「さて、何から話しましょうかねえ。トレーナーさんの赤裸々な話も聞いちゃいましたし、私もそれくらい恥ずかしい話をするべきか」
昼下がりのトレーナー寮の一室で、テーブルを囲んで私とトレーナーさんで二人。私の会話の切り出しは、積もり積もった想いをどこから切り崩すか悩むようなふうだった。まるで他人事のようにだけど、過去は得てして今の自分からは他人のようなものだ。私がするのは、そういう話。何を話すべきか悩んで悩んで、全部まとめてしまえばいいやと。そういう、結論だ。
トレーナーさんは黙って聞いてくれていて、私はそのまま何を話してもいいみたい。こういう時だけ全部察してしまうのだから、つくづく大人とはずるいものだ。
「そういえば、トレーナーさんに言ってなかったなと思って。トレーナーさんと初めて出会った日、私が何を考えながらサボってたか、なんて。まずは、そこから話しましょうか。ファーストコンタクトのおさらいです」
「随分懐かしく思えるな。スカイが入学式をサボっていて、俺がそれを見つけた」
「はい。正直あの時は、随分と鬱陶しい人に見つかったと思いました。声もうるさいしなんだか雰囲気が暑苦しいし」
「それは何事も根性と努力だからな。それが<アルビレオ>のセールスポイントだと自負している」
「そうですそうです、その悪びれない感じも。開き直った正論が、はっきり言って苦手でした。第一印象は最悪でしたよ、トレーナーさん」
「……そうか」
「がっかりしました?」
「いや、それでいい。君が今このチームを選んでくれている事実は変わらない」
うん、きっとそう言うのだろう。だから私はそんなことを言えてしまった。ずっと隠していた仄かな罪悪を、大人のあなたに赦してもらう。きっとそれが今日、私にとってやりたいこと。バレンタインにかける、ひとひらの祈りなのだろう。
「……ありがとうございます。もちろん今は気に入ってますよ、このチーム」
「それならこちらこそ、ありがとうだな。それにしても、何故気に入らないトレーナーのチームに入ったんだ?」
ああ、それは聞かれるか。思い返せば結構間抜けな理由だったのだが。当時は取り返しのつかない失敗だと思ったが、今なら笑って話せるか。
「それはですね、いや結構言うの恥ずかしいんですけど」
「そう言われると気になるな」
「うわトレーナーさん、ずるい言い回しが上手くなりましたね」
「君ほどじゃないだろう」
「それは私もそう思います。……まあ、それはさておき。本当に笑い話として聞いてほしいんですけど、チーム名を取り違えたんですよ。トレーナーさんが言ってた緩めのチーム、<アルゲニブ>と」
「ああ、そう言えばそのチームのことは伝えたな。そっちに入りたかったのか」
「そりゃもう、ってほどじゃないですけど。名前覚えてない程度でしたし。多分どちらかと言うと、なんでもよかったんでしょうね」
なんでもよかった。夢を抱いてトレセン学園に来たはずの私は、その夢を肯定できていなかった。ほどほどのチームでほどほどのトレーニング、そしてほどほどの結果。それでよかった。だからなんでもよくて、だから<アルビレオ>も受け入れてしまった。
けれど。
「けど、今はここがいいです。たとえばトップロードさんがいっつも頑張って大声出してて、たとえばキングがいきなり私と併走したいなんて言い出して。たまにフラワーが私のことを気遣ってくれるけど、基本ゴリゴリのスパルタな。そんなトレーナーさんの指導してくれる、ここがいいです」
「……そうか。そう言ってもらえるのなら、トレーナーとしてはありがたいな」
「でしょう? たまにはちゃんと気持ちを伝えないと、私の頭じゃすぐ忘れちゃう気がしますし」
今の私は、<アルビレオ>がいい。あの皐月賞の時に初めて思って、今でも思い続けていることだ。なりゆき任せで入った場所なのに、いつの間にか私にとってのかけがえのない居場所になっていた。……改めてその言葉を噛み締めると、奥歯の奥が少しくすぐったい気がした。そんなに私、この場所が好きなんだな、なんて。周りが応援してくれて、あなたが期待してくれるこの場所が。幼い私が求めていたものを、きっと今更見つけたのだろう。
刻一刻と時間は過ぎてゆく。窓から部屋に入る日差しはどんどんと角度を変えてゆく。けれど、まだ暗くはない。まだ、バレンタインは終わらない。
現在時刻、十五時四十七分。もう少し、このまま。
「さて、ここまで話しましたね。あの日の私から、今までの私。そこまで。トレセン学園に来てから、の話」
「そうだな。……きっと、まだ話すことがあるんだろう?」
「ご名答。私が今日、トレーナーさんに言いたかったこと。多分色々あるけれど、その多くを結びつけるもの。その前置き、って感じで、その後の今から本題です。……だけど、その前に一つ」
人差し指を口元に添えて、私は私の言葉を止める。密やかに、艶やかに。言葉が空に浮かぶものなら、今から私が差し出すものは。
「ハッピーバレンタイン、トレーナーさん」
形あるものはきっと、その下の地面を作るのだ。空が堕ちてしまわないよう、それを支えて引き上げるために。渡される側だけではなく、渡す側にとっても。
「なんですかその顔、早く受け取ってくださいよ。要らないとか言われたら、流石にショックなんですけど」
「いやそんなことはない! ただその、驚いただけだ。なんだ、経験がないからな」
「初恋の人とは義理チョコを貰うところまでもいけなかったんですか〜?」
「……悪かったな」
「もう、拗ねないでくださいよ。そこはいつまでも自分のプライベートをつつき回すなって怒るところですよ、トレーナーさん」
なんだか今日のトレーナーさんは弱々しい。自分の部屋にいてリラックスしているからだろうか。そしてそんな安住の地に強襲する悪いウマ娘がこのセイちゃんである。いやあけしからんですね、まったく。おちょくるのを楽しんでしまっている。フラワーにもこんな感じだったが、我ながらバレンタインにテンションが上がっているということか。
「というか、チョコならトップロードさんとキングから貰ったんじゃないんですか。二つ目なら反応できるでしょう、普通に」
「それは朝もらった。だがチームの部屋で、二人がかりだ。チームを代表して、とも言われた。君のとは違う」
「えーなんですかトレーナーさん、セイちゃんをそんな特別に見てくれちゃってますか」
「寮の部屋まで押しかけて、勿体ぶった渡し方をして。……そりゃ、特別にはなってしまうだろう。というかスカイ、君も年頃の女の子なんだからな」
うげっ、急に正論がぶり返してきた。からかう意図があったのは否定しないけど、説教はごめんだ。そりゃ私はあなたの言う通り年頃の女の子ですが、あいにくとそんな縁はありませんったら、ねえ? だからトレーナーさんをからかうためにその年頃要素を使うのであって、真面目に捉えられると困る。それに対して真面目に返すのは、こちらの方が恥ずかしい。逃げウマは先手必勝であってカウンターには弱いのだ。
というわけで、雰囲気を強引に方向転換。無言でチョコを目の前に突き出し、突き出し。四角い箱にプレゼントラッピング、この前のルアーの時とやってることは似たようなものなのだけど。きっと、少し違う。少しだけ。心の在りようが、違う。
「その、トレーナーさん」
あのクリスマスの時はきっと、いつもの私といつもじゃないあなた。今日はきっとその逆。いつもじゃない私と、いつものあなた。
「私の、気持ち。受け取って、くれませんか……?」
だから、もう一度両手で差し出して。いつものあなたに届くように、私は攻めの構えをとった。
「……義理チョコだろう」
「それでも、特別ですよ。ナントカいうブランドの、三色チョコレートです。青、白、緑。ほら、私のカラーリング。特別、ですよ?」
そう言って包み紙を解いて箱を開いてやると、中に入っているのは宝石のような三つのチョコレート。これが私の、あなたへの気持ち。……三つで三千円かあ、と買った時に思ったのは内緒だ。
「それにしても、思わせぶりな態度を取るのは良くないな。人をからかうのは良くない」
「トレーナーさんのためだけの私の気持ち、受け取ってくれないんですか……?」
「ああいや、それはありがたく受け取るがだな」
「やっと認めた。今日はこれくらいで勘弁してあげます」
いい加減、私の方も限界だし。しかし思った数倍むずむずするな、これ。さっさと真面目な話に戻さないと、顔が平静を保てない。
と、いうわけで。少し姿勢を正して、箱の中のチョコレートを二人で見ながら。私は先程の続きを話し始める。今日の本題に。
「さて、ここにチョコレートがあります。三つあって、どれもチョコレートです。見た目は違うけど、きっと似た味がします。けれど、深くにある味わいは違います。……チョコレート売り場で悩んだ時、私なりにまず考えたことはそれでした。全部チョコなのに、何が違うんだろうって。でもそれって、簡単なことだったんですよね」
トレーナーさんは、一転して無言で私の言葉を聞いていた。しっかり、受け止めてくれていた。いつものように、大人として。まとまりも何もない子供の私の言葉を、全部残さず。
「たとえばこのチョコは、他に比べてちょっと甘い。たとえばこのチョコは反対に、少しビターな味わい。そうやってベースが同じでも、混ぜ方とかの工程で変わるんです。周りの環境で。そう気づいた時、思ったんです。これは私のことだ、って」
「スカイのこと、か」
「はい。正確には、誰にでも当てはまることでしょうけど。私もそうってだけで。幼少期から、影響されやすい子供でしたから」
「幼少期、か。スカイは要領がいいから、昔から出来が良かったんだろうな」
「それがですねえ、話せば長くなるんですけど」
トレーナーさん、大不正解。まあ確かに、今の私とはかけ離れているのかもしれない。けれど環境が違うだけ。かつてあった子供の私と、子供から大人になろうとする今の私と、いつかどこかの大人の私。三色三様のチョコレートのように、三者三様の私がある。あなたの知らない昔の私も、あなたを知っていた未来の私も、きっとどこかには存在するのだろう。
「昔の私って、結構元気でやんちゃな子だったんです。近所の人みんなに優しくされてて、得意げになってました。何かするたびに褒められるのが嬉しくて、どこにでも遊びに行ってました」
何度も何度も反芻した過去を、久方ぶりに口にする。いつかキングに話した時以来、だった。あの時よりも更に前に進んだはずの私は、あの時よりも後ろに引っ張られている気がする。不安を一人で抱えられず、方々に吐き出してまで耐えている。
「でも、ある日ちょっと遠出して。そしたら私と同じウマ娘なんて、結構どこにでもいて。私なんか、なんでもない存在で。河川敷を何周も何周もして、それでも当然誰も見てなんかくれなくて、それで」
「スカイ。辛いなら、喋らなくてもいい」
「いえ、いいんです。これは今、今の私がトレーナーさんに言っておかなきゃいけないことなんです」
今の私。子供の私。そんな私がここまでずっと楔のように引きずって、古傷のように大切にしてきた気持ち。そこから私は始まって、今もその先にいる。その先にしか、いられない。
「だから私はこうなりました。出来るだけ人に手をかけさせないようにって。誰かに深入りしすぎないようにって。そのつもりでした。……でも、こうなっちゃいました。<アルビレオ>に入って、スペちゃんにグラスちゃん、キングにエル。そんなみんなが周りにいて、私は期待もされてます。忘れかけてた子供の頃に逆戻りしちゃってます」
そしてもしかしたら、いつか私は大人になるのかもしれない。今までの道の先にはない未来へ進むかもしれない。何もかもが、わからない。今が正解なのか、別の場所に正解があるのか。ここにある不安は、過去も今も未来も何もわからないという不安。そのことだけは、ようやくわかった。
数刻の間。現在時刻、十六時〇七分。目線を目の前の人からずらしてみれば、窓の外にはまだキレイな青空が広がっていた。そうやっていれば、あの空のように永遠になれる気がした。ずっと走れると。子供のままだと。それがいいことかどうかすら、誰も保証してくれないのに。
そう思った時だった。トレーナーさんが口を開く。いつもの白い歯を、少しだけ覗かせながら。
私に向かって、言葉を吐く。
「そうか。けれど、それはいいことだろう」
「いいこと、ですか?」
「ああ。スカイはまだ子供だ。だから、子供の頃の望みを忘れる必要はない。それに、俺は言っただろう。君は『走る』ウマ娘だと。トレーナーとして、そんな才能を棒に振らせるわけにはいかないな」
なんで。
「スカイは走れる。この先も、だ。俺でよければ保証する。大丈夫だ、これまでの努力が裏切ることはない」
なんで、この人は。本当に。
「だから頑張れ、スカイ!」
なんで、いつも全てを見透かして。私のことを、期待してくれてしまうんだろう。
思考は混ざり、濁流の如く渦を巻く。私は、私が、私のために。この数日、いやずっと。誰かが私を支えてくれていた。その記憶が脳髄まで流れ込み、言葉は何も出てこなくて。
……なんとか一つだけ、本当に一つだけ絞り出せた。ぎりぎり泣かないままで、私はその想いを紡ぎ出す。
「……トレーナーさん」
「なんだ、スカイ」
「頑張ってたら、褒めてくれますか」
はじまりの気持ち。私はあなたに、褒められたい。期待してくれたあなたに。いつも支えてくれたあなたに。そうであれば、きっと走り続けられる。どこまでも、いつまでも。そんな気がした。曇天を祓う、最後の手がかりだ。
「もちろんだ。当然、努力したらだがな」
「それはなかなか、私にとっては難題ですけど。まあそれなら、頑張りますよ」
「ああ。期待している」
そこまで。私とあなたの会話は、そこまで。あらかた言いたいことも言われたいことも出てしまったので、それ以上は必要なかった。ちなみに会話が途切れたタイミングでトレーナーさんの部屋に入り込もうとしたら、やっぱり固く拒否されてしまった。それは譲れないらしい。というわけで、私にできる最後のおちょくりはこれくらいしかなかった。
「はいトレーナーさん、あーん」
「本気で言ってるのか」
「そりゃチョコ食べてほしいのは本気ですよ。ほら、あーん」
指で一つ摘みやすいサイズなので、こんなことができる。トレーナーさんの口元にぐいぐい、ぐいぐいと。あらら、もう少しでそのカサカサの唇に可愛い女の子の指が当たっちゃいますよ? ほら、覚悟を決めてください。あーん。あーん。
「あーん」
「なあ、スカイ」
「あーん」
「わかった。俺が悪かった」
「別に何も悪くないですよ。ほら、あーん」
そこまで押して、押しまくって。そろそろチョコが溶け始めるんじゃないかというくらいの時間が経った後で、ようやく。
ぱくり、と。私の指先から、丁寧にチョコがもぎ取られた。……これ指と口が触れてたらこっちも処理に困ってたな。そんなことを考えてるなんてのはおくびにも出さずに、とりあえずチョコの感想を聞いてみる。
「どうですか、お味は」
「美味い。いや、よくはわからないが、美味いぞ。ありがとう」
「そりゃ良かった。何しろ私もよくわかりませんからね。……では、二つ目いきましょうか」
「おい、まさか」
「はい、あーん」
そんなこんなで、たっぷりとトレーナーさんをからかって。けれど貰った言葉はしっかり忘れずに、伝えた願いもきっと叶うように。特別な一日、バレンタインの幕はそうして降りる。普段はしないような話をして、想いを伝えあう時間を過ごして。最後はチョコレートを食べて終えるのも、どれもが今日という日だからこそ。
バレンタイン・デイは、さまざまの想いが交錯し、特別でどこにもない非日常だとしても。
乙女たちが最後には幸福になる日だと、そう決まっているのだから。
※
「──セイウンスカイ先頭! セイウンスカイ先頭です! セイウンスカイ、五バ身離して今ゴールイン! 日経賞を制したのはセイウンスカイです!」
そうして、私たちの春が来る。春の幕開け、今年の初戦。全ての不安の払拭を賭けた一戦の結果は、これ以上ないくらいのものだった。
スタンドに向けて晴れやかに手を振る。きっと見ているチームのみんなや、いずれまた鎬を削る同期のみんなへも。私は負けない。私は走る。私はまだ、ここにいる。
空が、墜ちてこない限り。