フラワーとの待ち合わせ場所はトレセン学園になった。フラワーからの指定である。つまり一般的に言うお出かけではないけれど、休日に学園に行くのならそれなりに特別なイベントだろう。むしろただのお出かけより特別感があるかもしれない、そんなことを思った。
寝癖まじりのぼさぼさ頭を手櫛で直す。わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。右手で整えつつ、左手であくびを受け止める。寝巻きも脱いで、服はいつも通りの制服に着替える。身につけたはずのそれは、なんだか身体に馴染まない感じ。いつも通りの制服だけど、身なりに気をつけなきゃ、みたいな意識が袖を通す時にまで出てきてしまうのか。ううん、朝から緊張しているな。
まあ、けれどそれは仕方のないこと。フラワーから呼ばれたのも、トレーナーさんにチョコを渡すのも。今日という日なら、仕方のないことなのだ。
バレンタイン・デイは、誰もかれもが普段通りではいられない。
乙女たちが心躍らせてしまう日だと、そう決まっているのだから。
とん、とん、がちゃり。靴を履いて、扉を開いて。まだ寒い冬空の下へ、朝早くから寮を出る。全身の毛が寒さで逆立つ感じで、外に出て早々立ち止まってしまったのだけど。まあフラワーもあっちの寮でそんな感じになっているだろうわけだし、我慢我慢。我慢しつつ朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、冷たいはずのそれはなんだか心を暖めてくれる気がした。
頭はまだぼんやり、若干眠気は残っている。澄み渡る青空を眺めても、まだ太陽は低いまま。つまりまだ眠くて当たり前の時間帯ってこと。こんな時間に呼び出すなんて、フラワーも大概悪い女の子だ。いや、悪いのはまだ眠い私の方か。直接会うまでに眠気が飛んでいればいいけどな。
日曜の学園への道は、見知ったものなのに知らないもののような気がした。周りには誰もいないから。私だけ、正確には私とフラワーだけが学園に向かう。いつもの道のり、いつもの場所。違うのは、今日という日だということだけ。それに伴う状況の変化、それだけ。
けれどそれだけあれば、気持ちが浮き立つには充分だった。流石の私でも、バレンタインの今日フラワーに呼び出された理由くらいはわかってるつもりだし……多分。とびっきり喜んで、とびっきり感謝しなきゃならない。口下手な私だけど、それくらいは頑張らなくちゃ。
とくんとくんと心臓を鳴らし、こつんこつんと歩みを進める。今日という日に向かうために。いつか君がこぼした不安を、いつかの私が受け止めたように。今日の君の気持ちも、私は絶対に受け止めたいんだ。
朝はすぐに終わり、冬は徐々に陽の光に照らされていく。影も少しずつ小さくなり、空までもが明るく見えてくる。たどり着いた学園の門は空いていて、けれど誰もいなかった。まあ待ち合わせからは十五分も前だから、当たり前といえば当たり前……おや、あれは。
その姿を見つけて、私はそちらへ手を振って。やがて返答のように小さく振り返されるとそこから会話は始まって。
「やあ。おはよ、フラワー」
「おはようございます、スカイさん」
「随分早く来たね、まだ待ち合わせ時間じゃないよ」
「それはスカイさんもじゃないですか」
「そうかもね、なんならフラワーより早かったし」
私よりひと回り小さい華奢な背丈、今日も綺麗に毛先まで整えられた髪の毛。そして何より、彼女らしさが何よりも出ているのはその一挙一動。たとえばゆっくりとこちらへ歩いてくる足並みのようなしっかりとした振る舞いの中に、あどけない笑みをいっぱいに浮かべるような幼さがある。そんな二面性、コインの裏表をどこかに持っている。私のよく知る、ニシノフラワーというウマ娘だった。
「あの……ありがとうございます、今日は」
「いいっていいって、暇だったし」
本当はトレーナーさんにチョコレートを渡す用事があるけれど。まあそのことは後で考えればいい。だから今は暇、これは嘘じゃない。それにそもそも誰かのお願いを断れるほど、私は強くも弱くもないし。なあなあで受けてしまっている、みたいな見方もできてしまうわけですが。それでも私はどうにも周りに人が必要だというのは、残念ながらトレセン学園に来てからわかってしまったことだ。
「それでスカイさん、今日は」
「はいはいフラワーさま、なんでございましょうか」
「もう、すぐからかうんですから」
というわけで今日はフラワーのお願いごとを聞くし、ひょっとしたら私もフラワーになにかお願いごとをするかもしれない。これはバレンタインだからというより、私と君だからって感じだけど。
君は私に何かを見出してくれる。それは多分、私には気付けていない私の姿。君にしか引き出せない、私の中の私。我が事ながらくすぐったいけど、それを憧れと呼ぶのだろう。
そして今日のこれも、多分その延長。なんといっても今日はバレンタイン・デイ。
乙女たちの願い叶う日だと、そう決まっているのだから。
「まあでもなんにせよ、呼んでくれたのはむしろこっちがありがとうだよ。せっかくのバレンタインだもの。電話もらってからずっとドキドキしちゃったなー」
「もう、さっきからスカイさんたら、私のことおちょくって」
「ごめんごめん、フラワーを見るとつい。真面目な子を誑かしたくなる悪いトリックスターですので」
「はい、反省してください。さっきから私、何も言いたいこと言えてないじゃないですか」
そういえばそうだった。そもそもフラワーが私を呼んだのだから話したいのはフラワーの方なのに、私ばかりが話してしまっていたな。数秒前の自分は聞くつもりだったのに。
さて、一体なんだろうか。もちろんバレンタインとなれば、期待してしまうものはあるのだが。いやそりゃあ普段はそんなこと考えないけど、今日は私だって渡すわけだし。いや、貰ったとしてどんな顔をすればいいのか? 所謂友チョコというやつすら縁のない人生を送ってきたセイウンスカイという可哀想な女の子は、ここに来て八方塞がり逃げ場なしである。この状況を避けるためにおべんちゃらを並べていたのか、というくらい。
さてそんな私の複雑な心境などつゆ知らず、フラワーが私に切り出した話の内容とは。
「あの、とりあえず構内に入りませんか」
「それは確かに。立ち話もなんだしね」
「はい。とは言っても今日は、落ち着いて座って喋れる場所なんてないかもしれないですけど」
なるほどフラワーの言う通り、休日の校舎は大体の部屋が施錠されている。となれば椅子などどこにもなくて、だから休みの日はトレーニング以外では誰もここには来ない。単に授業がないというのは大いにありそうだけど、学校とは学びに時間を使う場所であるというのはある種の真理を言い当ててもいる。すなわち、勉強や練習がトレセン学園の本分であるということ。そこにある人間関係は、あくまでそれに付随するものに過ぎない。
本来なら、だけど。
「それなら、いい場所があるよ。結構たくさん。トレセン学園絶好のサボりポイント」
「……サボり、ですか?」
「そう、だから多分フラワーは知らないようなところ。放課後にのんびり、なんてなかなかやらないでしょ。フラワーは真面目だから、空いてる時間があったら忙しくしちゃうし」
本来なら、それも当たり前のことだろう。だけど、人は常にまっすぐを歩けるわけじゃない。これは少し前にトップロードさんとキングに気付かされたことだけど、思えば私がいつも尊んでいたことだった。明日は明日の風が吹く、人生は苦楽のバランスを取るものだって。
だから多分、今日の私の役目はこれ。やりたいことは、これ。なにやら気張ってしまっているフラワーに、息抜きの概念を教えてあげること。そうして少し吐き出した分、気持ちに余裕を作れれば。それなら言いたいことも残さず言えるだろうと、私は君にそうあって欲しいのだ。
ぐるり。踵を返し、向かうはトレセン学園の中。広い広いその中心部ではなく、回り道の先にある小さな木陰。おっと、もちろん一人で行くのではないのだから。忘れずに、戸惑う君を導くために。
「さ、着いてきて。大丈夫、フラワーにもおすすめのとっておきの場所があるんだ」
半分振り向いて、フラワーに向けて左の手を差し伸べる。まだ君の身体にぴったりくっついて離れないその手から、まずはそこから羽根を伸ばそう。さあ、着いてきて。
「……はい。よろしくお願いします、スカイさん」
そうして、小さな手のひらに握り返されて。私も広げていた手のひらを、それを掴むように繋いで。
ゆっくりと、二人で歩いていく。こつり、こつり。二人の足音だけの空間。誰もいない、何もない学園。だからここに在るのは、私と君だけだ。
私と、君だけ。それだけで、全ては満ち足りるのだ。
※
さて、そんな大見得を切った私がフラワーをどこへエスコートするのか。もちろん大したところには連れていけないが、それなりに気に入りそうなところはある。誰でも通ったことがあるような、けれど発想を変えなければ見えてこないような場所。そういうのを見つけるのは得意だから、それくらいのことは教えてやれる。
「さてと、この辺かな」
「ここは、花壇ですね。私もよく水やりしてます」
「そう、フラワーもよく知ってる場所。でも……あそこ。あそこの木陰、根っこの隙間に人が座るのにちょうどいい。……知ってた?」
「それは、知らなかったです。そもそもそんな隅の方なんて、気にもかけてませんでした……」
「正直でよろしい。まあ、目立たない場所なのはその通りだからね」
だから私が君に伝えられるのは、今日も今日とて発想の転換。そしてそれに伴う、ちょっとした驚きだけ。だけどそんな驚きこそが誰もに必要なのだと、きっと私はそう思う。もちろん、君にもだ。
少しの距離をまた連れて歩いて、木洩れ日の下へ潜り込む。日差しと影が混じり合うそれは、まさに表裏一体の如し。そこまで辿り着いて、そこからの景色を二人で眺めて。木陰に腰を下ろして、けれど繋いだ手はそのままに。そして、私はまた言葉を紡ぐ。
「でも、ほら。ここからなら、花壇全体が見渡せる。ゆっくり、落ち着いて。もちろん近くに寄って見るのもいいけど、こういうのも素敵だと思わない?」
「……はい。私、こうやって花壇を見るのは初めてかもしれません。いつも近くで、一つ一つに水をやるので精一杯で」
「それももちろん、悪くない。けど、普段と見方を変えてみるのも悪くないでしょ? たまには休んで、全体を俯瞰して。そういう時間も大事ってこと」
「そう、ですね。……やっぱりスカイさんは、すごいです」
私からすれば、フラワーの方がすごいところがたくさんだ。いつでも休憩なんかしていなくて、何でも一生懸命に頑張っている。私がしてやれるのはそれのメンテナンスくらいのもので、君は自力でどこまでも行ける子だろうに。それでも求められるなら、私はもちろん喜んでしまうのだけど。君のような立派な花に、ささやかな彩りを添えられるのなら。
「さ、じゃあ座ろっか。……今更だけど、地べたでもよかった? 私は慣れっこだから忘れてた」
「それは構わないです。でも、一つだけお願いがあって」
「何かな。まあだいたいは二つ返事だけど」
「……手を、繋いだままでもいいですか」
私の方を見上げてそう言うフラワーは、少しその瞳を揺らしていて。なんだかその言葉にも、彼女なりの意味が篭っているような気がする。どちらにせよ、私の返事は決まっているのだけど。
「もちろん。喜んで、だよ」
そうして、そのまま。手を繋いだまま、距離は保ったまま。その時間を続けたまま、私たちは腰を下ろす。ゴツゴツとした木の表面が背中に当たる。葉っぱの間から光が差し込む。木洩れ日の隙間から、空は十分にこちらを見守ってくれている。目の前に広がる花壇は、隅々まで綺麗な花が咲いていた。日々の丁寧な世話があってこそ、だろう。それを一望してしまうのは、割と贅沢の極みかもしれない。
吹き抜ける風はまだ肌寒い。伝わる空気はまだ冷たい。それでも、この時間は暖かい。やっとフラワーとの会話の準備が出来上がったという感じの状況だけど、なんだか既に気持ちは安らいでいた。
正直、まだ不安を払拭し切れてはいない。理由は単純で、実際走ってみないとその結果はわからないから。だから私に出来るのは、それを何度も落ち着けることなのだろう。その日が来るまでは。その日が来てしまえば、嫌でも全てがわかるのだから。杞憂だったか、それとも。
なら、今は前を向こう。たとえば今はフラワーとの会話で、その後はトレーナーさんへのバレンタインプレゼント。そうやってみんなと一緒に過ごして、不安は全部忘れてしまおう。本当に空が墜ちてくるかなんて、誰にもわからないのだから。
さて、そんなフラワーとの会話なのだが。先程から何かを言おうか言わまいか、フラワーはどうやらそんな様子。果たして何を言われるのか。まあ、何があっても応えてやらなければ。それが私からフラワーにできること、だ。
……そのはずだったんだけど。何を聞かれても答える、そのつもりだったんだけど。
「あの、スカイさん」
意を決して、彼女が発した言葉は。
「教えてください。私のこと、どう思ってますか」
流石の私も返答に迷う、そんな大きな言の葉だった。
けれど、これも当然のこと。なぜならバレンタイン・デイは、姦しくても静まり返っていても。
乙女たちが覚悟を宿す日だと、そう決まっているのだから。