デパート。百貨店。それすなわち幼い頃から近所の商店街に慣れ親しんでいた私にとっては未知の領域である。平々凡々な庶民たるセイちゃんには一生縁がないと思っていたような気もするその場所に、私は今足を踏み入れている。
もちろん一人では入れないので、同行者二人つき。トップロードさんとキング。キングはともかく、トップロードさんはこういうところに来るものなのだろうか。
「なんかこう……すごいですね。はい、デパートなんて初めて来ましたけど」
「ありゃ、トップロードさんも初めてですか」
「はい……。いやでも、贈り物なら高級なのがいいのかな? って思ったんですが……」
なるほど、それは確かに一理ある。せっかく割り勘で買うんだし。しかし当初の計画通りなら、そんな何もわからない場所に私と二人で来るつもりだったのか。私じゃ絶対力になれない空間だが。いや、我ながらキングを連れてきたのは正解だったな。
ちなみにそのお嬢様はどうしているのかというと、先程からずっとデパートのフロアマップと睨めっこしつつぶつぶつ言っている。このブランドはどう、とかそんな感じの。頼りになると言わざるを得ない。下々にはわからないことについては存分に頼らせてもらおう。今日は頼ることしかない気もするが。
「ちょっとスカイさん、それにトップロード先輩。こっちに来てください、一緒に考えますよ」
「え、何を」
「どの店を周るかよ。もちろん全部周ってもいいけど、デパートってものは相応に広いし店の種類も豊富。全部周りたいなんて言ったら相当苦労するわよ。……というわけで二人とも、まずは数を絞りましょう。ある程度の概要は、こちらで教えますから」
「助かります、キングちゃん……」
「別に、乗りかかった船ですから。それに私も、渡すなら良いものを選びたい。もちろん金額やブランドが気持ちそのものではないけれど、特別な日には特別なものが必要ですから」
「そうだねえ、バレンタインだもんねえ」
「何でそんな他人事なのよ、貴女は。今回のチョコレートは三人合同、それなら貴女も渡す側よ」
そう、それはキングの言う通り。つまりどういうことかというと、私も私なりの気持ちをチョコレートに込めてやらねばならない。……実は、これが結構問題で。
キングの場合は、これから仲良くなりたいという意思表示。トップロードさんの場合は、これまでの感謝を伝えるためのもの。なら、私はなんだろうか。トップロードさんに倣って感謝を伝えるのは一見良さそうな案なのだが、ここには一つの問題があるのだ。現状私しか知らない問題。
(『いつもありがとう』は、クリスマスにやっちゃったんだよなあ)
あのクリスマスパーティの日、トレーナーさんに私はクリスマスプレゼントを渡した。チョコとかじゃなくてルアーなんだけど。帰るところだったので、必然的にこっそり。今までありがとう、これからも頑張りますって。……その後の有マでは負けてしまったから、それ以上は求められない。
あのクリスマスから、有マから二ヶ月も経っていない。もちろんそれでも変化はあるのだけど、私はまだそこから前に進めていない。つまり、新しく何かを想うことはできないんじゃないかって。もちろん、もう一度改めて感謝を告げることは可能だろうけど。
それはなんとなく、嫌だった。何にもならない気がして。私にとっても、あなたにとっても。せっかくの、バレンタインなのに。
「……スカイさん」
でも答えは見つからず、私の思考は堂々巡り。このまま永遠に、私は前へ進めないんじゃないか、なんて。
「……スカイさん?」
駄目かもしれない。私はどうしても、この不安への答えが出せない。どんな方法を取っても、どんなにみっともなく足掻いても。得体の知れないものに、得体の知れないまま絡め取られる。
そうだとしたら、私は一体──。
「スカイさんったら!」
「うわっ、何さキング」
「それはこっちの台詞よ、さっきからずっと考え込んで。もうトップロード先輩と二人で巡回ルートは決めちゃったわよ」
「ああ、それはごめん。いや、考え事ってほどじゃないよ? ちょっとぼーっとしてただけ」
参ったな、私そんなに考え込んでたか。まだ答えは見えないのに。永遠に見えないなら無意味なのに。それならさっさと止めてしまって、それなりの私を演じればいいのに。誰にも手のかからない私。あの日諦めた、それからの私だ。
今からでもそんな「私」になろうと、一生懸命に言葉を取り繕う。するとキングは一歩私から足を引いて、少し俯いて。あとは一つ、ため息を吐いて。はあ、って。やれやれ、って。その後切り出された言葉は、何事もなかったかのような。努めて、そうしてくれているのだろう。
「そう。ならとりあえず、早く行くわよ。トップロード先輩が待ってるの」
「……手間かけさせちゃったね、ごめん」
「そうね。貴女は案外、手間がかかる。自分なんて誰も気にしてないし気にもさせません、みたいな風をしておきながら」
「はは、そりゃぐうの音も出ないね」
「でもね、覚えておきなさい」
キングはそう言って人差し指を立てて、私の顔をじっと見て。そのまま、私に一つの言葉を告げる。一つだけ、私に教えてくれる。
「手間がかかるのは、それだけ貴女が考えているからよ。貴女のそれは、無駄じゃない」
「……何さ、わかったようなこと言っちゃって」
「自戒も込めて、よ。別に貴女に上から説教出来るとは思わないもの」
「……ありがと」
「そもそも今の貴女が悩みを抱えてることくらい、大体みんなわかってるんだから。自分だってそれを織り込み済みで、今日は他人を頼りに来たんじゃない」
すとん、と何かが心のうちに収まる音がした。そういえばそうだったっけ、キングにはもう言ってしまったことだった気がする。今日は素直に誰かを頼るために、わざわざトップロードさんの誘いに乗った。キングを呼びつけた。なんだ、私にはもう解法が見えていたんじゃないか。答えは見えないままだけど、解き方はとっくのとうにわかっていた。
今日は素直に、悩みをそのまま口にしよう。そうわかっているのなら、私にできるのはその通りにすることだけだった。
※
さて。トップロードさんとキングに合流して、チョコを探して幾星霜。ブランドは色々あるのだが、どれも高級、高尚、そして高額。つまるところどれにせよ全く普段見ないようなチョコレートであり、これは本当に私の知るチョコレートという物体なのか? と思わざるを得ない。失礼ながら、こんなに小さいのにこんな値段かあ。いや、こんな思考だから私には女子力が足りないのだろう。見よあそこのトップロードさんを、目をキラキラさせながらウインドウを眺めているぞ。
「うーん、悩みますね……」
「トップロードさん、ここで買うって決まってるわけじゃないんですし、そんなここで悩まなくても」
「いえ! それは甘い、甘いですよスカイちゃん!」
ばっとこちらを振り向いて、心なしか尻尾をいつもより多めに揺らしながら。耳は興味を隠せずぴこぴこ動くトップロードさん。……大型犬みたいだな、などと思ってしまった。まあそれはともかく、トップロードさんの言説を聞いてみようか。
「甘いって、チョコレートのことですか?」
「いえ、そうではなくてですね! これだけ種類があって、でも一つ一つに心が込められてるんですよ、チョコレートって。なんて、今見て思ったばかりのことですけどね。なら私たちもしっかりその中から選び取らないと、失礼じゃないですか」
「……それは、そうなんでしょうね」
軽口を空振りにされたのはさておき、トップロードさんの言うことは正しい。いつも通り、だ。トップロードさんは正しくあろうとする人。そして、それを苦とは思わない人。いつも見てきたそんな姿が、いやに眩しく見える気がした。
失礼、か。その言葉は、なかなか耳の痛い話ではある。私はこのチョコレートに、どんな想いを込めればいいのか。何も考えずに渡すのは、トップロードさんの言う通り失礼だ。けれど答えは見つからない。私一人では。
「はい。だからスカイちゃんも遠慮なく、このチョコがいい、みたいなのあったら言ってくださいね! まあ、実際贈り物に適してるかを見てくれるのはキングちゃんなんですけどね……」
私一人では。なら、どうするか。先程見つけた、あるいはずっとわかっていたやり方。多分普段なら、こんなふうには出来ないのだろうけど。
「あの、トップロードさん」
「はい、なんでしょうか、スカイちゃん」
でも、今日は特別な日。当日ではないけれど、紛れもないバレンタインの日。
「相談したいことがあるんです。今だからこそ、です」
バレンタイン・デイは、特別な赦しを与えるものだからこそ。
乙女たちが秘めたる想いを告げられるのだと、そう決まっているのだから。
「いいですよ、スカイちゃん。……店の中で立ち話もなんですし、少し外に行きましょうか」
「はい。ありがとう、ございます」
「いいえ、こちらこそです。困ったときは、お互い様ですよ」
「私はトップロードさんほど優しくはないと思いますけど」
「そんなことないですよ!」
「えー、そんなことありますって」
そんな会話をこなしつつ、今入っていたチョコレート屋さんを抜けて、近くにあったベンチに座る。抜けていくときキングがちらりとこちらを見たのを、私は見逃さなかった。もっともキングは見逃してくれたわけだけど。トップロードさんもだけど、キングもやっぱり優しいよね、などと思った。
チョコレート屋さんを外から見ればそれなりに混んでいて、やはりこれが皆バレンタインに向けた人だかりなのだと思うと圧倒されてしまう。もちろん私もその中にいて、チョコレートを選ぶ立場なのだけど。そこに込める想いが、まだ私にはない。
「チョコレートをどんな気持ちで渡せばいいのか、わからなくって」
だから、それを素直に口にする。「わからない」ということだけは、わかるから。
「トレーナーさんにはもちろん感謝してます。だから贈り物をしたいとは思います。でも、具体的な気持ちが出てこないんです」
「……そう、なんですね」
トップロードさんは、私の言葉を一つ一つ丁寧に聞いてくれる。まとまっていないばらばらの言葉でも、この人なら掬い上げてくれる。そう思った。
「まあ一番はトレーナーさんにクリスマスプレゼントをあげてしまったので、もう一回プレゼントとなるとどんなネタにしようかなってのがあるんですけど」
「……え?」
……と、思ってたんですけど。今の「え?」は困惑の「え?」である。あれ、もしかして。
「スカイちゃん、トレーナーさんにクリスマスプレゼントあげたんですか!!??」
思ったよりも数倍驚かれて、周りに聞こえるほどの大きな声で。……げ、キングもびっくりしてるじゃん。いやこれはトップロードさんの声に驚いてるんだ、そうであってほしい。
あれ、そんなに驚くことですか? こっちが悩みを話していたタイミングなのに、気付けば発言者は転換していた。そんな一回転が起こるほどのことだったかな、これ。
「え、何を! 何をあげたんですか、トレーナーさんに!」
「ルアーですよ、ルアー。チョコレートほど大層なものじゃないですよ」
「大層じゃないなんて、そんなこと言わないでくださいよ! クリスマスプレゼントだなんてもう、とってももう、かなりですよ!」
「そんなもんですか」
「そんなもんですよ!」
「……呆れた。あの日さっさと帰ったと思ったら、そんなことしてたのね」
うわ、キングまで来た。ついさっきまでほっといてくれたのに、知らない話題になった瞬間これだ。というかなんというか今更ですけど、盛り上がりすぎじゃないですか?
「まあ、それならなんというか。スカイさんのチョコレートに関して、私とトップロード先輩から何か言えることはないわね」
「えっちょっとキング、さっきまで頼れみたいなこと言ってたじゃん」
「いや、キングちゃんの言う通りです。私からは、何もっ……! 応援することしか……!」
「そうね。というより貴女、それは一人でチョコ買った方がいいわよ」
「え、割り勘は」
「それは私たち二人でやるから。貴女は一人で買って、一人で渡しなさい」
なんで? まるで話が飲み込めない。トップロードさん、応援するって何を? けれど不思議なことに、こうやってあらぬ方向に引っ張られていると、それだけで抱えていた悩みが引っ込んでいく気がする。それならこれで、正解なのかもしれない。そんなふうに思考はまとまって、なぜか不思議と落ち着いて。
……ん? そんな落ち着いた目線で見てみると、なんだかとんでもないことになっている気がする。バレンタインのチョコレートを、私一人で渡すとかなんとか。
あれ、応援ってそういうことですかトップロードさん。クリスマスプレゼント一つで飛躍しすぎてませんか? キングも平然としてるけどそれに乗っかってるって、あたまピンクヘイローじゃないんですか?
えーと、どうすればいいんだろ。目の前の二人がかかりすぎてて、なんだか私の方がおかしい気がしてくる。クリスマスプレゼントはびっくりさせたいから渡しただけだし、そんな他意はないはず。いやもちろん気持ちは込めたつもりだけど、そういうのじゃないでしょう、絶対!
「じゃあ、スカイさん。あとは頑張りなさい」
「スカイちゃん、ここは踏ん張りどころですよ!」
そう言って私を置いてチョコレート屋さんに戻っていく二人。踏ん張りどころなのは確かなんだけど、そういう踏ん張りどころじゃないんですよ、これ……。
思い切って切り出した会話はあらぬ方向へ飛んでいき、そのまま空中分解。それだけ見ればかなり大失敗の結果なんだけど。だけどもやっぱり、私の気持ちは変わっていた。
もしかしたら私に必要なのは、こういう何気ない会話だったのかも。一人で考えすぎて、答えが出ないことに思い詰めすぎて。結論を急いでいた。だから必要なのは、何気ない回り道。そう考えればこの大いなる勘違いも意味がある……のかもしれない。多分、そういうことなのだろう。
ちなみに私一人に任された私の分のチョコレートは、お財布と相談する以外に選ぶ方法がなかった。ルアーと同程度、三千円までなら許容できる。そんな個人的には高価な価格設定なのに、その時点で選択肢がかなり狭いのが恐ろしいところだ。デパートって怖い。いや、心からそう思います。
「あら、もう買ったの」
「じろじろ見ないでよ、キングのへんたい」
「人前でそんなこと言わないの、おばか! ……そりゃ気になるわよ、そりゃ」
「あのねキング、言っとくけどそういうんじゃないからね。……何その目は」
「いや、別に」
「信用してない目だ! やっぱりあたまピンクヘイロー!」
「何よそのあだ名は! じゃあなんだって言うのよ!」
うぐっ、そう問われると言葉に詰まりそうになる。何しろトレーナーさんに向ける気持ちはまだ決まりきっていない。いや、キングやトップロードさんの想定している方向では絶対ないのだが、それはそれとしてその問いは重要なものなのだろう。曲がりなりにも二人に聞いて、その上で出た結論だ。二人にはわからない、私だけの気持ち。盛大な回り道をして、もう一度スタートに戻ってきた感じ。けれど回り道の分が無駄じゃないから、今度こそ答えに辿り着けるのだろう。
すーっと、ちょっと深呼吸して。肺に酸素が満ちると、気持ちも晴れていく気がした。未だ霧は晴れず。されど、道くらいは見えているのだ。
「トレーナーさんは、大人だから。そりゃちょっと不器用なところもあるけど、そこも含めてやっぱり大人。子供の私とは、違うんだよ。大人と子供の差、キングも身に覚えがあるんじゃないの」
「それなら、そうね。私も大人に、あの人に認められたくて、そのために走っているのでしょうね」
「そ。もしかしたらわたしにとってのそれが、トレーナーさんなのかもね。……わかんないけど」
「なるほど、理解はできたわ。けれどそれならやっぱり、私やトップロード先輩の助力は必要なさそうね」
「そうかも、ね。でも今日ここまで考えられたのは、多分二人がいたおかげだよ」
それは間違いなかった。今の私に一番必要なのは、回り道だったんだ。それがグラスちゃんの言っていた「足りないもの」なのかはわからないけど、確かに満ち足りた感覚はある。そしてそのために、私は一人で抱えたものを忘れる必要があった。改めて考えるために、一度でいいから。
「トップロード先輩には、大丈夫そうだって伝えておくわ。……面白そうだから、勘違いはそのままにしておくけど」
「え、じゃあやっぱりチョコレートは一人で渡さなきゃいけないの」
「それはそうでしょう。……私が言えることではないけど、たまには言葉にして伝えてもいいんじゃない。貴方の言う大人に対して、ね」
それだけ言い残して、キングはトップロードさんのところへ歩いていく。私は少し遅れて追いかけながら、キングの言葉を咀嚼していた。言葉にして伝える、か。確かにそれなら、クリスマスの時とは違ったものをあなたにあげられるだろう。
あの時伝えた言葉は、あの時だから伝えられたもの。今日だけは子供でいていいのだと、そんなことを言ってみたっけ。なら、バレンタインの日のあなたは大人のはずだ。あの時頼っていいと言ったぶん、今度は私があなたを頼るのかもしれない。
そうか、これもきっと。これもきっと、私に必要なもの。私の不安はおそらくまだ完全には消えていなくて、だからこそ誰かに助けてもらわなければならない。それはこれからのことだけど、今まで通りのことでもある。昼行灯を気取ってはいるけど、なんだかんだで誰かと繋がりを持ってしまう。それが私だ。一人では生きていけない、子供の私だ。
だから私はまだ、子供でいていい。みんながいるから、褒められたいって思っていい。そんななけなしの光明が、確かに空から射してきたように思えた。
まだ、空は堕ちてこない。
※
そうしてやってきたバレンタイン当日。学校は休みでゆっくり寝れるはずなのに、あまり寝付けずその日は来た。事前の準備も何もなく、さてどんな時間に渡そうかなどと緊張していたセイちゃんであったのだが。
「スカイさん、今日って空いてますか」
起きがけにかかってきた一通の電話が、そんな私の眠気を吹き飛ばす。聞き慣れた声だけど、どこかに緊張が混じっている気がする。なら、私にできることは一つだ。
「うん、空いてるよ」
彼女の緊張を、不安を無駄にはしないこと。何故ならニシノフラワーにとって、セイウンスカイは頼りになる大人なのだから。そして私にとって君は、あるいは頼るべき仲間の一人。そうに、違いない。
バレンタイン・デイは、お互いに不完全で未完成で、不安や矛盾を抱えていようとも。
乙女の想いだけは真実であると、そう決まっているのだから。