人と人との関係とは、双方向に連なるもの。私が君を受け止めて、君も私を受け止める。その連鎖が繋がりになる。そういうものだ。
けれどその維持は難しい。人は誰しも一面的ではなく、それを理解する側も理解の方式を変えてゆく。日に日に。常に。目まぐるしくさえある相手の変化と成長を受容しなければ、そこにあったはずの繋がりはすぐにほどけて途切れてしまう。たとえそれがどんなに強い関係性であっても、だ。
だから、多分フラワーの質問もそういうこと。
「私のこと、どう思ってますか」
そんなのはずっと前から決まっているかもしれないし、あるいは今この瞬間まで定まらないようなことかもしれない。それが今日、フラワーが抱えてきた不安。吐き出そうとした悩み。ここにある沈黙の正体は、彼女の変化そのものなのだ。
「どう思ってるか、か。なかなか難しい質問だね」
「あのあの、変な意味じゃなくてですね。……だからって、はっきりした意味のある質問でもないんですけど」
「わかってるよ、だから難しい質問。そんなこと、よく聞いてくれたね。ありがと」
曖昧で、言葉にならない。そんな気持ちを口にすることは、きっととても難しいこと。でも君は、それを私に聞いてくれた。だから私も、それに答える必要がある。応えたいと、思う。
ゆっくりと、まずは一言ずつ。ぐしゃぐしゃに固まってしまった毛玉をもう一度ほぐし直すように、フラワーはまた話し始めた。
「前にも、スカイさんに話したことがありましたよね。スカイさんが<デネブ>からいなくなった時。あの時も、私はスカイさんを悩みの原因にしてしまっていました。そのうちまた会えるってわかっていたのに、どうしようもなく不安で。……きっと今回も、頭ではそんな悩みだってわかってるつもりなんです。でも、でも」
「いいんだよ、そうやって話してくれれば。どんな話でも、私でよければ聞くからさ」
「……それが、心配なんです!」
握られた手のひらから伝わる力が強くなる。決して離すまいと、君は私を繋ぎ止める。まるで、消えてしまうのを恐れるかのように。
くるりと横を振り向いて、強い意志を込めた口調と眼差しで。彼女は彼女の悩みの根本を、溢れるように言葉にしていく。
「スカイさんは、いつも私を助けてくれます。たとえばトレーニングの時も、私の計画がうまくいくようにって色々指示を代わりに出してくれたり。……そうやって、いつも私は助けてもらってばかりです」
「それはそんなことないって、前にも言った気がするけどな。フラワーはよくやってるし、私の方こそ助けられてる。それこそトレーニングのメニューは君が考えてるものだって多いでしょ?」
フラワーの不安は、あの皐月賞の後に話した内容と似たものだった。今話されているまでの話は、だけど。人の関係は変わりゆくもの。人と人との関わりへの不安は、うつろいゆくもの。
「……ま、それは織り込み済みで話がしたいんだよね、きっと。フラワーの『心配事』は、そこより先にある」
「はい。スカイさんがそういう優しい人なのは、わかってます。……私の方も力になれてるって、今はそう思います。でも、だからこそ、心配なことがあって」
少し、考え込むように間を置いて。やがて彼女の優しい声は、この話の結論に辿り着く。それは紛れもなく、彼女自身の不安だったけど。私のための、言葉だった。
「スカイさん。私はスカイさんにとって、大切な人になれてますか。私が頼めば、あなたはどこにも行ったりしませんか」
「……なに、それ」
「すみません、めちゃくちゃなことを言って。……でも、最近のスカイさんを見ていて。いつもと変わらないはずなのに、不安だったんです。もしかしたら取り返しのつかないことになるんじゃないかって、そんな不安です。それが止まらなくて、怖くて。それでも、私なりに考えました。……スカイさん。私のこと、どう思ってますか」
「それは、どういう」
「スカイさんがどうしようもなくなった時、繋ぎ止められる存在になれていますか。……いつか少しだけ、スカイさんの弱音を聞かせてもらったことがありましたね。もしこの先何があっても、私はそれを聞いていられますか」
正直言って、驚いた。彼女がこれだけ強く、自らの意志を出してきたことに。その対象が、私の中に埋もれているはずの不安であることに。そして霞がかったまま広がる夜明け前の空のようなそれの中心にあるものを、言い当てようとさえしていることに。
「そしてもしまだ私にそこまで打ち明けられないのなら、これからもっと仲良くなりたいんです。トレーニングの時だけじゃなく、休み時間や休日だって。だから、今日はこうやってお願いしました。……だいぶ、勇気は要りましたけど」
「確かに、いつものフラワーとは違うかも。びっくりした。でも、ありがとね。そんなに心配してくれたってことだ」
「はい。それが、今日聞きたかったことです。……どう、ですか?」
どう、どうなんだろう。正直言って、私はフラワーほど自らの不安を深刻視していない。できていない。私はそれについて、誰かに頼るしかないという結論を出した。そしてその結末は、その時が来ないとわからないとも。
だけどフラワーの不安は、それより一つ先のものだった。その時が来たとして、本当に私は誰かを頼れるのか。誰もが変化と成長を続けていくのに、その時私が変わっていない保証があるか。そこまで、そこまで彼女は問うてきた。私に、私のために。ならば、私はそれに答える必要がある。そんな私の決意は、最初から分かりきっていたものだった。
「なるほど。やっぱり難しいね。こんな難しいことを考えられるフラワーはすごいや」
「スカイさんの悩みでもあります。それならそれを直接抱えているスカイさんの方が、ずっとすごいです」
「そっか。じゃあ私もちゃんと、フラワーの気持ちに答えなきゃね。結構難しいから、ちょっと考る時間が欲しいんだけど」
「いえ、それはもちろん。むしろいきなり捲し立てて、それでも聞いてもらえるのは嬉しいです。……あっ、そうだ」
ふと、フラワーが繋いだ手を離す。それをスカートのポケットに突っ込んで、何かをがさごそ、がさごそ。程なくして彼女は一つのものを取り出した。小さな包み紙。口はリボンで結びつけられている。これは、もしかして。
「チョコレート、です。頭を使うなら甘いもの、ですよね。……スカイさん、どうしましたその顔」
「ごめん、思ったよりびっくりしてるかも、私」
「えっ、だってバレンタインじゃないですか! 当然ですよ、当然」
「そんなこと言って、フラワーも結構タイミング計ってたでしょ」
「……それは、その。否定、しませんけど」
そんな会話で中和しないと、恥ずかしくてチョコレートもフラワーも直視できない気がする。いや、貰うのは初めてだから仕方ない。渡すのも今日初めての予定だけど。思ったより嬉しいし、思ったより緊張するな、これ。
薄いピンクのリボンをほどいて、包み紙をそーっと開ける。中には当然、チョコレートが入っていたのだけど。一口サイズの。ハート、型の。
「あっ、これはですね! あのその、トレーナーさんから借りた型がたまたまこれで」
「うひゃー、愛が篭ってますね。見ただけでわかりますよ、フラワー評論家のセイちゃんが太鼓判を押します」
「もう、ですからたまたま、たまたまで」
「たまたま、手作り?」
「……うぅ。それは、たまたまじゃないですけど」
そう、フラワーのこれは手作りチョコレートである。あのトレーナーさんに聞いて作ったということなら、多分結構本格的な。いや、そんなものをこんな私がもらっていいのだろうか。いやいや受け取らない方が失礼だろう、何を血迷ったことを考えているんだ。
しかし、先程からのフラワーの目線が気になる。あれは早く食べてください、の目に違いない。そして感想を言え、の目に決まっている。そりゃこの流れで食べないなんてあり得ないのだが、そこまで見られると逆に緊張はしてしまうわけで……いや、そんな間すら居心地が悪い。ええい、ままよ。
ぱくり。
「どうですか」
ちょいと待ちなさいなフラワーさん、まだ口の中に入れたばかりですよ。無理矢理飲み込んで喋れって言うんですか? いや、美味しいんだけどね。私の貧相なコメント力ではこの味わいを君に伝えられるかどうか。
舌の上でハートの形を転がして、甘いなあ、なんて当たり前の感想しか抱けなくて。そんな私でもわかるのは、このチョコレートには相当な気持ちが込められているということ。甘くて柔らかくて、あっという間にとろけてしまう。そんな刹那に込められた味わいが、こんなにも長く感じられるのだ。それはとっても素敵なこと。かけがえのない、特別なこと。
バレンタイン・デイは、どれほど言葉を尽くしても伝えられない想いさえ。
甘い甘い黒に詰め込んで届けてしまえる日だと、そう決まっているのだから。
※
「……どう、ですか」
「うんフラワー、ちょっと待ってね。私今、フラワー関連のタスクを二つも抱えているところだから」
「あっそうでしたね、すみません」
そうやって何度も歯に挟んで、結局全部溶けるまで噛み砕けなくて。私はようやく、フラワーからのバレンタインチョコレートを食べ終えた。もちろんもう一つの議題についても、深く底まで思考を伸ばしながら。
陽は少し先ほどより昇っていて、木陰も形を変えていた。影と光のあぜ道の下にいる二人の身体は穴だらけみたいに見えて、それも風流だなと思ったり。目線の先の花壇はより鮮明に照らされ、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうな。
そして隣には、君がいる。そんな時間。そんな世界。つくづく、私には贅沢すぎる。だけど私にしかあり得ない状況だ。それなら、私はこれを全力で活かさなくちゃ。
ゆっくりと、けれど確実に。目の前の少女の不安を解くために、私自身の不安を切り払うために。言葉を紡ごう。人と人の繋がりは、やっぱり最後は言葉で出来ているのだから。
「さて、と。とりあえずチョコレート、美味しかったよ。すっごく、美味しかった。私は幸せ者だなって思った。ありがとう」
「……はい。そう言っていただけて、嬉しいです」
「そしてもう一つ。私を心配してくれたこと。前よりずっと、フラワーは私のことをよく見てるよ。そうじゃなきゃ言えないもん、自分を大切な人と思えているか、なんて」
「そうですね。昔……と言っても一年も経ってませんけど。その頃よりスカイさんのことをもっと近くで見れていたらって、思ってましたから。それなら、よかったです」
「……参ったな。フラワーには弱みはあんまり見せないようにしてたつもりなのに。フラワーもどんどん大人になっていくから、いつまでも子供の私じゃ追いつけなくなるかもね」
「そんな、スカイさんは私よりずっと」
「それはもちろん、その通り。でも今は違うんだ。ちょっと考えたんだけどさ。今の私は、どうしようもないくらい子供なんだよ」
子供。幼い頃の私は、誰もが自分に期待していると思っていた。誰もが私の周りにいると思っていた。世界の中心にいると疑わなかった。そして捨て去ったはずのそれを忘れることができていなかったと、どこまで行っても私は子供のままだと。今までのトゥインクル・シリーズは、そんな子供のままの私を肯定してしまうものだった。期待されていい、周りに認められていい、自分がセンターに立っていいと、そういうものだったから。
だからきっと、今の私は子供だ。そしてそれが極まっているのが、今だ。自分の変化に自ずから戸惑い、誰かを頼るしか解決策を思いつかない。得体の知れない不安に泣き喚き、それは拙く言葉にならないまま。
「だからこうやってフラワーを頼っちゃうし、誰かを頼ることに抵抗がない。それはもちろんいいことばかりじゃないけど、そうすれば乗り越えられるものもある。……でも、それだけじゃないんだよね」
フラワーが不安視したのは、その先の話。私の不安が言葉になった、未来の話。それを言葉にできるように、変化と成長を重ねた後の話。誰の力も借りないで、自分で立てるようになった時の話。あるいは自分で立つのだと、伸びてきた手を振り払う時の話。
私が大人になる時の、話だ。
「もしかしたら、フラワーの言う通りかもしれない。誰にも頼れないくらい、私はどうにかなっちゃうかもしれない。未来の話だから、断定はできない。……そこは、ごめん」
「はい」
「でも」
もちろんこれは推定や推測。幼い子供が将来の夢を語るが如し。こんなふうに不安だけを積み立てるなんて、全て杞憂の可能性はある。でも、それでも。それでも私は、君に伝えたいことがある。
「でも、もし。それでも私が、不安そうだったら。誰にも頼れないくせに、頼らないと解決できない悩みを抱えていたら。その時は、フラワーに任せるよ」
「……はい」
もう一度、一呼吸。ここから先の言葉は、私から君へのお願い。今だけは、大人になる前の今だけは。
君の前でも、子供でいさせて。
「私を、導いてください。お願い、私の大切な人」
この一瞬だけで、いいから。
返答はなかった。もう言葉は要らなかったから。
もう互いを見てはいなかった。視界を一致させるだけでよかったから。
花と空だけ見えていた。
それで、満ち足りたから。
※
「じゃあ、今日はありがとうございました。スカイさんに、チョコレートも食べてもらえましたし」
「こちらこそ、ありがと。いや、お昼前から食べる甘味は罪の味だね」
十二時を回った頃、私とフラワーは二人で校舎を出た。寒空ごと太陽が私たちの身体を暖めてはいたけれど、やっぱり制服のスカートは少し肌寒い。朝から地べたに座っていたのだから当然だ。私はもちろん慣れ親しんだ感覚だが、フラワーには初めての経験だったかもしれない。
校門を出て、別れ際。冬の風がびゅうと私たちの間に吹き込み、それを合図に繋いでいた手を離す。お別れだ。けれど別れのあいさつの代わりに、フラワーはまた一つ言葉を切り出す。丁寧に、大切に。彼女らしく。
「……あの、スカイさん」
「何かな、この際だし何でも」
「また、一緒に。今日みたいに、今日じゃなくても。……なんでもない時でも、スカイさんと会っていいですか」
「もちろん。私はどこでも寝てるから、どこにいても会えるよ、きっと」
これからもっと、仲良くしたい。それは今日のフラワーの願いの一つだ。もっともそれは私のためでもあるのだけど。そういう点で他人のために自分の願いを使ってしまうのは、彼女の素敵なところの一つ。危ういけれど、そこは守ってあげればいい。
「はい、ありがとうございます。……では、また」
「うん、またね。ばいばい、フラワー」
だって君は、私の大切な人だから。君が私を見遣るように、私も君を見遣るのだ。
そうして、私とフラワーのバレンタインは終わった。時間自体はやはりあっという間で、やっぱり物足りないと思ってしまうくらいで。だからお互いに名残惜しんで、見えなくなるまで手を振り合いながら去っていって。
だけど、今日で終わりじゃないから。人と人との関係は、変化を続け繋がり続けるもの。維持するのは難しくても、切り離すのもまた難しい。難儀で厄介な、けれど手放したくない大切な。だから私は今日を終えられる。明日があるから、今日を終えられるのだ。
……まあ、今日はまだ終わっていないのだけど。私の役はチョコレートを貰う側から、渡す側に切り替わる。あれだけ気持ちを込めたものを渡した彼女のように自分が出来るかは、いささかかなり自信はないのだが。
おやつどきにでもトレーナー寮に行って、さくっと渡してしまおうか。それは普段の私なら喜んで取ってしまいそうな選択肢だったけど、何故だか今日はそんな気分にはならなかった。まあ、私は気分屋だから。決して今日という日に浮かれて緊張してしまっているのではないのだと、そういうことにしておこう。
バレンタイン・デイは、華やかに彩られた特別な時間ではあるけれど。
日常から連なる想いだから伝わるのだと、そう決まっているのだから。