たん、たたん。ステップして、くるりとターン。ウイニングライブの予行演習はばっちり。蹄鉄だけ脱いで、それで準備は完了する。最初はなんで走った後に踊らなきゃいけないんだろうなんて思っていたけど、今では結構気に入っていた。G Iのウイニングライブともなれば、観客のボルテージも最高潮だ。
だから、スポットライトを浴びに行こう。センターには立てないとしても。私の、最後の晴れ舞台だとしても。
出番だ、行こう。あの光り輝くステージが断頭台に見えるなんて、きっと私の勘違い、あるいは杞憂なのだから。
※
「ただいま。いやー、負けちゃいました」
レースが終わって控室に帰ってきた時、出迎えてくれた皆の前で私はそう言った。出来るだけ、あっけらかんと。何事もなかったかのように。実際、何事もなかったのだから。異常があったわけじゃない。私には才能が足りなくて、だからもうスペちゃんのライバルにはなれなかった。それだけの、単純な話。悔しいなんて思える話じゃないんだ。それを願うには、私はあまりに拙すぎる。成長しきってしまっているから。どんなに穴だらけでも、もうこれ以上前には進めないから。
「スカイさん、あの」
「そんな顔しないでよフラワー、言った通りちゃんと帰ってきたじゃない。私は私のまま、帰ってきたよ」
深刻な面持ちを崩さない君へ、私はやはりあくまで軽い態度を崩さない。全てが終わっても、私はここにいる。それは確かな事実だ。ずっと前からあった私の中にあった齟齬が、深い海の底からその姿を現しただけ。それだけだ。きっと、それだけ。
「……まだ、ウイニングライブがあります。それが終わっても、帰ってきてください」
「そりゃもちろん。それも大事な仕事だからね」
「絶対に、帰ってきてください」
それだけ告げて、フラワーは控室を出て行った。見ていられないほど、ということなのだろうか。欠落を埋められないと自覚した、今の私は。
足りないものには届かないとわかった今の私は。誰にでもあると思っていた未来がないとわかった今の私は。真っ黒のペンキに塗りつぶされた限界にぶつかって、壊れてしまった今の私は。
見ていられないほど、哀れなのだろうか。
「スカイさん、貴女」
「何、キングも言いたいことがあるの? モテモテだね、私」
「いえ、一言だけ。……いいレース、だったわよ」
「そう。ありがと」
多分きっと、彼女の言は正しい。今年の天皇賞(春)は、全力をぶつけ合ったいいレースだった。今回は。今回までは。スペちゃんにはまだ成長の余地がある。今は周りを見れていないスペちゃんは、多分どこかでその過ちを誰かに突きつけられることになる。スズカさんだけじゃなくて、自分や周りのライバルを見れるようになる。まだ、成長の余地がある。まだまだ、彼女は強くなる。
けれど、私は。私は今日、気付いてしまったのだ。ここが私のピークで、いやもしかしたらもっと昔にそれは終わっていたかも知れなくて。みんなと鎬を削れていたのは、ただ早熟だった、きっとそれだけで。私に才能はない。幼い頃からずっと、ずっとわかっていたことじゃないか。全てを諦めた、あの日から。
「私も行くわ。今の貴女は、そうして欲しいみたいだから」
「そうかもね。否定はあんまりできない」
そうして、また一人離れゆく。これでいいのだ。進むべき先を持たない人間の後押しをしても、空まで続く高い壁に阻まれてしまうだけなのだから。
だから、これでいい。きっとキングもそう思ったのだと、それならそれが正解だと。ただ、信じていた。
「……スカイちゃん」
「なんですか、トップロートさんまで神妙な顔しちゃって。一度負けたくらいじゃ、そんなに落ち込みませんって」
「……そんなわけ、ない。GⅠの大舞台は、一番遠くて一番勝ちたい場所。もう、私にもわかります。私もスカイちゃんと同じ、トゥインクルシリーズを走る一人のウマ娘だから」
「そうですね。トップロードさんは、これから先を走っていく人ですよ。まだまだこれから、どんどん強くなっていく人。……だからまあ、私が落ち込んでるとしたら」
「したら、なんですか」
「……秘密です。ここから先は、トップシークレット」
私が言えなかった言葉。飲み込んで、閉じ込めた言葉。それはきっとシンプルなのに、まだ未来のあるみんなには見えないこと。
自分は、ここで終わりだということ。その現実を誰よりも私自身が実感しているから、私と皆の認識には乖離が生じていた。直感してしまったのだ。私はここが限界だと。大舞台でステージに上がれるのは、今日がギリギリ。これ以上はない。今日が「最高」で、それ以降は更新されない。少なくとも、私にとっては。
「……じゃあスカイちゃん、ウイニングライブ頑張ってください。観客席に、みんなで行ってます」
「はい。しっかり見てもらえるのなら、それが何よりです」
だから、今日のライブは忘れられないものになるだろう。たとえセンターに立つ綺羅星には敵わなくとも、私は今日まではスポットライトを浴びる側だ。期待を受ける側だ。みんなに支えられる側だ。とっても、この上なく。しあわせな、側だ。
静かにドアを閉じて、トップロードさんも出ていった。残りはあと一人。ずっと控え室の奥に座って、私を見つめるその太眉。少しごつごつした腕を組んで、私の前にどっしり座って。まるでてこでも動かない、そう言わんばかりに。
「どうしたんですかトレーナーさん、トレーナーさんは行かないんですか? セイちゃんの晴れ舞台が見れないですよ」
「晴れ舞台、か。確かにそうなんだろうな。ウイニングライブは、レースの余韻を永遠にするためのものだ。君の今日のレースも、多くの人の記憶に刻まれる」
「はい。それはバレンタインの時、トレーナーさんから聞いたことじゃないですか。ウイニングライブを見て、トレーナーさんはトレーナーさんになった。不器用で根性ばっかりで、困ったら正論をぶちまける難儀な大人に」
「そうだな、俺はスカイの言う通りの面倒な人間だ。それでも俺は、トレーナーになって良かったと思ってる」
「ウイニングライブをまた見れたからですか?」
「スカイに、君たちに出会えたからだ」
……本当、この人は食えない。最後の最後まで、愚直に手を伸ばしてくる。諦めないって、そんな言葉を投げかける。当人にはその意識がなさそうなのがタチが悪い。頭を使わず直感で紡いだ言葉をぶつけてくるこの人は、本当に。
つくづく、私との相性は最悪だ。あるいは出会った時ぶりに、そんなことを思った。
「……そうですか。ならやっぱり、しっかりライブも見てくださいよ。ほら、こんな部屋にずっといないでさ」
「そうだな。そうしよう」
「はい。私の晴れ舞台ですから」
「ああ。期待、している」
そうやって、最後まで期待を投げかけて。意地っ張りの正論男は、ようやく私の控室から出ていった。そしてようやく、一人になれた。一人になったからって、急に泣き出したりはしないけど。ほろほろと、心の膜が上の方から欠け落ち始めていた気がした。欠けて、欠けて、その先にあるのは全体の崩壊。補修は間に合わなくて、終わるとわかっていても終わりは止められない。
もうすぐ、空が墜ちてくる。
だから向かおう、空に一番近いところへ。
※
たん、たたん。ウイニングライブの振り付けを覚えるのも、ウマ娘にとってはやらなきゃいけない大事なことだ。そしてそれは、一通り覚えればいいってものじゃない。同じ歌を歌うからって、自分の立ち位置はレースが終わる瞬間までわからないから。だから勝った時の練習もするし、負けた時の練習もする。そしてそのどれかの努力は報われるけど、どれかの努力は報われない。
きらきらのステージで踊るウマ娘たちは、さまざまの気持ちを抱えながら皆で一つの歌を奏でる。喜び、悔しさ、あるいは惨めさ。それを全部混ぜ込んで、美しさも醜さも全部一つにしてしまう。そんなこの上なく残酷な舞台だからこそ、それはとても綺麗なんだ。
ステップ、ターン。よし、大丈夫。今日の私も、なんの問題もなく踊れそう。負けたのだって初めてじゃない。敗者を踊ったのは何度も経験したことだ。それくらいで舞台に立てなくなるような、笑顔を作れなくなるような人間じゃない。私はそれくらい強いし、あるいは見せられないほど弱い。
まあどちらにせよ、何度も経験したものだ。決まった順位の通りに、あるいは最初からそう踊ると決まっていたかのように。そんなふうに身体を動かすのは造作もない。……ああ、だけど。
最後まで、慣れなかったな。
負けはやっぱり、飲み込みにくいや。
そうして、まだライトの点かないステージへ上る。メジロブライトさんと、スペちゃんと。センターはスペちゃん、下手側にメジロブライトさん。上手側に私。三着でも私は、スポットライトを浴びる側だ。だから晴れやかに笑おう。決意を込めて歌おう。「この先」があるのだと、今だけは勘違いさせてもらおう。
ネクスト・フロンティア。頂という新天地を、歌うことだけは出来るから。どこにも行けない、私でも。
ギラギラの照明がゆっくりと私たちを照らす。それに合わせて歓声が僅かに沸き立つけれど、それくらいで曲は止まらない。静かなピアノのイントロと共に、私たちは歌い始めた。
振り付けは問題なかった。ダイナミックに手脚を振り回し、時には静かに背を向けて歩く。印象的だったのは、人差し指を掲げる振り付け。これはシニア級で比類ない結果を残したウマ娘に向けた歌、だったはず。だから、その指は「一番」を差している。あるいはもっと上、シニアよりも上のドリーム・シリーズ。その頂点を目指すのだと、その意図が込められている。
そう思ってしまうと、何故だか無性に心が締め付けられるようで。まだ、このライブが終わるまでは、まだ。耐えなければ、いけないのに。
歌を歌うことは、普通に話すこととは少し違う。言葉はメロディに乗り、メロディを際立たせるために言葉がある。そして逆も然りで、言葉はメロディによって際立つ。たとえ思ってもいないことを口にするとしても、実際にメロディに乗せた瞬間、それは。
それは、歌い手の言葉となる。自らの言葉となり、自らの傷を抉る。だから最後の最後に私にとどめを刺すのは、自分自身だった。
「こんなもんじゃない」
そうだ、こんなもんじゃないって思いたかった。でも無理なんだ、駄目なんだ。私じゃこの先には行けない。どんなにひたすらに駆け抜けても、私の道は選ばれた道じゃない。どうしようもなく、途切れてしまっている。世界はどこへも、進まない。
フレアが焚かれ、会場のボルテージは最高潮。私の歌も振り付けも問題なく、周りの皆と呼吸を合わせられている。当然だ、仮面を被るのは得意だったから。スペちゃんの眼が私に本気でぶつかってはいないとしても、かつて見たそれから違えてしまっているとしても。それでもその夢は、確かに本気だったのだろう。だから私とは違う。何もかもを恐れてしまった、私とは。
「目指す場所があるから」
サビに入り、三人の声が重なる。そこにある思いは、私の分は重なっていないとしても。頂点に立ちたいなんて、私には言えない。決められたことがあるとしたら、「言えない」というその否定の事実だ。だって理由は単純で、私にはその資格がない。どこまで走っても、これ以上は何も得られない。才能の有無。走れば走るほど、私の得た期待は去っていく。もう、最高はやってこない。
「力の限り、先へ」
そして、それを喉の芯から歌い上げて。大きな歓声とペンライトに見送られ、ゆっくりとステージは暗転する。……まあそういうことなら、最後の一言が唯一私が心から歌える歌だった。力の限りは、もう尽くしたのだ。私の場合は、それが皆より早かった。だからここが、私のゴール。私が辿り着いた終着点。春の天皇賞で三着なら、なかなか立派な物だろう。
子供の私は、褒められたいと思っていた。ライブを終えて控室まで歩く中、私は今までの全てを思い返していた。褒められたいと思って、余計な心配を周りにかけた。それを諦めるまでが、あるいは大きな回り道。あるいは、大きな成長のために必要な過程。そんなふうに昔のことを、今と重ねて思い返していた。今までのそれも、回り道か成長の過程。それがこの瞬間、全てが終わった瞬間結実するのだ。そうやって思い返すのは、遥かな過去から五分前の過去まで連なったものだった。
ウイニングライブはこれ以上ないくらい明確に、今の自分をはっきりさせてくれていた。そこに歌う言葉の悉くが、今の私とはもう合わなかった。つまり、私はもうこの場所に合っていないのだ。いやあるいは最初から、見合ってなんかいなかった。みんなが優しいから、私の場所を作ってくれていただけ。けれど実力というどうしょうもない差があるのなら、老兵はただ去りゆくのみというわけだ。
子供の私は、褒められたいと思っていた。そしてそれを諦めたつもりの私は、結局このトゥインクル・シリーズでまた褒められたいと思ってしまっていた。子供のままでいたいと、きっとそう願ってしまっていた。
けれど、人は大人になる。子供の頃の大それた夢を諦めることで、大人になる。子供の夢を持ったまま大人になれる人間なんて一握りだ。才能があるやつだけだ。それは私以外の誰かで、私にはなんの才能もない。
夢は、叶えるものじゃなくて。現実を知って、諦めるものなんだ。それがやっとわかった。幼いあの日に諦めたつもりで諦めきれなかった夢を、今の私はようやく諦められる。長い、長い回り道。あるいはどうしても必要だった、成長の過程。
ねえトレーナーさん、見ていてくれたよね。私のウイニングライブ。私の夢の結末。どんなに長くても遠くてもどこかにはたどり着くって、見ていてくれたよね。あなたが本当に見たかったものは、見せられなかったかもしれないけれど。
これが私の、精一杯だよ。
※
自らの控室に入る前に、こんこんとドアをノックする。案の定返事は返ってきた。「入っていいぞ」って。誰の部屋だと思ってるのやら。そもそも年頃の女の子の一人部屋に勝手に入るなんて、デリカシーが欠けているんじゃないか。そんなことを思うことは、きっととっても簡単だったけど。
「じゃ、お言葉に甘えて。入りますね、トレーナーさん」
その時思えていたのは、「嬉しい」。
それだけ。それだけでよかった。トレーナーさんは落ち着かなさそうに部屋の中央で仁王立ちしていて、太眉も口元も真一文字の横一直線になっていて。少しごつごつした手のひらは、内側に先程まで握りしめていただろう指先の跡が付いていた。少し青黒い、血の跡だ。そんなふうに、いつものあなた。先程のウイニングライブで拳に限界まで力をこめてしまっていたくせに、そんな弱さを隠そうとするいつものあなた。そんなあなたは私のなにもかも、見透かしてしまっているのだと。わかってくれているのだと、それだけ思えれば十分だった。
「お疲れさま。ライブ、よかったぞ」
「えへへ、ありがとうございます」
思わず笑みが溢れてしまう。そのちょっとした返事をすることで頭がいっぱいで、部屋に入ったというのに椅子に座るのを忘れてしまっていた。だけど私にとって、あなたの言葉はそれくらいのことなのだろう。些細なことだけど、褒めてくれた。子供と大人の狭間にいる私は、褒められてしまえば喜んでしまう。特に多分、あなたには。私は走れるって言ってくれた、あなたなら。
「それで、トレーナーさん」
だけど、マジックタイムはもう終わり。青空を越えて日は沈み、茜空はやがて黒へと変わる。時計は十八時過ぎを指している。魔法は、ここで解ける。
「どうした、スカイ」
これもきっと、あなたへの信頼の証。あなたなら私をわかってくれると、そう信じているから告げられる。トレーナーとしても大人としても、あなたは私を見てくれている。だから、これも告げられる。あなたにだから、告げられる。
……ああでも、フラワーには謝らなきゃいけないな。結局私はこうなって、結局君を頼らずになんとかしようとしている。ああまで言ってくれたのに、ああまで言ってしまったのに。結局私は変わってしまって、君の助けも多分届かない。どれだけ準備をしても、空が墜ちてくるのなら無駄だったのだ。
「今回の天皇賞(春)、結構頑張ったと思います。全力で。だから、この結果なんだと思います」
そしてトップロードさんにも、ごめんなさい。私はあなたのように、期待に応え続ける勇気が足りませんでした。負けてもそれを糧にして、そんなのは私には無理でした。……約束も、果たせない。それは多分、許されないことだと思います。けれど、空は墜ちてきてしまうから。
「思えばメイクデビューから、皐月賞から菊花賞まで。だいぶ昔に思えますけど、つい先日のことのようにも思えるくらい鮮烈な思い出で。大切な、かけがえのない思い出で。走ってきて、よかったなって思います」
キングも、ごめんね。クラシックは、とっても楽しかった。君はそれからもライバルだって、私に対して言ってくれた。けど、私はそうはなれないみたい。君は君の道を行けばいい。君らしく進めば、きっと栄光をその手に掴める。友達として、かつてのライバルとして、応援してる。空が墜ちて全てが終わってしまっても、そのことは忘れないつもりだよ。
「楽しかったです。悔いはないです。だから、です」
「……スカイ」
トレーナーさんもなんとなく、私の言うことを察してくれたみたい。やっぱりこの人は、私のことをよくわかっている。
少しの沈黙。やっぱり少しだけ、勇気は要る。わかってくれるとしても。そう信じていても、私が私を信じきれていないのかもしれない。そういう意味では、まだ私は子供だ。
でもだからこそ、こうしなくちゃいけない。
くるり。沈黙を破る一回転。勝負服についたレースがひらひらと舞い、私の最期を華やかに巡る。
すとん。儚さを隠すように少し跳ねると、ひらひらのスカートが内側までふわりと浮いた。
にこり。そして少しだけ、笑みを浮かべた顔をあなたの方に突き出して。薄くて柔らかな、多分自然な笑顔。私の心の底からの、ギロチンを待つ剥き出しの笑顔。
そうやって、それだけ勿体ぶって。その後、また沈黙を挟んで。それでもなけなしの決意と共に、やっと口から断末魔は出ていく。
「だから、ここまでにしませんか。もう私は、走れません」
今日も空はキレイだった。キレイなまま、墜ちてきた。
空は、それでもキレイだった。ぐしゃぐしゃでも、キレイだった。
だから、出来るだけ私も晴れやかに。キレイなままで、大人になるのだ。
だから、今が一番のタイミング。今だと決めたからこそ私は、キレイな大人になれる。
めでたし、めでたし。