現在位置、トレーナー寮前。現在時刻、十四時五十四分……今変わって五十五分のゼロゼロ秒。つまり後五分きっかりでおやつの時間であり、私がトレーナー寮に突撃するタイミングである。そんなことをスマホの画面で確認し、そんな時間確認を理由にしてさっきからスマホをずっと見続けている私。柄にもなくLANEのトーク画面を開きっぱなしの私。前述の通り、トレーナー寮の前でのことだ。誰か通ったら何事かと思われるだろうか。
ちなみに何故私がこんなふうに待ち呆けているのかというと、別にバレンタインチョコレートを渡すのにドキドキしすぎて動けません、みたいな女子力高めの理由ではない。単にトレーナーさんに部屋行きますよって伝えたら、片付けるから十五時まで待ってくれと連絡が来たからだ。
いや、ほんとですよ? 約束よりちょっと前な時間に着いたのだって、そうしないと失礼かなって思ったからで。今スマホを見てるのだって、一応また連絡あるかなって確認しといた方がいいと思っただけで。こう理由を並べると言い訳がましく聞こえてしまうな。いや、誰に言い訳するというのだ。そんな思考自体が正常ではない気がしてきた。つまるところ、緊張しているのかも。
とはいえ、今更逃げ帰るわけにもいかず。現在時刻、十四時五十七分。後三分。後三分も待つのかと思うと、そのたった百八十秒がやたらと長く感じられる気がした。……ああもう、じれったい。釣りなら待つのも好きだけど、トレーナーさんを待つのは趣味じゃない。うん、そうに決まってる。そもそも片付けなんて、普段からしてない方が悪いじゃないか。うん、やはりそうに決まってる。つまり、だ。
がちゃり。私にとっては未知の領域、伏魔殿たるトレーナー寮の扉を開けて、いざ。スマホはしまったので現在時刻はもう見ていないが、まあトレーナーさんの部屋を探しているうちにちょうどぴったり十五時になるくらいだろう。とりあえず入ってすぐのところに立ち並ぶポストを見て、その中からトレーナーさんの名前を探す。上から見ていったので、目的地が一階の一〇七号室であると気づくのにはほんの少しだけ時間がかかったかも。大体一分くらい。
かつ、かつ。そうして玄関口を抜けた先にある、外に面したトレーナー寮一階の廊下を辿る。こうして見ると、同じ寮でも私たちのものとはずいぶん趣が違う。私たちのは共同生活の場所って感じだけど、こちらはなんというかマンションみたいな。大人と子供の差、とも言えるのかもしれない。子供に足りないのは人と過ごす時間で、大人に足りないのは一人の時間だから、みたいな。まあ、これからその一人の時間を潰しに行くわけだけど。きっとたまにはいいだろう、そんなことを考えながら目的の場所の前にやってきた。ここまでで、もう一分。
後一分は、待たなくていいや。
ぎゅっとドアノブを握りしめ、ぐいっと横に回してみる。当然鍵はかかっているけど、これで中にいる誰かさんにも伝わるはず。それでも足りない、もしまだ足りないというのなら。
こんこん。ドアを叩く音。まだ足りないというのなら、ドアをノックしてあなたに届かせる。
「開けてくださいよ、トレーナーさん」
あなたを、呼ぶ声。それでもなお扉を開けてくれないのなら、私の声を聞かせてやる。今日の私の気まぐれは、あなたを待つことを良しとしない。だってどうしたって緊張して、こころが熱くなってしまうのだから。
そうして、少しの沈黙の後。がちゃっと鍵の開く音がして、ぎいと扉は開かれる。そこまでで結局一分ほど待ってしまったが、まあそれくらいは譲歩してやろう。
「……よく来たな、スカイ」
「はい。お邪魔します、トレーナーさん」
バレンタイン・デイは、誰にとっても平等に。
乙女たちにとって大切な人のためにもあるのだと、そう決まっているのだから。
※
「うっひゃ、散らかってますねえ」
「いや、だから片付けていたんだが……間に合わなかったな」
「間に合いませんでしたね」
「……すまん」
「なにしおらしくなってるんですか。似合わないですよ、そーいうの」
トレーナーさんの部屋に入るとゴミ屋敷であった、というほどではないのだが、なにやら物が多いという感じの散らかり方をしていた。そもそもの部屋構造の話をすると、玄関からすぐ横にトイレと風呂。ここは綺麗。で、まっすぐ行けばリビング。ここが既に怪しくて、シンクの周りに使った調味料が置きっぱなしとか。おそらくその上にある棚に色々置くべきなのに。
リビング真ん中のテーブルの上も雑誌が数冊置かれている。釣り雑誌もレース特集も雑多に混ざって置いてある。これじゃ他に何も置けない。読んだらしまえばいいのにね。
まあそんなことより、私が「散らかってますなあ」と表現したそんな部分より、更に奥。トレーナーさんの個室らしき、寝床らしき部屋があった。まあ当然気になるので、そちらに歩を進めようとした瞬間。
「スカイ!」
「なんですか、そんな大声出して。相変わらずと言えば相変わらずですけど」
「そっちは、駄目だ」
「えーなんでですか、絶対もっと散らかってるでしょ。手伝いますよ」
「……それは確かにそうだが。だが、駄目だ」
必死に否定するトレーナーさん。けれどいつもからすれば珍しく、そこに正論を並べてはこない。むしろ私の方が正論を言えていないか? これは勝機あり、というやつか。なら畳み掛けるしかあるまい。
「なんでですか、駄目な理由でもあるんですか」
「そりゃそうだろう。だから駄目だと言っている」
「でも理由言わないじゃないですか」
「それは、その」
「あーあ、折角片付けを捗らせてあげようって思ったのになー」
「ぐっ、しかし駄目だ! 片付いてないからとかじゃなくて、その」
「その? 言えば我慢してあげますよ」
「……その、良くないだろう。年頃の女の子が、あまり一人暮らしの男の部屋に入るものじゃない」
トレーナーさんの告げた「正論」は、いつも通り正論だったのだけど。なんだかちょっと顔を背けて、いや私もまっすぐその顔を見れなくて。……お互い、照れてしまっていた。いや、これはトレーナーさんが悪いはず。急に変な意識をさせるような事を言うから。でも言わせたのは私か。つまり、どっちもどっち。うーん、これは痛み分けというやつか。
ただまあ、若干驚いたような気もする。そんな驚きを、出来るだけ素直に口にしてみる。照れ隠しも込めて。赤らむ頬などないように、この空気から逃げ出す意図も込めて。
「なるほど、一理ありますね。いやでも、ちょっと意外かも。トレーナーさん、そういうの気にするタイプの人間なんですか」
「そりゃ気にするだろう。俺をなんだと思っている」
「うら若き女の子を指導する仕事をしておいて、その可愛さを打ち消すような暑苦しいノリを押し付ける人」
「なんだそれは」
「いや、事実でしょ。ともかく、トレーナーさんに男女の概念があるのは驚きましたね。そんなの気にしたことないと思ってました」
「本当、俺をなんだと思ってるんだ」
言われてみればトレーナーさんの言う通り、私の方こそあんまり部屋に乗り込むもんでもなかったのだろうけど。まあ私のは多分信頼してるからであって、そういうデリカシーの問題ではない気がする。多分。信頼なんて恥ずかしいし、言い当てられてもそれもまた恥ずかしいので黙っておく。今はトレーナーさんを追い詰める方が先決だ。……あれ、何を言いに来たんだっけ。まあそれは、後でもいい。
「えー、じゃあトレーナーさんの初恋はいつなんですか」
「なにが『じゃあ』なんだ。このタイミングで聞かれる意味がわからない」
「だってトレーナーさんがそういうことをちゃんと考える人なら、そういう経験もあったでしょう。大人なんですから」
大人。軽口で口にした言葉ではあるけれど、それは少しだけ私の上に重くのしかかる。私にはまだ知らないものがある。初恋もそう、それ以外にもたくさん。だから子供で、だから皆に頼るしかない。皆に頼ることができる。……けれど、いつかそれは終わるかもしれない。フラワーに今日指摘されたばかりのことだ。誰も頼れない、そんな大人になるんじゃないかって。
それなら、トレーナーさんはどうしているのだろう。どうしたって大人の、トレーナーさんは。今日私がどんな想いをチョコレートに込めるのか、それはまだ決まりきっていない。大人のあなたに、子供の私からできること。したいこと。それは、まだわからない。だけど、いつかはわかる。だから今は、取り止めのない会話に浸っていよう。時間は待ってはくれないけれど、必要な回り道は許容してくれるから。
「ねえねえ教えてよ、トレーナーさんの初恋ってどんなのさ」
「そんなに気になるか」
「まあ、割と。トレーナーさんが大人になるまでに、どんな失恋を糧にしたのか。気になるじゃないですか」
「なんで失恋前提なんだ」
「え、だって恋人居そうな気配ないじゃないですか」
「あのなあ」
少し片付けの終わっていないリビングで椅子にも座らず、なんでもない会話は続く。さっきから酷いことしか言っていない気もするが、まあ大抵の場合初恋なんて実らないものだろうし。私に経験はないので一般論にしかならないが、常識的に考えれば中高生の恋愛感情なんてうまくいくわけがない。それはあくまで子供の情動で、だから大人ほど上手くは立ち回れない。だからそもそも成立しないし、成立しても長続きはしない。恋は理屈じゃないらしいが、理屈で言えばこんな感じだ。
ため息一つ繰り出して、そのあとトレーナーさんはようやく話し出した。観念した、ということである。
「……中学二年の時だ。部活の先輩のことが好きになった。三年の先輩だ。元気な人で、新入部員の頃からよく話しかけてくれていた」
「なるほど。ちなみに部活は何を」
「剣道部だ。……この情報必要なのか?」
「いや、思い出のリアリティを追求したいじゃないですか。剣道部って言われると、今の大声にも納得がいきますね」
「まあ、それはともかく。好きになった時にはもう、あと半年で先輩は卒業するってところだったんだ。もちろんそれまで話したことはあるしそれなりに仲は良かったが、あと半年で何が出来るのかわからなかった」
「なるほど。半年で告白まで詰め寄れるか、と」
それは結構難しい問題だ。トレーナーさんのこの感じだと、だいぶ好きだったんだろうなというのはわかるけど。それだけで突っ走れるものなのかどうかは、私にはわからない。トレーナーさんにしか、わからないことだろう。
けれどトレーナーさんは、もう一つの問題を提示する。それは確かにかつて子供だった頃のトレーナーさんが抱えた、未来への不安。子供が大人になるための、大切な悩みの一つだった。
「少し、違う。半年で同じ学校じゃなくなるのに、恋人になんかなれるのか、だった。ずっと好きでいられるのか、いてもらえるのか。付き合う前からそんな事を考えるのも馬鹿らしいと今なら言えるが、とにかくそれが怖かった」
「難しい話ですね、それ。少年はそんなことを悩んでいたわけですか」
「そうだな。初恋なんて実るわけないのに、実ったあとのことばかり考えていたんだ」
確かにそれは、子供らしい悩みなのだろう。今なら誰にでも話せる、大人から見れば過去の話なのだろう。だけどその時は悩んでいた。誰にも言えずに。誰にも言わなくても、抱えていられた。……あなたにも、子供の時があった。けれどそれは今の私とは違う子供なのだと、当たり前のことに気がついた。大人と子供の差、人と人の差。どちらもあるから、私たちは皆違う。
「……で、どうなったんですか」
「結局、告白できなかったよ。卒業式の日まで悩んでた。もちろん断られるのが怖かったのもあるし、今挙げたような理由もある。まあでもどちらにせよ、今はいい思い出だ」
「へーえ、いい思い出ですか。失恋って悲しいものって聞きましたけど」
「それでも、だな。まあそれ以来そういう縁はないし、トレーナーの職についてからはそれが充実している。我ながら天職だと思っているぞ」
「トレーナー試験って大変なんですよね、確か。なんでトレーナーになろうと思ったんですか」
「そこまで聞くか」
「聞きますよ、そりゃ」
こうして聞いていくと、やはり私はトレーナーさんのことを何も知らない。そして多分、知りたいと思う。だからこうして根掘り葉掘りしているわけだが、考えてみればそんなことも知らなかったのだな、と思った。トレーナーになった理由、なんて。今だからこそ、聞けることかもしれないけど。
「そんな大した理由ではない。剣道部の頃から、努力が報われる瞬間が好きだった。だから、誰かにそれを教えられたらと思った。そんな事を漠然と考えていた時に君らウマ娘のレースを見て、あれを見たんだよ」
「あれって?」
「ウイニングライブだ」
ああ、それは。私も何度かセンターに立った経験があるからわかるけど、あれは確かに彼の言う通りの瞬間。努力が報われる、きらきらのステージだ。人に夢を与える、栄光が結実する場所。
「これだ、と思った。だからそこからは猛勉強して、ひたすらに詰め込んだ。根性の勝負だったが、そういうのは得意だからな。……で、今ここにいる」
「トレーナーさんに歴史あり、ですね。今更ですけど、ありがとうございます。そこまで話してくれて」
「話し出したら止まらなくなってしまったな。すまん」
「なんで謝るんですか」
「だって今日は、君が来たいと言った日だ。話したいことは、君の方にあるはずだ」
それは確かにトレーナーさんの言う通り。だけど私が思うのは、この会話は必要な回り道だったということ。迷い惑う私が答えを手繰り寄せるには、多くの手がかりが必要だ。そのためにはたくさんの回り道を通らなくてはならない。時間は待ってはくれないけれど、欠かせないものは全て与えてくれるから。
さて、何を話そうか。それはいまだにぼんやりと。子供と大人の会話にて、大人の方から伝えられたものは、自分がどうやって大人になったかだった。ならば大人になれなかった子供の私からあなたに言えることがあるとすれば、それはきっと。
すとん、とリビングの椅子に座る。促すと、トレーナーさんも向かい側に座る。テーブルの上には雑多にものが散らばってはいるけれど、私たちの会話はこれくらいなら越えてゆける。そう、最初から片付ける必要なんてなかったのだ。ありのままの部屋も、ありのままの私の言葉も。そのままを、そのまま伝えればいい。だって私とあなたなら、それでもきっと大丈夫なんだから。
「じゃあ、話を始めましょうか」
午後も中盤、特別な日はやがて終わる。どれだけ甘く美しくても、その余韻は夜までは続かないだろう。夜はまた明日のことを考える時間で、今日のことを考えられるのは今までだから。だから今がクライマックス。今日という日の終幕は、私にとっての終わりはここに存在するのだ。
バレンタイン・デイは、止め処なく幸せと熱情が溢れてゆくものだとしても。
最後には一口に全てを込めるのだと、そう決まっているのだから。