その日の夜は、ベッドの上に寝転がっていた。昔の私が着ていたパジャマは、着てみればすんなり馴染んでしまった。昔と今で、変わらない感覚だった。何の違和感もなく、布団にくるまっていた。そうして目を閉じればやはり、この三日間のことが思い返されてしまった。
まだ、眠れない。けれど、その理由は僅かに変わっていた。まだ私に、変化があるのだろうか。それともこれは、変わっていなかったものがその姿を再び現しただけなのだろうか。それはわからない。けれどわからないから、考えていた。みんなのこと。繋がりを断ち切ったはずの、みんなのことを。
キングは、いつも通りの態度を貫こうとした。私が元の場所に帰れるように、そのままの距離感を保とうとしていた。私が変わってしまったのなら、そのぶんを自分で埋め合わせしようとしてくれていたのだ。多分、私のために。かつてのセイウンスカイの居場所に、今のセイウンスカイが入り直せるように。
少し怒っていたのも、あくまで他人のためだった。嗜めるような、私を元の道に正すような。ダービーの時あんなにくしゃくしゃだったお嬢様とは全然違うな、と思った。けれど、それはそれほどおかしなことではないのだろう。人は変化する。成長する。私が変わったように、キングも変わっている。けれどそれでも彼女は、紛れもなくキングヘイローだった。お人好しでどうしても人の悪口が言えない、いつもの優しい王様だった。
トップロードさんは、いつもとはかけ離れていた。私が、そうさせてしまった。彼女の感情を爆発させたのは、私だ。怒りに打ち震え、悲しみに涙を流して。私のせいで、いつものトップロードさんは崩れてしまった。私のせいで。
けれどその怒りは、私に向いていたはずのその怒りは、私への想いやりにも溢れていた。愛と憎がめちゃくちゃに入り混じった、混沌とした色の言の葉だった。それはきっと、トップロードさんらしくはないけれど。トップロードさんだからこそ、出てきた言葉なのだろう。変わらなくても変わってしまっても、誰もが自分らしいまま。ならもしかして、私も。そう、考えてしまう。諦めたはずのものに、手が届くんじゃないかって。
けれど、考えるだけ。実際に手を伸ばす勇気は、今の私にはどこにもなかった。だから夜のにおいに包まれながら、柔らかくて暖かい布団に埋まりながら。思考だけを、まだ進め続けていた。それだけは、進んでいた。
フラワーは、きっと随分変わった。出会った日からの印象の差は、ひょっとしたら一番かもしれない。それでも、彼女が私に同じことを告げたように。ニシノフラワーは、どこまでもニシノフラワーだった。だから、私を助けに来たのだろう。私の助けを求める声を、聞き届けてしまったのだろう。
変わったのだ。しっかりしているはずなのにどこか不安そうで、ほっとけないフラワーはもういない。今はむしろ私が、放って置かれていない。まるっきり逆転して、それでも私と君の間に繋がりがあることは変わらない。そう、それは変わらなかったのだ。かつてのフラワーではないとしても、彼女はニシノフラワー以外の何者でもなかった。変化と成長、それを果たしただけだった。私は散々、昔の私はどこにもいないと言っていたのに。
きっと、誰もがそんなことは知っていた。その上で、今の私と昔の私が変わらないのだと言っていた。当たり前のことだった。変化と成長は、それをどれだけ重ねても断絶は生まない。どんなに上に積み重なっても、その下にあるものはゼロにはならない。当たり前の、ことだった。
なら、私は。
「……どうしたら、いいのかな」
おもむろに、独り言が漏れ出た。誰かに問いかけるような、けれど誰も聞いていない。そんな行き場のない言葉。……ああ、でも。でも、かつてはそれを拾ってくれる人がいたな。独り言だったのに、それを聞いてたみたいに掬い上げる人。夜中に電話をかけてきたり、二人きりの帰り道で唐突に見抜いてきたり。そうして暑苦しい正論を私にふっかける、面倒な男の人がいた。
どうしてるかな、トレーナーさん。私が出会ってきた中で、一番変わらなかったのはトレーナーさんだった。もちろん、見えてなかったところが見えるようになった。見せていなかったものを見せるようにしてくれた。けれどそれは彼の裁量で、私は多分何も暴き立てていない。トレーナーさんのことを、変えれてはいない。
きっと、それは大人だったから。今ならそうわかる。大人になってしまえば、それは誰しもひどく不器用で。なかなかどうして、変われない。私が何を言われても、変わることができなかったように。
どうしたら、いいのかな。ここまで全てを壊して、それでも皆は手を差し伸べてくれる。罪を償う必要なんてないって言ってくれる。みんなに酷いことを言ったのに。あなたにも、酷いことを言ったのに。私が一番、それを許せないのに。
ねえ、トレーナーさん。
大人って、苦しいですね。
そんなあなたに初めて寄り添えたかもしれない言葉は、心の外には出ていかなくて。夜の黒色は、静謐だけを湛えていて。それからしばらくして、思考は微睡の闇に落ちた。閉じた目が、開かなくなった。全身の筋肉が、ゆっくりと弛緩していった。ぐっすりと、眠れた。
※
「ああすみませんスカイさん、昨日弁当箱忘れていっちゃってましたね」
「いいよ。気にしないで」
「でもちゃんと、今日も持ってきましたから。また一緒に食べましょう」
「……なんか、ごめんね」
「いいですから、ほら。食べますよ、スカイさん」
「うん、ありがとう。……いただきます」
「はい、召し上がれ」
ぱく、ぱく、ぱく。今日も、フラワーは当たり前のように私の部屋に来た。今更だけど寮も違うのに、わざわざ。そして私はそれを招き入れ、今日もこうして一緒に昼の食事をしている。繋がりを、保とうとしていた。君の方からだけではなく、私の方からも。
「──それでその時、トレーナーさんがこっそりお菓子を差し入れてくれて」
「なるほど。やっぱりそれも<デネブ>のトレーナーさんお手製?」
「はい。それがもう美味しくってチームのみんなで美味しい美味しいって言いながら食べて、それで」
「……あのさ、フラワー」
「……はい、なんでしょう」
緩やかに続いていた会話に、一抹の暖かさを感じながらも。ふと、といった感じで、私はフラワーに向き直る。昨日涙を流していたその眼を、もう一度見つめて。
「昨日は、ごめん。本当に、ごめん。迷惑もかけたし、泣かせもした」
「……いいえ。迷惑だなんて、思ってませんよ。言った通り、嬉しかったですから」
「フラワーがそう言っても、私が私を許せないよ。……そう、そうなんだ。私はどうしようもないくらい、悪い大人なんだよ」
ずっと、許されたいと思っていた。逃げてもいいって、それを認めて欲しいって。けれど、許されないと思っていた。だから皆が私を引き止めようとしているのだと思っていたし、だから私はそれを拒絶しようとしていた。許される、ために。
けれど、それは逆だったのだ。皆は最初から私に罪なんか背負わせていなかった。私を私とわかっていて、沈みゆくそれを救おうとしていただけ。罪を重ねたと認識していたのは、他ならぬ自分自身だった。過去のセイウンスカイと今のセイウンスカイを被害者と加害者の関係に置いていたのは、私の方だったのだ。
私が、私を許していなかったのだ。
「悪い大人、ですか」
「そう。そうなったと思った。元の私には戻れないと思った。だから元の私に戻そうとする人は、みんな私の敵だと思った。だから、拒絶しようとして。……ごめんね、フラワー」
また、自然と口から謝罪が述べられる。謝罪という言葉のかたちは、口に出すのが難しい複雑なかたち。丁寧に扱わなければ、すぐにひしゃげて壊れてしまう。けれど、それは特別なかたち。想いがどんな色をつけたとしても、それをしっかり伝えられる特別な言葉。謝罪という言葉のかたち。それは互いが互いを認める限り、肯定して受け入れることしかできないもの。だから、その言葉は強くて。
「……いいんです。いいんですよ、スカイさん。スカイさんが謝るなら、私はそれを許します。絶対に、何があっても」
きっと、確かに心を震わせる。君だけじゃなく、私の心も。
ようやく、もう一度。わかり合えたのかも、しれない。
「そういえば今日は、午後までここにいますから」
「えっ、授業は大丈夫なの?」
「スカイさんだって授業に出てないじゃないですか。お互い様、ですよ」
「それは、そうだけどさ」
数分の間を挟んだ後再開された会話。堂々としたサボり宣言は、前触れもなく行われた。私が他人にとやかく言えないのはその通りなのだが。
「嫌なら、スカイさんも授業に出たらどうですか」
「いやあ、私はサボり常習犯だから」
「でも今のは、いつものとは違うでしょう」
「……それ、キングにも言われたよ」
まあきっと、キングとフラワーの言う通りなのだろう。いつものサボりなら、心配はしない。それもある種の信頼。そしていつもと違うなら、それをめざとく見つけてしまう。それもやっぱり、信頼。私が私であるという、信頼。
それを持てていないのは、自分自身だけ。私はこの後に及んで、私を許せていないのだ。だからやっぱり私の行為は、私を肯定するための行為。許されたい私ではなく、許したくない私を肯定するための歪な言葉の数々。全ての拒絶も否定も、今度こそ罪を重ねるためにある。
けれど、もし。もしも、それでも誰もが私を許すなら。私は一体、どうすればいいのだろう。許されないと願うことが過ちだなんて、そんなことはきっとわかっている。もうそれはわかっていて、それでもその考えは止まらない。だからやっぱり私は、道を違えたままなのだ。
結論は違えど、道のりは同じ。私は間違っていて、皆は正しい。それなら永遠に、交わらない。
「まあでも、ゆっくり待ってますから。そのためなら少しのサボりくらい、きっと大目に見てくれます」
「大目に見るって、授業と関係ない理由じゃ許してなんかもらえないよ」
「私の中では、許されてるんです。……なんて、とんでもない悪い子の発言ですね」
「そうかも。でもそれならフラワーのことは、私も許すよ。自分だけじゃ足りないなら」
「ありがとうございます。でもそれならスカイさんのことも一緒ですよ、きっと」
「……そうかな」
「そうですよ」
許しが足りないのなら、より多くの人が許せばいい。そういうものだろうか。けれど確かに自分は、そうやってフラワーを許そうとしてしまった。自分には自分の吐いた言葉は適用されないなんて、そんな都合のいい話はないのかもしれない。私も、許されうる。あらゆる手段を講じてでも、何度それを振り払っても。救いの手は必ず、伸びてくる。私が私を許せるようになるまでずっと、だ。
そしてフラワーが私のそばに居ようとするのも、その一環でしかない。こちらが道を違えるのなら、共に違えて寄り添おうという意志。そう、そうすれば確かに道は交わってしまう。一度間違えてでも手を繋げる距離まで近づけば、繋いだ手を正しい方へ引き戻せる。そのために、我が身が傷付いても。
私はずっと、誰かを傷付けたくなかった。それなのにみんな、みんな。みんなはどうして、私の方に手を伸ばすの。そうすれば自分が傷付くと、きっとわかっているのに。自ら傷を付けてまで、私を掬い上げようとするの。
その時脳裏に浮かんだのは、一人の優しい人の顔だった。何故だか、ふと。そのまま、呟いてしまうほどに。
「……トップロードさんも、そうだったのかな」
「トップロードさんが、どうかしましたか」
「ああいや、フラワーには関係は」
「スカイさん」
「……ごめん、話すよ」
「はい。聞きますね」
彼女を傷付けたことは、私一人で背負う罪だと思っていた。だって、私が悪いのだから。けれどそれすら、一緒に背負ってくれる人はいる。そして、それだけでもなくて。
「私、トップロードさんを怒らせちゃったんだ。酷いこと言って、『私の知ってるスカイちゃんはそんな子じゃない』って言われちゃった。あんな優しい人を、怒らせた。それは、私が悪いんじゃないのかな」
「……うーん、それは一理ありますけど」
「そうでしょ? だから、私はやっぱり悪いんだよ」
「でも、それだけじゃないと思いますよ」
ぱん、とその幼い両の手を合わせて。これぞ名案、といった感じでフラワーは言葉を広げていく。それは確かに名案だった、かもしれない。
「怒るのって、怒る方も辛いものじゃないですか」
「そうだよ。だから、私が悪い」
「だけどそれって、怒られた側が辛いってわかるからじゃないですか」
「それは、どういう」
「だから多分トップロードさんも、後悔してると思います。それはスカイさんが今しているのと、きっと同じことです。怒られたからって、わかり合えないわけじゃないんですよ」
「……そう、なのかな」
「はい。だって今私、スカイさんにちょっと怒ってますから」
「えっ、そうなの」
フラワーにも怒られてしまったか。だけどそれを伝えることも、きっと信頼と親愛の証。ならトップロードさんの激昂もまた、私に寄り添いたかったから。そう、なのかもしれない。
「いつになったら元のスカイさんに戻ってくれるんだろうって、業を煮やしてますよ、私」
「……それなら、無理かもしれないよ。もう、ずっと」
「そんなことないですよ。きっとみんな、そう信じてます。信じてるから、大丈夫です」
「優しいね、フラワーは」
「スカイさんが優しいからですよ」
「それもまたトップロードさんに、同じことを言われたな」
「えへへ、私誰かと同じことばっかり考えちゃってますね」
けれどそれは、二人の発言の裏打ち。キングとトップロードさんの気持ちに、フラワーは共感しているということ。この三人は、同じことを考えているということ。
私に戻ってきて欲しいと、そう考えているということ。
戻る。戻ったとして、多分本当の意味で元の私に戻るわけじゃない。この数日重ねた醜い行為は消せないし、その上に生きていくしかない。その上を、進んでいくしかない。まだ、進むしかない。けれど、居場所がそこにあるのなら。
前に進めるか、それは問いかけるものではなくて。前に進んでから、その上で考えるものなのだと。
だからまっすぐ、どんなに彷徨ってもまっすぐ進める。あるいは私は、ようやくそのことに気づくのだ。
※
ぴろりろ、とスマホが鳴り響いたのはフラワーが帰るか帰らないかという瀬戸際くらいの時間帯だった。電話をかけてきた相手は、先程まで私が名前を挙げていた人だった。きっとこれは偶然ではなく、必然。私があなたのことを考えていたように、あなたも私のことを考えていたのだろう。
同じことを、考えていた。
一瞬、フラワーの方を見る。彼女はにこりと笑って、ただ一言。
「大丈夫ですよ、絶対に」
そう言って、ぽんぽんとその柔らかい手のひらが私の肩を叩く。丸くて薄べったくて、一人じゃ前に進めなくなった小さな肩。それを、押してくれる。
なら、進もう。受信アイコンをスライドさせ、恐る恐る、けれど震えない手で。
「今から時間ありますか、スカイちゃん」
「はい、トップロードさん」
あの日冷たいドアに叩き付けてでも届かせようとした、彼女のその握られた手を。
ドアを開いて、指までほぐして。しっかりと、私は掴み返した。
前へと、進み始めた。