【完結】セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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変化と苦悩、そして変わってしまったものたち

 独りぼっちの控え室から出ていくのには、なかなかの時間がかかってしまった。理由は大きく分けて二つあるけれど、どちらも情けない愚か者の言い訳だ。今の私にお似合いの、最高に私らしい逃げ方だ。

 外に出るのが怖かった。あれだけこっぴどくトレーナーさんを拒絶しておきながら、もし待っていたらどうしよう、と思ってしまった。応援に来てくれたチームの皆をどうせ待っているだろう、と気づくのには少し時間がかかった。あの人は私だけのトレーナーではなく、チーム<アルビレオ>全員を支える大人なのだと気付くには。自分の視野の狭さに気づいて情けなくなって、それなら尚更外には出ていけないと思ってしまって。

 トレーナーさんは私のことを言わないだろう。そしてチームのみんなはそこから何かを察するとしても、触れはしないだろう。私が姿を現さない限り。だから、出ていけなかった。皆を困らせないために、出ていけなかった。

 いや、正確には。正確にはそんな皆を見てしまった時に自分が耐えられないのが嫌で、出ていけなかった。外は広い。生まれたばかりの大人には知らないものがたくさんある。私はそんな未知に触れるのが、怖い。今の私がどんな感情を持ってしまうのかが、怖い。

 そういう理由で、出ていけなかった。外に出て見知った顔を見つけて、もしかしたら駆け寄られて。それを大人の私は、受け止められなくて。そして、そのまま。そのまま、どうにもならなくて。寂しくなるのが、怖かったから。だから逃げている。それが今の私だ。弱くて情けなくて、でも誰にも頼れない。大人の、私だった。

 そして、理由はもう一つ。こっちはもっと、くだらない。過ぎ去った愛おしさを悔やむ資格もないと知りながら、それでも無為に時間を過ごす。救いようのない、愚か者の理由だ。

 あの後。トレーナーさんを拒絶した、あの後。あの後なんとか床から立ち上がって、私は着替えることにした。理由は当たり前のことで、そうしないと帰れないから。帰りたいなんて本当に思っていたかは、わからないけれど。

 そうして私は、控室の隅にある更衣室に入った。人一人しか入れないくらい狭くて、入り口にはカーテンが敷けるようになってあって。中には鏡が置いてある、どこにでもある更衣室だ。今までレースに出る度、何度も入った場所の一つだ。これも今日で終わりなのだと思うと、胸の奥で何かが蠢く感覚があったけど。私はそれを無視する。

 だってもう、私は大人だったから。

 一人きりの部屋だったけど、更衣室のカーテンは閉めた。いつもそうしていたから。たまにトレーナーさんや他のチームの皆がいる中で平然と着替えていたから、そんなふうなのが当たり前だったから。だから自然とそうしてしまった。もう、そうじゃないのに。

 汗だくの靴下を脱ぐ。ワンポイントのガーターリングを外す。すっかりくたびれた緑色のショートパンツを脱いで、ふう、と一息を吐く。何だかまた一つの儀式をしているような気分だった。さっきトレーナーさんに断絶を告げたのと、同じような。これもきっと、別れの儀式。今までお世話になった勝負服への、ありがとうとさようなら。自分は酷い人間だと思った。物言わぬ相手には何でも言えてしまう。あなたにはありがとうなんて、一言も言わなかったのに。

 

「……ごめんね」

 

 そう言って、スカートの裾まで腕を交差させた。棒っきれのような、何の価値もない腕だった。そのままぐるり、と服をひっくり返すと、鏡には肌色の肢体が映った。薄くて平べったいお腹のあたりにも、その下にはしっかり筋肉がついているのが見てとれた。鍛え上げられていて、何度も勝利を重ねて。けれどもう、何の価値もない。そんな身体だった。

 どんなに謝っても、無機物たる服から許す言葉は返ってこない。だから、言えたのかもしれない。つくづく私は卑怯者だ。そう思うことしかできなかった。

 そのまま、下着姿になって。早く服を着ればいいのに、私には鏡に映った自分の姿しか頭になかった。勝負服を脱いでしまえば、私はこんなにも貧相で、ちっぽけで。何にも持っていない。大切なものは捨ててしまった。大人になるために、そうしてしまった。大人になったからって前に進めるわけじゃないのに。それでも痛みから逃げるため、私はその道を選んでしまった。

 伸びているだけの脚、細くて折れそうな二の腕、弱さが剥き出しの丸い肩。そのどれにも、価値はない。周りに何もない私は、こんなにも弱い。勝負服を脱いで、周りの人も追い出して。これからの私は、ずっと弱いまま生きていくのだろう。弱さを隠せるだけの、それだけの役割を果たす薄い布を纏って。そういう服を、勝負服の代わりに身につけた。鏡越しの私自身だけが、弱い私を見つめていた。それを隠す瞬間まで、はっきりと。

 勝負服に、自然と目が落ちる。思い返せばこの勝負服は、私のトレーナーさんがデザインを考えてくれたものだった。私のために、あなたが願ったものだった。その想いが全て、込められたものだった。だから私は、今までこれを着て走ってきたのだ。あなたのために、走ってきたのだ。あなたに、この姿を見せるために。あの皐月賞の時から、ずっとそうだった。

 だけど、そうではなくなる。いや、もうそうではなくなった。終わってしまった。変わってしまった。だから、この勝負服も必要ない。……ここに置いていってしまうことも、可能だろう。もう着る機会はない。何の問題もない。そうだ、そうするべきだ。私はあなたを否定したのだから、その願いの結晶は私が持つにはふさわしくない。これは私の服だったけど、あなたのためのものでもあったのだから。

 そんなふうに勝負服を、ただずっと眺めていたこと。かつて私だったものを、変わってしまった瞳で見遣っていたこと。過ぎた時間に別れを告げられず、ただ停滞する足踏みで踏み躙っていたこと。それがもう一つの、私が出ていけなかった理由だった。愚かでどうしようもない、理由だった。

 けれど、その時は訪れる。きっかけはなんだったかわからない。飽きたのか、諦めたのか。ある瞬間に前触れもなく、糸が切れたように手のひらの力は抜けた。固く握りしめてしまっていた手を離すと、ぱさりと勝負服が地面に落ちる。私の手から離れる。本当に、私のものじゃなくなる。そして。

 そして、私は。

 

 

 すっかり陽の落ちた外の空を見つめながら、私は吊り革にぶら下がって電車に揺られていた。びくびくしながら外に出て、トレーナーさんの車がそこになかった時。ほっとしたのと同時に、胸の奥がずきりと痛んだのを覚えている。その気持ちは一体、何様なのか。そう己に怒りを覚えたことも、忘れていない。

 鞄の中の荷物は、行きと一つも変わらなかった。私は結局、勝負服を持って帰ってきてしまっていた。多分、これも逃げなのだと思う。大切だからとか、やっぱり頑張りたいからとかじゃない。切り離す勇気を持てない、弱い大人というだけだ。

 ガコンガコンと電車が揺れる。けれど揺れる音自体は少しも聞こえなくて、代わりに耳に入るのは人々の会話。疲れたとか飲みに行かないかとか、会社帰りの大人の会話。そう、今は大人の時間なのだろう。私が今まで触れられなかった、マジックタイムの後の後。夜を生きる人たちの会話は、それはそれで賑やかに聞こえたけれど。私はそれにも溶け込めない。大人になったのに、子供を惜しんでしまっているから。捨てられなかった勝負服が、その証明だった。

 

「あっ、あれセイウンスカイじゃないか」

 

 ふと、そんな声が聞こえた。こんな人混みの中からでも、目ざとく私を見つける声。きっとそれは、ファンの声。本来なら振り返って、挨拶でもするべきなのだろう。今までだって照れ臭くても、そうしてきたはずだった。だってその声は、期待の表れだったから。

 

(……ごめんなさい)

 

 でも、私は振り向かない。また心の中で、聞こえない中でなら謝罪ができた。ごめんなさい、私はもう私じゃないから。あなたが呼びかけたセイウンスカイとは、私はもう関係のない人間だから。

 トゥインクル・シリーズをひたむきに走っていたセイウンスカイは、私が消し去ってしまったのだから。諦めさせて、しまったのだから。

 だから。

 だから、ごめんなさい。

 そんな声にならない声が、頭の中で反響していた。ごった返す電車の中でも、私の声は誰にも届かなかった。

 

「……ただいま」

 

 そうして、帰ってきた。いつもの場所、一人きりの寮の部屋。そんな誰もいない空間に、帰宅を伝えるのも含めて何一つ変わらず。大人になったのなら、帰る場所さえ変えてもよかったのかもしれないけど。やっぱりその勇気も出なくて、私はここに帰ってきた。門限という子供の掟を、素直に守ってしまっていた。

 まずはさっさと服を脱いでシャワーを浴びた。疲れた身体を癒すためでもあり、何でもいいから温もりが欲しかったからでもあった。耳の先っぽから足の指先まで、全身の肌に染み付いた今日のことを洗い流そうとした。共同浴場に行く元気はなかった。もう限界だったから。何もかもが、限界だったから。

 だから多分、眠かった。早く意識を手放したいと思った。眠ったら全て変わるような気がした。今日のこれが夢でいいのになんて、そうは思わないけれど。天皇賞(春)は、立派なレースだった。私一人のエゴでそれをなかったことにしたいなんて思っちゃいけない。その後のことは全て、私一人の問題でしかない。

 だけど、眠りたかった。バスタオルだけを巻いた粗雑な格好で、間髪入れずにベッドに倒れ込む。びしょびしょの髪や身体が、涙の代わりに枕を濡らす。

 早く、眠りたかった。夢には出来なくても、過去にはしたかった。大人になったことが、当たり前だと思いたかった。まだ慣れなかった。早く慣れてしまいたかった。戻りたいとは思わなかった。思えなかった。思っていいわけが、なかった。

 けれど、そうやって考えるほどに目は冴えて。深夜一時に冷え切ったバスタオル一枚だけの私の姿は、どうしようもなく滑稽だった。まあ、服を着るのは明日の朝でいいだろう。眠るのも、明日の朝でいいだろう。だって、明日からは新しい毎日が始まるのだから。学校に行く気力も理由もどこかに消え失せた、新しい毎日が始まるのだから。

 だから、それでいいや。これも、諦めよう。

 夜が明けるまで、一人で凍えていた。

 

 

 朝焼けより先に眠りにつけた。目が覚めれば太陽は1番上まで昇っていた。朝ご飯も昼ご飯も、トレセン学園の授業も何もかもを捨て去っていた。一日が始まった感覚は、綿のようにふわふわとして捉えきれなかった。多分、これも大人なのだろう。私が今までやってきたままごととは違う、本当の意味で時間に縛られない生活だ。

 けれど、それでもそれほど世界は変わらないのだろう。私が学校をサボる理由が普段と違うからって、それが誰かに見えるわけじゃない。放課後に練習に向かわないのだって、昔はたまにやっていたことだった。だから見た目の上では、やっぱり私はセイウンスカイのままだ。それはきっと他人を安心させ、私にとっても逃げ道になる。本当は逃げてはいけないから、これも良くないことなのかもしれないけれど。

 もう、<アルビレオ>に戻るつもりはなかった。数日すればただのサボりじゃないと気付かれるかもしれないし、そうすればキングやトップロードさんが動くかもしれないけど。それでも、戻るつもりはなかった。

 私は、トレーナーさんなど必要ないと言ったのだから。もう走る意味などどこにもないと、そうあなたに告げたのだから。どれほど意志を通わせようと、どれほど心を重ねようと。そこにある信頼は、担当ウマ娘とトレーナーとしての関係だ。それは走る理由がないのなら、続ける理由のない関係だ。

 チームとは、そういう場所だから。そう思えなくなった時点で、私の居場所ではなくなるのだ。大人の私の、居場所では。

 

「はぁ……」

 

 またため息を吐いた空間は、相変わらず一人で薄暗かった。流石に着替えた。でも寝巻きだった。外に出る気力もなかった。すぐに昼間は終わって午後になった。何もない時間は酷く長く感じられるのに、一方で瞬く間に過ぎ去っていった。楽しい時間とは、真逆だ。

 これまでの時間は、きっと楽しかった。あの入学式の日、トレーナーさんが私を見つけてくれて。大げさだけど、そこから全ては始まった。そしてトップロードさんに連れられてチームに入って、いつしかレースに出たいと思うようになって。もちろん楽しい思い出だけじゃなくて、苦い思い出もある。あの日私に脱退届を渡したあの子。……あの子には、悪いことをした。

 

「セイウンスカイさんには、頑張り続けて欲しいです」

 

 そう言われたあの日の約束を、私は守れなかったわけだから。ごめんなさい、とまた言葉にせず謝る。言葉に出来ないのは、私が大人になってしまったからだった。

 皐月賞までで、<デネブ>と<アルビレオ>で一悶着あって。結局それは私の取り越し苦労で、次はダービーまで頑張って。ダービーから菊花賞にかけては、キングと随分話をした。高め合うライバルの存在を意識して、それがとっても嬉しくて。そんなふうに、過去の出来事を並べていく。精算するために。別れを告げるために。なぜならそれはもう、私のものではないのだから。

 有マ記念では、一番人気に応えられなかった。あれはもちろんグラスちゃんがすごかったのだけど、思えばその時点で私のピークは過ぎていたのだろう。だから、こうなった。不調の原因が単なる衰えだとは、流石のグラスちゃんにもわからなかったみたいだけど。でもそれは仕方ないことだ。だってグラスちゃんは、その先がある側の人なのだから。

 そして、私の最後のレース。天皇賞(春)。スズカさんの幻影を追いかけるスペちゃんに、私は負けた。そんな致命的な穴を抱えながら、私のことなんか見ていなくても。それでも強い者は強いのだと、その時はっきりわかった。だから、わたしはここまでなのだと。これから先走っても、大舞台で日の目を見ることなどないのだと。

 スペちゃんの誤りを正してあげられなかったのは、今でも少し残念だけど。それは敗者には与えられない権利だと、私はよく知っているから。走ることを諦めた者には二度とない資格だと、痛いほどよくわかっているから。

 だから、それも過去にしよう。噛み締めて、飲み込んで。飲み込めないなら、吐き捨てて。そうして、私は大人になる。そう、そうやって決めたはずなのだから。

 なのに、どうして。

 

(どうして、こんなに)

 

 どうして湧き立つ思い出は、それを楽しいと思わせてしまうのだろう。こんなにも、愛おしく。そんな身勝手な切なさを、尊んでしまうのだろう。それでもやっぱり私は、どうしようもなく変わってしまったのに。

 もう、何もしたくない。こんなに苦しいなら、進むのも戻るのも嫌だった。大切だった過去のことを考えても、先のない未来のことを考えても、どんな思考も私を優しく締め上げる。息の根が止まるまで、抱き締めるように締め上げてくる。もう、何も考えたくない。

 動きたくない。身体も、頭も。のんびり散歩なんてまっぴらだし、作戦会議なんてうんざりだ。今この瞬間こんなことを考えるのだって、絶え間ない苦しみが私を襲い続けている。

 何もなくなればいいのに、と思った。私という存在が消えてなくなればいいのに、と思った。こんなに苦しいなら、生きているだけで辛いなら。そしてその理由も見えてこなくて、気持ちを掘るたびに苦しさは増していって。終いには悩むことそのものに悩み、思考回路もわからなくなって。そんな状況は、泣き出しそうなくらい辛いものだったけど。

 やっぱり、涙は出なかった。

 やっぱり私は、大人だったから。

 部屋の片隅、ベッドの横。そこに一人で、うずくまっているだけだった。

 そのままの状況が永遠なら、消えてなくなれるだろうかと思った。それならそれでいいかもしれないと思った。食欲がないのも何もやる気がしないのも、そうすれば肯定できる気がした。

 そうやって、なんとか自分なりの光明を見つけて。それに全てを捧げんとする、その寸前だった。

 

「スカイさん、いるかしら」

 

 こんこんと、この部屋のドアをノックする音がする。

 

「スカイちゃん、いますか」

 

 見知った、聞き馴染んだ、親しかった、そんな二人の声がする。私を呼ぶ、声がする。

 

(……ねえ、どうして)

 

 声にはならない。その問いは弱音だから、声には出来ない。

 

(どうして、私なんかを)

 

 それでも、確かにそう思ってしまう。だからこれから私が述べる言葉は、全てそれの裏返しだ。

 喉は枯れてないだろうか。声は震えないだろうか。そんな恐怖を振り払い、私はドアの先に言葉を返す。

 

「帰りなよ、お二人さん」

 

 私に出来るのは、心無い拒絶だけなのだから。

 扉は、固く閉じられている。

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