空は曇天、バ場は若干荒れ模様。今日のメインレース、いや今年のメインレースたる有マ記念のステージはそんな状態だった。決していいコンディションとは言えないのだろうけど、むしろそれが当たり前なのだと思う。最善最高が最良のタイミングで毎回訪れるなんて、その方が出来すぎていて嘘くさい。
私は、芝を踏み締めていた。既に本バ場入場を済ませて、大歓声に迎えられた。一番人気で、「きっと勝つだろう」と多くの人が思っている。それが、今日の私。最高に期待されている、私。けれど上を見上げれば広がる曇り空は、そんな私に綻びをもたらすかもしれない。たとえ全力を尽くしたとして、それでも勝てるとは限らないのだと。それは予感にはならないとしても、確かに頭の片隅にある思考だった。
脚が震える。寄せられた期待が今までで一番大きいように、私の緊張も最高潮だった。以前の私なら、怖気付いてしまいそうな。あの皐月賞を思い出した。完璧に仕上げて、それでも勝てなかった時。そうしたらそこで、私の限界が定まってしまう。だからあの時私は立ち止まりそうになった。諦めそうになった。それより先に進めたのは、トレーナーさんのおかげだった。
ふん、と腹筋に力を入れてみる。日頃のトレーニングで鍛えたそれは、私にとってもっともわかりやすい成長の証だ。トレセン学園に来てすぐの頃は、トレーニングなんてほどほどで済ませてやるつもりだった気がするけど。あのトレーナーさんに捕まって、いつのまにかこんなところまで連れてこられてしまった。年末の中山、今年を代表するウマ娘が集う中での一番人気。それもきっと、あなたのおかげだろう。
胸に秘めた心臓の鼓動は、わかりやすく大きく、速くなっていた。緊張だけじゃない、私を動かすいのちの拍動。私は、未来へ動いている。どこまでも広がる空の果てまで、そんなところまで走っていけるように。そのために、ここまで来れている。もちろん一人では走れない。チームメイトやライバルや、みんなと競うからこそ走れているのだ。
そして瞳で、この世界を見据える。この小さな眼で見えているだけでも空は広くて、ターフは長い。遠いゴールの先までは、まだ私には見えないほどに。けれどきっと、まだ先がある。まだ、私たちは走ることができる。今日だって、その先だって。そんな煌めき輝く道が、私たちの目の前に広がっている。永遠に続いて欲しいとさえ願ってしまえるほど、それは眩しくて暖かい。
だから、私は。ぐっと、蹄鉄で地面を慣らしてみる。軽く屈伸して、来るべき時のために身体をほぐす。どくん、どくん。聞こえるはずはないけれど、胸が高鳴るのが、わかる。そして。そして、私は。
「一番人気セイウンスカイ、いよいよゲートに入ります」
そして私は、ここまで来た。相変わらず狭苦しい、けどすっかり慣れてしまったゲート越しに、私の瞳に映るものは。2,500mの芝と、その上に広がる空だけだった。
「……スカイさん、今日こそ勝たせてもらうわよ。人気薄、上等じゃない」
「今日も、なんて言えないけど。なら私も、負けないよ」
今日同期で走るのは、私だけじゃない。私を含めて三人が、シニア級の強豪にこの大一番で立ち向かう。それだけの能力がある、そう認められた証。そのうちの一人がキングヘイロー。クラシック三冠を巡る戦いで、私と彼女は何度もぶつかった。だけど、たった数回で勝負は決まらない。いやきっと、ずっと競い続けるのだ。今日も、その一つ。これだけのレースであっても、私たちにとっては通過点に過ぎない。
……そして、同期はもう一人。翻って、そちらを見る。一見いつもと変わらない柔らかい雰囲気だけど、それだけではないのが、わかる。それはきっと、普段の彼女を知っているから。だからこそ私にわかるのは、普段の彼女ではないということ。そんなふうに見つめてしまっていると、彼女もこちらの視線に気付いたようだった。ゆっくりと振り向き、こちらに声をかけてくる。大和撫子然として、されど蒼く闘志を燃やす。彼女の名はグラスワンダー。"怪物"と呼ばれた、私のライバルだ。
「今日はよろしくお願いします、セイちゃん」
「うん、よろしく。グラスちゃんとは初めて戦うね」
「そうですね。怪我もあり、機会に恵まれませんでした。けれどずっと、追いつきたいと思っていました」
グラスちゃんと私は、未だ対戦経験がない。だからキングとは違ってこれが初勝負。もちろん普段の会話でグラスちゃんのことは色々と知っているけれど、レースでなければ見えないこともある。たとえば今のグラスちゃんの言葉は、きっと今だから聞けるものだ。
「追いつきたい、か。悪いけど、追い抜かせるつもりはないからね」
「ええ。全力の相手を討ち倒してこそ、私たちは前へ進めますから」
「そりゃあ大層な表現と言いますか。でもグラスちゃんが言うと、誇張って感じはしないね」
「もちろん。……セイちゃんも、そうでしょう?」
そう言われると、そうなのかもしれない。けれどグラスちゃんの覚悟は、私とはまた別種のもの。長期の怪我から復帰して、人気に対して勝ちきれない日が続いて。それが今のグラスちゃん。ジュニア級であれほどグラスちゃんに注目していた視線の先は、今は他の子に向いてきている。たとえば、私とか。だからグラスちゃんがこの勝負に賭けているものは、私とは別のもの。
それでもグラスちゃんの言う通り、私と君が同じだと言うのなら。
「まあ、そうかもね。色んな理屈は違うかもだけど、勝ちたいって思ってる」
初めて、追われる立場になったとしても。
もがいて、追い抜く立場になったとしても。
「ええ。私たちに必要なのは、その気持ちだけです」
「上等だね。負けないよ」
「はい、こちらこそ」
そして、改めて前を向く。やはり視界に映るのはゲートとその先にある芝と空だけの世界だけれど、先程までより多くのものが見えている気がした。目には映らないけれど、見えている気がした。準備が整った、ということかもしれない。
なら、他にやることといえば。
「各ウマ娘、いよいよゲートに収まりました。今年最後のGⅠ、有馬記念! さあ」
その「さあ」を待ってか待たずか。がこん、と独特の音がする。視界が、無限に開けていく。
「ゲートが開いた! スタートを切りました!」
次の一歩。次に繋がるその一歩に、今までの私の全てを込めた。
さあ、走り出そう!
※
有マ記念、今年の集大成。きっと全てのウマ娘とそのファンが、私たちを見守っている。十六人のウマ娘が、一斉にスタートを切る。誰一人として出遅れない、流石の優駿たち。けれど私もその一人。そしてその中でも一際期待された、一番人気!
「まずは先頭争い、セイウンスカイがハナを取っていきます!」
中団からするっと前に出て、いつもの先頭へ。ライバルたち全員を突き放し、最初から最後まで抜かせない。それが私のレース。今日だって、そのつもり。私らしく、翻弄して、あっと言わせて。それは今日この日だって変わらない。
だん、だだん。重なり合う蹄鉄の音が気持ちいい。吹き抜けていく風が心地いい。走るのって、こんなにも楽しい。何度走ったって、この気持ちだけは変わらない。変わることがあるとしたら、前よりどんどん楽しくなるってことだ。走るたびに。もっと先に、手が届くたびに。
「スタンドの大歓声を受けながら、セイウンスカイ依然先頭! 後続をぐんぐん突き放し、五バ身、六バ身と差を広げていきます!」
正面スタンドに入って、耳に受けるは湧き上がる歓声。私たちのレースに魅せられて、私たちは夢を与えていて。その証明。気持ちは更に昂って、世界はよりキレイに見えてくる。今日も紛れもなく、「最高」だ。
……と、そんなふうにゴールする前から満足していてはいけない。それなりに「逃げ」を嗜んできた私から言わせてもらえば、逃げと一口に言っても様々の戦法がある。
たとえば大逃げで突き放し、後続を最後まで引き離し続ける。たとえば常に正確なペースを刻み、トップスピードを維持することで捩じ伏せる。強い「逃げ」とはこういうもので、私とは違うものだ。才能が足りない。力が足りない。だから私には出来ない。けれど。
けれど私にならできるのは、策を弄したペースメイクの逃げ。引き寄せ釣って翻弄し、ラストでもう一段スパートをかける。波乱を起こす、トリックスターの「逃げ」。きっとこれも私らしさ。私なりの、強さ。
だから今日も、それに則ろう。コースの分析、レースの掌握。最終直線に全てを賭ける誰かがいるなら、私の仕事は最終直前までに全てを終わらせることだ。
そう身体に今一度命令し、それに呼応して踏み込む脚に反射する感覚。……うん、やっぱりここらへんのバ場が一番走りやすい。走ってみてやはり予想通りだったのは、今日のターフは少し荒れているということ。具体的には内枠のあたりが少し状態が悪い。それは走りながらでも横目に見えているから、私はそれを避けてコースの真ん中あたりを走っている。
本来なら、逃げはどれだけスタミナをロスせずに最終直線を迎えられるかに勝敗がかかっている。すなわち道中もハイペースを維持しながら、最後も決して露骨に失速してはいけない。そのためには走るコース選びが他の作戦より重要になってくる。控えず常に体力を消耗するのだから、出来る限り脚に負担をかけられない。それに影響するのが、バ場や距離の問題だ。かつての菊花賞で、私の逃げ切りがあり得ないと言われた理由もそのスタミナ管理の問題にある。
(……っ、と!)
くくん、とヨレそうになる脚を軌道修正する。前を塞がれる心配もなく出来るだけ走る距離を削っておきたい逃げウマにとって、内ラチ側を走りそうになることはそこまで悪い判断ではない。本来なら、の話だが。
「セイウンスカイ、先頭をキープしたままコースの正面を進みます。バ場状態の良いところを選んで走っていますね」
そう、その通り。今日の内ラチ側は荒れている。荒れた地面を走ることは、無視できない体力の消耗を引き起こす。もちろんそれを避けて大回りにコースを回ることも、最良とは言えないのだが。それでもどちらかを選ばなければならない。もっとも欲しい、勝利のために。
「向こう正面に入ってセイウンスカイ、リードをぐんぐんと広げていきます! 後ろに潜むウマ娘たちは、追いつくことができるのか!」
更にペースを上げる、上げる! 脚を早回しして、ぐんぐんと追い風を受けて。序盤のペースメイクは完璧だ。もちろん私はこのままのペースを維持できるほど強いウマ娘じゃない。だからこうやって小細工を仕掛けて、か弱く支配を試みるしかない。……でも、それがうまくいけば。
「残り1,000mを通過! ここでセイウンスカイ、一気にペースを落とします! 後続との差がぐんぐん詰まっていきます!」
掌握。支配。掌の上。うまくいけば全てのウマ娘を、手玉に取れる。私にとってのレースは、そんな大それた策略を実行に移すためのもの。だから引き離す。だから引き寄せる。ほら、もう後ろとの差は一バ身もない。それも含めて、計画通り。
「最終コーナーに入って、先頭はセイウンスカイ! しかしリードは一バ身もありません! 背後からエアグルーヴ、メジロブライトが迫っている! セイウンスカイ、二の足三の足を使うことができるか!」
そんな実況に応えるように、私は大地を強く蹴る。引き離してペースを掴み、引き寄せて敵を翻弄する。そして最後に残した余力で、ギリギリのリードを守り切る。私にしては随分泥臭い作戦だけど、もうすっかり慣れたもの。今まで走ってきて確かに確立した、私とトレーナーさんで考えた作戦。これが決まれば勝てるとさえ言える、私たちが遂に辿り着いた必勝の策謀。
京都大賞典で初めてやってのけた時からしっくりくる、この作戦。作戦名も決まっている。それこそ初めての時から、だ。
「いよいよ最終直線です! セイウンスカイ先頭! セイウンスカイ先頭!」
作戦名は、
脚が軋んでいる気さえする。心臓が破裂しそうな気がする。身体全体が、止まればその瞬間ばらばらになりそうな気さえする。それでも、まだ前に進んでいる。私はここまで来た。私たちはここまで来た。期待されなくても、才能がなくても。それでも自分のことを信じていいのだと、みんなが教えてくれた。そして捻くれ者の私は、みんなと一緒にいれるくらい素直になれた。
だから、私はここまで来た。そしてこれからも、私たちは進んでいける。クラシックを終えてシニアも超えて、その先に、誰かの夢になることだってできる。だから、だから──!
懸命に走っていた。確かに全力だった。私の全てを、込めていた。それはきっと、間違いないはずだった。
最後の坂を登っている時だった。僅かな一瞬だった。
「──やっと追いつきましたよ、セイちゃん」
そう、耳で聞こえた。眼では一瞬しか捉えられなかった。視界に入ったその影は、あっという間に後ろから、遥か先へ。声の主はそれでもわかった。聞き慣れた、けれどこうして聞くのは初めての。入学当初からクラス一の有望株と称され、けれど怪我での長期療養と復帰後の不振があった。それでも彼女は常に勝利を渇望し、一寸たりとも揺るがない闘志を宿していた。それは知っていた、だからこそ勝負の段になっても油断などなかった。
けれど。
「外からグラスワンダー! 外からグラスワンダー来ている! グラスワンダー、セイウンスカイをあっという間にかわした!」
"怪物"グラスワンダーの復活。一番人気、最有力ウマ娘であるセイウンスカイの勝利の方程式を、真正面から討ち倒す。そんな「最高」の形で、凱旋は高らかに告げられた。
どんどんと、離れていく。それでも、走るのを止めるわけにはいかない。2,500mを全力で駆け抜けた脚からは痺れるような感覚が伝わる。それでもまだ、限界まで走らなければわからない。作戦の通り、脚はまだ残っている。まだ、追いかけている。私は、完璧に走ったはずだ。
そのはずなのに。
「グラスワンダー、グラスワンダーです! ジュニア級の頂点に立ったウマ娘は、やはりシニア級でも強かった! グラスワンダー、復活です!」
追いかけても、追いつけない。一着と四着の間にある、人気などでは測れない差。走ってみなくては、やはり結果はわからない。ああ、負けてしまったんだ。ゴール板を越えて数分後、ようやくその事実を飲み込む。観客席からは、名勝負を讃えるたくさんの声が聞こえた。その声は、私にも向けられていた。けれどもちろんグラスちゃんに対してのそれが、一番大きかっただろう。勝者とは、そういうものだ。
レースの余韻がある程度おさまった後、自然と同期で集まった。まだターフの上だから、その熱気は完全に消えたわけではないのだけど。
「お疲れ様、グラスさん、スカイさん。そしておめでとう、グラスさん」
「ありがとうございます、キングちゃん。セイちゃんも、お疲れ様ですね」
「……もちろん、これで終わりなんて思わないことね。次、あるいはその次。最後に勝つのは、このキングなんだから」
「はい。もちろん何度でも、全力でお相手いたします。……セイちゃん?」
「……ああ、ごめんごめん。いや、いい勝負だったね。お互いやりきった、って言うか」
いい勝負だった。互いに全力を出し切った、そんなレースだった。今まで不調に苦しめられていたグラスワンダーの、本領を発揮するようなレースだった。私だって、そうだ。グラスちゃんの本気とは少し違うけど、策を弄してペースを掴む。そんな走りで、事実キングはやり込められたみたいだし。だから、やりきった。
あえて一言で表現するのなら、悔いはない。年末の集大成を形容するのなら、これ以上ない表現だと思う。
だけどグラスちゃんの言葉は、私の予想に反するものだった。
「そう、でしょうか。セイちゃん、本当にやりきったと思いますか?」
「……どういうこと?」
意図がわからない。彼女が私に疑問を呈する、その意図がまずわからない。これまでの全てをかけた最高の勝負に疑問を呈する、その意図が。
「最後の直線。私は、もう一回セイちゃんが伸びてくると思っていました。今まで見てきたセイちゃんなら、そう来ると思ったからです」
「最後は私も、脚を残してたよ。その上で、負けちゃった。全力だし、悔いはないよ」
「……そういう意味では」
「もうグラスちゃん、せっかく勝ったんだから」
彼女の言葉の、意図がわからない。彼女は私に何を見ているのだろう。何を望むのだろう。何を期待しているのだろう。私は今回の決着に、文句なんてつけてないのに。何故勝者の側が、勝負の是非さえ問うてしまうのか。
「はっきり言えば、私は納得していません。……セイちゃん、また走りましょう。けれど、貴女にはそれまでにやらなければいけないことがあります」
「なにさ、勝ったからって説教?」
「ちょっとグラスさん、スカイさん」
キングが私たちの間に割って入る。確かに私とグラスちゃんの会話は急激に険悪になっていて、それはこの場にはふさわしくない。全てを賭けて走った後の場は、清々しく爽やかでなければならない。そう思って、私は素直に謝る。取り繕うような言葉を添えて。
「と、ごめんキング。それにグラスちゃん。うん、グラスちゃんの言うことがわかったよ」
「いえ、こちらこそごめんなさい。けれど、セイちゃんには」
多分グラスちゃんは、私が彼女の言葉を理解しきれていないことも見抜いている。けれどその上でそう言って、彼女は私の眼を見据える。レースの直後だと言うのに、その青い瞳には焔が燃えていた。そして、燃えるような言の葉を紡ぐ。
「セイちゃんには、私のライバルでいて欲しい。……私からお願いできるのは、それだけです」
「ライバル、もちろんそのつもりだけど。それくらいならお安い御用」
「はい、お願いします。……では、そろそろインタビューがありますので〜」
最後の一瞬だけ、いつものグラスちゃんに戻って。そのままグラスちゃんはターフを後にする。「納得していない」勝負についての感想を語るために。きっとそんなこと、インタビューでは言わないのだろうけど。だからあれは私たちの前だけの本音だ。私に対してだけ、思うことだ。
ふと、空を見上げる。どんよりとまではいかないけれど、そこに広がるのはまだ曇り空。けれど明日は晴れるだろう。同じように明日になれば、あらゆることが変わるだろう。そのはずだ。グラスちゃんの言う何かも、きっといつかの私にはわかって、解決できる。そうで、あるはずだ。
けれど、そうでないとしたら。
一抹の不安がよぎる。得体の知れない、言葉にならない。だけど心のどこかに巣食うもの。それを掘り出すことも解き明かすこともできない今、私に願えることがあるとするならば。
杞憂であって欲しい。
それだけだった。