晴天の霹靂。あるいは驚天動地。はたまたそれとも空前絶後。……なんて、名前に引っ掛けた言葉にするほど大それたことではないんだろうけど。それでも確かに驚くべき知らせが、私の元に伝えられた。新聞も雑誌もテレビもそう言っていたから、多分間違いない。
「有マ記念一番人気は、セイウンスカイ」
十二月も半分以上が過ぎた頃だった。何度目かの大一番で、いよいよもって。私にとっては初めての、最高の期待だった。
「おはようございます、セイちゃん。人気投票の結果、出ましたね〜」
「おはよーグラスちゃん。いや、正直びっくりしてるよ」
「……ふん! 人気が実力と結びつくとは限らない。スカイさん、それは覚えておくことね」
「キングもおはよー。……まあ、それはもちろん」
その日の朝の教室は、相変わらず寒いはずなのになんとなく熱気を感じた。心当たりは大いにあって、もう直ぐに控えた有マ記念の話題がそこかしこから聞こえてくる。年末の大一番、集大成になるレース。ウマ娘たるもの、それについて盛り上がらずにはいられない、といった感じで。……そしてその話題の中心に、このクラスから出走する私たちの存在があるらしいこともわかる。クラシック戦線でもそうだったけれど、注目を浴びるのはやはり慣れない。むずむずする。何より今回は、先に述べた通り。
「一番人気、かあ」
京都大賞典以来の、シニア級の先輩方との一戦だ。もっともクラシックを走り切った私たちにとっては、これからはこれがスタンダードになるのだけど。とはいえそのシニア級の初戦で、初めての一番人気。初めて尽くしで流石のセイちゃんもてんてこ舞いである。
「セイちゃん、浮かない顔ですね」
「そうかな? 私はいつもこんなぼやっとした顔だよー」
「適当なこと言わないの。もっとシャキッとしなさいよ、貴女」
誤魔化し方もキレが悪い。グラスちゃんにもキングにも、私の不安は見破られている。そう、不安だ。こうしている間にも、耳をぴくぴくと揺らす周りの声。そこに混じってくる、私への期待。
それらの裏側にあるのが、私の持つ不安。もう本当に今更で、自分でも飽き飽きする理由だけど。
「一番人気で負けたらどうしようとか、思ってるんじゃないでしょうね」
「……それはもちろん、思いたくなんかないけどさ」
キングが私に言っているのは、自分の二の舞になるなという意味だろう。期待を背負い、あるいは期待を向けられないで。どちらにせよ期待に拘泥し、もがき苦しんだかつての彼女。
そして私が思うのは、そうやって誰かの前例を見て敗北を恐れることそのものが、その誰かに対して失礼ではないかということ。レースに絶対はない。出走者全員が心の底から勝ちたいと思っている。そこに「一番人気だから」などという理由づけをしてしまうことこそが、なによりもよくないことだとわかっているのに。
「ごめんね。キングやグラスちゃんには、言っちゃいけないことだから」
「ライバルなら、ということですね」
「私も深入りしすぎたかもしれないわね。……ごめんなさい」
「ううん、ありがと。でもやっぱり、緊張するのはホントかな」
そう、この不安はグラスちゃんとキングには吐き出せない。吐き出してはいけない。理由は単純で、グラスちゃんの言う通り。ライバルだから、彼女たちに私をそのまま応援させるわけにはいかない。人気という仮初の序列は、あくまで事前の期待値でしかない。私たちは互いに、己の勝利を優先するべきなのだ。
「緊張、ですね〜。私ももちろん、一番人気は緊張します」
「グラスさんはしょっちゅうじゃない。まあでも、何度目でも緊張するものよ。そもそもレースなんて、慣れてしまったら終わりじゃない」
「慣れたら終わり、か。それは確かに」
流石キング、時折鋭い。緊張しない奴が、本気でレースにひりつかない奴が。そんな調子のウマ娘が、他の誰にも勝てるわけがないということ。出来るだけやる気なさげに振る舞いがちな私としては耳の痛い話だが、やはり認めざるを得ない話だ。
……それくらい会話を重ねたあたりで、きんこんかんとチャイムが鳴って。
「あら、もうこんな時間。そろそろ席に戻りましょうか」
「あーあ、最近あんまり寝付けないんだよね、授業中」
「……しっかり授業は受けなさい」
そうして、日常はまた一つ区切られる。変わり映えのないように見えても、一つずつ変わっていく。
私の緊張もいつか、更なる形に変わっていくのだろう。そんな確信めいた予感を、ふわりと空に浮かべた。
※
とはいえそう簡単に、悩みや不安が解決するでもなく。されどやっぱり時間は進むので、今日も今日とて放課後はトレーニングである。チーム<アルビレオ>においても有マの人気投票はかなりの話題になっていた。チームメイトは皆私とキングを何かと気にかけて併走やらに付き合ってくれるし、これもやはり期待の表れなのだろう。
でもトップロードさんはもうすぐ二回目のレースがあるんだから、そんなに私たちに構ってる場合じゃないと思うんだけどね。確かよりによって有マと同日にあるはずだ。けれど当然それを年末の大一番より楽しみにしている人もいるのだろうし、そういう「一番人気」だけじゃない事例は枚挙にいとまがない。
だから一番人気は、当然それだけで勝負が決まるわけじゃない。どうしても、そのことを考えていた。冬の空はすぐに青から色を変える。急かすように夕日は沈みゆく。風はどんどん冷たくなり、立ち止まっていたら身震いしてしまう。だから私は身体を動かしながら、なんとか心にも折り合いをつけようとする。期待と不安の折り合い。いつものことで、いつも難儀すること。そういう意味では永遠に解決しないのかもしれない。
「スカイ! あと一周、いや二周だ!」
「はーい、トレーナーさん。トレーナーさんのスパルタも、この一年変わりませんでしたね」
「当然、努力と根性が何よりも大事だからな!」
えっほえっほと坂路を走りながら、そんな軽口を合間に叩く。まあ私がそう言うほど、トレーナーさんが変わってないわけではないのだが。キツい練習には変わりないけど、ひたすらコースをぐるぐるしてた頃に比べたら理論的なものが使われている。併せとか前は滅多になかったし。トレーナーさんなりの成長というやつだ。
だからみんな変わっている。何かを通して、経験して。私もきっとこの有マ記念で、また変わる。ううん、今日この日だって、昨日よりは。そういう意味合いを込めて、一つだけこっそり誓いを立ててみる。誰にも言わない秘密の誓い。
「……さ、頑張りましょっか!」
「一番人気」へのプレッシャーは、自分一人で立ち向かおう。これまで私が変わってきたことを示すため。誰かのおかげでここまで来れたから、その人たちにありがとうって言うため。この重圧を跳ね除けられれば、私は更に先へいける。一番だって予想さえ超えて、私は。
「ああ。頑張るぞ!」
私はあなたに、褒められたい。これからもずっと、期待のその向こうへ。だってトレセン学園に来て、最初に期待してくれたのがあなただった。だって私が走り出す時、最初に支えてくれたのはあなただった。ウマ娘というのはいろんな事情で走るもので、私もその類に漏れずたくさん抱えて走っているけれど。
あなたはとっくに、そのうちの一つになっているのだから。期待されて、褒められたい。そんな子供じみた欲求は、あなたにしか見せられない。けれどあなたが見てくれるから、私はそれを否定しない。ここまで、そうやって走ってきた。
ここまでの成長。皆に頼ってしまう私から、皆に応える私へと。そんなありふれた変化を願い、やがて消えゆく夕空を見た。遠くて、澄んでいた。
※
そんなトレーニングはほぼ毎日あるのだけど、当然休みの日もあった。お出かけも何もない、本当の本当に休みの日。ちなみに今日、この日のことである。自室の小さな机に向かって、のんびりノートに課題を書き連ねていって。たまに椅子の座りが悪くなって、むずむずしてきた身体を揺らしたり。それでも時間はたっぷりあって、私はなかなかのんびりできている。つまり私の好きな時間だ。それだけでも十分、ではあるんだけど。
「休みの日でもレースのことばかり考えるとは、私もすっかり仕事人間ですなあ」
なんて。そんな独り言は天井でつっかえて、窓の外には出ていかない。今は私だけが喋って、私だけが聞いている。まるで小さな鳥籠のように、小さな私は閉じ込められて囀るだけ。そう、閉じこもりたい気分だったから。狭いのはキライだけど、たまには。
レースのことを、考えていた。それはもちろんこれから走る有マ記念とその先であり、それはもちろんこれまで走った菊花賞とその前のこと。私はなんで走るんだろうなんて、漠然とした青々しい悩みを、今なら。総決算となるレースを目の前にして、それなりにふさわしい仰々しさだ。
走る理由として浮かぶことは、当然一つには絞られない。まず最初にあったのは、幼い私の諦めだけど。その時励ましてくれたじいちゃん。それを引きずってトレセン学園に入った私。そんな私を見出したトレーナーさん。そしてそこから連なる繋がりが、今の私の走る理由。
じいちゃん。トップロードさんたちチームメイト。同期のみんな。フラワー。<デネブ>のトレーナーさん。<アルビレオ>のトレーナーさん。ぱっと浮かぶだけでもこれくらい。一人気ままに、なんて学園生活を思い描いていた入学初日からは、随分遠くへ来てしまった。どうせ私なんか、そう思っていた頃より随分色々なものを背負ってしまった。
臆病で諦めがちな私を応援してくれている。こちらに向けて勝ちたいと言ってくれている。どんな気持ちであれ、期待してくれている。それがどうしても嬉しいのは、それこそ否定しようがない。……一番人気だって、そういうことだ。不安だなんだと言ったって、やっぱり、どうしても。
(嬉しい、よねぇ)
声には出さなかった。やっぱりこれは、一人で解決すべき気持ちだから。止まらない不安も、舞い上がってしまう感情も。青空にだって、見せてはいけない。私の、私だけの。希少ではないと思った。けれど、誰のものでもないとも思った。キングやグラスちゃんがそれをいつも独りで抱えていた、その理由がなんとなくわかった。一番の期待を背負うことは、とても大切で、抱きしめたくなるような。たとえ、胸が張り裂けるとしても。
そんなふうに強く、痛く思うほど。
かけがえのない、悩みだった。
※
お昼は超えた。昼ごはんは寮の近くのコンビニで買った。学食の方がコスパも味もいいんだろうけど、なんとなく今日は学園とは離れていたかった。そうして、あくまで一人で考えたかった。いつかの夜とは違って、私は私から独りを選択していた。それも成長なのかもしれない、そう思った。
コンビニ弁当を買いに行くだけでも、いつもの私の世界とは少しズレてくる。休日らしいそれなりの人通りの街並みをゆけば、芦毛の毛並みを見るだけでピンとくる人もいる。顔まで見ればそこらの子供だって気づいてしまった。やれやれ有名人になったなと、改めてそんなことを実感した。そこに期待があるのだろうと、それも含めて。
ぱちん、と割り箸を割って、買ったばかりのハンバーグ弁当の蓋も開ける。ちなみにウマ娘にとって割り箸を割るのはそれなりに高度な技術を要するため、トレセン学園食堂においてはプラスチック箸が大体よく使われている。
私が慣れていたのは、じいちゃんのおかげだろう。どこかに出かけるとなれば、使い捨ての箸でないとなくしてしまった時が大変なのだ。そんな経験が多いのは、私の場合はじいちゃんがきっかけ。釣りも含めて、幼い私を色んなところに連れていってくれたのがじいちゃんだった。
今思えば、私がひとり立ちするための練習も兼ねていてくれたのだろう。あの日、私が諦めることを覚えたあの日。あの日まで、私の世界はその小さな脚で辿っていけるところまでだった。そうしてそこから出ていくのは、どうしようもなく怖かった。そんな時に手を差し伸べてくれたのが、じいちゃんだった。
ちまちまとまだ温かいコンビニ弁当を摘みながら、ふとそんな過去に思いを馳せる。過去、か。じいちゃんはどうしてるんだろうなんて、まだトレセン学園に来て一年ちょっと経ってないのに懐かしがることじゃないよね、まだまだ学生の身分は長いんだし。それでもそれくらい遠くに感じてしまうのは、やはりそれだけ私が変化したということだろうか。
先程並び立てた、「走る理由」。そこにいる人の中では、きっと今は私から一番遠くなってしまったのだろうけど。テレビなりで私の走りを見てくれていて、私にとってはちょっと負い目もあるご近所さんにも嬉しそうに報告してたりして。そうだったら嬉しい。そうでないと、私の走る理由は一つ欠落してしまう。
改めて、私は私の期待を噛み締める。ファンのみんな、周りのみんな、トレーナーさんに、じいちゃんまで。やっぱり私は、その全部に応えたい。最初から最後まで、全部に。今までいっぱい出来た繋がりへの、私なりの恩返し。たとえばじいちゃんには、自慢の孫になりたい。たとえばトレーナーさんには、褒められたい。たとえばフラワーには、いつかの手本になってやりたい。たとえば。そんなふうにつらつらと、いくらでも並べてしまえるのは。
並び立つのはきっと、一番人気への私なりの応え方。心に秘めた、誰にも言えない誓い。正確に言えば少し気恥ずかしくて、直接は言えない決意表明。私にはどうにも、期待を誑かす方が向いている。それでも。
それでも自分の気持ちにだけは、やっぱり嘘はつけないんだ。
すっかり弁当は食べ終わったけど、そんな考えごとであまり味はわからなかった。それどころか先程まで尊んでいた一人の部屋もなんだかむず痒くて、気づけば私はまた外出の準備をしていた。まだ昼間だ。まだ空は青い。まだ、これから走るにはいい天気だ。そんなことばかり考えていた。悩みが消えたわけじゃない。不安もまだ残っている。だけど期待を背負っているから、私はそれを理由に走るのだ。
──拝啓、じいちゃんへ。電話するのは恥ずかしいから、こっそり心の中で言います。
トレセン学園に行けって言ってくれて、ありがとう。