二日目の眠れない夜は、よりずきずきとした痛みを私に与えてくれていた。自分は自分を粗末に扱っているという実感。だけどそれでいい、自分なんてそれでいいんだという諦観。その二つだけで生きていた。他のなにも受け付けはしなかったのだ。何もかも、誰もかれも。私は全てを拒絶してしまったのだから。だからその二つを感じられる時だけ、いのちの感覚が得られていた。
夜の空気は独特の温さと冷たさを持っていて、まだまだその中で起きているのは慣れなかった。けれど身体を動かす元気もなく、部屋の隅でまた小さくなっていた。このまま小さくなって誰にも見えなくなったらどんなに楽だろうか。そう一瞬考えて、その後に私のことを探してしまうだろう人達のことまで考えて、止めた。小さくなっても声は聞こえてしまう。どこかに逃げてもそれを探す姿を見つけてしまう。それから逃げ出す力さえ、もう残ってはいなかったから。
トップロードさんは、あれからちゃんとトレーニングに行けただろうか。あれだけ怒らせて泣かせて、私は最後まで随分と迷惑をかけた。けれどそれを直接は見なかったから、心無い言葉を投げ続けられた。薄っぺらで掠れた、出涸らしのペンキみたいな色の言葉だった。そしてそれを聞かせ続けて、キングとトップロードさんが帰るまで私は意固地にそうし続けて。けれど仕方のないことだったのかもしれない。残酷だけど、そうも思う。
だって、もう変わってしまったから。もうこれ以上、変われないから。ここが私の完成形、不自由で不器用な「大人」というものだ。
(ねえ、トレーナーさん)
心の中で。もう声すら出そうになかったから。声にしたら破裂してしまいそうだったから。だから心の中で、届かないからこそあなたに呼びかける。
(大人って、こんなに辛いんですね)
きっと今までの私は、あなたの辛さを半分もわかっていなかったのだろう。大人と子供にはこんなにも開きがあるのだと、大人になって初めてわかったから。寄り添えてなんかいないまま、そのまま全ては隔絶された。あんなに覚悟していたつもりだったのに、全ては無駄で空は墜ちた。多分、どうしようもなかったのだけど。
そう。これはもしかしたらどうしようもない、運命のようなものなのかもしれない。今までの行いに対する報い、そういうものなのかもしれない。不相応に期待されたいと願って、その通りの期待を受けてしまって。勝ってしまって、認められてしまって。負けても、走っていいと言われてしまって。その通りにやってきた私への、罰なのかもしれない。
あるいはその罰さえ恐れて、それを受ける前に逃げ出そうとしている。怖くて、怖くて。でも、それの何がいけないのだろう。たとえ誰も許してくれなくても、許されないことが怖くて何がいけないのだろう。判決を待たずに逃げられるなら、九割の犯罪者が罪を認めず逃げ出すはずだ。
だって、だって。
「……がんばって、きたじゃないかぁ……」
その搾りかすのような言葉は、確かに私の本音だったのだろう。私だけが、私の声を聞いていた。そうだ、私はただ許されたいだけだったのだ。ここまで頑張ってきたのだから、逃げてもいいと認めて欲しかっただけだったのだ。
それなのに、誰もが私に期待する。かつて喉から手が出るほど欲しかったそれが、今は恐怖の象徴だった。だからこそ、私は誰ともわかり合えない。皆は私に期待する。私は私に期待しない。だからそこに認識の歪みがあり、だから全ては進まない。
ぎしりと身体の何処かから、骨の髄まで軋む音がして。そこで思考は限界を迎え、私の存在はそこにあるだけの肉の塊に変わる。夜は、まだ長かった。まだ、耐えなきゃいけなかった。慣れたはずの二日目なのに、やっぱり今日の方が痛かった。
痛い、痛い夜だった。
※
目が覚めた時には、すでに日は昇っていた。目をつぶって意識を手放した記憶はなかった。眠れる気もしていなかった。それなのに、眠ってしまっていた。何故だろうなどと考えながら少しみじろぎしようとして、すぐにその理由を理解した。
身体に、力が入らない。肩にも、背にも、脇腹にも、腹筋にも、胸にも、首にも、二の腕にも、手のひらにも、太ももにも、腱にも、どこにも。力を入れてみようとしても、ぴくりぴくりと動かすのが限界。そう、私の身体は限界だったのだ。ほとんど眠らず飲まず食わず、精神も削って削りきって。それでは二日と保たないことなんて、少し考えればわかることだった。
誰もいない部屋。鍵のかかった部屋。そこで動けない私。助けを求められない独りぼっちの哀れな女の子。そういう状況が、いつの間にやら出来上がっていた。
あれ、私どうなるんだろう。もしかしてこのまま、弱りきって死んじゃうのかな。そうしたら、みんなを心配させちゃうかな。ああでも、その時にはもう私はいないのか。なら、いいのかな。このままが、正解なのかな。これが、運命なのかな。私ががんばってきた、けっかなのかな。
「……けて」
それなら、このままにしておくべきだよね。わたしなんて、いないほうがいいもんね。それくらいひどいことを、みんなにしちゃったもんね。だからきっと、それならゆるされるよね。そもそもいなくなっちゃうなら、ゆるすしかないもんね。
そう、そうだよ。だから、これでよかったんじゃないか。なんだ、かんたんなことじゃないか。
そう、だから。
「……たす……けて……」
なんでわたしは、そんなことをいっているの。なんでわたしは、たすかりたいなんてのぞんでいるの。なんでわたしは、まださきをみたいとおもっているの。
なんで、ねえ、なんで。やめてよ、さいごにそれをいっちゃうんじゃ、ぜんぶがうそっぱちになっちゃうじゃないか。じふんがわるいことにしたいのに、そうできなくなっちゃうじゃないか。それでまんぞくなはずなのに、あきらめきれてないみたいになっちゃうじゃないか。
やだ、やだよ。
おねがいわたし、わたしをさらけださないで──。
「──カイさん」
誰かの声が、私を止めた。
「スカイさん、入りますよ。もう一度返事がなかったら、入ります」
酷く聞き覚えのある、誰かの声。
「スカイさーん。……じゃあ、お邪魔します」
がちゃりと、固く閉じたはずの鍵が開く音がして。
「あっ、スカイさん! 大丈夫ですか、少し待っててください」
まだ切っていなかった縁。チーム<アルビレオ>と提携を結んでいる、チーム<デネブ>のリーダー。ニシノフラワーの姿が、そこにはあった。
「こっちの寮長のヒシアマゾンさんに頼んで、マスターキーを借りたんです。『私からも頼む』って言われました。部屋からずっと出てこないんじゃ、そりゃ心配されますよ」
部屋の明かりが久しぶりについた。太陽より眩しかった。そしてその明かりの中に居る、私以外の人間の存在も。言いようのないくらい眩しくて、思考がそれに刺激される。どこかに、通る回路が移る。
「スカイさん、ひどい顔してますよ。夜更かしはお肌の天敵なんですから、後しっかりお風呂も入って」
そういえば、マスターキーか。確かにそうすれば、強引に開けることはできてしまうな。なんだ、私は閉じこもれてなんかいなかったのか。思考は一歩遅れていた。現実を認識するのには、それくらいのタイムラグが必要だった。
「でもとりあえず、何も食べてないのはいけません。ほら、水筒もありますから」
何事もないかのように、ニシノフラワーは持ってきた荷物をテキパキと並べてゆく。教科書、ノート、筆箱に、そしてその下の目的物たち。言った通りの水筒と、弁当箱が二つ。そう、二つ出てきた。そして当たり前のように、そのうちの一つをその小さくて細い指で包んで持ち上げて。
「はい、スカイさんのぶんもありますから。一緒に、食べましょう」
当たり前のように、私にそれを差し出した。正午を少し、過ぎた頃だった。
「今日はちょっとサボりですけど、特例で許してもらえることになるみたいです」
ぱく、ぱく。フラワーから手渡された弁当の中身は、可愛らしい包装や盛り付けが為されながらもぎっしりと中身が詰まっていた。それをピンク色の箸で摘みながら、黙々とフラワーの話を聞いていた。素直に、美味しいと思った。
「そういえば昨日、花壇に植えてる紫陽花の花芽が少し開きそうになってたんです。もう梅雨の季節が近いなって思いました。雨って苦手な人も多いと思うんですけど、花が咲くためには必要だったりして。それでも降り過ぎたら駄目になっちゃうので、難しいんですけど。……美味しい、ですか?」
「……うん」
「なら、良かったです! それでですね、今日は他にもいいことがあって。何でもないことではあるんですけど、授業で当てられた時うまく答えられたんです。勉強した成果が出た瞬間って、努力が報われる気がしますよね。これも苦手な人は多いんでしょうけど、私は勉強が好きです。……それも、美味しいですか?」
「……うん」
取り止めのない彼女の会話に、相槌すら挟めずこくこくと頷き続けるだけの私。空きっ腹に優しい味のおかずが染み渡って、空っぽの胸に何でもない会話が埋まっていって。つながりが、確かにそこにはあった。まだ途切れていない、繋がりが。
「どうですか、どれが一番美味しかったですか」
「……この、焼き魚かな。やっぱりほら、魚好きだし」
「そうでしょうそうでしょう、そう思って入れたんですよ」
「なんだ、そういう」
「はい、喜んでもらえたなら何よりです」
ぱく、ぱく。もぐ、もぐ。そうやって弁当をすっかり食べ終わる頃には、私もまともな会話が幾分か出来るようになっていた。回復したような、回帰したような。失ってしまったあの頃に、今だけは戻ってきたような。
それを連れ戻したのは、紛れもなくフラワーなのだろう。何気ないように振る舞っているが、そのために彼女は来たのだろう。だって、彼女は。
そこで彼女は会話を一旦区切り、こちらに向き直ってから口を開く。シアンとマゼンタの深く絡み合った、パープルカラーの瞳でこちらを見据えて。そう、だって。
「スカイさん。あの時の約束、覚えてますか」
だって、彼女は私の導。あのバレンタインの日に取り決めた、救いの契約を果たすために来たのだから。
「バレンタインの時、私はスカイさんにお願いされました。覚えてますか、スカイさん」
「……うん、覚えてるよ」
「スカイさんが、どうしようもなくなっちゃった時。誰にも頼れないくらい、大変になった時。その時は私に任せるって、そう言ってくれましたよね」
「……まぁ、ね」
「私は、そのために来ました。今がその時だと、そう思ったからです」
その時のフラワーの予感は、確かに的中してしまった。これ以上、ないほどに。私は君の言う通り大人になって、誰にも頼れなくなってしまった。そしてその時のセーフティ、最後の命綱がフラワーの存在だと。あの時結ばれた契りは、そういうものだった。
けれど。
「ありがとう、フラワー。……でもそれをお願いしたのは、やっぱり昔の私なんだよ」
けれど私は、それでもその手を握り返せない。どんなに予見していても、救いようのない悲劇からは救うことができない。たとえ、本当の私が助けを求めていたとしても。あの声が嘘ではないとしても、やはり大人は嘘を吐かなければいけないのだから。
「大人になるってさ、想像してたよりあっけないよ。多分フラワーが見てる私は、前と変わらないように見えると思う。そんなもの。ひょいっと、越えてしまえる壁なんだ。でもさ、フラワー」
いつかのように、何度もしたように。確かに私たち二人は語らうけれど、そこに纏う空気は変わってしまっている。でもそれを引き戻しに、小さな少女は大きな覚悟を決めてやってきたのだろう。それなのに、私はその偉大さをわかっていて踏み躙ろうとする。
最低だ。心底、そう思った。
「そこにある壁は越えるのは簡単だけど、戻るのはとっても難しいんだ。だから、私はフラワーの言葉は聞こえない。何を言われても、届かない。……意味が、ないんだよ」
そうだ。だから、諦めて欲しい。私に諦めてもいいって、許して欲しい。ああけれど、君もそうではないのだろう。私に何かを期待している。私が昔のように喋り出すのを喜んでいる。そこにある言葉は同じでも、込められた色は変わってしまっているのに。
「だからお願い、フラワー。昔の私じゃない、今の私からの、お願い。私のことを思うなら、このまま帰って欲しい。何も、言わずに」
ならば、私はそうしよう。古き契約が君を縛るなら、私はそれを上書きしよう。私みたいな愚か者に、これ以上付き合う必要はない。誰も、だ。皆が求めているのは昔のセイウンスカイで、今の私じゃない。今の私は、誰にも望まれていない。私自身さえ、助けを求めてしまうのだから。
そこまで全部、吐き出して。また心は黒く染まる。沈んでいく。今度こそもう、引きずり戻せないところまで。
そのはず、だった。
「そうですか。ならスカイさん、少しの間黙っててください。私が、勝手に喋ります」
「……え」
「ほら、私語厳禁」
「ああ、ごめん」
「もう、二回目です。……なんて、それくらいの反応はいいですけどね。じゃあ、喋ります。少し、長いお話です」
そんな唐突な切り出しから、フラワーの語りは始まりを告げた。優しく撫でるような、柔らかな声だった。
「最初にスカイさんと会った時、覚えてますか? <デネブ>でのトレーニングを始めるってその日に、トレーナーさんに紹介されて挨拶して。その時最初に思ったのは、何だかふわふわした人だってことでした。捉えどころのない、そんな人だって。でもそのふわふわは、誰かを受け止めるためにあるんだって、一緒にトレーニングしていくうちに、何度も会ううちにわかりました。そんなふうに印象は変わったけど、スカイさんはスカイさんでした」
「懐かしい、かもね」
「はい。懐かしいけど、今に続いてるスカイさんの印象です。いつでも助けてくれる人。いつでも、笑いかけてくれる人。たとえ自分が苦しい時でも、それを隠して代わりに他人のことを見ちゃうような、そんな人。……だから実は、嬉しかったんです」
「何が?」
「あのバレンタインの日、私を頼ってくれたことです」
……それは、少し意外な言葉だった。背負わせてしまったと思っていた。だからそれから解き放とうとしていたのだ。今だって、その途中のはずだ。君はこんなふうにナイフを投げられることを、嬉しいと言ってしまうのか。
「スカイさんにも、不安なことがあって。私の知らない、スカイさんがいて。それでも、スカイさんはスカイさんで。だから、やっぱり私はあの時のスカイさんの言葉に応えたいんです」
「それを、今の私が望んでいなくても?」
「……はい。だって今のスカイさんも、その時のスカイさんも。スカイさんは、スカイさんです。だから、そのお願いはまだ生きていると思います。たとえ、スカイさんがスカイさんじゃなくなっても。私は、あなたのそばにいたいんです。どんなあなたでも、いいから」
参ったなあ。フラワーが、こんなに頑固だなんて。こんなにも、私を見透かしてしまうなんて。今の私なんかを、見てくれるなんて。
「だめですか、スカイさん」
つーっと、そのアメジストのような瞳から透明な雫が垂れる。ああ、また誰かを泣かせてしまった。けれどフラワーは泣きながら、笑っていた。私に向かって、微笑みを投げかけていた。
どうして、そんなに優しいのかな。フラワーだけじゃない、キングも、トップロードさんも、みんなみんな。きっと、優しさを向けている。そうか、違ったんだ。みんなは過去の私を見て、それに期待したんじゃなくて。今の私を見て、その奥に過去の私を見つけていたから期待していたんだ。変化はある、成長はある。けれど、変わらないものもある。そういう、ことなのかもしれない。
「……ごめん、フラワー。まだちょっとよくわからない。泣かせまでしたのに、ごめん。まだ、無理だと思う。ずっと、無理かもしれない」
「それでも、いいです。待ちますよ、ずっと」
「駄目だよ。もう私は、君の憧れにはなれないよ」
「どんな人になっても、スカイさんはスカイさんです。……っとすみません、もうこんな時間だ。トレーニングにも、いつでも来ていいですから。でも来なくても、明日も私は来ますから。今度は鍵、開けてください」
そう言って、荷物をバタバタと慌てるように片付けて。一筋の涙痕を斜めに残しながら、ニシノフラワーは嵐のように去っていった。私だけを、残して。……いや、あれ。
「私の分の弁当箱、忘れちゃってるじゃん」
私が握りしめたままだったそれだけが、彼女の去った後に残されていた。あーあ、どうしよう、これ。流石にトレーニング場まで返しにいくのは、今の私には出来ない。けれど、その代わりにもならないけれど。私にも、出来ることはあって。
腹に入れたばかりの栄養を使い、ゆっくりとフローリングから立ち上がる。水道のほうに向かい、乾いた手で蛇口を捻る。スポンジと洗剤くらいは部屋の中にもあるから、弁当箱を洗うくらいは私にも出来た。
今日、これを洗って。
明日、返そう。
明日フラワーが来た時に、返してあげよう。そして今度は忘れてしまわないように、もう少しだけ落ち着いて話せたら。
少し、そう思った。大人として、落ち着きを与えられればと。初めて、大人を活かせそうな気がした。今はまだ、でもいつか。前へ進めるかもしれないと、一瞬だけそう思ってしまった。
一瞬だけ。それが終われば、また思考は虚に帰る。進めたとしたら、その一瞬だけ。
少しだけ。君と、一緒に。