【完結】セイウンスカイは正論男に褒められたい   作:春華ゆが

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廻天

 駆けろ、星の速さで。願い叶えるほうき星を、見失ってしまわないように。今度こそ、置いていかれないように。校舎の三階からチーム部屋までは百メートルとちょっと、いつものレースなんかよりとっても短い。だけど、長い長い道のりだった。ここまで来るのが、とっても遠かった。これは回り道かもしれない。もっと効率的に動けたかもしれない。でも不器用な私たちには、きっとそれくらいの長さが必要だった。だから、無駄じゃない。

 校舎を飛び出したところで網膜の隅にまで焼き付いたのは、満天に煌めくキレイな星空だった。この空を、私は生涯忘れることはないだろう。だって今日は運命の日。私が大人になる、大切な日なのだから。

 何度も行き来した記憶を辿り、馴染み深い場所に行く。たった数日来ていないだけなのに、幾千幾万の夜を超えたように錯覚する。それほどまでに、愛おしい場所。抱き締めて、離せない場所。私の、居場所だ。

 僅かに荒れた目的地までの地面は獣道のようになっていた。その上をなぞる様に軽く脚で擦り付け、また新しく地面に傷跡が出来る。これも、私たちの積み上げたものの一つだ。私たちが何度もこの場所に通うことで、ここに道が出来ていた。おかげで私は今、夜の闇の中でもその光を見失わずに辿れている。もうほんの少し先、あと30mもないラストスパートもラストスパート。古ぼけた小さな小屋は、今も変わらずそこにあった。うん、明かりもついている。そこで、あなたは待っている。ゴールのその先に、あなたの姿を見ることができる。

 怖い。きっと怖い。そうじゃなきゃ、こんなに呼吸は荒れていない。幾多のレースを乗り越えた心臓が、はち切れそうなくらい苦しくなったりしない。でも、それでもなのだ。ゆっくりと減速する。脚は徐々に回転を緩める。止まった時には、見慣れた扉が目と鼻の先にある。それでも、私は。

 

「入るよ、トレーナーさん」

 

 それでも私は、あなたのために。あなたと私を救うために、ただ話をするために。ぎこちないノブを回して、軽くて重い扉を開けた。

 返事なんて、待たなかった。

 

 

 部屋の外からでもわかったことだけど、明かりはトレーナーさん備え付けの机にあるデスクライト一つ分だけだった。相変わらず埃っぽくて、ごちゃっとした部屋だった。狭くて、小さくて、なのに誰でも飲み込んでしまう、不思議な場所だった。

 ドア近くにあるスイッチを入れると、ギラギラと眩しい蛍光灯が部屋中を照らす。隅の隅まで、闇が消えてしまうまで。そうしてやっと、私はあなたの姿を見る。何着同じのを持ってるのかわからない薄手のカッターシャツ。その袖から伸びる骨張った腕。昔できただろうタコの消えていない、ゴツゴツとした節のある指先。そんないつも通りの姿形で、必死に書類と向き合っていた。

 暑苦しいな、といつもは思っていたけれど、こうして見ると苦労を重ねた手にも見える。多分きっとその通りで、トレーナーさんも大人になるまでに苦労があったのだろう。そうして大人になった後も、今日までのように苦労を重ねて来たのだろう。人は変わる。人は苦労する。それは大人になってもで、どこまで行っても完成しない。むしろ他人を安易に頼れなくなった大人の方が、より辛い時もある。ほんの少し前の私のように。今必死に私を無視する、トレーナーさんのように。

 

「自分はもう、セイウンスカイには必要ない」

 

 多分、トレーナーさんはこう思っている。私が言った通りに律儀に、愚直に。これが私の本当の罪。強くて堅い大人の弱みを、一筋に貫いて崩してしまった罪。あなたは私の言葉を受け止めてしまった。大人だから、あんな拒絶を真っ向から受け止めてしまった。私の身勝手な「正論」。あなたと私は違うという、当たり前のこと。

 それは、確かに当然だ。トレーナーとウマ娘は、非対称のパートナー。どれだけ重なり寄り添えど、決して一つにはなり得ない。そんな、当たり前。だけどだからこそ、私にはあなたが。二重星は双星の輝きから成ることで、初めて世界を照らせるのだから。

 だから。私にはあなたが、必要だ。

 

「トレーナーさん」

 

 あなたの目の前に立つ。あなたが目を逸らしても、月の作る影が重なるように。そして影から生まれる光さえ、重なってしまうように。それでもがりがりと黙々と、いつもあんなにうるさいのに押し黙っているトレーナーさんがいて。……ああもう、じれったい、なあ!

 がしり。ひたすらにインクを走らせるそのざらざらした右の手の甲を、無理矢理上から握りしめて。大きくて、掴みきれなくても。ぎゅっと、ぎゅっと捕まえて。すかさず逃げ出す左の手は、その手首の太い骨ごとわっかに閉じ込められるよう全部の指を回して。デスク越しの攻防はあっけなく終わった。まあヒトとウマ娘のパワーの差、ってやつかな。

 ほら、捕まえた。こうなればもう、あなたは私の顔を見るしかない。私も、あなたの顔を見るしかない。逃げられない。お互いに。

 だから、もう一度。

 

「トレーナー、さん」

 

 今度こそ、話がしたいんだ。

 冷たい沈黙が場を包む。それでも怯まずあなたの方を見つめ続ける。こちらに目が向いてくれるまで、ずっとだ。捕まえた両の手も動かさないし、これ以上暴れるならウマ乗りになってでもとっちめてやる。そのつもりだ。

 もう二度と、私たちの間に断絶が生まれないように。どんな静寂も世界を引き裂かないように、私はあなたを待ち続ける。そう、決めたのだ。

 私はあなたを拒絶した。私はあなたを壊そうとした。大人なんだから耐えられるだろうと、甘えた言葉を投げかけた。でも、そんなわけはなかった。大人でも辛いことはある。大人の方が辛い時もある。大人になった、私ならわかる。

 だから。

 

「……なんだ」

 

 だからこれから始まるやりとりは、大人同士の会話なのだ。大人だから言えること、大人同士だから言えること。ほら、あなたも口を開いた。いつもの暑苦しい言葉が出てきそうにもない、いつも通りのかさついた唇。やっぱり、あなたは変わっていない。もちろん変わったところもあるけれど、それでも変わらないところはある。

 

「……言いたいことがあって、来ました」

 

 だってこうやって最後には、私の瞳を見据えて話を聞いてくれるのだから。

 蛍光灯よりもデスクライトの光よりも、窓の外の星空がキレイだった。

 

「なあ、腕を離してくれないか」

「それはお断りします。全部聞いてもらうまでは、この態勢です」

「君もしんどいだろう、机に前のめり」

「トレーナーさんほどじゃないですよ、壁に押し付けられて」

「君のせいだ」

「そりゃ、もちろん」

 

 はあ、とため息を吐かれた。ちなみにその顔は常に50cmくらいの距離を保って見つめてやっているので、定期的にそっぽを向かれる。そんなに気恥ずかしいか、自分を追い出したウマ娘に見つめられるのは。

 まあ、それでも。どんな態度を取ろうと、トレーナーさんはトレーナーさん。あの日私が別れを告げて、今再び取り戻そうとしている人。いつも私を励ましてくれて、そのくせわかりやすく一人で悩むこともある人。私にとってかけがえのない、あなた。だからこそ、私はあなたに伝えたい。

 

「まずは天皇賞(春)の日、すみませんでした。……とりあえずこれは言っておかないと、何も言う資格がない気がして」

 

 思えば最近の私は謝ってばかりだ。拒絶のために、懺悔のために、結び直すために。それでもそれだけ、罪を謝ることの意味は深い。そこに込められた人の想いを、ありありと映し出す透明な鏡。だから私はきっと、今までそれを躊躇してきた。だから私はきっと、今ならそれを言えるのだ。

 

「本当に、ごめんなさい。酷いことを言いました。謝って許してもらえることじゃないのもわかります。……それでも、この気持ちは伝えなきゃって思って」

「……君は、悪くないだろう」

 

 そしてやっぱり躊躇いがちに、だけどあなたは私の言葉に言葉を繋げてくれる。会話は細い糸を結び合うようなもの。一度ほどいたものを再び結び直すのは、散らばった糸屑から目当ての色の糸を探し当てるようなものだ。難しいけれど、不可能じゃない。あなたの言うように努力すればきっと、結果に必ず結びつくもの。

 ようやくで、まだ拙くて。けれど、確かに。

 大人の時間の、大人の会話。そこに、辿り着いた。

 

「悪くない、ですか。まだ、そう言ってくれるんですね」

「そうだ。……あれから、俺も考えた。スカイを追い詰めたのは、俺が君に結果を出させることが出来なかったから。それなのに、期待を見せ続けていたからだ。それが負担になっていた。そのはずだ」

「確かに、そういう見方もできますね」

「トレーナーの仕事は、ウマ娘の夢を実現させることだ。つまりそれが出来なかったとしたら、それは俺の責任なんだよ。君の才能、なんかじゃなくて。だから、君は悪くない。悪いのは、俺の方だ」

「……はぁ」

「これ見よがしにため息を吐くな」

 

 むう。そうは言うが、そりゃそうだろう。そんなのは綺麗事、まさに正論。それだけじゃないって、大人ならわかるのに。この人は大人だからこそ、また根性論と正論で押し通そうとしている。つくづく、ずるい。ずるいのは私だけでいいのに。

 

「あのですね、トレーナーさん。一つ、教えておきますけど」

「なんだ」

「弱音を吐いたのに否定されるのも、それはそれで辛いんですよ?」

 

 だから、あなたには私の罪を否定するんじゃなくて。

 

「……それは、すまん」

「はい。だからもし、私に悪くないって言いたいなら」

「どうすれば、いい」

「認めてください。私のことを、褒めてください。……それだけで、いいから」

 

 罪も含んだ私の全てを、肯定してほしいのだ。

 

「スカイは良くやっている」

「もっと」

「そうだな、気配りもできるし頭も回る」

「もっと、ください」

「レース運びにはいつも惚れ惚れさせられる。あとはそうだな、ケーキは美味かったし、釣りもうまい。それに、優しい子だ。……それと」

「あーもういいです、慣れないことを要求するもんじゃないですね」

「そうか。だが、君はよく出来たウマ娘だ。偉いぞ、スカイは」

 

 ……いっつも褒めないくせに、こんな時だけ。ぽつぽつとぎこちないくせに、その分いつもよりまっすぐな言葉で。ああもうほんとに、心の底から思うけど。

 苦手だなあ、この人のことは! 出会った時から、ずーっと!

 

「もう、わかりましたから。トレーナーさんが、私を買ってくれているのは。……そうですね、それが期待と賞賛というものです。子供の私が欲しくて欲しくてたまらなかった、だけど諦めようとしていたもの。それに気づかせてくれたのが、トレーナーさんでした」

 

 ならば。それならば、私も出来るだけ素直な言葉を返そう。そう思って吐き出した言葉は、今まで何度も食んでは出さずに呑み込んでいたもの。だから多分どろどろで、きっと他の人には見せられない。でも、あなたになら。

 

「それでも、私は更にそこから変わっていった。だからいつまでも、子供じゃいられなくなった。変わってしまったこともあると、やっぱりみんなと話した結論はそれです。私は、変わっていました」

「聞かせてくれないか。君の言う、結論について」

「……もちろんですとも」

 

 いつのまにか互いの身体の力は緩み、ただ向かい合っているだけ。両の手のひらを繋いで、そのまま向かい合っているだけ。手のひらと手のひら越しに、あなたの熱が伝わって。普段は低い私の平熱を、暖かく染め上げる。

 

「私はずっと、あの春天で思い知らされたものを勘違いしていました。今の私には才能がなくて、だからどうしても勝てないんだって。有マもそう、春天もそう。そう思うことで、別のものから逃げ出していたんです。走るのが怖い、そう思うことで」

「なら、君は走れるのか。もう一度、夢を見せてくれるのか」

「それは結論が早いですよ、トレーナーさん」

「……すまん」

「謝らなくていいですってば。話をややこしくしてるのは、私が悩み続けてたからですよ」

「悩むことは必要だ。それで前に進むことができる」

「流石の正論ですね。まあ、今回は同意します。私は悩んだことで、この結論に辿り着きました」

 

 悩まなければ、きっと自分でも気付けなかった。悩んでこれだけ回り道をして、皆に支えられたから。そして今あなたが応えてくれたから、私は答えを述べられる。

 

「私は、走るのが怖くなったんじゃない」

 

 少しだけ、けど確かに違う結論。その方向に。

 

「私は、負けるのが怖かったんです」

 

 私はようやく、前に進んだのだ。

 

「それは当たり前のことだ。何も恥じることじゃない」

「そうですね。でも、多分今までの私は恥じていました。そうすれば期待に応えられないのだと、恐れていました。だから知らず知らずのうちに、考え方を変えていました」

 

 それがおそらく、グラスちゃんが本当に言いたかったこと。スズカさんにも気付かれたこと。

 

「私は負けて、悔しいって思うのを忘れるようにしたんです」

 

 それが本当に、私に足りなかったものだ。

 

「悔しい、か」

「はい。だって悔しいって思っても、私はこれ以上伸びはしない。多分有マの時から既に、『才能』に縛られていたんですよね」

 

 悔しいことを忘れてしまうこと。そうすれば、全てを出し切ったことになる。負けても悔いはないと、強制的に思考を止めること。そうすれば私は、失望への恐怖を堰き止めることができる。だから、そうしていた。期待を裏切らないいい勝負だったと、敗戦を無理矢理美化することで。

 私は誰の期待も、裏切りたくなかったのだ。

 

「才能がないと、失望されるのが怖かった。惨めに負けて、次がないのが怖かった。だったらこれが全力だと、健闘したって認めてもらえればいいんだって。そう思わないと、怖くて耐えられなかった」

「君は勝てる。これからも、だ」

「優しいですね、トレーナーさん。でもあの時の私は、その言葉が一番怖かったんです」

「……それは」

 

 私の言葉に反応して、トレーナーさんの栗色の瞳がぱちくりと見開かれる。そう、多分驚くと思ったのだ。だから多分、これが一番言わなきゃいけないこと。私とあなたの会話は、そのために再開されたのだ。

 

「トレーナーさんの期待が、一番嬉しかったです。だから一番、裏切りたくなかったんです。だから、あの時。あの時私は、諦めようとしたんです。……もうこれ以上、あなたの担当ウマ娘の負け戦を見せないために」

「俺の、ため」

「まあ、私のエゴですけどね」

 

 誰よりもあなたに、負けた姿を見せるのが怖かった。次があるって言ってくれるあなたの、次がなくなるのが怖かった。あなたを諦めさせるのが、たまらなく怖かった。だから先に諦めようとしたのだ。私が勝手に。そうすればあなたは傷付かない。あなたが挫折を経験する必要はない。そんな醜い思いやりから、この堂々巡りは始まった。私の怒りの正体は、あなたへの想いをあなた自身に否定されたことから生まれたものだった。身勝手で、だけどそれしか浮かばなかった。

 とても哀れでちっぽけだけど、私という大人にとってはじめての、大人同士の気配り。そしてそれを意図せず蔑ろにされたのが、全ての始まりだったのだろう。今となっては笑うこともできない、間の抜けた話だ。

 だけど、トレーナーさんはそうは言わなくて。優しく、やさしくうけとめてくれて。

 

「やっぱり君は優しい。俺はそこまで考えが及ばなかった。……すまん」

「なんで、なんで謝るんですかぁ……」

 

 謝られたら、肯定して受け止めるしかないのに。あなたは悪くないって、そう言いたかったのに。

 

「やっぱり、俺の責任だ。これは本心だ。君の悩みに気付けなかった。君の配慮に気が回らなかった。君の否定を受け入れることが、せめてもの償いになると思っていた。……だが、そうじゃなかった」

「……はいっ、はいっ……! そうじゃっ、ないんです。私は、わたし、はっ……!」

 

 また、泣いてしまっていた。今日二度目だ。拭うべき手のひらはあなたの手のひらをぎゅっと握りしめていて、涙はそのまま頬をぽろぽろと伝い落ちる。でも、いいや。泣きながらだけど、私はそれが全てを取り払ってくれる気がして。一度目に零し切れなかった感情を、全てを流し落としてくれる気がして。

 

「私はやっぱり、走りたくて……っ! 負けるのは怖いけどっ、才能だってやっぱりないんじゃないかって思うけどっ……! それでも、それでも期待されたくて、褒められたくて」

「いいんだ、それでいいんだよスカイ」

「……いいんですよね、私が自信を持っても」

「もちろんだ。それを保証するのがトレーナーの仕事だ」

「いいんだよね、私が夢を持っても」

「当然だ、俺はそのためにいる」

「ならっ、ならっ……!」

 

 涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃで、きっととってもみっともない。それなのにあなたは私を逃してはくれなくて、ずっとこちらを見つめている。私を、認めてくれている。

 一度だけ、吸って、吐いて。やっぱりもう一度、すーっと吸ってふーっと吐いて。うん、最後くらい。最後の一言くらいは、しっかり言いたいから。

 僅かに逸らしていた首が向き直る。また目が合う。迷いは、もうない。

 

「私は走る。まだ、もっと、更に。トゥインクル・シリーズの歴史に名を残せるくらい、その先のドリーム・シリーズに行けるくらい。そうすれば、もっと走れるから。それくらい、走るのが好きだから」

「それは、いい夢だな」

「はい、これが私の夢です。今までの色んなこと、楽しいこと、苦しいこと、全部を束ねた夢です。いい夢、でしょう」

「ああ。だが大変だ。ドリーム・シリーズに認められるには、相当な成績が必要らしい。俺も詳しくは知らないくらいに、だ。まさに、夢の舞台」

「なるほど。じゃあ、頑張り甲斐がありますね」

「……強くなったな、スカイ」

「トレーナーさんのおかげですよ、それは」

 

 そう。私の弱さがあなたのせいなら、私の強さはあなたのおかげ。あなたがいなければ、私は走ることなんて出来ないんだから。

 だから。だから私の夢には、きっと。

 

「トレーナーさん」

「なんだ、スカイ」

「私と一緒に、走ってくれますか」

 

 きっと、あなたが必要だ。あなたじゃなきゃ、あり得ない。

 

「私の、ゆめを……っ、ささえて、くれますか……?」

「また泣いてるぞ、スカイ」

「……うるさい、この正論男」

「なんだそれは」

「ずーっと思ってたことですよ。これから先も、ずーっと」

「ああ。これからもずっとサポートするつもりだ。俺は君を信じているからな。君は『走る』ウマ娘だと」

「……もう、このばか」

 

 そのまま私は項垂れるしかなくて、残ったのは繋ぎっぱなしの手のひらだった。もうこちらからはほとんど力は抜けているのに、今度は逆にあちらから強く離すまいと握られた手のひらだった。ごつごつして硬くて、けれどずっと握っていられるような手だった。そんな、大人の手だった。

 涙の海に映る、私とあなたが二人。

 透明な青空に光り輝く、決して離れない二重星(アルビレオ)

 

 

 

「一番人気セイウンスカイ、軽やかにゲートに入ります」

 

 軽やかに、か。まるでなんの苦労もないみたいな顔をしてみせてゲートに入ったのは確かだけど。ここに至るまでの苦労の数々は、限られた人間しか知らないことだ。そして、知らなくていいことだ。私に出来るのは、期待に応えて褒められるってことだけなんだから。

 地下バ場で、スペちゃんに謝られた。春の時はごめんって、それでも勝ったんだから誇ればいいのに。まあ確かに気にはしていたから、今復活していたならよかったと思う。遠慮なく、叩き潰せる。

 叩き潰せると言えば、キングの目標は今日私を悔しがらせることらしい。「貴女が大人だか知らないけど、私にとっては倒すべきライバルの一人でしかないわ」なんてことを練習復帰初日に言ってのけるのだから、まったく優しいお嬢様だことで。

 きっと、こうして私は大人になった。けれど変わらず、この青く広がるターフを走れている。それはこれから永遠に続くとはいかないかもしれないけれど、努力で長く積み重ねることが出来るものだ。そしてもちろんあの日それが途切れなかったのは、私だけの努力ではない。キングにフラワー、トップロードさんにトレーナーさん。みんなに支えられて引っ張りあって、私は今ここにいる。

 

「楯の栄誉を賭けて、今」

 

 おっと、アナウンスがいよいよだ。ここから一歩踏み出した先には、未知のゴールが待っている。誰が勝つかなんて決まってない、だからこそ私たちは走るのが楽しいって思える。だってそこにあるものは、煌めきを湛える未来だから。それが怖いなんて、もう誰も思いやしないんだ。

 相変わらず、ゲートは狭い。全てを決めてしまう。入ったら、終わりが始まる。だからちょっぴり苦手だけど、前よりは少しマシになった。そこで終わりじゃないと知っているから。私の努力は、私を裏切らないから。いつか必ずあらゆる形をとって、今までの自分は助けてくれる。それを、もう知っているから。それが私の一番の変化。私の成長。

 こうして私は、大人になったのだ。

 

「天皇賞(秋)。スタートしました!」

 

 がこん。そうして開けた視界に広がるのは、やっぱりキレイな青空だった。

 最高に、キレイだった。

 

 




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本当に励みになります。
最終回じゃないぞよ
もうちょっとだけ続くんじゃ
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