しく聞きたいですねえ」
「それはダメだ。俺と彼女の問題だからな」
でもその話ぶりから、それだけでわかることはある。微かだけど、確かなもの。キングのチーム移籍は彼女にとってとても大事な決断で、このトレーナーさんはそれを尊重したんだ。そして、だから当然。トレーナーさんは、キングヘイローの勝利を願っている。
「なるほど。なんだトレーナーさん、ちゃんとした本音があるじゃないですか。安心しました」
「そうだな、だがもう一つあるぞ。今しか言えない、本音だ」
「付き合いますよ、ここまで来たら」
そう告げてやると、やっぱりちょっとだけ黙りこくった後。多分それなりに勇気を出して、トレーナーさんは喋り始めた。
「さっきのは本当だ。本音だ。その上でこれも本音だ」
「勿体ぶりますね」
「ああ、だが言うぞ。……スカイ、俺は君に勝ってほしい」
多分予測できた答えだった。このトレーナーさんが片方だけ応援なんて出来るわけないって。正論だろうが矛盾だろうが、やっぱりこの人は不器用だから。それでも、その言葉は暖かい。ほんのりと、胸に灯りが瞬いて。
「皐月賞の時、正直不安だった。きっと君なら勝てると信じていたのに、それでも不安だった。でも、君は勝った」
「だいぶ昔の話ですね。あれからお互い歳をとりましたとも」
「ダービーの時、どうしようもなく悔しかった。君が一緒に悔しがってくれたから、立ち直れた」
「それはお互いさまですから。私だって独りじゃきっと、あそこにずっとそのままいました」
「そして、菊花賞だ。クラシック三冠の最後、その近くまで君は来ている。それならば、最高の結果を見せてほしい。これまでを踏まえた、最高を」
最高、か。つい数時間前に私が使ったフレーズだ。それをあなたも見ているとしたら、悪い気はしない。皐月賞より、ダービーより。全てに勝ちたいと言うのなら、それくらいの目標を立てても構わない。むしろ、上等だ。
「それはそれは。それにしても、だいぶ赤裸々な話でしたけど」
「これは俺と君との問題だからな。今だけ、言わせてくれ」
なるほど筋は通っている。今日くらいは許してやろう。
「そういえば、トレーナーさん。前の京都大賞典の作戦、ありがとうございました」
「即席だったが、スカイのおかげだ。ばっちりハマった」
「あれは私だけの手柄じゃないですよ。『私たち』の、作戦です」
「……そうだな」
なんだかさっきまでのを引きずってか、今日のトレーナーさんは随分と素直だ。このままずっとからかっても飽きなさそうだけど、今日はしっかり眠くなってきてしまった。
「積もる話もありそうですが、ちょっとセイちゃん、眠くなってきましたので。トレーナーさんのおかげですね。ありがとうございます」
「そうか。俺はもう少し、勉強しておく。明日からも頑張るぞ!」
「はーい。では、おやすみなさい、トレーナーさん」
「おやすみ、スカイ」
そうやって、穏やかに通話は途切れて。私は布団の中で、ゆらりゆらりと夢へ運ばれる。夢は変化の結実の一つ。積み重ねを脳が整理する時に発生する、万華鏡のような記憶の濁流。それはあるいは一瞬で、あるいは無限にすら広がる。体感時間を含めた全てのものがあやふやで、それ故に一度目覚めれば殆どの内容を覚えていない。だけどそれも必要な時間。積み重ねと変化において、一瞬すら無意味な時間はないのだ。なら私ももちろん、それを無駄にはできないのだと。
ライバルと友達、皆と作る最高のために。
そして、いつか大人になるために。