きっと、言葉に色はない。どんなに単純なワンフレーズでも、どんなに浮ついたレトリックでも。いかに賛辞や侮蔑の意味が含まれていようと、それ自体には色はない。辞書をいくら眺めても人の心が揺さぶられないのはそういうことで、言葉というものは底の底まで透明だ。
しかし、言葉には色が付いている。一見矛盾しているけれど理屈は単純で、言葉は人が使うものだから。言葉を口にした瞬間に、そこには想いという色が付く。だから賛辞には賛辞の色が付くし、侮蔑には侮蔑の色が付く。そうして言葉というものは、人の心に訴えかけるものになる。取り返しのつかない傷をつけてさえしまえるようになるのだ。私が昨日、トレーナーさんにしたように。
だから、言葉の色は想いに依る。たとえば賛辞の意味でも侮蔑の意図を込めるのならば、それは毒々しい色の言葉になる。むしろそうやって表層の意味と深層の意図が一致していない方が、より人を傷つける言葉になりうる。言葉に色はないけれど、色の付け方でそれぞれのかたちを持つものだから。その差が歪であればあるほど、棘は醜く捻れていくものだから。
「帰りなよ、お二人さん」
そして、私の言葉はそういうものだった。気遣うように見せかけて、告げているのは拒絶と否定。キングとトップロードさんが伸ばしてきた手を、振り払って取らないという決意。覚悟、なんて言えるほど、格好のいいものではないけれど。それでも確かにそう決めていた。大人の私は、一人で全てを決めていた。私の末路に連れ添いなんていらない。断頭台へのレッドカーペットは、一人で登るものだから。
「今日授業に来なかったでしょう、貴女」
決して開かれないドアの先から、聞き馴染んだキングヘイローの声が聞こえてくる。いつもの声、いつもの色。彼女はいたって平静に、何事も勿れと思って話しかけているのだ。それは私への配慮の形の一つ。寄り添おうとする言の葉、だ。
「まあね、でもそんなに珍しくないでしょ」
そして、私はこう返す。会話は成立しているけれど、そこに込められた想いは違う。彼女の事勿れを是とし肯定する発言。彼女の配慮を無視し否定する発言。どちらにせよ共通して、本当に言いたいことは一つだけ。
「私のことなんか、放っておいて」
この一つだけ。だけどそれを直接は言わない。そうではない言葉に、そういった色を付けて送りつける。ちぐはぐな言葉こそ酷く浅ましく穢らわしく、そしてそれこそが今の私にはふさわしいから。誰も頼れない、大人の私には。
一寸の沈黙が入る。おそらく優しいお嬢様は、私の心無い一言にため息でも吐いているのだろう。仕方ないやつだ、などと。放っておけない、などと。まだ見捨てられない、などと。なら私に出来るのは、見切りをつけられるまで拒絶を重ねること。
訣別とは、そういうことだから。私だけが、独りだった。
「最初から全部ほっぽり出して部屋に引きこもるのは、貴女にしてはかなり珍しいと思うわよ」
「そうかな。気分屋の気分が変わっただけじゃない?」
「いいえ、そうなのよ。少なくとも私の知るセイウンスカイは、滅多なことじゃ狭苦しいところには閉じこもらない。貴女が授業をサボるのは、もっと自由を求める時でしょう。それが褒められたこととは言わないけれどね」
狭苦しい、か。確かに私が閉じこもっているこの部屋は、全てが閉じて開かれていない。そういえば狭いところは嫌いだったっけ。今は好き好んで閉じこもっているのに。けれどこれも変化、成長なのだろう。苦手だったものが苦手じゃなくなる、そんなのも大人になった証じゃないかと。だからそれは悪いことじゃない。自由を、求めなくなったのは。
「……まあキングがどう言おうと、私がサボり魔なのなんて、いつも通りと言えばいつも通りだし。多分そのうち元に戻るんじゃない? だって授業に出なさすぎたら、色んな人に怒られちゃうし。キングとか」
そう他人事のように語ってしまうのは、きっと本当に他人だからなのだろう。いつもの私。今までの私。君たちが見ていた私は、もういない。今ここにいるのは、セイウンスカイという名前だけが一緒の別人だ。多分、本人が一番そう思っている。自分で言ったように元に戻ることなんて、きっと永遠にないのだと。出来の悪い子供の私は、大人の私が殺してしまったのだと。子供を殺める大人こそ、きっと一番出来が悪いのに。
「……貴女ねえ」
「まあでも、そういうことだから。心配してくれたのは結構だけど、大したことじゃないよ。ご苦労様、なんてね。そのうち、元に戻るよ」
殺した子供の皮を被って。罪滅ぼしのために、大人の私は子供のふりをする必要があるのだろう。たとえば、今も。決して赦されない罪を濯ぐために。皆の大切な「セイウンスカイ」は、他ならぬ私が奪ってしまったのだから。
また挟まる沈黙。ドアで区切られた会話はまばらだ。キャッチボールすら一苦労だし、実のところ私はしっかり投げ返してはいない。その度にあちらが新しいボールを投げてきて、必死に言葉の応酬に見せかけているだけ。わたしの言葉に付いている色は、拒絶なのだから。
そして、また新しいボールが投げられる。新しい色が見える。それは私の心に揺さぶりをかけ、私は必死に私を守る。大人の私は、弱くて脆くて。そうでなければ、粉々になってしまうから。
新しい色の言葉を振りまいて来たのは、新しい人だった。これまで押し黙って、多分ずっと何かを考えていた人。いつも優しくて、きっと今も優しい人。そしていつも正しくて、だから今の私が触れてはいけない人。
そんなトレセン学園の先輩で、トゥインクル・シリーズの後輩。ナリタトップロードさん、だった。
「<アルビレオ>には、帰ってこないんですか」
そして、やっぱりその言葉はどこまでもまっすぐで。<アルビレオ>への勧誘をしていた、初めて会ったあの日と何も変わらなくて。まっすぐに、心を突き刺そうとして来て。
けれど、私の心はもうそこにはない。あなたは私を捉えられない。
「それは、わかりませんね」
私の方はもう、変わってしまったのだから。
「なんでですか、スカイちゃん」
「そりゃ流石にもう聞いたか、そうでなきゃ察したかしたんじゃないですか? トップロードさんは、他人の心を察せれる人でしょう」
「……トレーナーさんの様子が変でした。そしてスカイちゃんのことを、昨日は待ちませんでした。置き去りにして、帰っちゃいました」
「そうですね、それが答えです。トレーナーさんが酷いんじゃないですよ? 私が酷いことを言って、それで喧嘩になっちゃったんです。そしてそのまま、今に至ると」
喧嘩。本当にそうだったらどれだけ楽だっただろうか。幸せだっただろうか。あなたの言葉に付いた色が敵意だったなら、どれほど私は救われただろうか。実際は一方的に、私が傷を付けていた。トレーナーさんにも、自分自身にも。そうして、何もかもをめちゃくちゃにした。私の色は、どこまでもどこまでも汚かった。
「喧嘩別れ、ですか。なら、もう一回話してみませんか。勇気は要るかもしれませんけど、スカイちゃんとトレーナーさんなら絶対に話せばわかります。気まずければ間は取り持ちますし、だから」
だんだんと、トップロードさんの舌の回る速度は増していく。堰を切ったように、溢れて、溢れて。
「だから、開けてください。今から一緒に、私たちと一緒に。トレーナーさんのところに、私たちが連れて行ってあげますから」
だから、そうやって。致命的なくらい深々とした言葉で、あなたは私の心の中心を抉ってしまう。今の私の心まで、もう手が届いてしまう。
それは。
「それは、嫌です」
それは絶対に、止めなければならない。
「なんで、ですか」
「トップロードさん達とも、もう会いたくないからです」
「それは、なんでですか」
「聞いちゃうんですね、あなたにとって酷いことを言うに決まっているのに」
「いいから、聞かせてくださいよ」
「そんなの、簡単ですよ」
理由は一つ。けれどそれは言わない。輪郭に乗った要素を並べて、決してあなたそのものには触れない。汚すことはしない。理解できないと、拒絶してくれればいい。
そんなつもりで、また言葉を吐く。繋がらないフレーズを、淡々と。
「もう、元には戻れないから」
だからそんな人間に構うべきじゃないと、その本音は言えなかった。
「私はもう、走れないんですよ。デビューしたばかりのトップロードさんと違って、私はそれなりの期間走りました。そして、わかったんです。……ほら、酷い言葉でしょう? 夢に溢れたウマ娘に、残酷な現実を叩きつけるなんて」
「続けてください。私への気遣いなんて要りません。そんな気遣いなら、要りません」
「優しいんですね」
「スカイちゃんが優しいからですよ」
それもきっと、過去の私。今の私は冷たく、誰もかれもをあしらっている。死体と同じ声、死体と同じ姿形。思考に連続性があるだけのスワンプマン。だからその手はどんなに見た目や感触が変わらなくても、泥にまみれて腐っている。触れさせるわけには、いかない。
「……まあ、そういうわけで。わかったんですよ、無駄だって。これから先どんなに走っても、私には無駄」
「そう、ですか」
「はい。大舞台に立つことができるとしても、立つことができるだけ。私のためには、その舞台は存在しない。そんなところで走っても、何も楽しくなんかない。……トップロードさんにはわからないかもしれませんね」
最後に付け足した一言は、明確な断絶の色を付けるためのものだった。わかりようもないと言い切れば、それを否定することは難しい。強い口調はそれだけ言葉に色を付ける。深く、深く色を付ける。取り返しのつかない、色を。
「スカイさん、貴女ねえ……!」
「そんなふうに声を荒げたって、キングにもわかる気持ちでしょう。そしてトップロードさんにはわからない。事実を述べたまでだよ」
「それでも、その言い方はないでしょう」
「ないと思うならそれでいい。軽蔑して、帰ってよ。その方がお互いのためだって、そろそろわかってきたんじゃないかな」
お嬢様の激情に呼応して、私の口からも今までにない色が漏れる。諦めてほしい、そんな嘆願。今の私はなりふり構わず、無理矢理にでも断絶を告げようとしていた。
「これ以上やっても、何も得られない。だから、私はもう走りたくない。それだけです。……お二人とも、そろそろトレーニングの時間じゃないですか」
時計を見れば、会話の始まりからはしばらくの時間が経っていた。時間は進む。無慈悲に、冷徹に。そこまで会話を途切れさせ続ければ、私の「逃げ切り勝ち」だ。
そのつもりだった。ドアのむこうの様子なんて当然わかっていなかった。どれほど拳を握り込めていたのだろう。どれほどの激情を顔に浮かべていたのだろう。どれほどの想いが、その言葉を色付けたのだろう。
だん、とドアの外から強い打撃音がした。行き場のない力を叩きつける音だった。私に向けられていた優しさがついに捨てられた音だった。
「ふざけないで、くださいよ」
抑えきれない怒りを、トップロードさんが発露させた音だった。
「ちょっと、トップロード先輩」
「なにをふざけたこと言ってるんだって、そう聞いてるんですよ!」
またドアが揺れ、鈍い鈍い音がする。トップロードさんの拳が傷つき、私の心にも傷が出来る。拒絶して、断絶して、廃絶して。全てから見捨てられようとしたのに、いざ敵意を向けられるとそれは思っていた数倍痛くて。
私は、あんなに優しい人を怒らせてしまった。その罪は私の癒えない傷の上に、新しい傷を付け足していく。きっとこれも、癒えない。
「なんで、そんなことを言うんですか。全部無駄だって、意味なんかないって。私にはそれは、わからないって。わかりますよ、少しくらいなら。スカイちゃんが<アルビレオ>に入って頑張ってきたのを、私はずっと見てました。だからそのことは知ってるし、その姿に憧れだってしました。私の憧れなんですよ、あなたは」
「……そう、ですか」
「なのに、なのに、なのに! その頑張りを否定するんですか!? 今まで私が憧れて来たものは、無価値だったって言うんですか!? そんなの、ふざけてます。絶対に、許せないです」
そして、もう一つわかること。この怒りに付いた色は、私への敵意だけじゃない。未だ私を慈しむ、その語気とはかけ離れた優しい色が付いている。だからその言葉は、意味と意図の捻れたその言葉は。私のそれと同じように、他人の心をグロテスクに抉るのだ。
「……それに、約束したじゃないですか。いつか、一緒に走ろうって。それも、嘘だって言うんですか」
「……そうかも、しれませんね」
「なんですか、そんな他人事みたいに!」
だん。また痛々しい打撃音が、限界に近づいたトップロードさんから発せられる。私はそれほどまでに、この人を痛めつけてしまったのだろう。触れさせない、それだけでよかったはずなのに。
「スカイちゃんが、私の走る理由の一つでした。スカイちゃんと一緒に走るのが、私の夢の一つでした。……なのにそんな大切なものを、あなたと私の約束をっ……!」
嗚咽が混じる。そうなれば、崩壊は止まらない。そんなつもりじゃ、なかったのに。ただ私だけ傷付けば、それで良かったのに。
「ひぐっ……うぇぇ……ぐすっ……。そんなっ、そんなスカイちゃんとの宝物をっ、ひっくっ、そんなふうに他人事、他人事みたいに私から奪い去るんですかっ……」
もう一度、弱々しく拳を叩きつける音がする。先程よりも低い位置から。どうしようもないくらい泣き崩れているのだと、それでわかってしまった。
「ふざけないでくださいよぉ……っ! 私のっ、私の憧れたセイウンスカイはっ、そんな、そんな子じゃ、なくてっ……ひぐっ……ううっ……やだ、やですよぉ……」
それからしばらくずっと、ドアの先からはトップロードさんの啼泣する音だけが聞こえていた。私はそれを一つ一つ聞いていた。何か言葉を返さなくちゃいけないとは思った。拒絶したはずなのに、それで傷付かないはずだと思ったのに。取ることの出来ない責任に、手を触れてやらねばならないと思った。触れないことが傷付けるのなら、触れ合うしかないのだろうか。悩んで、悩んで、悩み尽くして。その間も嗚咽は止まらなかった。さめざめと、鼻水を啜る音が聞こえた。
「ごめんなさい」
そうして、私は言葉を口にする。大人になってから初めて口に出来た謝罪。そこに私が付ける色は、一体どんなものだっただろうか。
「トップロードさんの大切な夢を奪っちゃって、ごめんなさい。憧れの人のままでいられなくて、ごめんなさい。ずっと一緒に居れなくて、ごめんなさい」
謝りたかった。それでも確かに拒絶が混じっていた。全く違う色の絵の具を混ぜるように、私の言葉は濁りきった汚い色合いだった。もう傷付けたくないのに、どうすれば傷付かないのかわからなかった。拒絶しても触れても、きっとそれはあなたの綺麗な肌に傷をつくる。私がいなくなることさえきっと、許されるわけがない。
なら私に出来るのは、剥き出しの心を伝えるだけ。せめて敬意を払おうと、そうしていた。
「ごめんなさい。それでも、出て行くのは怖いんです。もう怖くて、一歩だって動けないんです。走るのが、怖いんです」
いつのまにか啜り泣く声は聞こえなくなっていた。私の声が届いていた。まだ繋がりが断ち切れていなかった。私が、再び繋いでしまっていた。
「ごめんなさい。こんな私になっちゃって、ごめんなさい」
だけどその繋がりは、しっかりと丁寧に断ち切り直すためのもの。今度こそ後腐れなく、別れを告げられるように。ここまで並び立ててようやく、私は謝罪という言葉のかたちの力に気付く。言葉に色はない。けれどかたちはある。だから色を付ける言葉を、人は慎重に選び取る。もっとも己の想いを伝えやすい、言葉のかたちを。
それを、今の私は出来ていた。
遠ざかる足音が、二人分。密やかに、けれど確かに聞こえた。謝罪という言葉のかたち。それは互いが互いを認める限り、肯定して受け入れることしか出来ないものだということ。許すことしか、出来ないということ。私とあの二人が確かに繋がっていたから、これまでみんなで積み上げて来た関係があったから。だからこそ、私の「ごめんなさい」は決定的な訣別の言葉となり得たのだ。
ああ、ごめんなさい。
そうふと、また謝罪のフレーズが頭に浮かんだけれど。何のために謝りたかったのかは、もうわからなかった。
その日の夜も、眠れなかった。
私はまだ、大人の自分に慣れられなかった。