「スペちゃんにとっての、走る目的は何」
「いつか、スズカさんと一緒に走りたいから」
うららかな春の昼下がり、日差しはまだまだ翳らない頃。私は君にこう問いかけ、君は私にそう返す。憧れのその人の前で、躊躇いもなくその憧れを口にできる。やっぱり君は、スペシャルウィークだ。
「……って、スズカさんの目の前でこんなことを言うのはやっぱり気恥ずかしいですけど。でも、それが今の私の目標。私の願いだよ、セイちゃん」
「……ふーん。そりゃ、ご立派なことで」
なるほど確かに、君には目指すものが見えている。どんなに途方もない夢であっても、視界に収めることができる。だから君は強い。それは、変わらないのだろう。
でも、気付いてないかな。それを聞いているスズカさんの表情は、そこに秘められた感情は一種類じゃないって。私のそれには気付けなくていいから、君の大切な人の気持ちには気付いてやれないかな。
「大事にされてますね、スズカさん。スペちゃんはあなたと走るために頑張ってるらしいです。今度の天皇賞も、きっとそうなんでしょうね」
「……セイウンスカイさん、あなた」
「おっと、私のことはいいんですよ。スズカさんが心配するのは、同じチームの後輩であるべきじゃないですか」
君の矛盾。君の忘却。それは確かに見えていたけれど、私にそれを直接指摘する義理はない。資格もない。誰かに依拠してしまうのは、きっと私も変わらないから。そういう意味では、ひょっとしたら私たちは似たもの同士かもしれない。たとえ他のあらゆる点が、羨望でしか届かなくても。
「……それは、そうかもしれないけど。でもあなたがスペちゃんの友達なら、私はあなたとも良くしたい」
「それは私のためですか? それともスペちゃんのためですか?」
「ちょっと、二人とも」
ああ駄目だ、今日はのんびりとした会話のつもりだったのに。ついつい藪をつつくような、核心を暴き立てるような、そんな言葉ばかりがあぶくのように出てきてしまう。溺れる者は藁をも掴むと言うが、私も必死にもがいているのだろう。その上でスペちゃんの問題に首を突っ込むのは、難儀としか言いようがないが。
けれどそんな挑発にも、真摯に返してくれる人がいて。その度に私は、また人に甘えてしまったと思うのだ。
「私のためよ。目の前で誰かが嫌な思いをしているのは、私が嫌だから」
「そう、ですか。じゃあ嫌な思いをしてなかったら、その人がどうなってもいいですか? たとえば、今のスペちゃん」
「……私?」
「そう。私が声をかけたのは、スペちゃんの現状の再確認のため。今のスペちゃんは、とっても気持ちが上向いてる。そうでしょ?」
「うん。……今だからスズカさんの前でも言えるけど、スズカさんがあの日故障してから、ずっと私は不安だった。だけど毎日リハビリを頑張るスズカさんを見て、こっちも元気を貰えたの。……だから、スズカさん。私はいつかスズカさんが復帰して、アメリカに行っちゃっても。帰ってくるまでずっと待てるって、そう思います」
「なるほど、ね。スズカさん、アメリカに行くんですね」
それは初耳。となればスペちゃんの態度も多少腑に落ちる、か。今のスペちゃんは二つの気持ちに挟まれている。スズカさんが元に戻った喜びと、スズカさんがどこかへ行ってしまうという焦り。一度あんなことがあったのだから、きっとその反動とも言えるそれは相当なものだろう。
「……だから、今のスペちゃんはそうなってるんだ」
だから、忘れてしまっている。トレセン学園での生活が、今までの彼女を変えたから。変えてはいけないはずの、最初に抱えた夢さえも。
彼女の夢。「日本一のウマ娘」という彼女の根幹が、彼女の中から消えそうになっている。まさに風前の灯。とはいえやはり、私は直接それを指摘できないのだが。理由は大きく分けて二つ。
「……どういうこと、セイちゃん」
「私から深くは言わないよ。そして多分、スズカさんも深くは言わない。スズカさんはスペちゃんの邪魔をしない、それも立派な考え方だと思うしね」
「……ええ。私にできるのは、スペちゃんを応援することだけ」
一つ。それは、私が踏み入るべき領域じゃない。走る理由はどのウマ娘にとっても大切な、絶対不可侵の心臓部だ。そこに触れるのは根本的な治療か、あるいは明確な害意を持っての傷害行為か。そのどちらに踏み切る勇気もない私には、立ち入ることのできない場所だ。
「わからないよ、セイちゃん。セイちゃんは、何が言いたいの」
「私が言いたいこと、か。それはもちろん、今度の春の天皇賞のことかな。阪神3,200m、最強のステイヤーを決めるGⅠレース。そこでスペちゃんは、何を願って走るの」
「それは、決まってるよ」
「なら、聞かせてもらおうかな」
「スズカさんと一緒に走れるような、私になること」
「……なるほど、ね」
そして、もう一つ。君のその願いを、星より眩いその願いを私に折れるとしたら、それはレースの中でだけ。走ることでのみ、私たちは対等になれる。羨望の先に、手が届く。私の言葉が、君に届く。
長い長い、永遠にも思えるほどのターフを駆け抜けて。その先でのみ、果ての果てでのみ私は君に言えるのだ。
「君の夢は、そんなものじゃないだろう」
そう、優しさを厳しさで包んで告げられる。……自分の悩みも解消しないうちに、他人の問題に気づいてしまうのは難儀なことだけど。人は自分じゃ自分のことはわからないものだ。だから私はチームのみんなやトレーナーさんに頼ったし、同じように君も誰かに頼っていい。願わくばそのうちの一人になれたらと思ってしまうのは、私の傲慢かもしれないが。
「さて、少々お時間をとらせてしまいましたが。おふたりとも、実りある時間を過ごせましたでしょうか。なんて、私がしゃべってばっかりだったけど」
「いいえ。セイウンスカイさんが、スペちゃんのことを大切にしているのは伝わったわ。いい友達を持ったわね、スペちゃん」
「ふふっ、そうですね。セイちゃんは大切な友達です。……今日言ってもらえたことの、全部は分からなかったかもしれないけど。それでも、ありがとう」
「そんな大したことは言ってないよ。まあ後は天皇賞の後に持ち越し、かな」
「……そうだね。負けないよ」
それは、誰のために? 自分のためではなくて、スズカさんのために? そんなことは聞けなかった。私を見つめるその瞳は、相変わらず深い輝きを湛えていたから。春の星の海のような、紫炎と綺羅の満ちゆく瞳。曇りはない、迷いはない。なら、それをいたずらに惑わすことはできない。真正面からぶつかって、叩き潰すしか方法はない。君の夢から「日本一のウマ娘」が、このトレセン学園まで来た原初の願いが消えそうになっていると、私から指し示せる方法は。
僅かに日時計は進み、空の色はほんの少し橙を交えたように見える。けれどまだ青い。青くて、澄んでいる。まだ、空は墜ちてこない。
「じゃあ、この辺でお開きで。私はここでもうちょい寝転がってから帰るから、スズカさんもスペちゃんも、先に帰っていいですよ」
「うん、今日はありがとう、セイちゃん!」
「どーいたしまして。何もしてないけどね」
相変わらずスペちゃんは真っ直ぐに気持ちを伝えてくる。照れ臭いったらありゃしない。
けれどスズカさんは、それとは少し違った。
「セイウンスカイさん、ちょっといいかしら」
「はい? なんでしょうか、スズカさん」
今までの会話とは違って、初めて私に問いかけてきた。だからやっぱりこの人は、スペちゃんが憧れるだけある人なのだろう。私からも、まだ遠い。まだ、頼ってしまう。
「……あなたは、今のままでいいの?」
「なんですか、それ」
「なんとなく、かしら。もちろんあなたとは今会ったばかりだし、頓珍漢なことを言っているかも。無視してもいい」
「言ったそばから無視していいなんて変ですよ」
「そうかもね。でも本当に、なんとなくだから」
なんとなく、か。それでも私の抱える不安を言い当ててしまえるのだから、なんだかんだでこの人は鋭い。感覚型という意味では、スペちゃんとウマが合うのだろうな、とも思う。そのまま去りゆく二人を見送りながら、私は一人木洩れ日の下で思考を重ねていた。
それにしても、スズカさんの指摘は正しいのだろう。今のままでいいのか、か。私は一体、どうしたいんだろう。スペちゃんが昔の夢を忘れそうになっているのを見て、私はそれは嫌だと思ってしまった。けれど同時に今の私は、多分昔の私からの変化を受け入れている。そしてその変化は、さらにもっと昔の、幼い頃諦めた私を掘り起こすような行為だった。
それが多分、「今」。私が大人に近づくにつれて、より子供の祈りを抱きしめようとしているのが、今。スズカさんが言っているのは、そのままでいいのか、ということだ。それに否を突きつけるのは簡単だ。私はこのまま、幸せな仲間に囲まれていたい。認めてくれて、期待してくれる。いつか諦めたそれを、今度こそ手に入れたい。そう思うのは簡単だ。呆気なさすぎるくらいに。
けれど、その逆も簡単だ。私は更なる変化を望まれれば、それを肯定してしまうだろう。それはひょっとしたら春の天皇賞ですぐに見つかることかもしれない。勝利のためならすぐに自分を捻じ曲げてしまえる気がする。どこまでも、大人になってしまえる気がする。人には過去を大切にしろと言っておきながら、自分はこの体たらくだ。誰かを頼らなきゃ生きていけないくせに、いつでも全ての手を振り払う準備はできている。私はそういう人間だ。
……落ち着かない。今日はのんびり、のはずだったのに。思えばエルがフランスに起ってから、私はずっと、より落ち着かない。多分、理由はわかっている。けれど言語化できない。元々あった靄が、一層深くなったような。底のない闇が、より大きな口を開けたような。まあそうなれば、やれることは最初から一つだけなんだけど。
やっと落ち着いてきた腰をまた持ち上げて、泥も払わずに走る、走る。スパッツが擦れても、風がスカートの中を吹き抜けても気にしない。ジャージに着替えるのすらめんどくさい。とにかく、走りたい気分だ。私は走りたいんだって、そう実感したい気分なんだ。
今の私は、やっぱりよくわからない。ここまでみんなに手助けしてもらったのに、結局まだはっきりしない。はっきりしているのは、走りたいって気持ちだけ。けれどそれだけあれば、全力でレースを駆け抜けるには十分かもしれない。ウマ娘たちがそれぞれの理由で走るトゥインクル・シリーズだけど、走りたいという気持ちだけは同じだから。
スペちゃんもそうだ。かつてのスペちゃんと、その願いは違うとしても。ひたむきな理由で一生懸命に走る、あのスペちゃんなのは変わらない。私のライバルは、変わらず強力だ。ひゅごうひゅごうと河川敷を駆けながら、浸り揺蕩う私の祈り。変わらず君は強くいてほしいと、私の悩みなど杞憂であってほしいと。そう、希う。
雲を追い越し風を切り、空よりも速く脚は動く。うん、私の調子も悪くない。私は確かに悩みを抱えている。子供と大人の狭間で揺れ動き、そのどちらに行っても苦しんでしまうんじゃないかって。どちらが停滞でどちらが進展なのか、どちらが正解でどちらが間違いなのか。成長と変化が私の中にあることはわかるけれど、そこにあるはずの正しい道がわからない。それはずっとわからないまま。
けれど、身体の調子は悪くない。ならば、どんな悩みも走ればようやくわかることかもしれない。この前の日経賞での勝利でわかったのは、私はまだ勝利を望んでいるということ。走る場になったら走りたいのだと、そういうことだったから。
空を見れば、青雲は私より速く飛んでいる。私じゃそれには追いつけない。けれど、いつか追いつけるのかもしれない。いつか私が子供を認められたら。あるいは、いつか私が大人になれば。どちらかだ。大人になれない子供の私が、そのどちらかを選ぶ時。
それがきっと、春の天皇賞。その時は、近い。
──そらがおちてくる。
みんながありえないといったから、そらはおちてこないことになった。そうしんじていたから、きっとおちてこないとおもっていた。
ちいさなできごともおおきなできごとも、そらがおちてくるほどじゃないっておもっていた。とりかえしがつかなくなるなんて、おもいもしなかった。
もしものはなし。そらがおちてくるとこわがったひとのほうが、ただしかったときのはなし。もしも、そうだとしても。
たとえ、そらがおちてくるとしんじていても。それをどうにかすることなんて、だれにもできやしなかった。
──空が堕ちてくる。
不安を抱えていても、不安を捨て去っていても。平等に絶望は堕ちてくるのだと、どうしようもないのだと。
どうしようもない現実は、否定も肯定も出来やしない。ただ目の前を塗り潰し、世界はそこで終わりを告げる。
それを、私に知らせるために。