【完結】セイウンスカイは正論男に褒められたい 作:つみびとのオズ
秋の天皇賞、一着でゴールしたのはエルだった。彼女はテレビの真ん中で、楯を両手で抱えていた。映えある栄冠がそこにあること、それは誰もが疑いようのないものなのに。誰も、嬉しそうな顔はしていなかった。仕方のないことだった。だって「必ずアナタに勝ちます」と、エルが勝利を誓った相手には。二度と勝負すら挑めない可能性が、重々しく首をもたげていたのだから。
サイレンススズカ、レース中に故障発生。既にネットにも速報が上がり始め、私たち観客もそれを現実だと認めざるを得なくなる。あり得ないはずはないと理屈ではわかっているけれど、自分の目では確かめたくなかったこと。テーブルに座って意気揚々と画面越しに見物していた私もトレーナーさんも他の人たち全ても、思うことは同じだった。嘘であってほしかった。
杞憂であって、ほしかった。
「……スカイ、大丈夫か」
「私なんか心配して、どうするんですか」
冷えた焼き魚を空しく見つめていると、トレーナーさんが沈黙を破る。私なんか、だった。私たちはどうやっても、画面の先の悲劇に干渉は出来なかった。カメラがその光景から外れていくのを見て、良かったとさえ思ってしまっていた。それは文字通り、目を逸らすことに過ぎないのに。だから私の方なんか見て心配しても、それは見たくないものから目を逸らしているだけ。もちろん目を逸らさないことを選んだとして、出来ることなど何もない。だからそれが正解。せめて自分に出来ることをするのが、当たり前の正論だ。だけど。
「私のことなんて心配しても、何にもなりませんよ。トレーナーさんだってわかるはずです。今大変なのは、私じゃなくて」
そうやってぶつけてしまうのが、私にとっての正論。私はテレビでそれを見ていただけだ。スズカさんとの関係は薄くて、それはこれから紡いでいきたかったものに過ぎなくて。だから「故障」というものも、ただ恐ろしくて理不尽なものにしか見えていない。それが絶ってしまった未来の話など、何も知らない私にはわからない。今自分が見た以上の絶望なんて、それが誰かにのしかかっているなんて。耐えられない。たとえ、紛れもない現実だとしても。
「……私じゃなくて、スズカさんです」
そうでなければ、あるいは。あるいはリベンジに燃える一戦で、こんな結末を迎えてしまったエル。あるいは憧れの先輩の一戦とそこで起こった事件を間近で見ていた、グラスちゃんとスペちゃん。彼女たちほどには、私は何も理解していない。何も理解してやれない。私なんかより、よっぽど。だからトレーナーさんから手を差し伸べられても、今の私はそれを払い退けてしまう。理由はわからない。自分なんかがここまで焦ってしまっている理由は。それをわかる人がいるとすれば。
「スカイ。そうだとしても、君が落ち着いていないのはわかる」
そう言えるのは、トレーナーさんしかいなかった。
「そうですね。何でこんなに、怖いんでしょうか」
得体の知れない恐怖が、身体を覆っていた。蝕むように、蔓延っていた。
「スズカさんとそんなに関わりがあったわけじゃないです。エルやグラスちゃんやスペちゃんほどには」
それでも脳裏に焼き付いた、大ケヤキの先の残像。
「だから、そんなに慌てふためくはずないんです。そんな資格は、私には」
恐怖も焦燥も、何もかもが不相応。それはわかっているのに、感情に制御が効かない。どうしようもない発露に身を任せ、子供のように喚いてしまう。それは私がやるべきことじゃない。私が今やるべきことがあるとすれば、それは──。
「私はきっと、みんなを元気づけなきゃいけないのに」
──それが自らの感情の根幹だと、多分その時漸く気づいた。あの場にいた友人に、私は何かしてやりたい。だから私がショックを受けている暇はない。そんな焦りだった。そこまで聞いて、トレーナーさんはゆっくりと口を開く。私を待っていてくれたのだと、そのことにもその時気づけた。
「レース中の故障は、ショッキングな出来事だ。……それを見てしまったら、誰だって怖い。俺だって怖い。でも、スカイは誰かの力になりたいんだな」
「エゴ、ですけどね」
「それでいい。俺はそんなスカイを誇らしく思う」
この人はこんな時でさえ、私のことを元気づけてくれるのか。褒めてくれるのか。そうして、立ち上がらせてくれるのか。私なんか、なのに。……ああ、でも。
「そうやって期待されたなら、私もその期待に応えないといけないね」
私だから出来ることがあるのなら、私なんかとは言っていられない。スズカさんの安否については祈るしかないというのはどうにもならないことで、そのことから来る不安や恐れもやはりどうにもならないとしても。
辛い時に寄り添ってやるのが、友達だ。
※
それからなんとか、時間をかけて。ついでにニジマスの山も、一つ残らず平らげて。夕日も沈み、星が瞬く夜が来て。電車を乗り継ぎ、いつもの寮への帰路に着いて。あらゆる点で時間をかけて、私の気持ちを落ち着かせる。スズカさんへの心配は、やはり完全に収まりはしない。むしろ動悸は激しくなっている気がする。でも、それは信じるしかない。スズカさんは無事でまた走れるのだと、私の願いの一つとして。願いや夢は信じなければ、叶うことなどあり得ないから。
「多分サイレンススズカは、緊急入院の措置を取られているはずだ。今は彼女が目覚めるのを待っている」
「はい。私も待ってます」
二人で歩く夜の道は、何度目かの経験だった。こんなに緊迫した帰り道は、初めてだったのだろうけど。秋の天皇賞で起こった異常事態は、二人とも忘れられないだろう。けれど前を向く。そしてより深く沈んでしまった人にも、前へとその目を向かせられたなら。最後には一番底まで沈んでしまった存在まで、きっと手が届くはず。
「では、ここら辺で。電話、しなくちゃいけませんから」
「……スカイ」
「なんですか?」
トレセン学園が近づいてきて、けど私はこれから寮に帰らずみんなに電話をするつもり。トレーナーさんとは今日はここでお別れだ。本来なら釣り堀の感想トークでもしていたのだろうけど、そういう状況では無くなってしまった。深刻だとしても、私たちには手の届かない状況。それが空間を支配している。けれど、それだけじゃない。
「スカイなら、誰かの力になれる。俺は信じている」
「……大げさかもしれませんけど。私も、そうだったらいいと思います」
仲間のためになりたい。焦りばかりの感情でも、それだけは嘘じゃない。それはわかった。唯一だけど、紛れもない道しるべ。
二人の会話はそこまで。だけど私の夜は、ここからだ。
「私からLANEを送るなんて、珍しいんだけど」
誰もいない校舎裏で、壁に寄りかかりスマホをいじる。まずはそうやって、メッセージを送ってみる。スズカさんのレースをその目で見ていた友人は三人いて、その距離感も様々で。その中で私がまず、メッセージを送る相手として選ぶなら。程なくして既読がついて、彼女からの返信が返ってくる。
「そうですね、セイちゃん。私に何か御用ですか?」
きっと、私たちの誰よりも強いグラスちゃん。だからこそ、助けは必要だ。何とメッセージを送るべきか、数瞬迷ってそのあと。結局私はキーパッドに画面を切り替えて、知っているけどなかなか打ち込まない彼女の電話番号を入力する。「声に出した方がいい」というのは、いつかトレーナーさんが言っていたことだ。おそらくグラスちゃんは、自分の中で納得をつけれる人間。だからこそ、言葉にするものさえ形を整えてから口に出す。そうして自分の弱さを、自分で乗り越えることができる。それがグラスちゃん。だけど今くらいは、彼女に寄り添いたい。誰にも依らない存在だと、知っているからこそ。
「こんばんは、グラスちゃん」
「こんばんは、セイちゃん。セイちゃんから連絡なんて、本当に珍しいですね」
「うん。……今日のあれ、私もテレビで見てたから」
「やっぱり、そういうことですか。スズカさんのこと、まだスペちゃんから連絡はありません。心配、ですね」
スズカさんが心配だというグラスちゃんは、さりげなく既にスペちゃんとも連絡を取っていた。それならきっとエルの複雑な心境も、既に彼女は聞いてやっている。スズカさんのことをもっとも慮れるのはスペちゃんやエルで、その二人の話を一番近くで聞けるのはグラスちゃんだ。あのレースからの観戦距離そのままに、そういう繋がりが出来ていた。うん、だから私はグラスちゃんに連絡をした。グラスちゃんの話を聞けるのは、きっと私の役割だから。だから、私は君にこう問う。
「グラスちゃん」
「はい、なんでしょう」
「私は、グラスちゃんも心配だよ」
私さえショックを受けるほどの出来事が、より近い君にとって痛くないはずがない。強いということは、不安や恐怖を持たないという意味じゃない。その痛みに耐えるだけ。
「……ありがとうございます、セイちゃん」
「ううん。私は今から、多分すごくひどいことを言うから。心配しているから、とはいえ」
「はい。なんでしょうか」
「もし、スズカさんが二度と走れないとしたら。グラスちゃんは、どうするの」
他者を励まし、他者がそれを乗り越えたとして。励ました当人は、いつものように痛みを乗り越えられると信じていたとして。本当に君は、耐えられるのか。万一が、起こってしまった時に。それが一番の気がかりで、これ以上ないくらい残酷な問いかけ。何もなければ一番なのに、私が思ってしまう不安。おそらくグラスちゃんも考えてしまう、もしも。
それが杞憂とは、誰も言い切れない。
「レース中の故障は、ただでさえ命に関わること。もう一度元のように走れるかは、わからない」
「そう。グラスちゃんは脚を怪我したことがあるから、多分そういう不安は人より強く感じるはず。でも、誰にも言ってない」
「そう、ですね。言えば、それは不安を煽ることになります。スペちゃんやエルに、そんな言葉はかけられません」
だから、抱え込もうとする。それは臆病な私のそれとは違う、優しさ故の行動だけど。少しだけ似通っているから、私にも理解できる。
「なら、今言ってみない? 声に出した方が、何事もすっきりするよ」
不安な思考。恐れや悲観はどうしても、ない方がいいことだ。けれど人の考えは理屈じゃない。どうしたって、考えない方がいいことが浮かんでしまう時はある。そういう時に必要なのは、きっとそのまま吐き出すこと。これはひょっとしたら私らしい考え方じゃないのかもしれないけど。
「セイちゃん、本当に変わりましたね」
「やっぱりそうなのかな。でもそのおかげで君から弱音を引き出せるなら、私は嬉しいよ」
「……今日は、私の負けですね」
おお、まさかグラスちゃんに口で勝てるとは。なんて、それもあるいは変化や成長かもしれない。私たちは、まだこれから先へ進む。ここで未来が絶たれるなんてあってはならない。だからきっと、私たちが不安を抱えてしまうのは。
「なら、聞かせて。グラスちゃんの気持ち」
私たちがまだ未熟だから。だからこそ、未知に怯えるのだ。いずれ、それすら超えゆくために。
※
そうして小一時間、グラスちゃんの弱音を聞いた。普段のグラスちゃんからは想像もできないくらい、とりとめがなくてぐずぐずの言葉だった。スズカさんの故障から目を覆いたくなって、身体が動かなくなってしまった己の弱さ。レースを止めるわけにはいかないと走り切ったエルや、スズカさんを助けるために観客席から飛び出したスペちゃんと、自分自身を比べてしまったこと。自分自身の不幸なら、それを越えようとして心に火を灯せるのに。他者の不幸を咀嚼する方法が、どうしても自分にはわからなかったこと。グラスちゃんはぽつぽつと、ただそういった弱音を話してくれた。そしてそれを全部聞いて、私はただ。
「ありがとう、話してくれて」
ただ純粋に、そう思った。アドバイスの類は示せなかったけど、私に示せるのはそういった繋がりの再確認。弱さを知っても君を嫌いにはならないという、当たり前のこと。告げて、少しの沈黙があった。もしかしたら少し、電話の先では涙が流れていたのかもしれない。けれどそれを隠したとしても、私はそこには踏み込まない。どちらにせよ、グラスちゃんのことはわかるから。察することも、きっと思いやりの一つ。
「……ありがとうございます、セイちゃん」
「さっきも言ったけど、こちらこそ。……スズカさんと走りたいのは、実は私もだからさ」
「スズカ先輩、また走れますよね」
「そりゃもちろん。みんなまたスズカさんが走れるって、信じてるから。もちろん、不安なのが悪いわけじゃないけどね」
不安は信頼と相反する感情だけど、どちらも誰かを想うが故。だからその気持ちそのものを、罪になんかしてほしくない。そういうことだったと、思う。
「明日、スズカ先輩のお見舞いに行きます。<リギル>の元チームメイトとして、憧れの存在ですから。……セイちゃんのおかげで、少し素直な気持ちでお見舞いに行けそうです」
「どういたしまして、だね」
「それに、セイちゃん」
と、そこで少しグラスちゃんの語気が変わる。いつもの、グラスちゃんに。
「お見舞いに行って、スズカ先輩が元気に出迎えてくれたら。私の不安が取り払われたら、次は」
「次は、その先だね」
「ええ。今年の有馬記念、勝つのは私です」
一見唐突な宣戦布告。けれどこれは、当然の帰結。私たちが互いを支える理由の一つには、悔いのない戦いをすることも含まれている。友達だけど、ライバルだから。それもやっぱり、当たり前のこと。それが当たり前だから、私たちは未来へ踏み出せる。
「負けないよ」
「こちらこそ」
見上げればそこに広がっている星空は、一見静謐を湛えていたけれど。
その煌めきは焔の如くごうごうと、世界中の誰もの心を躍らせる。
だから私たちの戦いがその下で始まることは、きっと最高の一つであって。
そんなふうに思わせてくれる星空も、多分。青空と同じくらい、キレイなのだろう。
※
グラスちゃんとの電話が終わって、すっかり暗くなった夜道を今度こそ帰っている時だった。ぴりりりり、と。今度は私の方に、電話がかかってきた。本当に電話をかけてきた相手に見当がつかず、誰だろうか、そう思いながら着信を確認する。……正直、やられたなあと思った。全く予想していないのに、言われてみれば納得しかない。
「夜分遅くにどうも、お嬢様」
「こんばんは、スカイさん」
ずばり、電話口に出たのはキングヘイロー。他の同期の話は散々したのだから、キングの話もしなくちゃ不公平だったな、などと思った。
「それで、ご用件は何でしょうか? 察するに秋の天皇賞のあれを受けて気が気じゃなくて、スペちゃんからエルからグラスちゃんまで連絡して、グラスちゃんには通話中で連絡がつかなかったから、一つ飛ばして私のことも心配しにきたとか」
「いやに具体的だけど、当たってるのが悔しいわね」
ここら辺、本当に心配というだけで全員に連絡できてしまうのは流石キング、という感じだ。私には出来ないことだけど、そういう君がいるから。君がそれをやってくれたなら、最後のつっかえも下りる。
「うん、でもありがとう。私の話を聞いてくれるのはキングだったか、って感じ。まあでも、そういう人がいるってだけで十分かも」
「なによそれ。一流の私に悩みを話す権利をあげようと思ったのだけど?」
「絶対スペちゃんとかにそんな態度取らなかったでしょ。私だけひどーい」
「おばか。まあでも、本当に心配なさそうね」
それはその通り。キングが他の子に連絡をしていたと知れただけで、私はほっとした。実のところエルやスペちゃんには、声をかける勇気はなかったから。私には誰か一人に出来るだけ寄り添うのが合っていて、それが今回はグラスちゃんだった。他の二人にまで気を回せるほど、私は器用じゃない。だからそういうことをキングがしていたというだけで、平たく言えば救われていた。それに、なにより。
「まあ、私には次の目標があるからね」
「それは多分、私の目標でもあるわね」
「その通り。次の有馬記念、グラスちゃんにもキングにも負けないから」
こうして、未来を見据えるには。全てのライバルを、視界に捉える必要がある。だからやっぱり、キングとも話せてよかった。
「グラスさんも貴女も、強敵ね。だけど、こちらこそ負けるつもりはない」
「上等だよ。……まあだから、トレーニングは頑張らなきゃね、お互い」
「そうね。そういう意味では、こんな夜に電話したのは邪魔だったかしら」
「ううん。すごく助かった、ありがと」
「……そう。おやすみなさい」
「おやすみ」
ぴっ。それでやっぱり、会話は終わった。今日は夜になってから三人も会話をした。トレーナーさんと、グラスちゃんと、キング。それだけの人と話さないと、落ち着けない日だった。そんな会話の中心は、弱音や不安ばかりだった。今日あったことは、決していいことじゃない。でも、それでも前に進むことはできる。時にはそんな苦しみを分かち合うことが、これからを行くにはとても大切だ。きっとスズカさんもそうやって、この先に未来があるはずだ。だから今日も不安に飲み込まれず、私たちは踏み出してゆく。……そこでタイミングを見計らったかのように、LANEの通知が来た。スマホを開いていなかったら多分気づかなかったから、これも少しだけキングのおかげ。私は普段滅多に開かない同期五人のグループ会話に、スペちゃんが投げかけた一つのメッセージ。
「スズカさんが、目を覚ましました!」
それは、誰もが信じていたけれど。
それでも誰もが「よかった」と、その言の葉を見て思っただろう。
それだけで、十分だった。