トレセン学園のだだっ広い構内には、普段使われていないような教室がいくらかある。誰もこなくて、埃を被っていて、見向きもされなくて。けれどそんな場所だからこそ、救えるものもある。私がトップロードさんに、そこに呼び出されたように。
南館奥三階の312号教室。今まで一度も行ったことのない、今日初めての場所。もしかしたらトップロードさんにとってもそうかもしれないし、あるいは逆にトップロードさんにとっては馴染みの場所なのかもしれない。そのどちらなのか、私にはわからない。まだあなたについては、知らないことがたくさんあるのだから。だからまだ、この関係を途切れさせるわけにはいかないのだろう。そう思いながら、歩みを進めている。
「ちょっとスカイさん、私もついてきてよかったんですか」
「いいよ。私がもし変なことを口走りそうになったら、フラワーに止めてもらわなきゃ。もう二度と、失敗なんてできないんだから」
「……そうですか。それなら、喜んで」
「うん。よろしく、フラワー」
制服に着替えて、弾けるように寮を飛び出して。そしてこうして学園への道をフラワーと共に駆けるまで、そこまで戻るのは一瞬だった。私が私に戻る速度は、歩み始めた瞬間から加速し続けていた。でも、まだ足りない。今までゼロどころかマイナスに進み続けていた私が元に戻るには、まだ足りない。
「久しぶりの校門だ」
「緊張しますか、スカイさん」
「ううん、何百回も通ったところだもん」
「それでも、今のあなたにとっては初めてです」
「……そうだね。でも」
「はい」
「でも、怖くないよ。この先に進めばいいって、そのことだけはわかってるからさ」
「はい。行きましょうか」
「うん。もちろん」
だから、まだ足りないから。まだ、前に進む余地があるのだ。戻るのは、そっくりそのまま同じ場所にじゃない。今の私に新しく用意された、少し先の未来の居場所なのだから。
「廊下は静かに走りましょう」。久方ぶりに訪れた場所の校則を思い出し、人通りのまばらな廊下をフラワーを連れて走っていく。ただの棒っきれになっていた脚に、再び新しい血が巡り始めていた。全力には、程遠い。もう永遠に全力には、届かないかもしれない。それでも、走っていた。私は再び、走り始めていたのだ。
階段を一つ登る。また廊下を走る。平べったいリノリウムの感触が、足の裏から全身を静かに揺さぶりかける。無我夢中で脚を回す感覚。少し厚い踵の皮が靴越しに地面と触れる感覚。どれもこれも懐かしくて、どうしようもなく馴染んでしまう。どれだけ否定しても、否定しきれないものだった。
「スカイさん、笑ってますよ」
「えっ、そうかな。見間違いじゃない?」
「少しだけでしたけど、見逃しませんよ」
「……どれくらい笑ってた?」
「ちょっとだけ、口の端っこを二センチくらい。溢れちゃった、って笑みですね」
「……参ったなあ」
本当に、参った。理屈を積み上げて、一生懸命に大人になろうとしていた。それが幸せで無くても構わないと思っていた。全てが否定することを心のどこかで望みながら、一方で自分が自分を認められないことに苦しんでいた。だから色々な酷いことを、心底頑張ってやっていた。頑張れば認められる気がしたから。多分、そう思っていたから。
なのに。
なのにそれを止めるのを、頑張らないことを嬉しいと思ってしまっている。この数日の努力なんか、無駄になってもいいと思ってしまっている。私は大人になっても、結局は甘っちょろいセイウンスカイのままだった。フラワーに呼び止められて思ってしまったのは、そんなある種の当たり前だった。当たり前のように、前と変わらない自分がそこで立ち止まっていた。
けれど、もう一度冷たい床を踏み締める。少し西日の差してきた校舎の中を、前へ、前へ、前へ。変わらない自分もいて、けれどそうやって変わる自分もいる。だって物事はなんだってコインの裏表、ひっくり返せば真逆のものがくっついているんだから。
こつ、こつ、こつ。階段を再度、一段一段登りゆく。弾む足音、揺れる世界。視界と身体が揺れ動けば、同じぶんだけ世界も響く。だからあっという間に壊れてしまう時もあるけれど、それを修復することは不可能ではないのだ。堕ちてきた空だって、きっと元のように張り直せる。ううん、元のようにじゃない。
「トップロードさん、来ましたよ」
元よりも、キレイな青空に出来る。私だけじゃない、私たちならば。
がらがらと、ドアをスライドさせて。
そこに、二人の影を見た。
ひどく見慣れた、形だった。
※
「久しぶり、スカイさん」
「なんだ、キングもいたの」
「トップロード先輩にお願いされたの。そういう貴女も、付き添いが居るみたいだけど」
「……なんだ、スカイちゃんと考えることは一緒でしたか」
「そう、ですねえ。二人きりで話すのは怖いって、そんなとこまでお互い様でしたか」
午後五時を超えた教室は、誰もいなくて当たり前。私たち以外は。教室に入って右側にある真っ新な黒板と、左側に押し込められた机と椅子の山。この時間帯の教室は誰もいなくて当たり前だけど、もとよりここは使われていない教室。本当に、私たちだけの場所。キングと、フラワーと、トップロードさんと、私。いつしか出来た繋がりは、ここでようやく。
ここでようやく、実を結ぶ。そういうことかもしれない、そう思った。
「スカイちゃん」
「はい」
「今日は、来てくれてありがとうございます」
「はい」
「そして、本当にごめんなさい」
「……それは、お互い様ですよ」
「だとしても、です。お互い様なら、こちらだって謝らなきゃいけません。あの日スカイちゃんが、私に謝ったように」
互いに互いを認める限り、謝罪というものは受け入れて肯定するしかない。だから、口に出すのには勇気がいる。だけど、それをトップロードさんは口に出せた。あなたも、勇気を振り絞ってくれた。
「ごめんなさい。私のわがままで、それを止めることが出来なくて。いつだって頼れる先輩で居たかったのに、そう出来なくて。……スカイちゃんより、子供です」
「そうですね、そうかもしれません。私は大人になってしまいました。大人になって、みんなのことを傷つける大人になってしまいました。だから、私が大人なら。きっと駄目な大人ですよ、あなたより。……ごめんなさい」
「もう、謝らないでくださいよ」
「ごめんなさい。やっぱり、謝らなきゃって思います」
いざ言葉にしようとすると、私の口からはまた恐れをなしたフレーズばかり。やっぱり、一人じゃここまでしかいけないのかもしれない。大人になったら、誰にも頼れず一人なのに。
でも、それでも。誰にも頼れなくても、それでも。
「……スカイさん、落ち着いて。今日はみんな、スカイさんの話を聞きに来たんですから」
私には、それを追いかけてくれる人がいる。追いかけて捕まえて、並び立ってくれる人が。フラワーの言葉で、私はまた支えられて。一人じゃないって、そんな気がして。すーっと息を吸う。ふーっと吐き出す。茜色の差し込む窓際に立つ、二人のウマ娘と。その反対側に立つ、私とその傍らの少女を見て。
「話しても、いいですか」
ぽつりと、呟いた。無言の肯定が、私を迎える。傾いた太陽と三人の目が、じっくりと私を見守っていた。
「有マ記念で、グラスちゃんに負けた。多分それが、私にとっての終わりの始まりだった。一番人気に応えられなかった。そんなもの関係ない、実力さがあるんだって多分そこで思っちゃった」
滔々と、言葉を重ねる。限りなく無色に近い、純粋無垢なかたちのもの。多分、素直になれていた。今でも過去でもなんでもいい、それは私の言葉だった。
「それで、エルが海外に行った。もっと先の夢を見つけて。その時に、自分はどうなんだって多分思った。クラシックの成績で満たされて、そこで終わりなんじゃないかって」
先のある人間。先のない人間。その差が、きっと怖かった。それは才能であり、期待を裏打ちする何より残酷な事実。実力の差が、怖かった。
「それで前の春の天皇賞で、スペちゃんに負けちゃった。あの時のスペちゃんは完璧じゃない。多分私と同じ、不完全な状態だ。それでも、強い子は強いんだよ。そう、わかっちゃったんだよ」
「そうね。グラスさんもエルコンドルパサーさんもスペシャルウィークさんも、憎たらしいくらいに強い。……私も、思うもの。私は並び立てているのか、って」
「……そう、キングの言う通り。でも、キングはまだ頑張ってる。私は逆で、これ以上先には何もないって直感しちゃった。だから、先に閉じようとしたんだよ」
「それで、スカイちゃんは。……私、スカイちゃんのこと何にも分かってなかったですね」
「いいんです、トップロードさんはやっぱり悪くない。回りくどいことをして、素直に言えなかった私が悪いんです」
だから、今度こそ。
「走るのが怖い。だから、助けてって」
私は素直に、助けを求めなければいけない。
「走るのが怖くなりました。そうなったらやっぱり、走るのは苦しいです。これ以上走ったら、失望されるだけです。セイウンスカイはこんなものかって、期待を裏切るだけなんです。それなら最初から期待されない方がいい。それでもがっかりはされてしまうかもしれないけど、期待を重荷に感じてしまうよりよっぽどいい」
堰を切ったように、私は弱音を吐き続ける。そのかたちは先日みんなにぶつけた拒絶と大して変わらないけれど、そこに乗っている色は全く違う。醜悪で穢らわしい、自分自身を痛めつけるための色とは違って。
助けて欲しい。そんな、薄くて深い色だった。
「私はだから、大人にならなきゃいけないって思った! そうしなきゃ耐えられない、きっと寂しくなるってわかってたから! ……なのに、みんな優しくて。それでもいいよって、言ってくれて。それなのに私自身が、私のことを許せなくて。元の場所なんて戻る資格がない、そう言い聞かせられてきて」
涙が溢れそうになる。私に泣く資格、あるのかな。自分のことなんかで泣いて、いいのかな。
ああもう、わかんないや。溢れちゃった。
「だから、だから! だからみんなのことも嫌いになりたかったのに、嫌いになんかなれなくて! そうしたら嫌われるしか、方法は見つからなくて! でも、嫌ってくれないの。キングもトップロードさんもフラワーも、みんなみんな優しいの」
「スカイさん、それはスカイさんが優しいからですよ」
ぽふり。ぎゅーっ。泣き崩れてしまった私の後ろから、小さくて暖かい体重がのしかかる。優しく、柔らかく。けれど確かに、私を抱き止めながら。ニシノフラワーは、言葉を続ける。
「スカイさんは、スカイさんが思っているより優しい人です。優しくて、強い人です。自身なさげに走っても、いつのまにか勝っちゃう人です。今日も少し走っただけで、嬉しくて顔が綻んじゃう人です」
そうなのかな。涙交じりの思考は、ただ言葉を受け止めることしかできない。これ以上ないくらい、素直にそのまま受け取るだけ。けれどそれで十分なのだろう。私たちの関係なら、きっとそれでも語り合える。
次に会話を引き継いだのはキングだった。これはきっと想いのバトン。だから話者が変わっても、そこに込められた色は一つ。それを伝えるために、この空間は私たちだけのために開かれている。
「そうよ、スカイさん。貴女は走るのが怖いと言ったけれど、それならそれに負けている私はなんで諦めてないのか不思議に思わなかったの? それでも、走るのは楽しいからよ。私は何度か、負け戦のリプレイを見るようにしているけど。菊花賞の時の貴女は、最高に幸せそうな顔をしていた。そんな貴女が走るのが怖いなんて、ありえない」
「でも私はっ、きっともう、変わっちゃって」
そんな何度も述べた否定と拒絶も、今の三人には敵わない。三人がかりの想いの力には、一人きりでは敵わない。私の本当の願いは、今強引に開かれようとしている。強引だけど、これしか方法はない。随分と荒療治だとしても、この道のりしかあり得ない。
最後にバトンを受け取ったのは、トップロードさん。あの日の怒りより強い想いを、限りなく優しい声音で差し伸べる。より強い想いを持てたのなら、あの日の怒りも無駄じゃなかった。きっと、そういうことでもある。
「ううん。違うんですよ、スカイちゃん。スカイちゃんはまだ、私たちの話を聞いてくれるじゃないですか。あの日私を怒らせたことも、悪いって思ってくれちゃったじゃないですか。それはとっても、とーっても大事なことです。スカイちゃんがスカイちゃんのままだって、その証明です」
「私の、まま……?」
「はい。スカイちゃんも本当は、とっくにわかってるんじゃないですか? 確かに、変わってしまったことはあるんだと思います。あなたにとって大事だったものが、見つからなくなったり。けれど、それならまた探せばいいんです。それが大事だって気持ちは、絶対に変わってないんですから」
「だい、じ。わたしの、だいじな、ことは」
「きっと、探せば見つかります。それを整理するためにも、まずは思いっきり泣いてください。……大丈夫、私たちしか見ていませんから」
それが、本当の赦しだった。私は、泣いてよかった。助かりたいって思ってよかった。まだ走りたいって、思ってよかった。そこで思考は止まり、後はただただ感極まっていた。静かに、音はなく。きっとキレイな夕空を映した雫が、柔らかい木の床に溶けてゆく。
そのまま、しばらく。全ての気持ちが、ほどけてゆくまで。
※
「落ち着いたかしら」
「うん、なんとか。気持ちの整理ってやつは、多分済ませた」
気付けば太陽は月と入れ替わり、すっかり夜になっていた。教室の時計は大体午後八時。うわ、そんなに話して、あと泣いちゃったのか。なかなか貴重なはずの三人の時間を、私のためだけに使わせてしまった。多分後で、埋め合わせが必要だ。とりあえず、そう思ったけど。
「……じゃあ、行ってくるよ」
「……トレーナーさんの、ところですか」
「はい。今の時間なら、一人でチーム部屋にいますよね? 会って、話をしてきます」
「大丈夫、ですか」
「大丈夫ですよ、トップロードさん。先程言った通り、気持ちの整理はつきました。それに」
「それに?」
それに答えるために、私はようやく立ち上がり。笑った膝をなんとか手で押さえながら、全てを見据えて宣言した。
「ここから先は、大人の時間。大人二人で、話をしてきます」
「……そうか。スカイちゃんはもう、大人なんでしたね」
「はい。やっと、大人になれました。これは間違いなく、みんなのおかげです」
みんなのおかげで、立ち直れた。みんなのおかげで、元の私に戻れた。そしてみんなのおかげで、元の私より更に先に進むのだ。これはきっと、とても遠大な回り道。だけど必要な、回らなければいけない第四コーナー。
最後の直線は、近い。そしてそこへの行き方も、その果てにあるゴールも。今度こそ、私は知っている。私の気持ちの、正体を。
「じゃあみんな、本当にありがとう。特にフラワーを連れてきたのは、私だし」
「いえ、スカイさんの力になれたのなら何よりです。それが嬉しいって、言ったじゃないですか」
「そだね。なら、またいつか頼るかも」
「はい、またいつでも」
「でも今は、一人で行くよ」
「はい、それもきっと大事なことですから」
ようやくまともに立てるようになって、少しよろけながら教室の扉をスライドさせる。これじゃやっぱり、みんなを不安にさせてしまうかも。そうは思いはしたけれど、誰も追うそぶりは見せなかった。これもきっと信頼と期待。私なら、うまくやれる。そう信じてくれるのなら、私はそれに応えるだけだ。
「じゃあ、キング」
「行ってらっしゃい」
「トップロードさん」
「頑張って、ください!」
「フラワー」
「とりあえず、今日はさようならですね」
「……うん、みんな。ありがとう、また明日!」
そう、とびっきりの笑顔で言い残して。向けた背中はとても軽くて、まるで大きな翼が生えたみたいだった。もしかしたら本当に、三人がかりで私に羽を生やしてくれているのかもしれない。そんな突拍子もない考えが浮かんだ。それからは振り向かなかったから、本当に背に羽が生えているのかいないのかなんて感覚でしかわからない。
でも、もし本当に生えていたのなら。
それはきっと白く大きな、
さあ、最後の星を掴みに行こう。アルビレオは二重星。あなたと私で、一つの輝きなのだから。