【完結】セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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最終章 セイウンスカイと正論男
おわりの気持ち


 月より暗い電灯が部屋を照らしていた。部屋の空気は時間の経った湯船のように生ぬるい温度が包んでいた。そんな空気を作る暖房がせっせかと健気に動く音と、時計の針の音が嫌に大きく聞こえた。ぶおん、ぶおん。かっち、こっち、かっち、こっち。それらが大きく聞こえる理由は簡単で、誰も口を開かなかったから。私が投げかけた言葉の先に、波紋がまだ浮かび上がってきていないから。

 私が作った状況だった。二人の間隔は近く、けれど確かに距離を取って。私とトレーナーさんは、立ちすくんだままだった。

 

「だから、ここまでにしませんか」

 

 私はそう、あなたに問いかけた。提案であり、諦観であり。それでもあなたに許しを求めた。

 

「もう私は、走れません」

 

 そして、一方的に突き放した。断言であり、断絶であり。それでもあなたに返答を求めた。

 私は大人になった。結局やはり、諦めることで。それでも大人になって、世界の見え方は変わってしまった。だけど大人になるのなら、そのための儀式が必要だ。これまで子供の私を見守ってきてくれたあなたに承諾を得ねばならない。大人になってもいいよ、と。もう走らなくてもいい、と。

 それは残酷な言葉だ。それは全てを否定する言葉だ。でも、私はそうしてほしいのだ。もう、走るのは怖くなってしまった。そんな私を抱き止めてでも、立ち止まらせてほしいのだ。

 まだ、鉛のような沈黙は続く。それだけトレーナーさんは悩んでくれている。私のために、悩んでくれている。それは嬉しい。それはきっと得難いことだ。私のトレーナーが、この人でよかった。今まで一緒にいれてよかった。

 だから、それくらいあなたのことを、大事に大事に思うから。

 

「……スカイ」

「なんですか、トレーナーさん」

 

 そんなあなたが、私のことを赦してよ。

 沈黙は破られる。もう空は堕ちている。これから慌てふためいたところで、きっと全てが手遅れだ。このやりとりも通過儀礼。結論は決まっている。そしてきっと、トレーナーさんもそれをわかっている。

 だってあなたはこれまで何度も、私のことをわかってくれたのだから。

 そう思っていた。信じていた。無根拠だとしても、それが信頼だと思っていた。どこにも拠り所がないからこそ、互いの存在を拠り所にできるのだと思っていた。

 そう、思っていたのに。

 

「考え直せ、スカイ。君は、まだ走れる」

 

 私は最後の救い手に、裏切られた。

 

「君はまだ走れるんだ。ここで終わりなわけがない」

 

 そこで私が抱いた感情は、失望だっただろうか。理解されない、その程度の関係だったという失望。

 

「俺は君に言った。君は『走る』ウマ娘だと。その気持ちは変わっていない。当たり前だろう」

 

 そこで私が抱いた感情は、悲嘆だっただろうか。どこにも私は救われない、報われないという悲嘆。

 

「今日の結果は残念だった。それはもちろん重く受け止めなければいけない。健闘したなんて言葉で収めるつもりはない。君はもっと走れると、俺は知っているから」

 

 違う。

 

「……何が」

 

 切ない終わりを絞り出すように、絶え間ない幕引きを溢れさせるように。私は震える声で、しかしはっきりとその言葉に答える。

 違う、違う。絶対に、違う。

 

「あなたに私の、何がわかるって言うんですか!」

 

 そこで私が抱いた感情は、そのどちらとも違う。失望よりもどす黒く、悲嘆よりも痛みを伴う。

 そこで私が抱いた感情は、憤怒だった。わかってくれないこと。求めたものが返ってこないこと。それらの無理解に対する、きっと自分のための怒りだった。そこで己をマイナスに奮起させてしまうのは、紛れもなく私のエゴイズム。ああ、よくない大人になってしまった。私はきっと、あなたのようにはなれないのだ。人のことを想える、立派で綺麗な大人には。

 でも、それでいい。もうそんなもの、私には要らない。私はもう、どうなってもいい。

 

「あなたは今日走ったんですか。今までずっと走ってきたんですか。私が肌身で感じたものを、あなたに理解できるんですか」

 

 これ以上ないくらい、突き放す。ウマ娘とトレーナーの絶対的な差。どうやっても、走る感覚はウマ娘にしか得られない。それに憧れてくれているのはわかっているのに。自分では得られないと分かっていても支えてくれたのはわかっているのに。

 わかっているから、私はそれを断絶の言葉に選ぶ。理解は側に寄り添うこと、けれど決して同じにはなれない。だから突き放すのは、この上なく簡単だ。横にいるのを、止めるだけ。

 

「もう無理なんです、私がそれをわかったんです。私の限界は、私が一番よくわかります。これが大舞台で残せる最高の成績。立派じゃないですか、十分じゃないですか」

 

 けれど。崩れ去る限界まで言葉を重ねても、私にはまだ言えない言葉があった。怒りに任せたふりをして、本心は隠していた。漏れ出てしまうとしても、必死に。それを零してしまったら、もうどうなってしまうかわからないから。

 

「ここまでなんですよ、私は」

 

 だから。だから、励ましや慰めじゃなくて。

 だから私はあなたに、褒めて欲しかった。

 ここまで頑張ったことを、認めて欲しかったんだ。

 結局、私は子供なのかもしれない。駄々をこねて、言いたいことは言わなくて。この期に及んで褒められたいなんて、子供の願いを抱えたままで。ならばあなたが大人になる儀式を認めてくれないのも、当然かもしれない。やっぱり当然のように、私の方が悪いのかもしれない。

 それでも、それは耐えられないのだ。

 自分の限界を見せた、全力を出し切った。それでもあなたがその先を、私には届かない先を求めるのなら。

 私は、褒めてもらえないじゃないか。あなたの期待の先には、失望しか残っていないじゃないか。それは嫌だ。それは、残酷すぎやしないか。たとえあなたの手を振り払い突き放し絶縁状を叩きつける行為だとしても、私はそれは嫌なんだよ。

 だから。

 

「だから、これきりです。私はあなたの期待には、応えられません」

「スカイ。そんなことはない」

 

 まだ、まだあなたはこちらに手を伸ばしてくるのか。もう嬉しくない。もう鬱陶しいだけ。きっと、きっとそうなってしまったのに。

 

「だから、あなたに私の何がわかるんですか。私はここで限界なんです。あなたの見立てが間違ってたんです。私が『走る』なんて」

 

 喉が掠れる。目頭が熱くなる。けれど、それは表には出さない。仮面を被るのには慣れている、トリックスター最後の仕事だ。

 

「私の、トレーナーさん。あなたは、私の才能を見抜けなかった。そのくせここまで走らせて、限界を訴えているのにまだ走らせようとする。どうですか? そんなの、トレーナー失格じゃないですか?」

「……そうだとしても」

「まあ、それはどうでもいいことです。それに多分、トレーナーさんは良くやりました。才能のない私がクラシック二冠なんて取れたのは、多分トレーナーさんのおかげです。あなたには才能があります。才能がないのは、私の方です」

 

 訣別には、言葉を交わさねばならない。もう会いたくないと思いながら、会って目を見て話さねばならない。そのまだ諦めてないって感じの黒々した瞳を。暑苦しいまま萎れてくれないその濃くて太い眉を。私はそれを両の目で見据えたまま、あなたに別れを告げなければならない。辛い仕事だ。それでもあなたがやってくれないのなら、私がやるしかないだろう。

 

「間違ってたんです。ぜーんぶ、間違ってたんです。これまでの全てが、間違ってたんです。トレーナーさんはもっと才能のある子を指導した方がよかったし、私はもっとほどほどの夢を見た方がよかった。あなたには役不足で、私には不相応。だから、今からでも」

 

 ようやく、私は手を差し伸べる。けれどそれは身体の動きだけで、込められた意志は明確な拒絶。これをあなたが手に取れば、本当に全てが終わる。

 

「今からでも、終わりにしましょう」

 

 お願い、だから。

 けれど、なのに。そこまで、縋ったのに。

 先程よりも強い語気で。空気が震えそうなくらいの大声を出して。あなたは私の言葉を、真正面から否定する。

 私を、否定する。

 

「いいや、それは駄目だ。絶対に、駄目だ!」

「どうして、ですか。あなたに私の何がわかるわけでもないのに」

「わかる。これまでずっとスカイを見てきた分は、少なくともわかる。俺は君のことを、よく知っているつもりだ」

「その言葉に、何の根拠があるんですか」

「根拠は今までの時間だ。ジュニアからクラシック、シニアまで。君を見てきたつもりだ。だから俺は、その上で信じている。君は『走る』と」

 

 どうして。どうしてなの。どうして。

 

「だから、スカイ。絶対に、諦めるな!」

「……本当に、あなたは」

 

 どうして、わかってくれないの。

 ゆらり、ゆらり。立ち止まっていた身体を、壊れた人形のようにぎこちなく動かす。あなたの方へ。こんなに近寄ることは今まであっただろうか。約数センチのところまで、歩幅を埋めてあなたに近寄る。耳の先よりも更に上、首を曲げないと見えないあなたの顔を見上げる。やっぱり、あなたは私より大人だ。

 でも、違うんだ。あなたはまだわかってくれないけれど、もう違うんだ。

 私も、大人になってしまったんだ。

 

「……スカイ」

「諦めるな、ですか。前もトレーナーさんはたびたび、私にそう言ってくれました。そして私は多分、その言葉に救われていました。前の、私は」

 

 前の私は。子供の、私は。

 

「でも、もう変わっちゃったんですよ。今までの私をあなたがどれだけ知っていても、それは子供の私です。あなたのよく知るセイウンスカイは、かつての私です」

「君は今でも、セイウンスカイだろう」

「そうかもしれません。きっとそうでしょう。でも、人は変わるものです。成長するものです。大人になるものです。のんびりしてるくせに、頑張る時は頑張っちゃって。根性論なんか嫌いだったくせに、いつの間にか染み着いちゃって。そんな私はもう、いなくなっちゃったんですよ」

「そんなことはない、君は」

「そんなことは、あるんですよ」

 

 少し苛立ち混じりに、相手の言葉を言葉で潰す。対話の拒否。また少しずつ、離れていく。きっと、今までが近づきすぎていただけなのだろうけど。今だって身体の距離だけは、これ以上ないくらい近くにある。緩めの長袖のシャツと、ぼろぼろになった後の勝負服。二人の間にある服装の違いも、素敵な噛み合いにさえ思えるけど。

 

「私には、わかったんです。わかったから大人になって、大人になったからわかったんです。自分はここまで。ここが、絶頂。潮時。だから、ここで諦めたほうがいい。大人になったから、諦めがつくんです。今まであなたの言葉で励まされていた私とは違います」

 

 けれど、ここまでなんだ。どうしようもない才能という現実が、私の空を堕としてしまったから。

 

「トレーナーさんが私に諦めるなって言えるのは、私が子供だったからです。あなたが知っている子供の私は消えて、今はもう大人の私です。大人の私は、諦めることを肯定できてしまいます。他の大人の理屈に乗らず、自分で判断できてしまいます。だから、あなたの言葉は届きません。もうずっと、響いてきません」

「……そうだと、しても!」

「いい加減にしてください!」

 

 二人の声の残響が、強く痛く耳に残る。言葉は最早交わされず、ぶつけて相手に傷を作るだけ。ならきっと、もうすぐ終わり。

 絞り切ったと思っていた言葉は、再び腹の底から湧き出てくるようだった。底なしの、沼のように。湧き出る汚泥は、全てを沈める。

 

「私が、私のことを一番よくわかっています。そんなの当たり前じゃないですか、トレーナーさんだってわかってるでしょう。私はここまで、これはもう動かせない事実なんです」

 

 傷を作るために紡がれる言葉は、自分にとっても痛かった。それでも止まらなくて、私はゼロ距離で諸刃のナイフを刺し続けていた。

 

「なのに。私はもう終わりだって言ってるのに、それでもトレーナーさんは私を走らせたいんですか。それは本当に私のためですか? もうどこにもいなくなった、昔の私を追い求めてるだけじゃないですか?」

 

 返される言葉はない。ならば、これで終いだ。ようやく無益な会話が終わる。無益な関係が、終わる。

 

「それは、あなたのエゴ。私のための言葉なんかじゃない。私は私のことを考えてくれないトレーナーなんか要らない。必要ない」

 

 一歩、後ろに踵を引いて。その顔がどんなに苦しそうな表情をしているか、それもしっかりとこの目で見て。歪む口元も、揺れる瞳も。流れる汗の一筋まで、私はあなたのことを見ていた。

 

「出てって。もう、顔も見たくない」

 

 最後に見るあなたの顔は、それになってしまうのか。けれどそれを悲しむ資格は私にはない。何も言わずに顔を伏せ、まっすぐに私の横を通り過ぎて。がちゃりとドアを閉める時、「すまない」と小さな声が聞こえた。それでも、振り向かなかった。

 

 

 夕日より眩い電灯が部屋を照らしていた。部屋の暖房は効きすぎているくらいなのに、人一人減った分涼しく感じられた気がした。独りのぶん、暖房の音と時計の音もより大きく感じられる気がした。けれどそれらが変わったわけじゃない。変わったのは、独りになったことだけだ。

 あれから小一時間が経ったけれど、私はそこを動けないままだった。ドアが閉じられてすぐ、その場にへたり込んでしまったから。

 勝負服はくしゃくしゃになっていた。私の気持ちと同じだった。今日で着るのは最後になるのだろうと思うと、やっぱりなかなか着替える気にはなれなかった。だけどそれ以上に、心に空いた穴が私に何もさせないでいた。初めての経験。終わりを告げることがこんなにも、こんなにも辛いだなんて。

 私はあなたを拒絶した。そして歯向かう言葉さえ言いくるめて、あなたを完全に打ち負かした。「すまない」と、謝罪の言葉を引き出してしまった。私は、あなたを説き伏せてしまった。

 下劣な方法だったと思う。差し伸べられた手を振り払えば、傷付けるのは簡単だ。信じてくれる気持ちを蔑ろにすれば、踏み躙るのはいとも容易い。本当に、反吐が出そうなほど酷いやり方だ。そういう言葉を使って、私はそれでもあなたの言葉を討ってしまった。

 だから、私は。大人のあなたを真正面から倒せてしまった、私は。

 きっとやっぱり、大人になってしまったのだろう。あなたのような、素敵で優しい大人にはなれなかったけど。それもきっと才能だ。私は人に優しくするのに向いていないのだろう。いつの間にか好いてしまったその行為を、大人の私は向いてないのだと捨てていく。

 走ることも、語らうことも。何もかもを諦める、それが私が大人になるということだ。そうして、完成する。そうして、天頂に手が届いてしまう。これから先は、私にはない。幼年期が終わった後、更なる段階へ進めるのは限られた人だけなのだろう。私はそれではなかった、それだけなのだろう。

 私の成長は、諦めと共にあった。あの日幼い私は、諦めることで成長できた。回り道を回り道と理解し、今までの私を捨てることで。そして、今の私もまたそうしている。長い長いトゥインクル・シリーズにどれほどの価値を感じながらも、それが回り道だったと理解できた。だから、諦めるのだ。期待されたい、仲間と走りたい、褒められたい。そんな子供の私の願いは、全部、全部、全部。

 全部今の私によって、名前のないゴミ箱に捨てられた。全部まとめて、諦めた。だから私は、今ここにいる。だからこれは私にとって、必要な対価。

 いつか願った、大人になりたいという願いに。

 私は、たどり着いたのだ。

 

 




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