「はーっはっはっ! ボクは何者にも負けない、だから君も全力で来たまえ!」
ああ、誰かの声が聞こえる。誰だっただろう。声だけじゃわからない。聞き覚えが、ある気がするのに。
「私は、走るだけ。そのためだけに、このトレセン学園に来たの」
この声も、聞いたことがある気がする。先程とは違う声。わかるのは、どちらも大切だった気がするというだけ。
あれ、そもそも。そもそもここはどこだろう。虹色塗れで、全身の感覚がふわふわしていて。どこか不安定な心地よさが、なんだかとっても気持ち良いけれど──。
「──はっ」
黒鉛混じりの木の匂いが鼻をつく。目を開けば数センチ先に薄茶色の木目が見える。なんだか身体もギシギシと音がなりそうなほどに節々が痛い。特に肩の裏の辺りから腕のほうまで引っ張られるような……って、私の顔が両腕の上にどしりと乗っかってるじゃないか。そんなふうに全身の状態を認識するまでにおよそ数秒。背中を丸めて前屈みになって、全身の重みを痣ができてしまうまで二つの腕に預けて。何を隠そう、私は自室の机で居眠りをしていたのだ。
「……はあ」
そして、そんな状態で夢を見ていた。二人のウマ娘のことを、夢に見ていた。睡魔に負けてしまう直前まで資料を読み込んでいた、二人のウマ娘のことを。
あらためて、机の上に広げたものを確認する。所狭しと並べ立て、そのくせその上に突っ伏して若干くしゃくしゃにしてしまった二人のウマ娘についての資料。皐月賞をまさに明日に控えたというところで、私はその二人のことが頭から離れなくなっていた。大事なライバル、そう思っているからこそ。
クラシック三冠の初戦、皐月賞。一生に一度きりの大事なレース。その出走リストに私ナリタトップロードは名前を連ねていて、二番人気というそれなり以上の扱いを受けている。ならば私は、その期待には応えたい。それが多分、私の走る理由なのだろう。期待に応えること、期待に応えられる自分になること。そしてそのためなら絶対負けないと思える相手を見つけたからこそ、私はデビューした。トレセン学園で向けられる期待、対抗心、絶対負けない負けたくないって気持ち。それを見出すのがデビューというもので、それが満たされるのがトゥインクル・シリーズというもの。だから私は、夢の扉を叩いたのだ。
机の灯りでスマホの時計を見てみれば、まだ午前の一時半。まだ、と言うにはそれなりに遅い時間かもしれないけど。それでも大人しくベッドに向かって布団にくるまる気にはなれなかった。ふと窓の外を見てみれば、ビー玉を砕いてばら撒いたような星空ひとつ。眩いそれに、思わず祈るように目を伏せて。うん、まだ明るい。ならまだ起きていても、きっと寝坊なんてことにはならないだろう。そんな何処かに言い訳にもならないような言い訳をして、あらためて目線を二人の資料へ落とす。テイエムオペラオーとアドマイヤベガ、私のライバルたちの資料へ。そして資料に書いてない私の知る二人のことにまで、想いの手を届かせてゆく。
まずは、テイエムオペラオー。オペラオーちゃん。ちょっと小さな背丈の、だけど目の前に立つとそんなふうには思えない子。私から見れば断然後輩で、私のチームで言えばスカイちゃんと同学年らしい。その自信たっぷりの態度は、歳下だってことをついつい忘れてしまうくらい立派なものだけど。そんな彼女はあの学園でも最強のチーム<リギル>の一員で、デビュー当初こそ少し苦戦したものの今では順調に勝利を重ねている。後輩とはいえ、レースの上では同期。なによりもその威風堂々とした振る舞いを見ていると、負けられないなと思うのだ。……私にあれが出来るって意味じゃないけど。そう言う意味でもやっぱり、オペラオーちゃんはすごい。
そしてもう一人、アドマイヤベガ。アヤベさん。私とは同じクラスの同級生。……一応。何度か話はしたけれど、その緋色の瞳がこちらを向いてくれることは少ない。けれどゼロではないから、私はずっと彼女に話しかけ続けている。その理由の一つにはもちろん、彼女が有望なウマ娘だというのはあるけれど。アヤベさんのお母さんは、私でも、多分誰でも知ってるような有名なウマ娘。だから当然、彼女は大きな期待を背負っている。
けれど彼女はそんなことなど意に介さないかのように、ただひたすらにトレーニングを続けている。聞けばチームにも所属せず、新人トレーナーとの一対一の担当形式を選んだらしい。それだけ自分の力を信じているということ。それだけ他人とは関わろうとはしないということ。硝子細工のようなその立ち振る舞いが、どうしても見過ごせなくて。……それがもう一つ、私がアヤベさんを気にかける理由だ。お節介なのはわかっている。けれどきっとこれも期待の形の一つだから、私はその気持ちを手放したくない。
たとえ耳を澄ませても、誰かの寝息がうっすら聞こえるだけだろう午前二時。ますます窓の外の空は輝きを増し、夢の中よりも色鮮やかな世界が広がっていた。
そこに浸り、思考はさらに深く、深く。まだ私は、思考を尽くせてなどいないのだから。
オペラオーちゃんがチーム<リギル>に入った理由は、彼女からすれば至極当然のものだった。彼女は最強なのだから、最強のチームがふさわしい。そしてその最強のチームの中ですら、最強を掲げようとする。彼女は自らの実力を、微塵も疑ってはいないのだ。誰が全力で立ち向かってこようとも、それを己の全霊で跳ね返せると信じている。……私では、それが出来るとは思えない。期待に応えるということは追い求めているけれど、それ以上を求めて掴み取ろうとすることは。だから私にとってはある種、オペラオーちゃんは遠い遠いところにいる人。憧れの一つ、だった。
そしてアヤベさん。アヤベさんがチームという選択肢をそもそも選ばなかったのは、そうやって一人で練習する時間を作りたかったからだろう。チームに所属すれば併走トレーニングなどもやりやすいけれど、アヤベさんが選んだのはその道ではない。それも実績は当然存在しない、新人トレーナーとの一対一を選んだ。多分それだけ、自分一人でなんとかしようと思っているから。全ては余計な口出しだと、そう断じてしまえるから。……きっと彼女なら、それが出来るのだろう。ひたすらにストイックに、それでも硝子細工は折れずに磨き続けられる。やっぱりアヤベさんも、私からは先の先にいる。まだ掴めない、憧れの人だ。
そして、最後に自分のことを考える。自然と、だった。二人には、道が見えている。だから二人には、選ぶチームのやり方がある。となれば当然、私にとってのチームがなんなのかというのも、直面せざるを得ない議題だった。
乳白色のデスクライトは、私の顔を少し広い額から顎の下までぴかぴかと照らしていた。瞼を閉じても真っ暗にならないくらい近くで、ギラギラと。お陰で夜の闇が深まるたびに、それに反して眠気は覚めていく。ひょっとしたらこの時間にこんなに元気なのは今日は私だけかもしれない。今名前を挙げたオペラオーちゃんもアヤベさんも、きっと明日、正確にはもう今日のレースに向けて寝ている頃だろう。これでもクラス委員長として、規則正しくちゃんとした生活をしておきたい、みたいな気持ちはもちろんあるのだが。
なんだか今日は、そんな気分じゃない。夜も深く底まで更けて、眠気の混じった思考は朧気になりつつある。考え事をするには向いていないけど、そんな時だからこそ頭に浮かぶものがあった。先程から、いやそれよりももっと前、きっとデビューした時よりもさらに前。どんな頃よりずっと前、卵から孵った雛が頭の上にくっついた殻の破片を不思議に思うように。最初の最初から、私の頭の中に最初からくっついていた疑問点。私から私への、ハウ・アバウト・ミー。
私は何故、<アルビレオ>にいるのだろう。
私は何故、<アルビレオ>のリーダーなのだろう。
私は何故、<アルビレオ>に入ったのだろう。
そんな疑問を、私は私に問うために。時間感覚の薄れた深夜三時頃、私は過去へと思考の矢を飛ばす。形のない虚数の矢文、そしてそれを受け取るのはいまはもういない過去の私。過去の私は、どうして<アルビレオ>に入ったんだっけ。そんな今でも知ってることを、今一度。
クラシック三冠の大一番、皐月賞の最直前。全ての準備が終わって、本番のその瞬間が終わるまでも十二時間を切っている。そんな今だからこそ、私は私に問いかけた。
まだ、僅かに終わりではないから。
※
とは言っても、チーム<アルビレオ>と私の出会いはそれほど劇的なものではない。わざわざ長い道を辿ることもなく、成り行きで入った、の一言で済ませてしまえるかもしれない。私が道を歩いていたら、トレーナーさんが声をかけてきた。だから入った。そうしたらリーダーになった。……こう並べてみるとあっさりすぎる。今日はもう少し、掘り下げてみよう。
あの日、多分それなりに天気は良かった。そして珍しく、私はクラスの業務に追われていなかった。だからこれまた珍しく、のんびりと構内を静かに走っていたのだ。柔らかな日差しを一身に浴びることのできる、校舎の外にある気持ちのいい中庭。腰掛けながら弁当を食べられるようなベンチも何個かあって、ゆっくりするにはいい場所だ。
なんて、今思えばスカイちゃんみたいなことを考えながらだらだらり。そんな感じで中庭の中心部に足を踏み入れた時、なんだか人が少ないことに気がついた。そして大体同時に、その理由にも。大声を張り上げる少し背丈の大きい男性が、中庭のちょうど真ん中で何やらお手製の縦看板を持って陣取っていたからである。看板にはそこそこの達筆かつ情熱溢れる筆致で、こう書いてあった。
「チーム<アルビレオ>、メンバー募集」
「根性、努力、気合溢れるウマ娘を待つ」
多分これを見て、他の子は引き気味になっていたんだろうことはわかる。トレーナーさんの意志の強すぎそうな顔つき目つきも、だいぶ人を寄せ付けないのだろうことはわかる。その二つはその光景を見て瞬時にわかったのだけど。
「すみませんっ、お話聞かせてもらえませんか!」
私はその姿を見て、すぐさま未来のトレーナーさんに声をかけていた。……今から考えても、どうして声をかけたのかはいまいちはっきりしない。多分結構「根性、努力、気合」には惹かれた点はあると思うし、逆にトレーナーさんがあまりにも人を寄せ付けなさすぎて哀れに思ったというか、放って置けなかったところもあると思う。まあお人好しと言われれば否定できないのだが、私とトレーナーさんの出会いはそんな感じだった。
「おっ、興味があるんだな! 我がチーム<アルビレオ>に! なんと今なら入ればそのままリーダーになれるぞ!」
「えっ、本当ですかっ!? ……って、それは誰もまだいないってことですよね」
「まあ、そうではある。だがいずれ天下を取るチームだ! そのメンバー一号にならないか、ええと」
「ナリタトップロードと言います! これから、よろしくお願いしますねっ!」
そんなふうにあれよあれよと意気投合して、気持ちは同じだと言わんばかりに固い握手を交わして。そうして私はチーム<アルビレオ>に入り、そのままリーダーに就任した。周りを近寄らせないくらいの熱気だったけど、そんなトレーナーさんのやる気満点な態度に少なからず沸き立つものがあったのも事実だ。だから多分、私は<アルビレオ>に入った。結局どちらかと言えば取るに足りないような、ライバルたちには届かないような。
(……でも)
くるりと椅子を回し、窓の外の深黒に目を向ける。網膜の先の細胞一つ一つに、光り輝く星の粒が突き刺さってくる。あのあまねく星々の煌めきは、今を生きる輝きじゃない。過去の光が今にまで届いているのだと、昔何かで読んだことがある。それは壮大な宇宙のスケールだからこその話ってわけじゃなくて、案外どこにでもある話なのかもしれない。星の名を冠する<アルビレオ>もそうだ。もしかしたら成り行きで始まったかもしれないその瞬きは、今まで絶え間なく続いている。数々の人を巻き込んで、ひとつの星から連星へと変わるように。
私はチーム<アルビレオ>のリーダーとして、今までよりもっと色々な人と接するようになった。歳の違う子、性格の違う子。大体私より歳下だけど、それでも時折見せる顔がどことなく大人びて見える子もいる。まあたとえば、スカイちゃんとか。あの子は自分で思っているより大人で、自分で思っているより深く考えている。だから、支えてあげないといけないと思う。チームメイトによりそうのが、リーダーの役割だから。
そして、出会いがあれば別れもある。たとえば私に憧れて入ってきたけれど、チームの練習についていけなくて辞めてしまった子。あれはもうだいぶ昔になってしまったあの日、スカイちゃんが受け取ってくれた脱退届。頑張っていてくれたのに、着いてこれないと思ってしまったあの子。それは、その子が悪いんじゃない。少なくとも私は、そう思う。悪いのは、その弱音を汲み上げられなかった私の方だ。一人きりの場所に閉じ込めさせてしまった、私の。
あのことはきっと、ずっと忘れられない。私の無力を示す出来事。彼女は夢を抱えてこのチームに入ったのに、私の至らなさがそれを届かない夢に変えてしまった。二度と起こしたくないと思う、苦い思い出だ。チームのリーダーとして抱える、記憶しなければならない出来事だ。
そうやって、私は<アルビレオ>のリーダーとして色々なことを経験してきた。支え、導き、頼られる立場だ。それが、今までの自分だった。クラスとは違う、もう一つの居場所の意味だった。
だけど、今の私は違う。あと十時間ちょっとすれば、私は皐月賞の出走者だ。愛想よく、元気よく、人当たりがいい。そんな私のリーダーとしての素養なんてものは、ターフという戦場では灰塵に帰す。そこで必要なのは、期待に応えられる実力だ。才能だ。そんな誰しもが持ってるわけじゃないものを当たり前のように要求してくるのが、トゥインクル・シリーズという厳しい世界。だけど私はだからこそ、期待に応えられるようになりたいんだ。
期待。嬉しいことに私は、その才能と実力を期待されている。皐月賞でも二番人気。そしてそうなれば裏腹に膨らむのが、期待に応えられるかという不安だ。期待は、強さを押し測る。けれど本当の強さは、走ってみなくてはわからない。だから誰もが全力で、時には期待を覆すために走るのだ。
時計を見れば、もう午前の四時だった。これなら徹夜してしまった方がよさそうだ。不思議と時間が進むたびに眠気は薄れてきて、気持ちが昂ってくる。皐月賞への想いが、強くなる。
皐月賞。クラシック三冠の初戦を飾る、誰もが夢見る一生に一度きりのレース。勝つのも負けるのも、一度だけ。オペラオーちゃんやアヤベさんを振り切って、私が頂点に立たねばならない。そのハードルは並大抵のものじゃない。
けれど、そんな私に勇気をくれる人がいる。その大舞台で強敵相手に勝利し、晴れやかに笑ってみせた人がいる。私の、憧れの人だ。
もちろんその人との差は、まだまだ遠くて果てしない。当然あちらもぐんぐん逃げていくから、追いつけるかもわからない。だけどいつか、胸を張って同じ舞台に立てるなら。
そんな夢を、いと高き天の先に掲げた。夢はいつだって、頂点にて手が届くものだから。
やがて緩やかに太陽は昇る。待ち望んだその日が来る。皐月賞までの全ての努力、全ての気持ち。
それが結ばれ、終わる日。一つの終末が、やってくる。
※
当日は雨が降っていた。だからといってターフの上で傘なんてさせないのだが。雨の中でも踏み締めるバ場はそれなりに良好、今日の調子も悪くない。寝不足もテンションを上げてむしろいい方向に働いている気がする。今日の私、もしかするときてます。
「中山メインレース、皐月賞。十七人のウマ娘の出走を、観客が今か今かと待ち侘びています」
そんな実況が聞こえて、いよいよ皐月賞なんだ、と改めて実感する。体がじんわり、尻尾の先まで熱を持つ。見ているだけで目頭が熱くなりそうな芝の青、青、青。私は今ここに立っているのだと、蹄鉄越しの地面の感触が何よりもそれを教えてくれた。
そんなふうに一人浸っていたところに、我関せずといった感じで話しかけてくる声があった。聞き覚えのある、仰々しい声音。振り返ってみれば、見知った顔と背丈のちっちゃくて可愛らしい後輩。の、はずの子。勝負服を着ていると、その威容はますます強大に感じられる気がした。なんというか、オーラが違う。
「ごきげんよう、トップロードさん」
「はい、オペラオーちゃん! 今日は、よろしくお願いしますっ」
オペラオーちゃんも絶好調、みたい。なら、相手にとって不足はない。精一杯の言葉で、私も応える。
「オペラオーちゃん、気合満点ですね。私も負けてられません」
「当然さ、ここからボクの伝説が始まる。その幕開けを告げるには、皐月賞の場ほど相応しいものはない!」
「……流石、ですね。負ける気なんてないって感じですか」
今日のテイエムオペラオーは五番人気。チャンスは十分にあるけれど、絶対なんて言える人気順じゃない。それでも、彼女はこう言ってのけている。
「ボクは勝つよ。五番人気、上等じゃないか。それほど敵は強大だということだ。もちろんトップロードさん、君もね」
「はい。オペラオーちゃんをガッカリさせるような走りは、しないつもりです」
「それでいい。自分の実力は、自分が一番よく知っている。だからボクは今日ボクが勝つと確信しているし、君も自らの勝ちを疑わない。それでいい」
相変わらずオペラオーちゃんは、悠々とした態度を崩さない。けれど触れれば火傷してしまいそうなほどその心の内が燃えていることは、外の私でも見てとれた。それならばそれに直に触れているオペラオーちゃんは、一体どれほどの執念を勝利に燃やしているのだろう。
ならば私も言葉を返そう。彼女が謳うそれと相見えるに相応しい、覚悟を示すための言葉を。
「はい。人気順じゃ、勝敗は分かりません。期待をどれだけかけられても、それに応えられるかはわかりません。期待はあくまで期待で、薄い氷のようなもの。それで全ては決まらない」
「なるほど。それでも、君は」
「そうですね。それでも私は、期待に応えたいです。期待が不安定なものだからこそ、応えたいんです。だってそうしなければ、期待が無意味になってしまうから」
形がどうあれ。結果がどうあれ。私は、期待に応えたい。人を支えていたつもりなのに、いつの間にか自分も支えられるようになっていた。期待をかけられるようになっていた。だから私にできることは、みんなの期待は無責任なものじゃないって証明することだ。
「みんなが支えてくれている。私のために頑張りを割いてくれている。だから私はそれを肯定するために、勝ちます。努力は必ず報われるのが、チーム<アルビレオ>ですから」
「なるほど、それが君のチームの絆か、トップロードさん」
「はい。チームのためにも、勝ちます」
そして、そのチームに居る一人の憧れのためにも。そう、告げた。
雨はまだまだすだれのように降り続け、互いの勝負服はびしょびしょだ。それでももちろん、この場から立ち去るなんてあり得ない。私たちは戦うためにこの場所にいる。そして、そこから何かを掴むために。
「チーム、か。それならボクがチーム<リギル>に入ったことも知っているかな」
「はい。学園最強って言われてるチームですよね」
「そうとも。一筋縄ではいかなかったけどね。<リギル>に入れるような才能があるのかって、トレーナー君にも言われたよ。君が期待される側なら、ボクは期待されない側だからね」
「……それは」
初めて聞く、オペラオーちゃんの弱い言葉。けれどそれは儚く祈るものではなく、壮大な戯曲のイントロダクションに過ぎなくて。
「でも、ボクは実力で<リギル>のトレーナー君を認めさせた。<リギル>はボクを見出してくれた。それには、感謝しているのさ。観客がいなければ、どんな素晴らしいオペラも万雷の喝采を受けられないからね!」
「強いですね、オペラオーちゃんは。やっぱり、負けてられない」
「そうとも、ボクは強い。そのことをこの皐月賞で証明する。最強集団であるチーム<リギル>の大看板を背負うだけの力があると、この闘いで高らかに宣言するのさ」
「それがオペラオーちゃんの、チームとの絆ですか」
「そういうことだとも、トップロードさん。至ってシンプル。勝てばいい」
「はい。でも、負けませんよ」
「もちろん。その上で、ボクが勝つ」
最後は互いに言葉をぶつけて、そうして会話は閉じられた。お互いの、チームのために。そしてもちろん、自分自身のために。そのために勝つ。それを、確かめた。
……まだ時間は残っていた。ゲート前の片隅に目をやると、一人空を見上げている人影があった。夜空色の勝負服、蜘蛛糸のように透き通って伸びる長髪。私はその人影に近付いて、いつものように声をかける。きっと、いつもとは違う時間になるだろうけど。
「こんにちは、アヤベさん」
「……こんにちは、トップロードさん」
「今日は、よろしくお願いしますねっ」
「ええ。よろしく」
相変わらずぎこちない、いつかもっと仲良くなれるだろうか。とはいえぎこちなくとも、今日は伝えたい言葉があるのだから。
「アヤベさん。私の今日の目標の一つが、あなたです。一番人気、実力も才能も折り紙付き。でも今日私が勝つってことは、あなたにも勝つってことです」
「そうね。でも、勝つのは私。私は勝って、勝って、勝ち続けるの。そのためだけに、ここにいる」
「なるほど。結構強気な発言ですね」
「傲慢と言われようと構わない。それでもそれが、たった一つの私の願いなの」
「願い、ですか」
願い。走ることが本能と呼ばれるウマ娘でも、それに更に想いを込めることはある。楽しい、嬉しい、悔しい。そんな気持ちがレースにはこもっている。それを形作る雛形が、願いというものなのだろう。
ならば、それは私にだって。
「それなら、私にも願いがあります。勝利を捧げたい、相手が」
「……そう。捧げたい人が、いるのね」
「はい。その人は昔この皐月賞で、華々しい勝利を見せてくれました。夢を与えるウマ娘ってこういうことなんだって、初めて私にそう思わせてくれました」
「それは、大切な人ね」
「……でも、その人は今苦しんでます。はっきりは見せてくれなくて、まるで闇の中であえぐみたいにたまにそれが見えます。理由は教えてくれません。優しい子だから。だから私にできるのは、夢を与えることくらいです」
スカイちゃん。私の憧れ。その憧れの始まりにある皐月賞に、私は今立っている。今なら、あの時の恩返しができる。きっと、今の私なら。
「その人は、光を見つければそれを手に取れる人です。どれだけ悩みもがいても、立ち上がる方法を知っている人です。だから私は、その人に光を見せてあげたい。それが私の、願いです」
「……あなたも、自らの祈りを誰かに捧げるのね」
「あなたも、って、もしかしてアヤベさんも」
「いいえ、あなたと私は違う」
私の言葉をあらかた聞き終えて、今までにないくらい理解を添わせてくれて。それでも最後に出てきたのは、境目を作る言葉だった。
そのまま、彼女は話を続ける。断絶を垣間見、けれど私たちのうちに確かな同一性を感じさせる話を。
「あなたのまわりにはきっと、たくさんの人がいる。今話してくれた誰かも含めて、たくさんの人が」
「はい。きっと<アルビレオ>にいなきゃ、出会えなかった人たちです」
「あなたはその状況を選んだ。チームという、状況を。だから、私とは違う」
「……そうですね。やっぱり、違うかもしれません」
「でも」
そこで一旦口を切って、朱みを帯びたその目がこちらを見据える。少しだけ、見上げられる格好だったから。紛れもなく私の眼を見ていたのだと、思う。
「でもそれは、あなたの繋がりは大事にした方がいい。きっと、ね」
大事にした方がいい。その言葉はいつも通りそっけなく聞こえたはずなのに、何故だか心に沁み入った。多分、アヤベさんの本心から話してくれた言葉だからだと、思う。
「……はい、大事なものです。大事だから、私はそのために勝ちます。背負った期待も、届けたい夢も、私の居場所になってくれるチームのみんなも。みんな大事だから、そのために負けません」
「……そう。負けるつもりは、ないから」
最後はそっけなくそう言って、アヤベさんはゲートに向かっていった。もうそろそろそんな時間かと思い、私もくるりと踵を返す。アヤベさんを、追いかけるように。いつか、並び立てるように。アヤベさんだけじゃない、オペラオーちゃんにだって。負けるつもりなんて、ない。
準備は万全、気合も十分、そしてそれは誰しも同じ。だからレースに絶対はなく、だからそれは止めどなく人の心を震わせる。
さあ、行こう。全てが美しい終わりを迎える、2,000m先のゴールへと。
※
「外からテイエム! 外からテイエム! 外からテイエムオペラオー! 大混戦となった皐月賞、大外一気に突き抜けたかテイエムオペラオー!」
負けた。多分二分ほどしかないようなレースは、走っている間だけとても長いように感じられる。五感を研ぎ澄まし、全身全霊を尽くしているから。それでも終わってみればあっさり、一瞬だ。
負けた。最後の最後、ぎりぎりで届かなかった。いや、正確には猛烈な勢いで追い抜かれた。私の末脚を遥かに超える、まさに豪脚とも言えるあの切れ味。あれが、テイエムオペラオー。有言実行、期待では測れない実力を見せるということを、オペラオーちゃんはやってのけた。私はあと一歩の三着。十分、立派な結果だ。胸を張れる、だろう。だけどクビ差ハナ差のその三着は、絶対に覆せない差でもある。
負けた。私の皐月賞は、終わった。期待を背負い、夢を抱いて。チームの皆に、スカイちゃんに、勝利した姿を見せたかったのに。
「くっそおおぉぉぉおおぉ!!!」
思いっきり、叫んだ。膝だけを地面について、吠えるように全身で。突き動かされるように、叫んでしまっていた。全部全部、今日のためにあったもの全部を吐き出して、叫んだ。叫び終わったら、心にぽっかりと穴が空いた。がらんどうで何もない、なんでも詰め込める大きな穴だ。
そこにはすぐに、別のものが入ってきた。
「トップロードさん、よく頑張ったー!」
「次のレースも、期待してるぞー!」
私を讃える、声だった。一番じゃなかったのに。負けてしまったのに。それでも期待してくれる、みんなの声だった。私は負けてしまった。期待に応えられなかった。だけど、次がある。全てが終わったなら、その後に始まりがやってくる。そう思わせてくれる、声だった。
そして、私を支えてくれるその声の中に。
チームのみんなの、声が聞こえた。
「次こそ勝つ! そのために特訓だ、トップロード!」
そんなふうに、元気いっぱいのトレーナーさん。
「トップロード先輩、お疲れ様でした。貴女の道はまだ、続きます」
そんなふうに、普段とは打って変わって優しい言葉をかけてくれるキングちゃん。
「トップロードさん、ありがとうございます。いいレース、見せてもらいました」
そしてそんなふうに、私のメッセージを受け取ってくれたスカイちゃん。
他にもチームのみんなが、さまざまの言葉を私にかけてくれる。一緒にこの結果を、噛み締めてくれる。
負けた。けれど、それで全ては終わらない。一人になんか、ならない。みんながいるから、私は終わりの先へ進める。それならば、前に進もう。たとえそれが、どれほど苦しい道であっても、だ。
頂点への旅路は、未だ麓すら見遣ること能わず。果てしなく遠い道のりは、世界の果てまで続くかもしれない。
されど終末の時もまた、未だ黙示録の喇叭は一つとして鳴らず。世界の果てまで行かねばならないとしても、世界が終わらなければ辿り着けるのだ。
それに、もしも。もしも恐怖の大王が空から来たりて、世界を暗黒に染め上げたとしても。世界が終わってしまったとしても、それでも走り続ければいい。どうしようもない苦難が待っていても、諦めず走り続ければいい。一度全てが終わってしまったとしても、必ず人は立ち直れるのだから。
少なくとも、私にはそれができる。それだけ期待される才覚があるからこそ、声援を受けられるからこそ走れるというのもあるけれど。なによりも、私には仲間がいるから。チーム<アルビレオ>という、かけがえのない仲間が。助けてくれて、支えてくれて。それを互いに繋ぎ止め合える、最高の仲間がいるんだから。
だから、私は終わらない。そして仲間が苦しんでいる時、その時は必ず助けるんだ。あなたが決して、終わってしまわないように。
だって私は、チーム<アルビレオ>のリーダーなんだから。
あなたの、仲間なんだから。