五月のはじまり、布団にこもっているとだんだん蒸し暑くなる時期。今日の私は早めに布団を出る。蒸し暑いからではなく、もっと別の理由だ。とりあえず着替えもほどほどに、連絡の電話をぽちぽち。パジャマを肩まで脱いだあたりで、目当ての相手に繋がった。
「おはようございます、トレーナーさん。ばっちり起きましたよ」
「おはよう、スカイ。なんと言っても今日は、天皇賞本番だからな」
そのままスピーカーフォンに変えて、着替えを続行しながらトレーナーさんと会話する。元気か、とか頑張れよ、とか、まあ大体予想通りの言葉。予想通りだけど、ありがたい言葉だ。半分下着姿で会話するのはちょっと落ち着かないけどね。まあ電話越しだし気にしない、気にしない。それにそんな私の貧相な身体より、もっと世の中には見るべきものがある。たとえば今日のレースもそうだし、たとえば。
たとえば今日も、窓の外に広がるのはキレイな青空だった。うん、悪くない。あれくらいの絶景が出迎えてくれるのなら、今日もきっといい日になるだろう。
「おはよーございます、トレーナーさん。わざわざ私一人のために車を出してもらって、悪いですね」
「そんなことはない。トレーナーとして当然の仕事だ。この前のトップロードの皐月賞と同じだ」
「なるほど。懐かしいですね、皐月賞」
それから程なくして、トレーナーさんの車がやってきた。流石に少しは運転にも慣れてきたみたい。私一人をレース場まで送り届けるくらいならへっちゃらか。そんな感じで挨拶がてら切り出されたのは、皐月賞についての話題だった。
もちろんトップロードさんの皐月賞も記憶に新しいのだけど、私としてはやはり今でも鮮明に残るのは、自らが走った皐月賞の記憶。<アルビレオ>と<デネブ>の間で揺れて、最後の最後、ゲートの前で立ちすくんでしまって。そこをトレーナーさんの声で我に返れた。今となってはいい思い出かもしれないけど、当時はかなり深刻に悩んでいた。……今の悩みも、もしかしたらそういうものかもしれない。一年もすれば懐かしめるような、そんな子供の悩み。その程度のもので、大層に考えるのはただの杞憂。空は、堕ちてこない。
「じゃあとりあえず、お願いします。いやあ、久しぶりに一人で車に乗りますね。広くて大変結構」
「チームの皆は後で応援に来る。<デネブ>も一緒だ。行きは俺と君だけだが、走る時はみんながいるぞ」
「……それもなかなか、大変結構なことで」
やがてトレーナーさんの車はエンジンが掛かりだし、私たちの目的地へ向かい始める。私の、じゃなくて、私たちの、だ。ゴールラインをみんなで切ることは出来ないけれど、そのつもりでゴールするくらいなら出来る。少なくとも私は、そう信じている。最後は皆で手を繋げる、ハッピーエンドが待っていると。
そこからしばらく、数時間。阪神レース場に着くまで、会話はなかった。レース場について、出走者用の入り口の前で一言だけ。
「行ってこい、スカイ」
「行ってきます、トレーナーさん」
それだけ。多分、それだけでよかったから。座して向かうは春の楯、堅牢強固にして最強の走者を望む過酷なレース。そこに向けて尽くすべき言葉は、きっと既に尽くしてある。ならば後は今を維持するだけ。今の私はきっと、最高だから。
まだ朝だ。けれどすぐその時は来る。待ち遠しい時間というものは、得てして疾く過ぎるものだから。
※
控室で昼食を食べて、少し早めに勝負服に着替えて。まあ早めに出来ることはやっておこう、なんて思っていた時だった。「できること」の一つが、向こうからやってきた。かつんかつんと高慢に足音を鳴らし、まるで今日の主役みたいに。無論そんなつもりはないのだろうけど、そういうふうに見えてしまうのがこのお嬢様の品格というやつなのだろう。そうやってドアを開けて招き入れる前からだいたい来客の見分けが付くのだから、私も随分人を知ってしまったものだ。
「ごきげんよう、スカイさん」
「ごきげんよう、キング。なんて、そんなに機嫌は良くないかもしれないけどねー」
「あら、不調? 二番人気の貴女がそれでは、今日はスペシャルウィークさんの独壇場かもしれないわね」
空いていた椅子に座って、いつものように腕を組みながら。今日のキングはそんな軽口を叩いてくれる。私の代わりに、ということかもしれない。いまだ若干悩みと不安に塗れた、私の代わりに。
「別に私とスペちゃんだけが走るわけじゃないし。たとえば三番人気のメジロブライトさん、去年の春の天皇賞を勝ってる。正直、私より強いんじゃないかって思うくらいだよ。一番人気のスペちゃんはもちろん、ね」
人気だけで全てが決まらないことくらい、私は色々な経験でそれを知っているけれど。それでも毎回気にしてしまうのが下バ評というものだ。たとえばそれを覆し、たとえばそれを覆され。そうやって、私たちの実力はその場で再判定される。そういった一進一退の劇的な攻防も、ウマ娘のレースをつくる要素の一つなのだろう。
「……貴女今、人気順のこと気にしてたでしょう」
「ええ、なんでわかるのさ」
「それだけ誰が何番人気、だなんて語ってたらわかるわよ」
「ええ、そうかなあ」
まあ確かに、私にしてはわかりやすい態度だったかもしれない。もっともここにはキングの前なら、的な打算があるのだが。存外甘えてしまっている、ということでもあるかもしれない。我ながら、悪い女だなあ。
「しっかりしなさい。人気の話をするなら、二番人気は有力候補でしょうに。それに貴女にとっては、前評判を裏切るのはお手のものではなくて? これ以上ないくらい、うんざりするくらい気持ち良く、ね」
「あっはは、ひっくり返された人が言うと説得力あるね」
「おばか。……だから、私がわざわざ言ってあげてるのよ」
「そっか。ありがと、キング」
確かにそれは、私が忘れていたことかもしれない。大舞台をひっくり返す、トリックスターの私。いつもの私。みんなが知ってる、私自身はなんとなくしか知らない、私。自分のことは自分自身ではわからないのなら、やっぱりこうやって誰かから聞いて回るしかない。当たり前だと言われても、誰かにとっての当たり前を知らない人間は案外どこにでもいるものだから。それをきちんと言葉にしてくれる仲間がいることは、私にとって幸せなことだ。そう、思った。
「……じゃあ、長話もなんだし。最後に二つ、私から言っておくわ」
背もたれのない小さな椅子から立ち上がって、くるりと半回転して。いつものように首を持ち上げて、いつものように高慢に。
びしり、とこちらに指を突き立てて、キングヘイローは私に告げる。
「まず、チームメイトとして。私は、貴女に勝ってほしい。スペシャルウィークさんではなく、貴女に」
いと気高く、されど優しく言葉を紡ぐ。私のよく知る、キングヘイローだ。
「そしてもう一つ、貴女のライバルとして。貴女に勝つのは、この私。それまで負けることなんて、許さない」
そしてやっぱりとんでもなくわがままで、だけど私を救ってくれる。やっぱり、私のよく知る君だ。
「……後者については、スペちゃんにも言いたいんじゃないの」
「それはそうだけど。今私が喋ってるのは貴女じゃない」
「なにそれ、キングは女の子と見たら誰にでも君が一番とか言っちゃうタイプですか〜?」
「おばか! ……後先考えられないへっぽこなだけよ」
「へっぽこ。なんだかキングの自称で一番しっくり来るかも」
「はあ、それならそれでいいわよ、もう」
キングもきっと、昔とは違う。昔はこんなに弱さを見せてくれなかった。ずっと強いんだって思わせようとしていたのだろう。私はいつの間にかその対象から外れて、弱さを見せてもいい側に入っていた。それは彼女の変化でもあり、私の変化でもある。変化と成長は、時に相互に干渉するものだから。だから、これでいいんだ。
「……じゃあ、今度こそ出ていくけど」
「うん、ありがとう。最後に一つだけ、こちらからも」
「何かしら」
そう言う頃にはもうこちらに背を向けて、控室のドアを開いていたところだったけど。
「これからもよろしく」
がちゃり。それだけは、言えた。十分だと思った。きっとキンクもそう思ったから、返す言葉もなかったのだろう。
その時まで、時間は限りある。けれどまだ、時間はある。それを隅まで埋め尽くさんと、程なくして次なる刺客が私の元にやってくる。こんこんと、規則正しくドアをノックしながら。いつもと同じ正しさに満ち溢れて、やってくる。
「スカイちゃん、いいですか」
「はいどうぞ、トップロードさん」
かち、かち。時計の針よ、一寸も狂わず進みたまえ。時間は進んでほしいけど、そこにある狭間も大切にしたいから。
※
控室に入っても、トップロードさんは椅子に座ろうとしなかった。どうぞ、と言っても、いやいやいいんです、と返すばかり。まあ、耳と尻尾で大体の理由はわかる。落ち着かない、ということだろう。そしてトップロードさんがそんなふうになった理由は、多分。
「皐月賞、まだ引きずってますか」
「ああっ、はい! いやじゃなくてっ、えっと」
「一回『はい』って言ったら、ごまかすのは難しいと思いますよ」
「……はい……」
先の皐月賞、トップロードさんは三着だった。もちろん十分健闘したと言えるのだろうが、それで納得がいかないことくらい私もわかる。ウマ娘の本能は、勝利の一点のみを見据えているのだから。
「まあ、それでお悩み相談するのもなんですけどね。だって私、むしろお悩み相談したい側ですし」
「はい、それはもちろんです。スカイちゃんの緊張をほぐすために、はるばるやってきました」
「それでそわそわしっぱなしを見せられるんじゃ、全然ほぐれませんけど」
「すみません、座ります……」
「そこまで意気消沈しないでくださいよ、もう」
トップロードさんの方が緊張してしまうのも、まあ無理はないと言えば無理はないのだが。他人のものでも、レース場が違っても。GⅠの控室というだけで、クラシック初戦の激闘を思い起こさせるものはあるだろう。だけど、この人は私のところへ来てくれた。脚が竦むのにも、構わず。どこまでも正しくて、眩しいくらいに優しい人だ。思えばずっと、出会った時からずっとそうだった。
「ありがとうございます、トップロードさん。私がここまで来れたのは、きっとトップロードさんのおかげでもあります」
「そうでしょうか、私は何も」
「何言ってるんですか、<アルビレオ>の勧誘担当やってたくせして。<アルビレオ>に入ってなきゃ、私はきっとここまで来れませんでしたよ。……そうですね、私にとっての皐月賞の時ちょうど、思ったことです」
<アルビレオ>がいいと、あのレースを通して思った。だからずっとそうしていて、だから今もここにいる。そしてそれは、トップロードさんも理由の一つ。あなたがいるから、私はここにいたいんだ。
「奇遇、なんでしょうか。私も皐月賞を終えて、同じことを思いました。スカイちゃんと違って、勝つことは出来なかったですけど。<アルビレオ>に居てよかったって、それははっきり思いました。これからも、このチームで戦い続けたいって」
「なるほどそれは奇遇というより、必然かもしれませんね」
「必然」
「はい。やっぱり<アルビレオ>が、いいチームだからですよ。チームリーダーのトップロードさんを筆頭に、です」
「もう、スカイちゃんったら」
結構本気で言ったつもりだけど、冗談めかして捉えられるならまあそれはそれで。トップロードさんの気持ちは真っ直ぐだから、直接受けたら致命傷だ。だからきっと、これくらいでもいいんだろう。
「……でも、スカイちゃん。大舞台で走ってみて、初めてわかったことが他にもあります。立つ場所が高ければ高いほど、挑む怖さも大きくなるんだって。……スカイちゃんは今、大丈夫ですか」
そう思ったのに、あなたはすぐに直球を投げてきて。ああもう、どうしてみんなこんなに優しいのかな。
「少し、大丈夫になりましたよ。トップロードさんと話したおかげです。もちろん、怖いと思います。ゲートは全てを決めてしまう場所で、そこに入るのはいつだって怖いです。今日も間違いなく、結果は出ます。勝者と敗者に分かれます」
「そう、ですね。私にもわかります、スカイちゃんが言いたいこと」
「でも、少し大丈夫になりました。だから、ゲートに入れます。もしかしたら、勝てるかもしれません」
「はい。私はもちろん、スカイちゃんの勝利を信じてますよ」
そう言って、トップロードさんは席を立った。また短い時間の会話だった。最後の手向けにも思えた。けれどキングとトップロードさんの二人に共通しているのは、私の勝利を信じていること。私が笑顔で帰ってくると、二人は揺るぎなく信じてくれている。
「じゃ、頑張ってください、スカイちゃん!」
「はい、トップロードさん。そうだ、最後に一つ」
「なんでしょうか、スカイちゃん」
なら、やっぱり私から贈れる言葉は。
「いつか、一緒に走りましょう」
「……はいっ!」
いつかの未来を約束するための、笑顔の先にある世界を紡ぐための言葉だった。
ぎい、とドアが閉じられる。かちこちと、時計の針は進む。でもここまで来たら、君が来てくれなきゃ嘘だと思う。だから私は、僅かばかり待ち構えて。小さな影が磨りガラスの先に見えて、控えめにドアをノックするのを聞いて。
「入っていいよ、フラワー」
そう、穏やかに言葉を送り出せた。
※
「あと一時間半くらい……でしょうか」
「そうだね。でも本バ場入場はレース本番より前だから、実際はあと一時間もないくらいかな」
「えっ、すみません。そんなギリギリに来てしまって」
「いいんだよ、私の方だってフラワーに来て欲しかったし」
しんと静まり返った控室には、机も挟まずフラワーと私の二人きり。小さめだけど脚が高めの椅子は、フラワーの脚が少し届かないくらいの高さだ。それは足が落ち着かないんじゃないか、などと無用な心配をしてしまう。けれどそんな私の心配は本当に無用で、フラワーは瞳の奥から落ち着いていた。落ち着いて、言葉を吐き出し始めた。
「スカイさんは、まだ人に頼れますか」
「うん、頼れる。今日ももうたくさん頼った」
「スカイさんは、まだ悩んでますか」
「うん、悩んでる。友達が海外遠征しちゃってから、なんだかもっと悩んでる。解決しないかもしれない」
「その悩みが解決しないと分かった時、それとも解決してしまった時。その時にもし誰かを頼らなきゃいけないってなったら、誰かを頼れますか」
「それは、やっぱりわからない。変わる前の私には、変わった後のことはわからない」
全身全霊を込めて、栄光のGⅠレースをひた走る。それは身体と心を使い果たし、魂まで揺さぶる行為だ。その結果が私に何かを齎す可能性はある。一方ではそれを望んでいるし、一方ではそれを恐れている。勝利だけを目指しながら、敗北の恐怖に怯えるように。だからきっと、誰にでもあることなのだろう。次は私の番というだけだ。
けれど、それでも怖かった。キングとトップロードさんの二人に応援してもらって、それでも私はまだ怖い。二人の力で必死に、力任せに不安を押し潰そうとしている。それがひっくり返ってしまわない保証なんて、どこにも存在しないのに。
「フラワー。人生生きてりゃ色んなことがあるけどさ、それって当然いいことばかりじゃないんだよ。楽ありゃ苦ありって感じで、バランスが取られてる。見た目の上では差し引きゼロになるように、多分三女神様がそう定めてる」
「そうですか。それはきっと私には、まだわからない話なのでしょうね」
「そうかもね。そう思って、今のうちに教えておきたかったんだ。まあ、私の個人的な感覚でしかないかもだけど。良いことと悪いことはコインの裏表みたいに引っ付いていて、だから私は何事もほどほどにするように生きてきた。幸せの揺り戻しで傷つかないように、ね」
そのはずだった。少なくともトレセン学園に入る前の私は、手酷いしっぺ返しを幼い頃に食らった後の私はそうだった。だけどそれから、随分変わってしまった。私は当たり前の幸せを求めるように、変化してしまった。成長、してしまった。
「……だから、もしかしたら今日がその時かもしれない。今までの私は、幸せすぎた。トレーナーさんに同期のみんな、トップロードさんにフラワー。みんなに良くしてもらいすぎた。もちろんそれが悪いわけじゃない。けど、揺り戻しは来るんだよ」
それは、どれほどわかっていても。全てを覚悟していても、どうしようもない。空が堕ちてくると告げられても、慌てふためくしかないように。私がここまで溜めてしまった不安が杞憂かどうかなど、誰にもわからないのだから。
そこまで、一息に吐き出して。幕開けの時は近いのに、脚はどうしようもなく震えていて。数秒の沈黙が流れる。世界が止まったように錯覚する。時計の針は、やっぱり進み続けていたのに。
その数秒の後、だった。目の前の少女は椅子から飛び降り、すっとこちらに近づいてくる。脚と同じように震える私の手を、その小さな手のひらで掴んで。震えが止まるようにって、握りしめてくれて。
私の眼を、その菖蒲色の眼で見据えて。じっと、そのまま。そのままで、彼女は口を開く。
「スカイさん。本当は絶対、こんなこと言っちゃいけないんですけど。今から私が言う酷い言葉がスカイさんにとっての揺り戻しになればいいなって思って、言わせてもらいます。いいですか」
「……うん。いいよ」
「もし今日負けても、スカイさんはスカイさんです」
……それは。
「だから、もし負けても。負けても、帰ってきてください。どうにもならなくても、帰ってくることだけは忘れないでください。……その後は、スカイさんに任された通りにします」
それは、君にしか言えない言葉だ。負けてもいい、とさえ聞こえる台詞なんて。力いっぱい踏ん張っていた私に、もしもの時の逃げ道を用意できるなんて。……ああ、もう。
「……ずるいなあ、フラワーは」
「私がずるいとしたら、きっとスカイさんに似たんですよ」
「そうかあ。それなら、責任持って聞いてあげなきゃいけませんなあ」
「はい。そうしてもらえるなら、とっても嬉しいです」
君が嬉しいなら、私も嬉しい。それも多分織り込み済みで発言しているのだから、本当にずるい子だ。これも成長、かな。それも私由来の。そんな子が私を救ってくれると言うのなら、それはきっと真実なのだろう。
「……っと、そろそろ時間ですね」
「そうだね。ギリギリまで付き合わせちゃったね」
「いえ。私がスカイさんとお話ししたかったんですから」
「それならおあいこだね。じゃ、また後で」
「はい、また後で」
「必ず、帰ってくるから」
また後で。それは小さな約束ごと。約束とはそもそも、再会を前提としたものだから。
思えば今日の控室では、三者三様の約束ごとをした。
「これからもよろしく」
「いつか、一緒に走りましょう」
「必ず、帰ってくるから」
どれもがきっと、君とだから出来る約束ごと。私は未来に三つも物を置いてきてしまったのだ。なら、これからそれを回収するために走らなければならない。そう、これからだ。まだこれからたくさん走らなければならない。空が墜ちてきてしまっては、困るのだ。
かち、こち、こちん。時計の針は、間もなく定刻を示す。……随分前に勝負服に着替えておいて正解だったかもしれない。こんなに話し込んでしまうなんて。それぞれは短かったけど、連ねれば長い長い時間になる。これもきっと、私の繋がりがそれだけ多くなってしまったことを示しているのだろう。
そうして席を立ち、ドアノブを握りしめて。今までそれを握った三人の気持ちも、離さないように抱きしめて。
がちゃり。最後に扉を開くのは、私だった。