窓から差し込む柔らかな朝の日差し。それをまぶたで受け止めて、ゆっくりと目を見開く。布団から少しずつ身体を出して、陽光の方を見てみれば。今日もやっぱり。何千と経験した目覚めの刻でいいものも悪いものも見慣れているけど、こういうハレの日はやっぱり。
やっぱり、青空はキレイな方がいい。なんと言っても、最高の一日の始まりなんだから。
「おはようございますトレーナーさん、寝坊してないですか?」
「もちろんだ! 先にキングを拾ってから、そっちに行く」
「今日はバチバチにやりあうってのに、仲良く一緒の車に乗るのかあ。私はいいけどキングは怒るかも」
ここトレセン学園から、今日の舞台京都レース場まではそれなりに遠い。つまり私とキングとそれを送り迎えするトレーナーさんは、それなりに早起きしてそこへ向かう。もちろんメインレースが始まるのは午後なんだけど、それをただ待っているなんて考えられなかったから。そしてそれは多分、私たち三人に共通する気持ち。きっと、同じものを見ているのだ。
「菊花賞はもっとも『強い』ウマ娘が勝つと言われている。知ってるな」
「そりゃもちろん。まあどこの記事やテレビ番組を見ても、大体そのフレーズ使ってますからね」
「研究はバッチリというわけだな。期待している」
「はい。じゃ、迎え待ってます」
ぴっ、と。そうして電話越しの短い会話は終わる。もっとも『強い』、か。随分御大層な文句だと思うけど、そんなのももう三度目だ。もっとも『速い』、もっとも『運のある』、そしてもっとも『強い』。かつての二戦、同じような重みがあるレースで、既に勝利も敗北も経験している。ここに一分たりとも誇張がないと、既に私は知っている。そしてその上で、今の私は怖気付いていない。期待も不安もひっくり返すトリックスターは、強さも弱さも見せるわけにはいかないんだから。今の気持ちは、そう。
最高が、楽しみだ。それでいい。それがいい。
※
「おはようキング。隣、座ってもいいかな」
「ええ、それくらいはね。ちなみにダメと言ったらどうするつもりなのかしら」
「キングを車から引き摺り下ろすのはかわいそうだから、その膝の上に座るしかないですね」
「……丁重にお断りさせていただくわ」
トレーナーさんが出してくれた迎えの車の後部座席には、既にもう一人の菊花賞出走者が待機していた。姿勢良く座ってぴったり動かず、一見何事にも動じない、みたいな雰囲気を醸し出しているお嬢様。だけど忙しなく右往左往する両の耳が、隠せない緊張を表してしまっている。やれやれ、このままの彼女と京都まで仲良く並んで座っていたら、こちらまであたふたしてしまいそうだ。だからこれから彼女に伝えるのは、あくまで自分を守るため。
「ねえ、キング」
決してかつてのように、ただ友として心配するだけではなく。
「なにかしら」
あるいは誰かのように、ライバルを恐れることもなく。
「今日の菊花賞は、最高のものにしよう」
ライバルで、友達だから。互いに最高を追い求め、その上で君に勝ちたい。それが私の結論。
「……ええ、そうね」
そして、君もそうであったなら。願わくば、皆がそうであったなら。案外お人好しで、存外負けず嫌いな私は。きっと、それを求めている。強く、求めている。
「よーし、乗ったかスカイ」
「おっとすみません、ドアまで開けたところでキングと話し込んでいました」
そしてトレーナーさん、もちろんあなたにも。私があなたに求めることは、結構たくさんある。たとえばもうちょっとだけ暑苦しいのを抑えてほしいとか、もっとセイちゃんに負けないくらい釣りが上手くなって欲しいとか。あるいは偶の本音をまた見せてほしいとか、褒められたいとか。まあ、でも今は。とりあえず、今日は。
見ててよね。
「セイちゃん無事乗りました〜、安全運転で出してくださーい」
「一流のドライビングを期待しているわよ」
「よし、任せろ! 最近は運転も練習しているからな!」
閉じた空間が駆動音と共に揺れ出す。エンジン音がぶるるとなって、拍動と合わせてまるで生き物のよう。この車も走るのは私たちと同じか、なんてことを思う。速く走るという行為に理由があるとしたら、本来は何かを届けたり運んだりするためだ。たとえばこの車は、私たちを京都まで送り届けるために今走り出した。その点我々ウマ娘を見てみれば、何も持たず運ばずぐるぐるコースを回っている。レースに興味がない人からすれば、果たして何故こやつらは走ってるのだろう、なんて思うのかもしれない。ひょっとしたら私だって、そう思う側についていたっておかしくない。何かを諦めたあの日、その先の全てを諦めていたら、きっと。
そうならなかったのは、じいちゃんが後押ししてくれたから。そしてトレセン学園に入って、トレーナーさんに会ったから。それだけでもなくて、高めあう存在と出逢えたから。仲間がいるから。あなたがいるから。だから終わらない。終われない。変化はどこまでも果てしないんだって、今日もそれを示してやろう。
今日掲げる、最高の二文字。それはきっと、過去の全てを超えるため。あのダービーで遠くに見た最高の決着。それすらも、今度は置き去りにする。私が仕掛ける大謀は、それくらいの大望なのだ。
「それにしても、人気投票の結果……。こうなるのは当然、ではあるのでしょうけど」
「スペちゃん、私、キングで三番人気まで独占だね。いつかの皐月賞を思い出しますなあ」
「そう言えば聞こえはいいけど、実際にはスペシャルウィークさんが断然一番人気よ」
相変わらずおっかなびっくり運転するトレーナーさんの後頭部を見ながら車に揺られていると、キングがまた話しかけてきた。人気、か。キングの言わんとすることはわかる。ダービーでスペちゃんと同着のエルは今回不在。そうなれば夏を超えて抜きん出た実力を持っているのはスペシャルウィークである。それが世間一般の評価、というやつだ。何よりキングは既にスペちゃんと一回走っていて、よりその焦りは強いはず。もう勝てないんじゃないか、そんな焦り。でも。
「でも、負けるつもりはないんだよね」
「当然ね。最高を目指すというのなら、負けるつもりで走るわけにはいかない」
でも、そういうことだ。既に緊張が解れていることは、キングの耳を見ればわかる。ううん、もう見なくてもわかる。
「そうだね。まあ私もせいぜい頑張るとしますか」
「相変わらず、やる気のない『フリ』は得意ね」
「そりゃ曰く、私はトリックスターですから。やる気がなくてもうっかり勝っちゃうんだよね」
「……本気で言ってるのかしら」
「確かめる方法は一つだよ」
「上等ね」
こつん。いつかの再現の如く、拳を突き合わせる。ライバル相手に対抗心を燃やし、友達と言葉や心を交わす。だから、やっぱり。私たちは、独りじゃない。
※
数時間車に揺られて、辿り着きまするは京都レース場。少し冷たいけど優しい秋風と、それによって彩られる旧き都の艶やかさ。なんて、そんな旅情を楽しむ感じの日ではないんだけど。トレーナーさんの運転は結構丁寧になっていて、それなりに快適だった、ということにしておこう。つまり窓を開けてなきゃ若干狭くてイヤだった、という事実は秘密にしておくという意味である。キングと同じレースに出るたび後部座席を独り占めできなくなるとしたら、それも結構辛い現実だ。なんちゃって。
「運転ご苦労様でした、トレーナーさん」
「これくらいどうということはない! 今日の主役は君達だからな」
「ええ、もちろん。トレーナーには、私の一着を特等席で見届ける権利をあげる」
「それは楽しみだ! もちろん、キングには期待している」
「……そう! 期待してもらわなきゃ困るわ! なんてったってこの私は、キングヘイローなんだから!」
そのままいつもの高笑いをするキング。とんとん拍子でテンションを高め合うこの二人、結構波長が合うのかも? 空元気と大仰なセリフを振り回しがちなところは確かに似ている。そんなことを考えていたら、藪から棒にトレーナーさんが。
「……もちろん、スカイにも期待しているぞ」
「なんですか、急にこっち向いて」
「言っておくべきだと思ったからだ。そうでないと不公平だからな」
不公平、ねえ。またまた正論か、とは思ったけど、これは多分本心。どっちも応援したいけど、勝てるとしたら一人だけ。いつかあなたと二人で話した、難儀な大人の悩みごとだ。それに対して私ができることは、せいぜい話を聞いてあげることか、それ以外は。
「でも、うん。ありがとうございます。なら私も、期待に応えたいところですね」
期待に応える。当たり前のようで、私には結構難しいこと。期待されるのにはやっぱり慣れないし、諦めてしまう方が楽に思える。それはやっぱり、今もそこまで変わらない。だけど、少しは変わっている。だからきっと、私は今ここにいる。
「二人とも、頑張ってこい!」
「はい」
「ええ」
そうして、送り出される。いつもの大声、いつもの青空。それに送り出されるのなら、今日はいつものようにやろう。もっとも私らしくすることが、最高への近道だから。
決着の時は近い。最後の一瞬まで、できる限りをやり続けよう。
※
そうして、しばらく時間が経った。車の中で凝り固まった身体をほぐして、控室でうとうとして。そうしてやがて、勝負服に袖を通す。多分キングもスペちゃんも、そうしていたことだろう。うとうとはしてないかもしれないけど。
「さあ京都レース場、本日のメインレース! 今年のクラシック戦線のフィナーレ、菊花賞です!」
いつまでも見ていられそうな、キレイな青空の下。全ての出走者が芝の上に勢揃い。うん、もれなく私もその中にいる。心臓の中で煌々と燃え盛る焔。足元から頭のてっぺんまで、ぎゅるぎゅると血のめぐる音がする。そうなれば私に出来ることは限られてくる。走ること、勝つこと。今までの全てを、今日この時に込めるんだ。
「いよいよね、スカイさん」
「朝ぶりだね、キング。私としては、今更キングと話すこともあんまりない気がするけど」
「あら、スペシャルウィークさんと話したかったかしら? 私はさっき話してきたけど」
「どうだった?」
「頑張ろうね、ですって。いつもみたいに」
「そっか。それなら今日のスペちゃんも手強そうだね」
いつも通りなら、スペちゃんが勝つ。私たちのパワーバランスはそんな感じだと、下馬評は告げている。それなら私の仕事は、それをひっくり返すこと。これも、いつも通り。
「じゃ、一言言ってこようかな。一番人気へ二番人気から、愛を込めて」
「それなら先に、三番人気から二番人気へ、一つ伝えておくわ」
「なんでしょうか、お嬢様」
「『周り』を見ない。今ならちゃんと、意味がわかるわ」
「……そっか」
なら、よかった。これ以上言葉を交わす必要はない。また後で。誰が勝つとしても、私たちはその先に変化を見るのだから。
そして。ざりざりと、私は別の方角へ歩を進める。この戦場に在る、微かで僅かな束の間。その最後を締め括るなら、やはり君とがいい。
「やっほー、スペちゃん」
ごきげんよう、私のライバル。
「あっ、セイちゃん! 今日は頑張ろうね!」
「えー、どうかなあ。3,000mって長すぎるし、逃げウマの私にはそもそも不利なんだよね」
そう、それは事実。なんでも菊花賞の逃げ切り勝ちは、長らく出ていないらしい。その上で私は逃げを選ぶのだから、まさに無謀。いくら策謀があると言い張っても、だ。
「……それでも、セイちゃんは諦めてない」
「流石スペちゃん。鋭いね」
諦めてない。私自身すらなかなか認められなかったそれを、君は真っ直ぐ見抜いてしまう。澄んだ瞳と星のような心が、それを成し得ている。そしてそれは、君の強さの秘訣でもある。私にはないもの。他の誰にもないもの。紛れもない、一番の一つ。だけど。
「うん。セイちゃんは強いから。諦めてないから。なら私も、負けるわけにはいかないよ」
そう、君が言う通り。私にも、私の強さがあるのだろう。だから皆が期待している。だから皆が私と走りたいと言ってくれる。だから、私は今。
「ありがと。なら、最高のレースにしようか」
「もちろん!」
ぱん。互いの手を重ねて。
ざり。蹄鉄を切り返して。
どくん。それを区切りに、ゲートへ向かって。
ぱぁん。やがて、ファンファーレが鳴り響いて。
かちり。それぞれの合間にある瞬間で、一つずつ心のスイッチを切り替えて。
しん。ここにいる全員が、足並みを揃えて。
がこん。そうして今日も、踏み出した。