本格的な釣りというものは釣り座選びから始まる。吟味した場所にどっしり腰を据えるか、あるいはスポットをいくらか見繕っておいて細かく移動しながら釣るか。なにせ相手は野生だ、釣り堀のようにはいかない。まあ、それも踏まえて……ここら辺かなぁ。まだ朝早いのでそこまで釣り人はおらず、少ないお辞儀と共に私も準備を始めていく。とりあえず、一人分。もう一人は現地集合だから、今のうちにメッセージでも送っておくか。
(堤防の先っちょの方にいます……っと)
まだ潮に濡れていないうちにスマホの操作を終え、それを終えたら手早くバケツを海に下ろす。オモリ付きの折り畳み可能な水汲みバケツで、海中に入れると勝手に底がひっくり返って水の中に沈み込む仕組みのもの。なかなか便利で、愛用している。
「……と、さて。……うん、しょっぱいねえ」
バケツについたロープをするすると持ち上げると、海水たっぷりの釣果入れバケツの出来上がり。幅奥行高さ全て22cm、その標準的サイズの底までたっぷり入った海水に少し指を浸してちろちろと舐めると、当たり前だけど塩辛かった。まあでも、これを確かめないと海に来たって感じはしない。泳ぐのは苦手だけど、海は好き。そんな私の矛盾した感覚は、殊釣りによって育てられたものだ。
リールにロッドをセットし、金属で出来たベールを起こしてナイロン製の釣り糸を引っ張り出す。リールはスピニングリールの2500番、ロッドは240cmのサビキ竿。どちらも一般的なサビキ釣り用のセッティングだ。
すなわち、今日はサビキ釣りの日である。秋も深まってきた今日この頃、都内に限らず全国各地は絶好のアジ釣りシーズン。ちょっと寒くなってきたくらいが、魚にとってはちょうどいい水温なのだ。食欲の秋、は人に限らずということか。
ロッド先端のガイドに糸を通し終えたら、次は仕掛けのセッティング。解凍しておいたコマセ(小さい餌のこと)をそれ用の小さなカゴに八分ほどまで詰め込み、その下から複数本擬似餌付きの三号サイズの釣り針が垂れているのを確認する。このコマセと疑似餌の混同で針を引っ掛けるのが、サビキ釣りという物の仕組みだ。
さて、これで仕掛けは完了。あとはもう一人を待つだけ……なんだけど。トレセン学園からそれなりに離れた場所にある海釣り公園はまだ日の出前、始発の電車がようやく出るか出ないかの時間帯。こんなに早くに私が目的地にいるのは、なんといってもここまで私が走ってきたからだが。普通は周りの釣り人たちみたいに、釣り場の近所に住んでないとこんな時間には来れないだろう。色々な意味で。
さて、私がこんな早くに来たのは海釣りが待ちきれなかったというわけ……だけではない。それも多分ちょっとはあってしまうのだが、ちゃんと真っ当な理由もある。極めて真っ当な理由が。
「よっ……ほっ!」
リールのベールを再び起こし、海面に向かって静かに仕掛けを投げ入れる。仕掛けの深度を目視で確認し、ある程度沈んだらベールを下ろしてラインを固定する。うーん、やっぱりこの瞬間はたまらないね、なんて。サビキ仕掛けのついた竿をくくんとしならせ上下させると、すぐに反応は返ってきた。手応え、あり!
うねるロッドを持ち上げると、仕掛けの先端には早速アジが三匹。釣果、アリ。そう、これがこんなに早くに来た理由。朝夕の日の出日の入り前後の時間帯は、もっともよく釣れる時間帯。だからわざわざ超早起きして一人でここまで走ってきたわけだけど、その甲斐はあったというものだ。
針から手早く獲物を抜き取り、全てバケツに放り込む。釣れるうちにさっさと第二陣を投下しよう。まあ、ここは釣り堀じゃないし。釣ったら釣った分だけお得で、餌がなくなることもないし。
だから、まあ。
ごめんなさいトレーナーさん、あなたが来る前にあらかた楽しんでおきます。
そう虚空に平謝りして、再び仕掛けをセットする。そう、今日はトレーナーさんとの初めての海釣り。確か、私から誘うのも初めて。……なんで誘ったんだっけ。まあいいや、とりあえず今は、今日は釣りを楽しむ日。私たちが掴んだ未来の先にある、ご褒美みたいな日なんだから。
そんな私の半身を、朝の日差しが下から照らす。眩しくて眩しくて、目を瞑りたくなってしまうほどの。
今日という日の、夜明けだ。
※
「おーい、スカイ! すまない、待たせたな」
「本当ですよトレーナーさん、あらかた釣り終えてしまいました」
「……確かに、そんなにたくさん釣れるものなのか。……もう、すぐ帰るか?」
「何言ってるんですかトレーナーさん、あなたが来るのを待ってたのに」
「すまん」
「律儀に謝らないで、ほら横座ってくださいな」
「すまん、失礼する」
「もう、だからさあ」
こちらに近づくほどに奇妙に歪んでいくトレーナーさんの顔は、なんだかとってもおかしかった。その太眉を意図しない方向に曲げてやるのはいつでも楽しい。こんなにでかい図体してるのに、私の手の上に収まってころころ転がるんだから。それが楽しくなきゃおかしい、むしろそうでなきゃ失礼だろう、うん。
「ほら、トレーナーさんのロッド貸してください。準備くらいはやってあげますから」
「それくらい自分でも出来る」
「変な意地張らないで、ここは大人しく先輩釣り人に任せなさいって。正直セイちゃん不安なんです、トレーナーさんがちゃんと今日楽しめるか。だから、出来るだけのことはしてあげたいのに……」
「すまん! そういうことなら、ぜひお願いする」
「あっはは、そんな深刻に受け取らなくていいのに。本当にトレーナーさんは、心底トレーナーさんですね」
そう言って、大人しくさせたトレーナーさんから釣り具一式を受け取る。ふむふむ、ちゃんと自分でしっかり揃えては来てるんだ。こういうところやっぱり真面目でしっかりしてるんだね、この人。流石トレーナーという仕事をしているだけあるんだけど、普段は結構抜けているところもあるから、これも意外と努力の成果なのかも。それなら私はそれを尊んでやるべきか、はたまた崩しを入れてやるべきか、などなど。
そんなことを考えながら、多分トレーナーさんより数段慣れた手つきで、もう一人分の仕掛けの準備をしていく。ロッドにリールをセット、セットしたリールから糸を引いてロッドのガイドに通す。先程もやったばかりのことだから、まあ間違える心配はない。トレーナーさんもサビキ釣りなのは当然と言えば当然だが、私とお揃いであった。いや、釣りに関してはお揃いじゃない方がおかしいのだが、それでもちょっとくすぐったい気持ちがあるのは事実で、だからもしかしたらそういう理由で。なんだかんだと、浮かれてしまっていて。
ちくっ。柔らかくて細い針が、それよりも柔らかい私の指の腹を刺す。手元が僅かに狂う、音がした。
「……いたっ」
針を触る時は細心の注意を払うべきなのに、私としたことがそれを怠ってしまっていたのか。などと考えながらも、痛みに連動して僅かな時間で思考は目まぐるしく変遷する。血は出てない、ちょっと皮の上から刺さっただけだな、とか、それにしても浮かれ過ぎは良くない、冷静沈着を保たなければ魚に逃げられるぞ、とか。
だから多分色々なことを考えてはいたのだけど、それを横から見ている人のことなどすっかり忘れていたというか。そんなに反応するなんて、思いもよらなかったというか。鬼気迫ると言っていいほどの大声が、釣り場に響き渡った。
「……大丈夫か、スカイ!!」
そして、そんなに耳元で叫ばれてしまったものだから。
「……きゃっ!?」
そんな私らしくもない叫びと共に、私は心底驚いてしまって、狂い始めた手元がさらに狂う。びくん、と思いっきり全身が跳ねて、十の指先に乗せていた仕掛けがあらかた地面に落ちる。
落ちなかったのは、針の一本。ぶすり、と先程よりも深く、私の指を傷つけていた。
「いっつー……っ」
「ああすまんスカイ! そんなつもりじゃなかった、本当にすまない、悪かった」
「……年下相手にそんなにびくびくしないでよ、かすり傷ですから」
「しかし、その指」
「えっ? ……ああ」
そう言われて針の刺さった人差し指を見遣ると、今度は僅かに赤い血が根元から流れていた。思ったよりも深く刺してしまったらしい。……まあ紛れもなく、トレーナーさんのせい、なんだけど。それを指摘してやるのはあまりに可哀想な気がしたのでやめておく。悪気があったわけではないんだし。というか、既に相当申し訳なく思っているみたいだし。
とりあえず針を抜いてみると、新鮮な赤がたらりとその先端から落ちる。結構ぐっさり行きましたね、うん。落ち着いてみると結構痛いし、じんじんとしたものがしばらくは引きそうにない。あーあ、折角の楽しい釣りが台無し……なんてことにはならないけどね。それくらいで損なわれるほど釣りは楽しくないものじゃないし、それくらいで損なわれるほど私とトレーナーさんの関係は険悪じゃない。年頃の女の子の柔肌に傷をつけたくらいのことなら、笑って見逃してあげましょうか。
「こーなったら私のぶんまでどっさり釣ってくださいよ、トレーナーさん」
「……わかった。責任は取る」
「おっ責任ですか、いいですねえ。まあ単に、血が収まるまでは絆創膏貼って大人しくしときます。指先は釣りの命ですからね」
「すまない、本当に」
「今日のトレーナーさん、謝ってばかりじゃないですか。らしくないぞ」
まあ多分、それには今日の出来事だけじゃない理由があるのだろうけど。あれ以来なかなかトレーナーさんの方でも、悩んできたということだろう。主に担当ウマ娘への接し方について、だ。それは素直に喜ばしいことなので、こちらとしても素直に応援したいと思っている。思っては、いるのだが。
「……すまん、努力はしているつもりなのだが」
「調子狂うなあ」
それはそれとして、弱々しいあなたをみるのはむずむずする。かなり、むずむずする。もちろん普段と違うトレーナーさんでもトレーナーさんだと知っているが、だからこそ一層むずむずするのだ。
広い肩幅、無骨な腕、かくかくした手のひら。どれもなんだか普段より大きく見える。こんなに近くで見たことがないからだろうか? そんなことはない気がするが。でも今真横に座るあなたが近い存在なのは確かなことでもあって、それもまたきっとどきどきさせている。その理由まで言語化することは、出来なかったのだけど。
硬いコンクリートの地面に座り込み、ぎこちない手つきで仕掛けを水面に投げるトレーナーさん。私はその一部始終を、一応何かあった時に手助けするために眺めていた。投げる、仕掛けが餌をばら撒く、釣れない、しばらくして引き戻す。仕掛けに餌を詰め込んでもう一度投げて、やっぱり釣れない、その繰り返し。五回ほどそれを繰り返して、三十分が経過した。釣果、ゼロ。
「……釣れないな」
「釣れないですねえ」
「こんなもんなのか」
「こんなもんですよ、釣り初心者さん」
「そうか。やっぱりスカイはすごいな、もうそんなに釣れている」
「これは時間帯が良かっただけですよ」
微かなさざなみの音を肴にして、なんでもない会話を繰り広げる私とあなた。些細な会話だけど、そこに自分への賞賛が含まれているのは少しにやけてしまいそうになる。褒められてるって、思ってしまう。
トレーナーさんは、少し変わった。前よりも少しだけ、素直になったのだと思う。褒めて、謝って、多分それはそういうこと。多分そう変わるように、努力している。大人になってから何かを変えるのはとても大変なのに、それを成し遂げようとしているのだ。だから私はそれがどんなに拙くても、出来るだけ応援したいのだ。
血は止まった。まだ少しずきずきするけれど、釣りに参戦できないほどじゃない。一人で釣りをするよりは、二人の方が楽しいし。なら私はあなたの隣にいよう。肩を並べて、静かに、一緒に。そうしていたいと、多分私は思っている。そしてあなたもそうだったなら、嬉しいかも。
ざざーん、ざざん。堤防に打ち付ける海水の音。それに混じってあなたの声が、耳もう一個分上から聞こえる。私がウサギだったなら、もっと近くでその声を聞けたかもしれないけど、私にはこの距離が馴染み深い。およそ20cmほど離れた、この高さが親しみ深い。
そこから聞こえるあなたの声が、どうしようもなく聞き馴染んでいるのだ。
「そういえば、トップロードの菊花賞はすごかったな」
「あれは良かったですねえ。思わず「やった!」って叫んじゃいましたもん」
「そうなのか、聞こえていなかったな」
「そりゃもう、大歓声でしたから。私のか細い声なんてかき消されるくらい、トップロードさんにはたくさんのファンがついてるんですよ」
「そうか。だが、スカイも負けてはいられないだろう。実際負けていない、いずれはトップロードとスカイの対決も見れる。俺はそれを楽しみにしている。期待しているぞ、スカイ」
「……もう」
ほんと、隙あらば私を甘やかすようになっちゃって。今までは素直に気持ちを出したりなんか滅多にしてくれなくて四苦八苦していたのに、そんな私の苦労など知らないかのように今のトレーナーさんは自分の気持ちを口にする。これ、前から思ってただけで言わなかったのだろうか。だとしたらなかなか、私のことを高く買ってくれているんだな。無論、他のチームのみんなも、だけど。
トレーナーさんが優しくなったのは、私のためでもあるけれど、本質的にはチーム<アルビレオ>のためであるはずだ。だからこれからはどんどん優しい人になって、誰にでもその笑顔を見せられるようになる。つまり逆に言えば、もしかしたら今は私だけ、その褒め言葉の後の照れ臭そうな笑みを見られているのかもしれない。……それは、なんだか結構、絆創膏に血が滲んだ右手の人差し指より、よっぽどくすぐったいかもしれないな、なんて。
「……指、大丈夫か」
「大丈夫です、そんなにじろじろ見ないでください」
「すまん」
「もう本当、今日何回謝ってるんですかあなた」
「何回だろうか。わからないな」
「そこまで素直に返さなくていいんですよ、トレーナーさんったら」
「すまん」
駄目だ、この人何かにつけて謝ってくる。そんなに私の指が痛々しいか、目につくのか。普段はそんなにじろじろ見ないくせに、落ち着かないじゃないか。これもやっぱり変化、なのだろうか、そんなことを思った。
そうやってトレーナーさんは、変わっている。そしてもちろん私も、変わっている。あの日決意したドリーム・シリーズという夢が、きっと二人に変化をもたらした。私たちの夢。私とあなた、二人で一緒に見る夢。遠く遠く果てしないからこそ、二人がかりでなければ届かないからこそ。私たち二人の、夢なのだ。
その事実はほんのり、私の心をぽかぽかさせる。なんでこんなにあったかいんだろう。なんでこんなに胸が高鳴るんだろう。とく、とく、とく、とく。そんな音が聞こえてくる気さえ、した。
「それにしても、釣れませんねえ。トレーナーさんの存在が祟ったかな」
「えっ、そうなのか」
「冗談ですよ、真に受けすぎ」
「よかった」
「夕方になれば釣れますから、それまでのんびり待ちましょうか」
「そうだな、話をしながら待とうか」
「はい」
秋風が服の袖から裾まで吹き抜けるのを感じながら、しばらく二人でずーっと取り止めのない話をしていた。最近どうだとか、何度も重ねた軽口の追加とか。たまに竿を投げながら、たまーに釣果を足しながら。そんな会話が出来るのも、きっと昔とは変わっている。たとえば出会った時の初めはこんな趣味の一致さえ、思いもよらなかったのだから。けれどお互いに変わっていって、だから今の距離感がある。
そしてそれはそこで終わりではなく、きっとこれからも変わっていく。私たちが大人だとしても、変化と成長はそこで終わりではないのだから。
そうして、夕暮れ間際はあっという間。日没前後の夕マズメの時間帯は、釣りには絶好のタイミングだ。
ばしっ、ぴちぴち。竿を揺らせばすぐに手応えはあって、生きのいいアジが五匹ほど。こりゃ大漁だ。
「おおっ、釣れたぞ、釣れたぞスカイ!」
「そりゃ良かった、こちらも釣れました。……ね? 釣りは待つことが命、時間が変わればこんなにも変わるんですよ」
「……なるほどな、根気が必要というわけだ。チーム<アルビレオ>のトレーナーとしては望むところだな」
「でしょう? ほら、まだ行きますよー。これだけ待ったんだから、私たちにはそれなりのご褒美が必要です」
「よし、釣るぞ!」
すっかり元気になったトレーナーさんを夕日越しに見て、なんだかくすりとなってしまう。そのまま二人で笑い合いながら、小一時間の夕マズメを堪能した。バケツいっぱいのアジも、止まらない手応えも楽しいものだけど。何より嬉しかったのは、トレーナーさんの笑い声だった。……うん、やっぱり。
あなたには、笑っていてほしい。
そう、思った。まもなく、日没だった。空は闇を呼び、星がその上に光る。そんな、秋の夜だった。
※
「……さて、そろそろ帰るか」
「はい。今日は楽しかったです」
「こちらこそだ。今日は楽しかった。誘ってくれてありがとう」
「そう言ってもらえるなら、何よりですよ」
ちくり。すっかり流血の止まったはずの傷跡が、何故だか痛んだ気がした。薄くて白い月明かりの下、テキパキと片付けを始めるあなたの大きな背中を見て。これで今日は終わりか、そう思ってしまった。
「明日もよろしく頼むぞ、スカイ!」
「はあ、明日もトレーナーさんと会わなきゃいけないのかあ」
「それはそうだろう」
「それはそうなんですけど」
ちくり。また、どこかが痛む気がした。なんでだろう、そう思った。そう思ったけれど、分からなかった。私の気持ちの変化に、私はまだ着いて行けていなかった。
「さて、これで……スカイ、片付けないのか」
「え? ……ああ、ほんとですね」
「手伝うよ」
「いいですよ、そんな……ってちょっと」
「スカイを置いていくわけにはいかない」
ずきり。がしゃがしゃと、数センチ先で私の荷物をまとめ始めたトレーナーさんを、瞳に映して。そこまであなたに近づいて、ようやく私はその痛みの発生源に気づく。指先はちっとも痛くなかった。傷ついていないはずの心臓の奥が、甘い痺れに満たされていた。
「スカイ、これは何処にしまえば……スカイ?」
「……ああ、すみません。それはですね、こっちに」
「わかった」
「すみません、やらせちゃって」
「謝らなくていい。今日は疲れただろう、朝から晩まで俺に付き合ってくれて。ありがとう」
ずきり。あなたの「ありがとう」が、釣り針よりも細く深く心臓に刺さる。トレーナーさんの言う通り、今日はこんなにあなたと一緒にいた。明日になれば、また会える。どちらもわかりきっていることで、そもそもこんな暑苦しい人と一日一緒にいるだけでも疲れるのはその通りなのに。
それなのに、私はどうして。
「……いいえ、こちらこそありがとうございます」
どうして、その笑顔が目に焼き付いてしまっているのだろう。
どうして、無性に寂しいと思っているのだろう。
どうして、まだ。まだ一緒にいたいと、そう感じてしまっているのだろう。
でも、多分それはずっとそうだったのだろう。今日いきなりじゃない、だから今日釣りに誘いまでしたのだろう。私自身が私の気持ちに、気付いていない、だけだった。
「よし、帰るか」
「……トレーナーさん、わがままを言ってもいいですか」
「なんだ、スカイ」
「電車賃、お貸ししてくれませんか。帰りは、一緒に」
「ああ、貸すと言わずそれくらいは渡していい。夜道を一人はウマ娘でも危険だ。付き合おう」
「はい。ありがとう、ございます」
だから、もう少しだけ。どんな理由でもいいから、もう少しだけ。もう少しだけ、一緒がいい。
数多の星明かりの影響で、私たちの影は散らばって重なって見えていた。まるで一つのいきものみたいだった。後ほんの少しの時間だけ、そう見間違えていられた。
ずきり。この痛みは、あなたにはないものだけど。ずきり。あなたに痛みを与えたくはないから、それでいいと思った。あなたが私を慮ったように、私もあなたを傷つけたくはない。
ずきり。夜の闇と共に、痛みは底へと潜っていった。どこまでも甘い、甘くて痛い夜だった。